いらぬ飛び火が社内を巡る
「矢田ちゃんもいいと思うよね? 神宮寺くんのスーツ」
「……趣味はいいです。確かに。でも、こんなの神宮寺さん一人で選べるとは思えません」
矢田さんはなんというか、絶対に一つは僕のことをけなしてみせるという固い意思を感じる。それはいつものことだけど。
「先輩、一緒に買いに行ったんじゃないですか?」
今回は、違う方向に飛び火した。僕はあわてて手を振る。
「僕一人だよ。先輩だって忙しいんだから」
「じゃあ、さっきの意味ありげなウインクはなんなんですか」
「そ、それはたまたま目にゴミが入っただけよ」
詳しく聞かれると動画収入のことを話さなくてはならなくなるため、先輩も必死に誤魔化そうとする。しかしその必死さが、矢田さんの心で渦巻く疑念に火をつけてしまったようだ。
「怪しいなあー。なんかここのところ、二人とも週末になると必ず定時であがってるし、飲み会にも来ないって話題ですよ?」
「そ、それは……僕は、ジムに行かなきゃならないし(たまには)」
「私は家で、友達とチャットしながら飲み会してるから……(たまには)」
先輩と僕は、「完全な嘘ではないが、この場合正解ではないこと」を言い訳にして誤魔化す方法に出た。
「ふうーん」
ダメだ。矢田さんには完全に疑われている。低い声と眉間に深く寄った皺が、それを証明していた。
「おはよう。お、神宮寺。えらく格好いいの着てるじゃないか」
ちょうどその時、係長がやってきた。普段は上司がくると緊張するのだが、今日は救いの神様に見える。
「そ、そうなんです。これは百貨店で時間をかけて選んで……」
「私、お茶入れてきますね!」
僕と先輩は、これ幸いとその場を離れた。しかし、この話はそれで終わらなかったのである。
「……なんか、ひそひそ話をされてる」
僕が外回りを終えて会社に戻ってくると、誰もが顔をつきあわせて話をしていた。そして僕の姿を認めると、ぎょっとした顔になってそれをやめてしまう。向こうはバレてないと思っているのかもしれないが、こっちからしてみたら分かりやすすぎるくらいだ。
「やっぱりこのスーツのせいか?」
下っ端が急にこんなスーツを着てくること自体、おかしなことだったか。貯金で買ったと言えばなんとかなると思っていたのに。……まさか、着服とか犯罪まがいの疑いをかけられてないだろうな。
僕が自販機の前で悶々としていると、そこにちょうど課長が通りかかった。
「あ、あの。課長。みんなが僕のことで色々言ってるみたいなんですが……」
「ああ、聞いたよ」
すでに課長のところまで届いてしまっていたか。悪口って、なんて広まるのが早いんだろう。
「ぼ、僕は何も悪いことはしてませんから。潔白です!」
「おめでとう。君はてっきり、矢田くんとかと思ってたんだけどね」
僕と課長の間に、奇妙な沈黙が流れた。
「……いや、そんなことでそこまでかしこまらなくても良くないかい」
「おめでとう、ってどういうことですか?」
どうやら僕と考えが違うらしい、ということに気付いた様子の課長が、首をひねりながら言った。
「あれ? 君、天ヶ瀬くんと付き合ってるんじゃなかったの?」
「え、あ、え?」
課長の言葉があまりに衝撃的すぎて、僕はしばしまともな日本語を忘れてしまった。
「ち、違いますよ。先輩は色々教えてくれますけど……」
「でも、家まで一緒に帰ってたって誰かが……」
「帰ってませんっ!!」
おそらく矢田さんの勝手な推測が署内で広まり、人の口を介する度に話が大きくなっていっているのだろう。この分だと、どこまで勝手なことを言われるか分かったものではない。
「そうなの? じゃあ、矢田くんにも少し勝ち目あるかな……」
「失礼します!」
僕は課長の話の途中で、頭を下げて自販機の前から離れた。あわてて先輩にアプリで連絡し、今の状況を伝える。
『うん、分かってる。今ちょうど、総務のおばさんから、結婚式場の案内受けたとこだから』
予想より遥かにひどいことになっていた。
『……今週末、どうします?』
『ダンジョンは行かなきゃマズいでしょう。次から未知の第四階層だもの』
『ですよね。とりあえず、帰る時間はちょっとずらしましょうか』
『うん。マンションに来るときも、誰かに会わないか気をつけて』
『了解です』
……なんだか最後には本物の犯罪者っぽくなってしまった。ヘタに頑張って、お洒落なんかするんじゃなかったかなあ。
ちょっと落ち込んだ僕は、休憩を終えてデスクに戻った。そこへ、一本の電話がかかってくる。午前中、システムの売り込みに行った会社だった。
「先ほどはどうも。で、会計システムの件なんですが……」
電話口から聞こえてくるのは、溌剌とした若い男性の声だった。先ほど面談した社長の声だ。
「そちらにお願いしようかと思いまして」
「え、ええ!? 本当にいいんですか?」
思わず、「お前本当に売る気があるのか」という返事をしてしまった。それがおかしかったのか、通話口の社長が吹き出す。




