現実世界も罠だらけ
「お客様。……お食事が進んでいないようですが、料理に何かございましたでしょうか?」
「い、いえ。大丈夫です。とても美味しかったけど、お腹いっぱいになってしまって。デザートをもらえますか?」
あの大喧嘩から三日後、僕はまたホテルのレストランにいた。何をしていいか分からなかったため、とりあえず先輩に言われた通り忘れるように努めてみたのである。
しかし、頑張ってもレックスさんのあの失望した声と、そっけなく向けられた背中が脳裏から離れない。豪華なディナーも酒も、その思いを抱えながらだと味気ないだけだった。
「……はあ」
会計を済ませて、僕はエレベーターに向かう。その時、ふと背後から見られているような感覚をおぼえた。
焦る気持ちを抑えて、ゆっくり振り返ってみる。廊下の向こうの鏡に、誰かがさっと移動していく姿が映っていた。
誰だ? 先輩か? いや、背の高さからして違う。あれは明らかに男性だ。もしかして、先日の通り魔が逆恨みして追いかけてきたのでは……。
みるみる頭の中が悪い妄想でいっぱいになって、僕は身震いした。
「いや、待て。落ち着け」
あの犯人は、電車内で暴れて女性に怪我を負わせた。その状況で、とてもじゃないがすぐに出てこられるとは思えない。現に今は、見られているような感じは消えている。
「気のせいだ、気のせい」
大方、貧相な男が高いスーツを着ている、と面白がっていた誰かだろう。僕は気を取り直して、エレベーターで地上に降りた。
アルコールもあまりとらなかったから、タクシーにも乗らず、駅への近道を歩き出す。……すると、ひたひたと足音がついてきた。僕が歩いているのは細い路地。あまり人が通りそうにもないが、他にも先を急ぐ人がいるのだろうか。
足音が大きくなり、走る音に変わっていく。僕は後ろから来た人に道を譲ろうと、一歩横に下がった。
「ぐあっ……」
次の瞬間、頭部に強烈な衝撃が走る。何かが前方からぶつかってきた……いや、殴られたのだと本能的に理解した。額が切れたのか、生暖かいものが顔をつたってくる感触がある。
自然と膝が砕け、僕は地面に伏していた。後頭部が丸出しで、相手がそこを狙ってきているのを気配で感じる。
まずい。転がるでも這うでもなんでもいい、避けろ。そう思うのだが、体は動かない。僕は犬のような惨めな姿勢のまま、鈍器が振り下ろされる鈍い音を聞いた。
「なに、すんのよ!! 変態!!」
鈍い音に続いて、なぜか聞き覚えのある女性の声がした。続いて、もう一回殴打の音が響く。さっきもそうだし、今も殴られているのは、間違いなく僕ではなかった。
「誰か来て!! 火事よ、建物に燃え移った!!」
矢田さんの声だ。彼女が、声を限りに叫んでいる。表通りや周囲のビルから、人々が顔を出すのがかすかに見えた。そして、それを困惑の顔で眺める犯人の姿も確認できる。
明らかに矢田さんの介入は予想外だったのだろう、犯人が周囲をうかがい、背中を向けて逃げ出すのが見えた。するとそこに、矢田さんが綺麗な跳び蹴りをかます。犯人はもんどりうって、動かなくなった。
「助かった……のか……」
遠くから聞こえてくるパトカーのサイレンを聞きながら、僕はずるずると地面にくずおれた。
それからどのくらい気絶していたのか分からない。気付いた時には病院で、頭に血腫などがないか検査をされた後だった。幸い、脳に大きなダメージはなく、明日の検査でも異常がなければ退院できるという。
「はい、着替え。とりあえず病院の売店で適当に買ったやつだけど」
「一応アイスとかゼリーも冷蔵庫入れとくわよ」
「ありがとうございます……」
そう言って世話をやいてくれたのは、矢田さんと課長だった。
「矢田さんはともかく、なんで課長がここに……」
「それはねえ。多分、警察の話を聞けば分かると思うけど」
課長が入り口を振り返った瞬間、タイミング良くドアがノックされた。青い制服と防弾チョッキに身を包んだ警察官が、二人連れで立っている。ちょっと若い人と、ベテランさんの組み合わせだった。
「すみません、話ができるようなので、事件の状況を伺いたいんですが」
「あ、はい……」
課長と矢田さんが出ていってから、警察官にことのあらましを説明した。それを聞き終わると、年上の方が軽く唸る。
「なるほどね、それであんなことを……」
「なんですか?」
「いや、犯人の話ですよ。実は、奴はあなたと同じ会社、同じ部署でね。坂田秀明って名前、聞き覚えありませんか」
もちろん知っている。プライベートでも仲の良い同僚とは言いがたいが、彼もあまり営業成績が良くなかったので、一時期対策を話し合ったりしたことがある。できない人間が寄り集まったところで、結局いい作戦は生まれなかったのだが。
彼が犯人だったから、上司である課長が来ていたのか。ようやく課長の言葉の意味が分かった。
「……ええ、同僚としての付き合いくらいならありました。でも、なんで」
僕が聞くと、年配の刑事がため息をついた。
「妬みっていうのは、怖いものなんですよ」
「え?」
「彼はあなたのことを、少し前から快く思っていなかったようですな。めきめきと営業成績を伸ばされて、上司や同僚の覚えもめでたい。原因は分からないが、金回りもいいようだ。そして女性からの視線も注がれている」
「つ、付き合ってるっていうのはデマなんです!!」
「でも、他のことは事実でしょう?」
そう言われて、僕はうつむくしかなかった。
「自分より少し下の存在である、あなたがいたから坂田はなんとかプライドを保っていられた。でも、今や急速に追い抜かれようとしている。このままではまずい、なん
とかしないと……と、短絡的に考えた結果の犯行ですな」
「そんな……捕まったら、仕事どころじゃなくなるんですよ!?」
「捕まらなければいいと考えたんでしょう。実際、甘い考えです。あの路地には防犯カメラがなく、照明も暗い。しかし、坂田はホテルからあなたをつけていた。ホテルのカメラには、不審な行動をとる奴の姿がバッチリ残っていますよ。だからどのみち、あなたが発見された時点で奴は『詰み』だったわけだ」
僕ははっとした。では、あの鏡にうつっていた人影は坂田のものだったのか。
「犯罪というと映画やドラマでは、計画立てて緻密にやるもんですがね。実際の犯行なんて、こんな感じなんですよ。あなたがタクシーに乗らなかったんで、チャンスだと思ったんでしょうな」
「そうですか……」
「ま、今日はこんなところにしましょう。詳しい手続きなど、お話は明日退院されて からということで。夜分に失礼しました」




