中部太平洋遊覧
ガダルカナル島攻防で戦力を一気に減らしたアメリカ海軍にはオーストラリアを救援する力は無かった。
シドニー沖を日本艦隊が遊弋しても、シドニー周辺に居た陸軍の爆撃機では返り討ちに遭うばかりで有効な反撃も出来ず、さらにメルボルン沖に現れた日本艦隊には何も出来なかった。ポートモレスビーとポートモレスビーを支援する本土基地に全ての航空戦力が居たと言っても過言では無かったので、シドニー以南にたいした機数は居ない。
メルボルン沖で初めて確認された大和は、大きな衝撃を連合国に与えた。
昭和十七年十月
オーストラリアは遂に日本と講和し局外中立を宣言した。連合国からの離脱である。ただ戦況が変われば、恥ずかしげも無く連合国に復帰するだろう。
オーストラリア国内に居たアメリカ軍は出国を余儀なくされた。日本との交渉で、ヌーメアまで撤収兵士を乗せた船団を攻撃しないことが決められていた。
見届けるために日本海軍の艦艇が二隻同行する。愛宕と摩耶の重巡二隻である。こちらも帰路攻撃を受けないことを決められていた。
局外中立を宣言したオーストラリアが、連合軍の策源地として使えなくなった影響は大きい。
米豪分断作戦でこの方面に使われていた人員物資が不要になるのだ。
陸軍主体で行われていたニューギニア攻略が不要となった。
ラバウルも返還された。
ガビエンも返還されたが、住民虐殺は日豪間で政治的大問題となる。知らぬ存ぜぬをすると局外中立を破棄される危険があり、日本軍としては責任者を軍法会議で重罪にするしかなかった。将官を筆頭に数名が銃殺刑に処せられた。他関係者も多数予備役編入や左遷・降格などが行われた。
内部からはやり過ぎという批判もあったが、国際情勢はそんな甘い事を許さなかった。少数の処分で済むなら、減らした敵国を元に戻さないで済むという判断が上回った。
ガダルカナル島も維持する意味は無く日本軍は撤収した。
アメリカ海軍潜水艦がフィリピン方面で目撃される例が激減した。潜水艦による被害も無くなった。
ヌーメアやサモアからでは遠すぎるのだった。
他の影響は
大兵力を置けないマーシャル・ギルバートは小規模な哨戒基地としての維持も補給面を考えると戦力的な負担になるとされ、戦力は基地とも言えない規模の監視哨程度まで減らし余剰戦力は撤収した。
この方面の作戦行動で消費される物資・人員・戦力が激減し、他に回されるようになった。特に石油の消費が減ったのが大きい。
そしてトラック島が最前線に戻った。
トラ艦隊は規模を縮小し根拠地隊程度になる。アメリカ海軍の空母戦力が無くなったので、大戦力をトッラク島に貼り付ける意味が無くなったからだ。
大鳳は整備を行い、蒼龍も中途半端だった整備を本格的に行った。
昭和十七年十月からは太平洋では大きな戦闘が無く、トラック方面で対潜戦闘が行われるのみであった。
日本海軍にとってと言うよりも日米とも戦力蓄積期間であるはずだが、日本陸軍がインドだ中国だと浮いた戦力を投入。日本国内の貴重な人材や資源を浪費していた。これに文句を言うが陸軍は言うことを聞かない。
それでも様々な働きかけで中国戦線は不拡大を約束させ現地治安維持程度まで戦力を減らすとなった。陸軍の言う治安維持なので相当多いが。インド方面も無理はしないと約束を取り付けた。
減らした大陸派遣やインドシナ半島方面やニューギニア方面の人員は順次動員解除され、昭和十八年三月期までに三十万人程度の動員が解除された。
これにより国内各部にある程度の余力が戻った。
ただ暴走する陸軍士官は多いので不安である。
同じ頃、中立国経由で入手した情報や各情報機関の分析から、アメリカ国内で海軍の権威が随分低下しているとの分析がされた。
保有する空母六隻の喪失。最新鋭戦艦二隻を含む多数の艦艇を喪失。虎の子の緊急展開部隊であった海兵隊精鋭や陸軍部隊の降伏。輸送船団の大損害。連合国からのオーストラリア脱落。
それらが海軍の責任となって権威低下を招いたと。
海軍は志願者数激減で優秀な兵を集めるのに苦労しているとも。
結果、陸軍主体でヨーロッパに注力することになったらしい。海軍は海上護衛と上陸地点への艦砲射撃しか出来ない存在となるらしい。
日本海軍は、アメリカ海軍が空母部隊を再建してハワイを出撃するのが早くても昭和十八年末と見積もっていた。
エセックス級空母四隻が戦力化されるのが早くてもその時期という予想だった。つまりその間、日本海軍は太平洋において敵無しである。
また空母乗組員や空母搭乗員は、多くのベテランが失われ練度も低いだろうと予想される。
再建した戦力でも、まだこちらの方が上回っていると安心していた。
日本はアメリカという国の生産力と底力と本気を分かっているつもりでいたが見誤っていたのが後日わかる。
日本が掴んでいなかった護送空母と護衛駆逐艦の大量建造である。
護衛駆逐艦については開戦前の計画であり動きを掴んでいたが、これほどまでの大量建造とは想像の彼方だった。
小型空母についてもロング・アイランドのような搭載機数二十機の空母が十隻程度だろうという見積もりだった。
インディペンデンス級については全く知らなかった。
そして一年が経とうとしていた。
昭和十八年九月
大鳳は加賀と組み三航戦を形成している。一航戦は翔鶴・瑞鶴で、二航戦が蒼龍・飛龍だ。この三つの航空戦隊は交代でトラックに入る。今は三航戦がトラックにいる。
環礁内で飛行訓練の最中だ。
搭載機は様変わりした。零戦は同じだが四三型になっていた。十一月には五四型が配備されるという。九七艦攻は天山に変わり、九九艦爆は彗星に変わった。搭載機数は変わらない。これも内地で生産が安定した賜物であった。
訓練も三航戦が始めた電探誘導を取り入れ、順調に訓練が行われている。単座機でも通信機の能力向上で近場で機位を見失って帰投不能という例はほぼ無くなった。
昭和十八年十月
トラックの三航戦に新加入する空母がやってきた。④計画の111号艦の予算を流用した大鳳の流れで予算の残りと開戦後に予算計上され作られた大鳳級二番艦 天鳳 である。111号艦は予算転用と共に消えた。
大砲屋が騒ぐので、110号艦 信濃 は予定通り大和級三番艦として竣工。十二月初旬には三ヶ月の慣熟訓練を終え配備される。竣工が早いのは、大規模な改良を止め大和の図面を複写し横須賀に運び建造。資材も大和・武蔵とかなり共通させたため、新たな治具を一から作らなくて良かったのである。工員も呉から相当転勤させた。
変更されたのは、副舵の大型化と経空脅威の増大に対応し副砲を全廃。八九式十二.七センチ連装高角砲を十基搭載したことが主な変更点だった。装甲板支持取り付け方法もある程度は改善された。
大和・武蔵から乗組員を相当引き抜き慣熟期間を早めている。
艦首や艦尾の水線上形状が急速建造に対応するため板を組み合わせたような外観になったのと副砲が無くなったことから外観のスマートさが減ったと言われる。
昭和十八年十一月二十九日
三航戦が内地に帰り休養と整備をしている時に、緊急電が発信された。ミッドウェーからハワイ周辺を哨戒していた潜水艦部隊に所属するイ号潜からだ。
「空母複数を含む艦隊見ゆ。位置****。*****」
この後、追加の電信は無い。
この海域では、ここ三ヶ月で四隻のイ号潜が消息を絶っており、潜水艦部隊が警戒を強化していた成果が出た。
三航戦の休暇が取り消され、乗組員は母港に集結する。
敵艦隊の消息が掴めないため、三航戦は内地に待機とされていた。まさかと思うが東京空襲という前例があった。本土から五百海里に展開された電探搭載艦(徴用遠洋漁船)による哨戒網で探知できると良いが。
昭和十八年十二月三日
メジュロ南洋丁支所から「攻撃受く」の後電信が途絶えた。
メジュロ監視哨からは「砲撃受く」で途絶えた。
目標はどこなのか。トラックかマリアナが考えられるが、本土強襲ということも有りうる。軍令部と連合艦隊では最終目標がどこなのか喧々諤々の論争が繰り広げられた。
同日午後
クウェゼリン環礁監視哨から「敵大艦隊見ゆ。正規空母他戦艦巡洋艦多数」と通報があった。
クウェゼリン環礁で補給と休養をする気だろう。目標はトラックかマリアナで確定した。
翌日、内地に居る艦隊に出撃命令が下された。
昭和十八年十二月六日
トラック島周辺で潜水艦目撃情報が増加していた。対潜哨戒機と対潜艦艇で対応するも数が多く、取り逃がすことが多い。トラックを潜水艦で封鎖する作戦行動と思われた。潜水艦からすれば限られた水道を見張ればいいのだ。その分対潜警戒密度も高くなるが。
直近一週間で輸送船2隻と駆逐艦1隻、駆潜艇1隻が沈み、輸送船1隻が大破している。また簪を船復に飾る船が3隻いた。
昭和十八年十二月十三日
内地を出た艦隊がマリアナ沖に集結した。トラック島にいる艦隊と合わせれば、本土警備や北方警備のために貧乏籤を引いた艦を除いて海軍正面戦力が揃った。訓練任務に就いていた四航戦と扶桑・山城まで引っ張り出されている。
決戦気運は高まった。
トラック入港は待ったが掛かっている。潜水艦が多数潜んでおり、慎重さを優先した。
昭和十八年十二月十八日
トラック島周辺は厳重な対潜警戒網が敷かれ、十日間で七隻の撃沈または撃沈確実が報告されている。撃破は四隻に上る。
ようやく対潜警戒網から潜水艦発見の報が無くなってきた。まだ居るのだろうが、トラック入港を許可した。
昭和十八年十二月二十日
連合艦隊主力がトラックに揃った。
>暴走する陸軍士官は多いので不安である。
勝ったことで精神的余裕の出た海軍だから言えることで負けていたら、どうなっていたやら。




