僕の変身
「リアルの世界でも、工夫してみよう。もう少し成績をあげなくちゃ」
前よりはマシになったものの、依然として営業成績がビリなことには変わりない。やればきっとできる、その思いが僕を動かし始めた。
「大事なことは課長に聞くとして、僕ができることは……」
製品同士を分かりやすく比較したパンフレット作り。しゃべるのが苦手な分、見れば分かってもらえるように何度も作り直した。もちろん先輩に教わったように、相手の目的に合わせて提案する機能を変えてみることも忘れない。
その結果、じわじわと僕に対する取引先の態度が変わっていった。話を聞いてもらい、内部に入れるようになれば、商品の説明まであとひと息。そこからも粘り強く足を運んだ。
そして一件、紹介で新規の契約が取れた。まさか僕がそこまでするとは思わなかったらしく、報告を受けた課長も係長も目を丸くしていた。
「いやあ、天ヶ瀬くんの指導のおかげかな。だいぶ成長したねえ」
「良かった良かった。一時はどうなることかと思いましたよ」
課内に明るい声が響くと、雰囲気も良くなる。僕を見つめる周囲の目も、自然と柔らかくなっていた。……ただ一人を除いては。
「あんまり褒めると調子に乗っちゃいますよ」
「矢田さんは相変わらず厳しいねえ……」
「現実を教えてるだけです。契約一件で浮かれられても困りますから」
「でも、千里の道も一歩から、だよ」
苦言を呈する社長に、他の女性社員が寄っていって何やらつぶやいた。
「課長、実はアレは……」
「ふんふん。ああ、そうなの。そういうこと」
「課長、邪推はやめてくださいよ!!」
課長は満足そうにしていたが、矢田さんは顔を真っ赤にして憤慨した。全く状況が読めないのは僕だけで、ひとりまたぽかんとしている。
「と、とにかく! まぐれじゃないってことを証明するために、二件目三件目と契約とってきなさい! 手を緩めないこと!」
「……はあい」
なんで彼女に命令されているんだろう、と思いながら、僕は力なく返事をした。
「神宮寺くん」
「あ、先輩……お疲れさまです」
数日後、自販機の前で先輩と会った。
「どう? 調子は」
「二件目の契約、とれるかもしれません。競合が一社いて、そっちの方が値段が安いみたいなので、今はなんとも」
こちらも値段を下げれば、確実に契約は取れるだろう。しかしそれでは、定価で契約してくれている他のお客さんに申し訳ないことになる。だから僕は、上司に値段交渉すらしていなかった。
「最初に提示した価格でダメなら、契約は諦めます。会社はそこ一個ってわけじゃないし」
「偉い……偉いぞ君は。なんだか最近、まぶしいなあ。うりうり」
「あ、頭を撫でるのはやめてくださいよ」
僕が照れていると、背後に何かの気配を感じた。
「先輩、やり方がヌルいですよ。この男はね、もっとガシガシのワシャワシャにしてやんないと!!」
いきなり出てきた矢田さんが、僕の頭をかき回す。そういえば、矢田さんはヒールがあるから僕よりちょっと背が高かった。
解放されてから、僕は先輩に向き直る。
「口直しに、もう一回うりうりしてもらっていいですか」
「私のを罰ゲーム扱いするとはいい度胸じゃない……」
「ま、まあ。二人とも、一旦落ち着いて」
僕は先輩にうりうりされながら、矢田さんとの会話を続けていた。ちょっと前まで女性二人と会話なんて、パニックになって全然できなかったのにな。第三層は女性の冒険者ばっかりだったから、慣れてしまったのかもしれない。
休みが終わって自分のデスクに戻ると、メールが来ていた。
「……契約、取れた」
是非お願いしたい、という文面を何度も読んでいるうちに、嬉しさがこみ上げてくる。僕はうきうきして、係長に二件目の成約を報告しに行った。
「良かったじゃないか!! やったな」
今度こそ手放しで褒められて、僕の気持ちは浮き立った。
「……今日はちょっと、豪華に呑もう」
先輩からもらった配信のお金。それはすでに百万を超えていた。最初の動画でこの額だから、今度の振り込みはもっと増えるだろうと聞いている。
財布にずらっと一万円札が入っている光景は、いつ見ても気分が良かった。
「居酒屋……だと、いつも通りだよなあ」
迷った末に、ホテルの最上階のレストランにしてみた。寿司屋や料亭には伝手がないし、値段がどのくらいか分からない。
レストランなら、酒さえ気をつければ規定のコース料金だけで済むだろう。……豪遊しようと思っても、こういうところは結局庶民のままだ。
金曜日の夕方とはいえ時間が早かったので、席はあいていた。しかし当然のごとく周りは家族連れやカップルばかりで、少々居心地が悪い。
「いやいや、忘れよう忘れよう。せっかく、祝いに来たんだし」
一番高いコースと、グラスのシャンパンを頼む。最初にシャンパンで乾杯すると、心地よい高揚感が晶を満たした。周りも良い感じにぼやけてきて、気にならなくなる。
前菜からキャビアやトリュフ、フォアグラが出てきて、メインは勿論高級牛のサーロインステーキ。昔だったら請求書が気になって味どころではなかっただろうが、今日は脂の旨みを心ゆくまで堪能できた。
デザートのジェラートまで堪能して、僕はホテルを出る。お土産に、ひと瓶二千円のジャムまで買ってしまった。
「じゃあ、食パンも思い切って高いのにしちゃおうかな」
一時ほど乱立しているわけではないが、町にはぽつぽつと高級食パンを売っている店がある。一斤で約千円前後のそれを紙袋に入れてもらい、僕は家に帰ってきた。
「まだ寝るにはちょっと早いか」
パソコンを立ち上げて仕事の資料を作っていると、小腹が空いてきた。上品な盛りのコースは、もう消化されてしまったらしい。
「それじゃ、さっきのパンの出番だな」
見るからにふかふかして、その上に寝転がりたくなるような食パンを厚めに切る。パン切り包丁がないから断面がギザギザしたが、大体切れたから良しとした。
それをトースターに入れて表面がキツネ色になるまで焼き、買ってきたジャムをたっぷりと載せる。垂れないように注意しながら、豪快にかぶりついた。
「う、美味い!!」
今までの食パンより、バターとミルクの風味が強い。トースターでバリバリに焼け、ささくれ立った表面に、とろりとしたジャムがよく絡んでいた。
ジャムもさすが高級品だけあって、大きな粒の苺が惜しげも無く使われている。砂糖は控えめで、苺の味がそのままに伝わってきた。大口で粒を丸ごと飲みこんで噛み砕くと、パンに甘味がしみこんでよりしっとりとする。
「これは今までのとは、全然別物だなあ……」
高い食品を見る度に、一体何が違うのだろうと思い続けてきた。半分妬みで、お金が有り余っている人がステータスのために買うのだろうと思っていた時期もある。
しかし、こうして実際に手にしてみると、明確に違う。使っている材料そのものもいいし、作り手の腕もあるのだろう。
「……ちょっと、食わず嫌いはもったいなかったかも」
パンとジャムの力もあってか、資料作成が一段落した。僕はオフィスソフトを切り、そのままネットサーフィンを始める。お取り寄せグルメのサイトは思っていた以上にたくさんあり、巡るだけで夜がすっかり潰れてしまった。
次の日は、珍しく百貨店に足を向ける。スーツも靴も今まで安物だったけれど、高いのを買ってみれば何か違うのではないかと思えてきたからだ。
「あの、仕事用に紺のスーツと、黒い靴が欲しいんです。予算はこのくらいで……」
明らかに慣れていないので門前払いされるかと思ったが、店員さんは予想以上に親切だった。さすがにオーダーメイドには手が出なかったが、それでもできる限り僕の体格に合ったものを選んでくれる。
「肩幅にはもう少し余裕があった方がいいですね。丈は……」
今までのスーツは大きすぎて、かえって貧相に見えてしまっていたらしい。ジャストサイズのものを試着させてもらうと、別人のように背筋が伸びて見えた。
「やっぱりラインが綺麗ですね……」
「最近はビジネスシーンも大分カジュアル化してきましたが、伝統的な企業様を回られるときはこういった服装の方がやはり受け入れてもらいやすいものです。あと、で
きればネクタイの色も……」
僕が営業だと話したので、店員さんのアドバイスも的確だ。結局、買うつもりのなかったネクタイとピン、それに鞄と靴まで購入してしまった。良い客だと思われたのか、店員さんの名刺までもらう始末。
「伝統的な企業、か」
扱っている商品がパソコン関係なので、あんまりそういうところには顔を出さないのだが──会長や重役がご年配なケースは結構ある。明日からスーツを変えて、彼らの反応を見てみよう。
「……な、なんですか。神宮寺さん、そのスーツ」
「えー、すごい。格好いいじゃん」
次の日、真っ先に出社してきた矢田さんと先輩が、さっそく変化に気付く。
「取引先の印象、良くなるかなと思って。一式でかなり高かったけど、思い切って買いました」
「綺麗な色だし、肩幅もぴったりだよ。なんか別人みたい」
先輩が手放しで褒めてくれた。いたずらっぽくまばたきしてくるのは、「あのお金で買ったんだね?」という意味だと解釈する。うなずいておくと、先輩は満足そうだった。