前世の幸せ、今世の幸福 ーー婚約破棄をされたら前世の兄が激怒しましたーー
私はお留守番あかちゃんだった。
ふわふわの綿埃みたいな毛の燕のあかちゃんで、つい、と出ていく父母をににちゃと一緒に見送っていた。
父母にとってににちゃと私は初めての卵で、だから気になって気になって、つい、と出ていってもくるっと回ってすぐに戻ってきた。
ついと出てはもどり、
つういと行ってはもどり、
ぴー、とににちゃと私は何度も鳴いて巣から父母を見ていた。
巣からは大きな桜の木が見えて、枝から溢れんばかりに満開の花が咲き誇り、
桜を吹き散らす花風も、
桜に降りそそぐ花の雨も、
美しく、儚く、春に生まれたににちゃと私をやさしく包んでくれているようだった。
けれども、ある日。
「まー君、燕の雛を見せてあげようね」
と、卵を盗む蛇のように人間の女性の手が巣に入ってきた。ににちゃは咄嗟に私を巣の奥に押しやり、自分は前に出た。手がににちゃを掴む。
「わあっ、ふかふかでかわいいね、ママ」
「かわいいね、まー君」
ぴー、ににちゃを離して。ぎゅって、ににちゃを握らないで。
「あら、奥にもいるわ」
手が私に近づく。
私は手を避けようと巣の端でバランスを崩しーー巣から落ちた。
風が積んでくれた薄桃色の花びらの上に落ちた私は、まだ息が少しあったから知っている。
「かわいいね」
と、ににちゃを見て男の子と母親が笑っていたことを。
「かわいそうにね」
と、落ちた私を見て男の子と母親が泣いていたことを。
それを、戻ってきた父と母が見ていたことを。
びょお、びょお、と狂ったように空を飛びながら見ていたことを。
ぴー! 俺の妹とににちゃが叫んだことを。
という前世をたった今思い出した私は、目の前で婚約破棄を叫んでいる婚約者を見た。
わかってしまった。婚約者の前世はまー君だった。
で、婚約者が真実の愛の相手として腰を抱いているのは、前世のまー君の母親であった。
ををーう、
べつに前世の怨みはないけれども状況は最悪だった。
王宮の大広間にいるのだ。
私も婚約者も男爵家だから隅っこにいるけど、今は王宮の夜会の最中であるのに、真実の愛を見つけたと自分たちにウットリしながら婚約破棄を叫ぶなんて。
前世でも、まー君と母親に悪意はなかったと思う。
悪気すらなかったのかもしれない。
親鳥がいない間に雛鳥をちょっと触って楽しもう、くらいの気持ちだったのだろう。結果を想像しない思慮の足りない考えなしだっただけなのだ。
前世のまま浅はかな、今も真実の愛を貫いて婚約破棄をする俺ってカッコイイと自分に酔っている婚約者に、瞬時に私は見切りをつけた。
「はい。婚約破棄をお受けしますわ」
隅っこにいるとはいえ、婚約破棄をぎゃんぎゃん喚く婚約者に注目が集まってきていた。婚約者は視線を浴びて俺カッコイイ中なのだろうが、愚かすぎる。視線に含まれているものの意味を理解していない。
自己陶酔中の婚約者の巻き添えを食らって致命傷を負うまえに私は即時撤退と、スススっと扉に向かおうとしたが背中に突き刺さるような視線を感じて、振り返った。
彼は、段上の席から立ち上がり私を見ていた。
私は末端貴族として大広間の隅にいて、彼は王族として遠く段上にいた。私と彼の間にはお互いの顔もわからないほどの距離があった、が、それでも。
ーーににちゃだった。
彼が階段を走り降りた。
大広間の人混みを縫って、人々の粘りつくような視線を振り切るように駆ける、ただ私だけを眼に映して。
走り出した私も、ドレスの裾が足に絡んで転げそうになりながらも彼だけに手を伸ばした。
大広間の中央で、私の手を彼の手が痛いほどに掴む。
周囲は固唾を飲んで私たちを見ていた。
言葉が出ない。うれしくてうれしくて言葉にならなかった。
ぴー、ににちゃ……。
ぴー、俺の妹……。
思わず前世の鳴き声が出た。
ぴー! ににちゃ!
ぴー! 俺の妹っ!
ににちゃに掻き抱かれる私に、まわりの人々はパカンと雛鳥が親から餌をもらう時みたいに口を開け目を大きく見張っている。女嫌いで有名な、ダンスを踊ることさえ拒絶する王太子が女性と抱きあっているのだ。しかもピーピーいって。
英邁で美しく武力にも魔力にも優れた自慢の息子が、いきなりピーピー言い出したものだから、国王も驚愕のあまり王座からずり落ちそうになっていた。
しかし一方で。
家族以外の女性には激塩対応の息子が、少女を抱きしめているのを見て心底よろこんでもいた。
それは隣に座る王妃も同じこと。国王以上に歓喜していた。
「陛下、これは大チャンスでは!?」
「うむ、女性に指一本触れることもなかったというのに、あのように熱烈な抱擁を……」
「夢にまでみた孫が……! 身分はどうにでもなりますわ、妃教育も。あの少女を逃がしてはなりませんことよ、絶対に!」
王妃は大広間の隅に立つ男女に双眸を細めた。
「まずは邪魔者の掃除をしましょうか」
ああ、やっと見つけたーー俺の妹。
俺の妹は、生まれて10日間で死んでしまった。
たった10日間だけの妹。
たったひとりで落ちていった俺の妹。
俺の、悲しみの苦しみの嘆きの怒りの慟哭を魂が刻んだのか、俺は人間に転生しても前世の記憶があった。
しかも王家の唯一の王子として生まれた。
金も権力も何より千年に一人と言われる溢れるほどの魔力があった俺は、神童の名のもとに研究を重ね、こちらの世界に妹の魂を転生させた。
しかし、こちらの世界の魂と同化したことにより妹の魂を見失ったのは誤算だった。それに、おまけが2つくっついて転生してきていたとは。
ああ、
俺の妹を殺したくせに。
ああ、
今度は婚約破棄だと? 破棄された貴族の女性の悲惨な末路を同じ貴族ならば知っているだろうに。
ああ、
もう俺は無力な燕の雛ではない。許せない。許すことなどできない。
前世の俺の絶望を今世の俺の渇望を、地獄の底で味わうがいい。
その池には、絶えず清らかな湧水が流れ込み、水底に敷き詰められた白い砂と高い透明度によって水面は空そのものを映していた。揺らぐように泳ぐ魚は、水中ではなく空中を泳ぐがごとく幻想的だった。
「おいで」
ににちゃに手をひかれ水面に立つ。ににちゃの魔法はすごい。足下の空と頭上の空。まるで、ににちゃと二人で空の中を歩いているようだった。
別の池では、特殊な浮草の上に花を植え、地上に咲く花を水上に咲かせ水上庭園を艶やかに花開かせていた。コバルトブルーの水に花と葉の色彩が絵画のように美しい。
ににちゃが勿忘草の花を摘んで髪に飾ってくれた。
「花を摘むのではなく、勿忘草の名前を摘んだからね。今世はもちろん来世も俺を忘れないでね」
と、ににちゃは魂と魂を結ぶ魔法を私にかけた。
違う池は、噴水と彫刻が配置され、吹き上がる水が陽光を取り込み光が織り成す彩りが宝石のようだった。
そこへ魔法を使ってににちゃが、水と光を集めて虹をつくってくれた。
天使の輪のような丸い虹、霧のような白い虹、天と地を表す二重の虹。
「次は夜の空に月虹をつくってあげるよ」
どの池も常に最高の状態を保つために緻密に管理され、王宮の庭園として美を極めていた。
「ここは水の庭園なんだよ。明日は花の庭園に行こうか」
ににちゃと手をつなぎ私はゆっくり歩く。
少し離れた場所には、ににちゃに人生と命を熱狂的に捧げた騎士たちと側近たちがいた。美しいものには人を魅せる力がある。ににちゃの神のごとき美貌の信奉者だ。あるいは、ににちゃの叡知や魔力の心酔者か。
「俺は人間に生まれたけれども、人間の女性は好きになれなくてね。おまえを殺されたから」
彼らも王様も王妃様も驚くくらい私を歓迎してくれた。私には超過保護で、元婚約者と恋人が、ににちゃの妃に自分の娘をと作意して私を害そうとした貴族が、頼むから殺してくれと哀願するほどのオソロシサだった。
「前世では妹だったけど、今世では血の繋がりはない。だから結婚してくれないか? 俺はおまえだけしか愛せない。おまえだけが俺を生かし続けることができるんだ。おまえは俺の心臓なんだよ」
池の果てには一本の木が立っていた。この世界にも同じ種類の木はあるけれども、ここにはないはずの木。前世の巣の近くで咲いていた満開の桜の木が。
「おまえを喚ぶ時に、巻きこんでしまったんだ」
春の記憶が蘇る。
巣の中で、ににちゃと二羽で寄り添いあたため合った。
春の木漏れ日はやさしく、
春の風はあたたかく、
巣から見える桜は美しく、ひとひらふたひら散るる花びらが百花繚乱のごとく視界を埋め尽くした。
10日間だけの命だったけれども、私は幸せだった。
「うん、と言ってくれるまで毎日プロポーズするよ。覚悟して俺に口説かれてね」
花の王のみたいに美麗なににちゃは、熱の籠った双眸を蕩けさせて微笑む。
「俺のリリーリア」
宝物のように、ににちゃが私の名前を呼んだ。
ふわり、薄桃色の花びらが蝶のように舞って私の耳に触れた。
ーー幸福におなり、桜の木が蚕が糸を吐くようにヒソリと囁いてくれたような気がした。
「烏になった母鳥」という詩がもとになっていますが、作品自体はまったく別の作品となっています。
読んでいただき、ありがとうございました。