わずかなりとも進歩は進歩
「なに!? あの石を取られたじゃと!?」
サイカさんに大体の事情を伝えると、予想通り額に青筋を立てて怒られた。
「魔法のアイテムとはバレてないので、たぶん返してもらえるとは思うんですが……」
「それにしたってうかつすぎるわい。やれやれ、これじゃ今日は最初からやり直しかのう」
サイカさんは大変に嘆いていたし、僕もきっとそうなると思っていた。だが、事態は予想外の展開を見せることになる。
「フレイム!」
「サンダー!」
「アクアラッシュ!」
出す魔法は正確に敵に命中し、その度に蛇が襲いかかってくることもない。サイカさんも低く唸りながら、完璧に近いコントロールだと認めてくれた。
「本当に石をなくしたのか? ならばどうやって、これほどの成果を出したのだ」
僕はあいまいに答えながら、記憶を辿っていた。……おそらく標的にしたゴミたちには、大した力はないだろう。石の時と違っていたのは、使い手である僕の意識だ。
借り物であるマンションの設備に傷を残したり、火事を出して皆を困らせてはならないとずっと思っていた。その集中力の差が、実戦での効果につながったのだろう。人生、何が幸いするか分からないものだ。
「これなら、皆に追いついても迷惑にはなるまい。……魔術師としてはな。とりあえず、よく頑張った」
サイカさんからお墨付きをもらって、僕たちは魔方陣の中に飛びこむ。一層目、二層目とくぐって、次はとうとう未踏の三層目フロアだ。
「……お前は魔力が高いから、いきなり状態異常にされる可能性は低いと思う。ただ、背後から知り合いの声が聞こえても、絶対に振り向くなよ。姿を見せない限り、味方の声が聞こえても反応するな」
サイカさんの忠告に、身が震える。これから行くのは、つまりそういうフロアなの
だ。
「本当にちなみになんですが、反応してしまった場合はどうなるんです……」
「儂も伝聞でしか知らんが、なんでも化け物の下僕として囚われて、死ぬまで帰ってこられないそうだ。中にはアンデッド化して、骸骨になってもコキ使われる奴もいたというな」
「ぜ、絶対に返事しません!!」
僕は全身を震わせながら、サイカさんと一緒に魔方陣に飛び込んだ。
くぐりぬけて瞬きをすると、視界が一面の碧に覆われる。洞窟の壁が一様に白っぽくなり、それを覆うように蔦が生えている。その蔦が緑を帯びた青色をしているので、いきなりエメラルドグリーンの海の中に飛びこんだように見えた。
「わあ……」
僕は一瞬ダンジョンの中だということを忘れ、感嘆の息を吐く。モンスターさえいなければ、どこまでも冒険したくなるような素敵な空間だった。
ごぼごぼ、とどこかで水が湧いている音がする。サイカさんはその音から遠ざかるように、足を進めていった。
「水は汲まなくていいんですか?」
「……ダンジョンの中に沸いている水はたいてい毒だ。聖職者の清め無しには飲めたものじゃない。それに、水の側には奴らがいるんだ」
「奴ら?」
「セイレーンだ。そら、来たぞ」
水音に混じって、女性が歌う声が聞こえてくる。それは甘く伸びやかで、いかにもこちらに好意があるように聞こえる不思議な声だ。僕の足が一歩、そちらに向きかけて──踏みとどまった。
「いや、そんなうまい話があるわけがない」
生まれてこのかた、非モテ歴うん十年。幼児の頃、隣に座った女の子が泣き出したという筋金入りの体質を持つ僕を、誘う相手なんているものか。罠だ。
「ほう、よくとどまったな。普通、男はあの歌声に抵抗できないものなんだが」
「今までの経験というやつで……」
「さすが、才能のある若者は違うの」
実は魔術と全く関係ないのだが、それを言うのはさすがに恥ずかしかった。
「おい、こっちじゃぞ」
サイカさんに手招きされて、曲がり角を行く。すると、十字路の向こうに先輩たちの姿が見えてきた。いくぶん人数が少ないように見えるが、みんな元気そうだ。
「アオくーん!」
先輩がこちらに気付いて手を振る。僕もそれに答え、近寄っていこうとしたその時。目の前の床が、すっぽりと抜け落ちた。
穴から、濡れ鼠になった若い女性が顔を出している。肌も髪も真っ青な女性の顔は怒りに燃え、口は大きく切れて耳元までつり上がっていた。
「セイレーンが出たぞ! 皆、耳を塞げ!」
サイカさんが後ろで叫んでいる。僕は杖を構えた。
おそらく相手は水の属性、火では効果が薄い。となると使えるのは……
「アオ、お前も下がれ! 狙いはお前だ!」
サイカさんの言う通り、女性、いやセイレーンはまっすぐにこちらをにらみすえ、大きな声で歌い始めた。さっきよりもより激しい、感情のこもった歌だ。しかし、僕は杖から手を離さない。
「熱心になればなるほど、うさんくさいもんね!」
例えば町で綺麗な女性が熱心に誘ってきたとする。逆ナンパということもあるだろうし、それで成立するカップルだってゼロではないだろう。しかし僕に限っては、話しかけてくるのは絶対に怪しげなビルに引き込もうとする商売人なのだ。
「もう顔を見たくもないよ!」
僕の杖先が、黒く輝いた。次の瞬間、黒土でできた四角いブロックが、いくつもセイレーンの周囲に浮かぶ。
「アース・アブソープ!」
かけ声と共に、ブロックは繋がり合って、セイレーンの手や足、首、胴に軛となって絡みつく。女形のモンスターが、かん高い悲鳴をあげた。
「捕らえた!」
「それだけじゃない、セイレーンがひからびてくぞ!」
そう。大地は水を吸収する。魔法で作った黒土はこの上なく「乾いて」おり、相手の水気を根こそぎ吸いとるのだ。現に目の前で、搾り取られたセイレーンは始めの半分くらいにまでやせ細ってしまった。
「クキャァッ!!」
悲鳴をあげたセイレーンは、最後の力を振り絞って縛めから逃れ、地下の穴に消えていく。どぼん、という音と共に大きな水しぶきがあがり、僕の顔にかかった。
「……はあ」
僕は長く息を吐いた。逃げられて残念、という気持ちはなく、殺さなくて良かったという思いがある。今までのオークも、とどめを刺したのは結局サイカさんだった。この世界では詰めの甘さが死につながるかもしれないのに、僕はまだ……完全に適応できてはいなかった。
「敵が縮むのを想定していなかったのは、改善点だな」
当然のごとく、サイカさんにはそれを指摘される。
「アオくん、強くなったねえ」
しかし先輩は、にこにこ笑いながら僕の頭をなでる。照れくささが足下から這い上がってきて、僕はかすかに震えながらそのご褒美を受け取った。
「ま、確かに魔力漏れはだいぶ改善された。これなら一緒に連れて行っても、足手ま
といにはならんだろう」
「それは頼もしい」
レックスさんが進み出て、僕をかつごうとした。僕は手を振って、それを断る。
「アオ殿、何かありましたか?」
「……あの。今日はできるだけ、一人で歩いてみたいんです。ちょっとだけですけど、訓練しましたから」
「ほう」
レックスさんはふと考えこみ、僕の全身をまじまじと見た。そして腹や腕を触る。
「……少しは鍛えられたようですね」
「は、はい!」
分かってもらえたのが嬉しくて、自然に声のトーンが上がる。
「では、厳しくなったらいつでもおっしゃってください。私の側は、離れぬように」
「分かりました!」
僕はそれから、頑張って歩き続けた。結局一時間ほど歩いたところでギブアップしたものの、確実に体力はついている。
「すごいよ。いつの間にそんなに成長したの?」
先輩にも褒められて、僕の顔はやに下がるばかりだった。ジム通い、誰になんと言われようと頑張って続けようっと。