リアルの先輩は人を殴ったりしない
週が明けて、また出勤日。僕はひとつため息をつき、スーツに着替えて家を出た。
家の外は典型的なマンション街になっていて、背の高い建物がいくつも並んでいる。道にかかる日陰はほとんどなく、歩いているだけでくらくらするほどの暑さだ。
「あ、ヤバ……」
汗をぬぐうのに気を取られていて、足下のコンクリートが陥没しているのに気付かなかった。僕は前方に大きくつんのめり、そのまま硬い地面に膝を──
「おっと、危ない危ない」
打ち付ける前に、誰かが僕を引き戻した。肩が抜けそうな勢いで引かれてうめき声が漏れるが、なんとかまっすぐの姿勢に返り咲く。僕は窮地を救ってくれた人物の方を向いた。
「いくら暑くても、前見て歩かなきゃダメだよ」
「すみません、助かりました。……暑さでやられてまして」
「ホント、毎年ひどくなるよねえ」
からからと元気に笑うこの救世主こそが、天ヶ瀬糸、僕の尊敬する先輩だ。
美人でスポーツ万能、スタイル抜群。しかも地頭がいい、というのか、学歴はたいしてないが抜群に気が利いて、上司の誰からもかわいがられる。
それを鼻にかけることもなく、同僚や部下が困っているとすっと手をさしのべてくれるという優しさも兼ね備えていた。……ちょうど、今のように。
「神宮寺くん、ほんとに出社して大丈夫? まだ辛かったら休んでもいいんだよ」
「いえ、大丈夫です。この前はフォロー、ありがとうございました」
糸先輩に比べて、自分の情けなさが身に染みる。僕は体力がなくてやせっぽちで、背だってそう高くない。しょっちゅう風邪もひくしお腹も壊す。
もともと話すのが下手くそだし、他部署や他社の人の名前と顔が一致しない。営業部の奴がこんな感じでいいはずもなく、完全に職場では蚊帳の外だ。
唯一、人よりできていた料理も、このところ残業が多くてまともに作っていない。──なんのために生きている、と言われたら。今の僕はきっと、答えられない。
「そう? じゃ、お先に。麦茶作っておいてあげるから、遅刻しない程度に来なさいよ」
先輩は最後に僕の肩を叩いて、足早に朝の太陽光の中を駆けていった。僕は結局聞きたかったことを口に出せず、ほぞを噛む。
「あの動画、本当に先輩だったのかな……?」
もし本当に先輩だったとしたら、何故あんなことをしていたのか聞いてみたかったのに。つくづく、自分のどんくささが嫌になった。
「おはようございます……」
僕は暑さと電車の人混みでへろへろになって出社した。部長は僕にじろっと冷たい視線を投げかける。
「神宮寺、なんだそのツラは。そんなんじゃ、今月も営業成績ゼロだぞ。とりあえず、洗面所で顔でも洗ってこい」
「ふぁい……」
僕は言い返す気力もなく、トイレの横の洗面所で顔や腕をびしゃびしゃ洗った。少しすっきりしたが、気が重いのは相変わらずだ。部長の言うことが正しいのは分かっているから、余計に胸のところに鉛が詰まったような感覚になる。
「本日、仕様変更となった製品がある。それに伴い、メンテナンスも入る。使えなくなる時間をお客様に説明できるよう、各自しっかり頭に入れておくこと」
朝礼の伝達事項が終わり、僕はマニュアルを確認した。幸い莫大な変更点ではないが、製品のアップデートやメンテに絡むことなのでしっかり覚えなければ。一応、間違いがないようにお知らせの紙も鞄にしっかり入れた。
「行ってきます……」
お得意先に挨拶した後は、新規開拓も回らないと。僕は移動ルートをスマホで確認しながら、駅へ向かった。
昼の一時。仕様変更の説明はなんとか終わったが、後は問題の新規開拓だ。僕らの会社では、社内の会計業務や勤怠など、様々な管理を行うソフトを開発している。だいたい総務部のお偉いさんの許可がもらえないと導入、とはならないのだが……。
「一度お約束をいただけないかと思いまして……」
「申し訳ございませんが、多忙のため確約はできかねます」
だいたい製品のパンフレットを渡しても、面会すらできない。すごく運が良く、面会までこぎつけても大体「もううちにはそういうのあるんだよね~」とか、「もっと安くならないの?」で済まされてしまう。
「……そりゃそうか」
今やほとんどの会社でパソコン管理など常識、すでに使っているソフトを捨ててまで乗り換えるほどのメリットなど、そうそうあるものではない。僕だって、逆の立場だったら断るだろう。
「こういう風に考えるから、成績が伸びないんだろうけど……」
分かっていてもモヤモヤする。僕はすでに、会社に帰った後に言われる小言のことまで想像していた。
「神宮寺くーん」
そんな僕の憂鬱を切り裂いたのは、先輩だった。
「……え? 糸先輩、なんでここに」
「麦茶も飲まずに飛び出して行ったから心配になってさ。……いつもこの辺りで新規開拓してるって言ってたから、様子見に。ちょっと、私と一緒に来てみない?」
唐突に言われ、僕は「はあ」と気の抜けた返事をするしかなかった。先輩は僕の手を引き、ずかずかとビルに乗り込み、手近なオフィスに辿り着く。
「ああ、天ヶ瀬さん。いらっしゃい。今日は後輩連れてきたの?」
意外なことに、出迎えた事務員は笑顔だった。だいたい営業となると売り込みと決まっているから、嫌がられるものなのに。
「そうなんですよー。近くで会ったもんで。同席させてもらってもいいですか?」
許可が出たので、僕は総務部との会議に参加することになった。そこは家族経営の会社で、社長の奥様と娘さんが業務を担当しているという。
「こんにちは。奥様、この前いただいた梅干し! とっても美味しかったです」
「まあ、良かったわ」
それからしばらくたあいない世間話が続き、僕がなんの話をしに来たか、いぶかり始めた時──
「そうそう。本題を忘れるところでした。この前おっしゃっていた、システムの使いにくい点を踏まえて、操作AIの改善案を出してみたんです。弊社のシステムなら、こういった画面に構成できますよ」
先輩は、画面をプリントアウトしたものを出してきた。確かに必要な動作だけがシンプルにまとまっていて、分かりやすい。
「あらあ、いいわねえ。今のは色々できるのがいいところなんだけど、わかりにくくて困ってたのよ」
「ほとんど同じ機能しか使いませんしね」
奥様は盛り上がり、お茶を出してくれた娘さんは苦笑いしていた。
「機能を制限したモデルでよろしければ、少しお安くもなりますよ」
「じゃ、見積もりをいただける? 値段が下がるなら、主人もうるさくは言わないと思うわ」
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
僕は目の前で契約がほぼ本決まりになるのを、ぽかんとした顔で見ていた。
「……どうだった? 見てみて」
話が終わってから、先輩は近くのカフェに僕を誘う。アイスコーヒーをおごってもらった僕は、おずおずと口を開いた。
「とても和やかで……先輩が歓迎されてるのが、よく分かりました。それに、相手に合わせたアドバイスも素敵です」
「そうそう、そういうことなのよ。大事なのはその二つ」
「二つ?」
「まずは一つ目。相手との間に信頼関係……まあバチバチの友情じゃなくていいんだけど、『こいつの言うことなら聞いてやってもいいかな』ってくらいの感情がないと、話が全然進まないの」
確かにそうだ。フリのセールスは、まず話すら聞いてもらえない。
「だから最初は、無理に売り込もうと思わなくていいの。相手が忙しそうな時に居座るとかもダメね。話が聞けそうな時に少しでも聞かせてもらって、名前を覚えてもらう。これが第一段階」
僕はコーヒーを飲むのも忘れて、先輩を見つめていた。
「で、それができたら、今のシステムで何か困ってるところがないか聞き出す。そしたら、話もしやすいでしょ?」
「た、確かに。参考になります」
「向いてないって思い詰めるより、もうちょっと余裕もってね。縁を作るの大事よ。部長には私からも言っておくから」
僕は先輩の言葉を聞きながら涙をこらえていた。僕なんか助けたってなんの得にもならないのに、なんてできた人だろう。優しいにもほどがある。