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第一夜 夢の都の白昼夢(1)

 カナンの朝は、遅い。

 彼の重い瞼が開くのは、いつも時計の針が十時を回ってからだった。

 寝癖でぼさぼさの黒髪と、どこか醒めたような目が印象的な少年。濃い睫毛に縁取られた眼の虹彩は、淡い青さを湛えている。下着一枚しか身に付けていない身体は、貧相ではないが華奢と言えるだろう。

 彼は、欠伸を洩らして、ゆっくりと上体を起こした。ベッドの上、自分の居場所を確認するように室内を見回す。

 狭い部屋だ。白い壁に四方を囲まれ、小さな窓が申し訳なさそうに口を開けている。青空模様のカーテンが風に揺れていた。瓦礫のように積み上げられた無数の本が開いたままで、寝る前に脱いだ衣服も無造作に放り投げられていた。

 カナンが、寝ぼけたままぼーっとしていると、突然、ドアが猛烈な勢いで連打された。寝起きの頭に響く。

「カナっち! 早く起きないと遅刻するよ!」

 舌足らずな男の声だった。カナンの弟、クオンだろう。

「遅刻……?」

 カナンはいぶかしげに首を傾げながらも、とりあえずベッドから飛び降り、すぐにロックをはずしてドアを開けた。ノックの連打をやめさせるためだけだった。

「まさか忘れたの!?」

 ドアを連打する体勢のまま、クオン。くりっとした大きな眼が愛らしい少年である。光彩はカナンと同じで、この造作は少し違う。透き通るような白い肌をしていて、頬は常に紅潮しているように見えた。ぷっくりした唇は、朱が差したように赤い。その顔立ちとお下げにした黒髪のせいで、女の子に間違われることもしばしばだった。が、本人は気に入っているので、髪形を変える気はないらしい。そのくせ、女に間違われると怒るという困った少年なのだ。歳はカナンと四つ違いの十四歳。小柄な体を、流行の衣服で包んでいる。

「なんだっけ……?」

 カナンは、後頭部を掻きながら寝ぼけ眼で弟を見ていた。常にせわしなく動き回る小動物を観察するのは面白い。

「がーん」

 と、クオン。そのまま廊下に座り込んで膝を抱える。

「いちいち効果音をつけるな……うっとうしい」

「だって! 大事な約束を忘れるなんて、弟として恥ずかしいんだもん!」

 目に涙を溜めながら叫んできた弟に、カナンは嘆息交じりに言い返した。

「その大事な約束を早く言えよ。遅刻するんだろ?」

「そうだよ! 今日はドゥァァブルディェェェェェェトの日でしょ!!!!」

 ハイテンションなクオンについていけず、カナンは、さっさと部屋の奥に戻った。着替えるためだ。

「そういや、そんな話もあったようななかったような……」

 頭の中の奥の奥まで探るようにしながら、カナンは、安っぽいクローゼットに向かった。背後から怒鳴り声。

「あったよ! 早く着替えてよ! 待ち合わせは駅前の広場に十一時だよ!」

「だったらもっと早く起こせよ」

 とは、カナンは言わない。自分で起きるのが道理だし、弟にそこまで依存するのもどうかと思うのだ。

「デート……デートねえ」

「カナちゃんが約束したんでしょ!」

「だれと、だっけ?」

「さっ、最低だあ! 神様、どうかこのぼくのどうしようもなく最低最悪で珍妙奇天烈な兄に猛烈で強烈な天罰を下してくださいませ」

 床に膝をつき、胸の前で手を組んで頭上を仰ぐ少年の姿は、どこからかスポットライトを当てられているかのように輝いて見えた。

「おまえが言うと本当に天罰下りそうだな」

 ぼやいて、カナンは窓の外を見やった。揺れるカーテンの隙間から、あざやかなまでの晴天が覗いた。

「どうせなら下っちゃえばいいと思うよ」

 にこやかに追い打ちをかけてくる弟を無視して、カナンはそそくさと着替えるのだった。

 そう、それはいつもと変わらない日常の風景。

 いつまでも続くと信じて疑わない薔薇色の日々。

 平和で、安らかで、大きな事件も事故もなく、誰もが健やかな毎日を送っている。

 けれどもカナンには、言い知れぬ不安があった。

(俺は、いつからこうしてここで暮らしているんだろう……?)

 どれだけ頭の中を覗いても、何度考え直してみても、思い出せないことがある。

 記憶の中の空白。

 そのぽっかりあいた無数の穴が埋まって、自分の記憶が完成したとき、すべてが失われるような、そんな感覚。

 しかし、そういった不安は、日々の喧騒が忘れさせていくのだが。





 ガルナバ。

 それが、この夢の都に付けられた名前であることは、歩道を走り回る子供ですら知っているだろう。もしかしたら、言葉も話せない赤子ですら知っているかもしれない。

 人口五百万を越す大都市であることは周知の事実だ。戦乱の時代に築かれたという長大な円形の防壁の内側に、用途や業種ごとに整理された五つの区画があり、単純計算ではそれぞれの区画に百万もの人間が住んでいることになるという。

 中央には、市庁舎を始め行政関連の建物が集中する直轄区があり、ガルナバのシンボルとも言える全長三百メートルに及ぶ天使の像が聳えている。その女性形の天使は、一対の翼を持ち、叡智の額冠を身につけ、天に掲げた右手には未来を照らす希望の松明が握られ、胸元の左手にはすべての生き物の過去を記したという生命の書が抱かれている。

 北に商業区、西に工業区、南に学業区があり、このガルナバでもっとも賑わっているのが、東に位置する興行特区である。

 興行特区の外観はテーマパークさながらであり、古今東西さまざまな町並みが入り乱れ、ある種の混沌を生み出している。

 その整合性のない極彩色の街では、毎日のようにパレードが開催され、数多の催し物が引っ切り無しに咲き乱れるのだ。興行特区こそ、夢の都の代名詞であり、ガルナバに訪れたものならば一度は足を運ぶべきだろう。

「なにいまさらガイドブックなんか読んでんの?」

 と、クオン。目深にかぶったフードから覗く半眼は、疑わしいものでも見るようなまなざしとも言えた。

 彼は、ストライプのシャツの上に、薄手の白いパーカーを来ている。短パンから伸びる素足は、人目を引いてやまない。

「復習だよ、復習」

 適当に答えて、カナンは、ガイドブックから腕時計に視線を移した。時計の針は十時五十八分を差したところだった。

 カナンはというと、いつも着ている黒の上下に、クオンと同じ白のパーカーという恰好である。弟とペアルックというのはどうなのかと思うのだが、無理矢理着せられたのだから仕方がない。

 通り過ぎるひとびとの視線が、そこはかとなく痛いが、カナンは強引に無視していた。

 商業区中央駅は、商業区五番街にあるカナンたちの住むアパートから程近い場所にある。

 ガルナバの鉄道は、いくつもの環状の路線が直轄区を中心とした同心円を描くように走り、それ以外にも無数の路線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。その鉄道が、ガルナバの主な交通機関である。

 駅前の広場にはわりと大きな噴水があり、それを取り囲むように羽を持つ獅子の石像が八体、設置されていた。

 ふたりは、その噴水の縁に腰かけて、駅の構内から出てくるひとを観察したりしていた。

 空は晴れ渡り、わずかな雲がゆっくりと泳いでいる。柔らかな日差しは心地よく、吹き抜ける風が運ぶ食べ物の匂いは、空腹気味のカナンには辛すぎた。

「で、今日はどうすんだっけ?」

 カナンは、あくびを漏らしながらクオンに目を向けた。彼の弟は、なぜか噴水の縁で逆立ちをしていた。暇だったのかもしれない。

「デートでしょ!」

 半ば呆れながら、クオン。

「それは聞いた。散々聞かされた。相手はエリザとサラだろ?」

 エリザは興行特区のレストランで、サラは商業区のカフェで、それぞれウエイトレスとして働いている。カナンの記憶では、エリザは金髪の美女で、サラは栗色の髪の素朴な少女だった。

 いつどこでどうやってデートの約束を取り付けたのかは思い出せなかった。

「わかってるんならよろしい」

 クオンが、逆立ちの態勢のまま腕のばねだけで飛び上がって見せる。滞空時間が長い。空中で三回転して、見事に着地した。周囲で歓声が上がる。

「よろしくねーよ。デートの内容の話だろ」

 カナンは、苦虫を噛み潰したような顔で、観衆に笑顔を振り撒く弟を見ていた。

「なんだ、そんなことか」

 クオンがカナンを振り返ったのは、観衆が立ち去ってからだった。

「今日は十月三日――市民の日だよ」

 この夢の都ガルナバが生まれた日でもある。最初は、直轄区の中心区画ほどの小さな街だったらしい。それが、現市長ラザードの八面六臂の大活躍により、大陸最大規模の都市にまで発展したのだ、

 市民の日は、そんな小さな街であったころを偲び、初心を忘れず邁進していこう、というために作られた市民の休日である。

 市民の日は、公務員以外はほとんどの仕事が休みとなり、だれもが安らかな一日を満喫するはずだが。

「パレードか」

「ピンポーン! 大正解!」

 市民の日には、盛大なパレードが行われるのが恒例となっている。ふたりが生まれる前から催されているその行事が最初に開催された理由は、市民の休日を盛り上げるためだったらしい。

 いまでは、夢の都ガルナバ最大のお祭りとして、大陸全土から観光客が訪れ、それを目当てに休みを取り止める店も多い。

 もはや、市民の休日とは名ばかりで、ガルナバを上げた一大騒ぎとなっていた。

「でも、そんな大事な日を忘れてるなんて、らしくないね。カナたん」

「カナたんって、おまえ……」

 カナンは頭を抱えたくなった。以前から薄々感じてはいたことだ。コロコロと変わる呼び方に、多少の疑問を抱くのは当然だろう。

 カナンは、半眼でクオンを見やった。彼の弟は、まるで子供のように、広場をうろつく鳩を追い回している。

「兄に対する敬意というものがないのか?」

「あるわけないじゃん!」

 こちらを振り向いた少年は、実ににこやかな表情を浮かべていた。一点の曇りもない、宝石のような笑顔。だれが見ても満点をつけるだろう。

 実際、カナンから見ても、文句のつけようのない笑みだった。

「ぐうたらでろくでなしで仕事もせず、毎日ほっつき歩いては女をたぶらかして、うちに帰ってくれば部屋に籠って本を読みあさり、起きるのはお昼前――」

 クオンが、それなりに大きな声で不平不満を連ねながら、鳩を容易く捕まえて見せる。鳩は、まるで捕まったとも思っていないかのように、身動ぎひとつしない。

「そんなひとを兄として敬うだなんて、とんでもない話だと思いませんか?」

 急に真面目な顔つきになって、クオン。鳩が解き放たれる。

「なんで俺に聞くんだ、俺に」

 青空に向かって飛び立った鳩を目で追いながら、カナンは、嘆息した。

「ハッロー! 待ったあ?」

「お待たせしてすみません」

 あっさりとしたあざやかな赤、しっとりとした穏やかな青――帯びる色彩の異なるふたつの女声が、ほぼ同時にカナンの耳に届いた。

『いや、全然!』

 カナンとクオンが首を横に振ったのは、まさに同時だった。

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