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Fossil

作者: ZENN

五億四千万年の昔、地球上に生命が誕生した。

原初の生命は、油滴のような膜で辛うじて外部と自己を分離していた程度の、弱々しい小さな微生物であったという。

やがて、その微生物たちはまるで意思を持つかのように、自らの系譜を残すための戦略を講じ、様々な姿へと進化を遂げていった。

その結果、生命誕生以降の地球上では、それからはるか後の現代に至るまでに、様々な生物たちが続々と登場し、そして音もなく姿を消していくということを繰り返してきた。


しかし、それほどに多くの生命の興亡があったにも関わらず、その実際の姿を知っているものは、もう地球上のどこにもいない。絶滅した生き物たちの存在した証ともいえる痕跡は、その殆どが失われたか、あるいは断片的に、大地の奥底に仕舞われている。

古生物学とは、そうやって地層の奥底に消えていった生き物たちの記憶を掘り起こし、途切れ途切れになってしまった生命の記録を、現代に蘇らせる学問だ。


立派に蓄えられた白髭が特徴的なその古生物学者は、少なくとも彼が専門とする学問の界隈では、大家と呼ばれるに余りある功績の持ち主だった。

彼は、時代でいえば中生代後期、およそジュラ紀と白亜紀の生物相について研究する、いわゆる“恐竜博士”で、これまでにいくつもの恐竜に対する新しい知識を世界にもたらしてきた第一人者である。


一方で、彼はテレビ番組や出版といったさまざまなメディアに参加し、自らが持つ恐竜への知見を披露してきた。

そうしているうちに、彼は恐竜に浪漫を感じる多くの人々にとって、古生物学界全体の象徴のような存在になった。


そんな彼がある時、地方の博物館で壇上に上がった。

その博物館では、毎年ある時期になると、世界中で見つかった恐竜化石の企画展が行われていて、その来賓としての講演を頼まれたのだった。

講堂は、バロック的な外見をした古めかしい建物の中にある。それ自体は、二、三百人程度の聴衆を収容できる程度のさほど大きいとは言えない代物だが、その内装は、古典的な風情を感じさせ、いかにも考古学的な雰囲気を醸し出していた。


当日、講堂は多くの聴衆に埋め尽くされた。

席は余すことなく人に満たされ、講堂の後部は立ち見の聴衆の列が叢林のように群がっていた。その多くは、恐竜に熱心に夢を抱く子供と、その両親といった様子だったが、中には、これからその道を目指すのであろう学生や、同じ研究の途上にいるであろう人も、僅かに混じっている。

それほど多くの人々が、その古生物学者の話を聞くために、その場所に集まっていた。


そして古生物学者は、自らの話を聞きにきた人々の期待に応えるように、自らが持ちうる知見を惜しみなく披露した。その講演は、恐竜の魅力に取り憑かれた者にとっては余すことなく素晴らしいもので、多くの人が彼の思い描く恐竜の世界の虜になった。


「さて、もし良ければ、皆さんの質問に答える時間を設けたいと思うのですが」

一頻り自らの話を終えると、古生物学者は唐突にそう切り出した。


講義の後の質疑応答は、その道に憧れをもつ人に対して彼が助言与える場であり、そういう人たちを駆り立てる扇動の機会でもあった。

それが例え少年でも、はたまた老人であっても、講義に集った者たちは等しく、恐竜の闊歩した時代を夢想する同志だ。


そんな彼らに自分の知識を伝えたり、背中を押してあげたりすることは、もう決して若くはない古生物学者にとっては、研究の次くらいには重要なことだった。

「どんな質問でも良いでしょう、子供たちも、大人のみなさんでも」


場内がどよめく中、一人の幼い少年が勢いよく手を挙げ、古生物学者が促すよりも先に、勢いよく立ち上がった。

その隣で、少年の父親らしい男性が、慌てた表情をしているのを、古生物学者は見て取る。

「先生の一番好きな恐竜はなんですか?」

少年特有の、はっきりとした高い声が響く。

最初の質問者になることを躊躇わなかった無鉄砲なその少年を、古生物学者は暖かい笑みで迎えた。


「そうだね、僕は恐竜の全てが好きだけれど」

古生物学者はその顎に蓄えられた豊かな白髭を撫でながら、何か眩しいものでも見るようにその琥珀色の目を眇めると、たった今から草を食もうとしている大きな草食恐竜のように、悠然と口を開いた。

「あえて一つを選ぶなら、オビラプトルかな」


「“卵ドロボウ”の?」

「よく知っているね」

古生物学者は、充分に蓄えられた白髭の下で穏やかに微笑んだ。

「実は、彼らが“卵ドロボウ”だったと言うのは、大きな間違いだったんだよ」


オビラプトルは、白亜紀後期に生息していたとされる小型の恐竜で、卵化石の近くで発見されたことから、当初は”他の種類の恐竜の卵を盗んで食べる恐竜”と認識されていた。

しかし、彼らが卵を育てるために巣篭もりしている姿を残した化石が見つかったことで、その認識は大きく変わった。


「彼らは実はドロボウなんかではなくて、自分の卵を守っていた、子供思いな恐竜だったんだ」

輝きに満ちた目のまま話を聞き続ける少年に、古生物学者は諭すように言う。

「古生物学の世界は、まだまだ思いもよらない発見に溢れている。君もいつか恐竜博士になって、みんなの知っている恐竜の常識を覆して欲しい。オビラプトルの出来事のようにね」


「どうすれば、先生みたいな恐竜博士になれますか?」

隣に座る父の静止も虚しく、少年は放たれた矢のように真っ直ぐで純粋な質問を投げかける。

少年の眩しいまでに輝く瞳を前にして、古生物学者は少しだけ考えた素振りを見せると、その少年の瞳を、真っ直ぐに見据えて言った。


「恐竜が好きだという気持ちを、大人になるまでずっと忘れないでいること、それができれば、きっと」

それが、言葉で言うほど簡単なことではないということを、古生物学者は知っていた。


より一層目を輝かせた少年が、短く礼を言って席についた後、古生物学者は講堂の中を見渡した。

少年の無邪気な問いかけに誘発されたのか、幾人かの聴衆が真っ直ぐに彼を見つめていた。

そのいずれも、少年と同じように明るく希望に満ち溢れた瞳をしていたが、その中に一つ、ひどく沈鬱な琥珀色の瞳を見つけて、古生物学者は眉を潜めた。

その瞳の持ち主は、二十歳過ぎほどの、おそらくは学生で、講堂の後ろの方に溜まっていた立ち見の聴講者の中に、混ざるようにして立っていた。


その青年は、並居る聴衆の中から他の誰かが次の質問を始めるよりも先に、徐に前に歩み出て、古生物学者をその瞳で真っ直ぐに見つめると、こう問いかけた。


「教授はなぜ、そこまで情熱的に恐竜たちを追い求めるのですか」


青年が発した質問に、古生物学者は目を細めた。

その青年からしてみれば、それは単純に、古生物学者がなぜ恐竜たちを追い求めるのかという、その根源の物語を知りたかったための質問だったのかもしれない。


「君の祖父母は、まだ健在かな」

「祖父が、今年で八十になります」

不思議そうに首を傾げた青年に、古生物学者はさらに問いかける。

「昔の話を聞いたことは?」

「ほんの少しだけ」

いよいよ不審に思った青年がその口を開くより先に、考古学者は満足そうな表情を浮かべて言う。


「君が、祖父に昔話を聞くのと、化石を探すことは、僕にとってはとてもよく似ている行為だ」

怪訝そうな表情を隠さない青年を見据えながらも、古生物学者はお構いなしに続ける。

「君の祖父は、君が聞けばきっと喜んで昔の話を聞かせてくれるだろう、大抵の老人は喋りたがりだからね、僕も含めて——」


学者のささやかな冗談に、遠くから細やかに笑う声が聞こえる。

青年はと言えば、質問を茶化されたとでも思ったのか、どこか気を悪くしたような顔をしていた。

だが、古生物学者が青年の表情を気に留めている様子はない。


「けれど、きっと君の祖父はあえて自ら昔のことを話しはしないはずだ。君が聞き出しでもしなければ、彼の人生の物語は、いずれ彼とともに墓場に入ることになる」


「つまり?」

婉曲な言葉回しに痺れを切らした青年が、答えを迫るように問う。

「恐竜も、それと同じなんだ」

古生物学者は、両目に若々しい輝きを灯しながら、優しくも力強くそう言った。


「化石となった彼らは、当然自分からは何も言ってはくれないし、そのうち跡形もなく崩れ去ってしまうかもしれない。けれど彼らは、自らが知る膨大な過去のロマンスを話すその時を、この瞬間も今かとばかりに地の底で待っている。僕は、それを探し求めるのがたまらなく好きなんだ」


古生物学者は、深く皺の刻まれた顔で、少年のように目を輝かせてそう言った。きっと彼は、その質問をしたのが先ほどのような少年だったとしても、ほとんど同じ答え方をしただろう。


青年は、古生物学者の言葉を納得できていない様子のまま、じっとその瞳を逸らさない。

少しの沈黙の後、その青年は、追い縋るように問いかける。


「とうの昔に絶滅した生き物の物語を追うことに、どんな意味があるのでしょうか」


彼のその、捉え方によっては挑戦的で不遜な問いかけには、古生物学者も思わず苦笑を浮かべざるを得なかった。

「少し意地悪な質問だね」

まず率直な感想を述べた学者は、そう言ってなお、彼の問いかけに真摯に応じることを投げ出すつもりはないようだった。自分と同じ琥珀色の瞳をした青年が放つ鋭い視線を、古生物学者は尚も優しい瞳で迎えている。


古生物学は、決して直接的に人の役に立つ代物ではない。そしてそれこそが、その道を志す者たちの前に立ちはだかる高い壁となることを、彼は良く知っていた。

厳しい世間からの目に晒されて、純粋に探求することを愛する心を忘れてしまう瞬間を、この世界に携わる人は誰しも経験する。

そして、かつて自らがそういう壁に突き当たり、情熱を見失いかけたその時、それをもう一度思い出させてくれたのは偉大な先達たちの言葉だった。その時のように、今度は自分が誰かを導くことができたらと、古生物学者はずっと、そう思っていた。


「例えば、ある研究者は、絶滅した生物の足跡を通して生命の歴史を見つめることで、来たる第六の絶滅の危機から人類を遠ざけるヒントを得ることができるのではないか、と言っている」

「では、教授もそのように考えているのですか?」

青年の言葉に、古生物学者は大袈裟に首を振った。

「いや、僕はそんなに高尚なことは考えていないよ、残念ながらね」

皺の寄った顔で、古生物学者は悪童のように悪戯めいた笑みを浮かべる。


「ただ僕が夢に見るのは、ティラノサウルスが疾駆する大地や、プレシオサウルスが遊泳する海、プテラノドンが飛び交う空と、あとは——」

古生物学者は指を折りながら言葉を連ねる。その全てが、もはや折り重なる地層の奥底に丁重に覆い隠され、大地の記憶からも忘れ去られようとしていた地球史の一幕だ。


「僕は、彼らが確かにそこにいたことを証明したい。過ぎ去った命の輝きでこの世界を満たして、かつてあった風景を蘇らせたい。そのために、知らなければいけないことが沢山ある」

和やかに笑いながらそう言った学者の目に灯る光は、温かな日差しのような慈愛に満ちた色から、やがて身を焦がすような激しい炎のそれに変わっていった。

その瞳をただ覗き込んだだけの者にすら、髄まで焦がすような熱を感じさせるほどに、煌々と。

「知りたいから研究する。研究したら、しただけ知りたいことが増えていく。同じことの繰り返しだ。けれど、楽しいよ」


悠然とした穏やかな草食恐竜のようだった学者が、今は獲物を狙う強大な肉食恐竜のように見えた。そして、青年の目には、それは古生物学という名の深い森の中を、我がもののように濶歩する巨大な影のように映った。

そして、その深遠な彼の姿は、青年の心の奥底に、不思議と強い渇仰を生み出した。


「……”意味はない”ということですね」

青年の鋭い指摘に、古生物学者は決まりが悪そうに笑った。

「僕のやっていることは、全くの無駄かもしれないし、いつか誰かの研究を著しく進める鍵になるかもしれない。けれど、僕たち自身は、自分の研究がどんな扉を開くかまでは、分からない」


何十億年にも及ぶ大地の鳴動の、その膨大な積み重ね。その中から、決して多くは残されていない命の輝きの残滓を集めて、かつての世界に想いを馳せる。

それは確かに、たった今万人が必要としている世界の発展とは、一切無縁かもしれない。

理解されることも、望まれることもなく、いずれ研究史の狭間に埋もれ、風化して消えていく運命なのかもしれない。


「けれども、基礎研究というのは、もとよりそういうものだからね」

それでも、そう言い切った古生物学者の目に、迷いは微塵もなかった。

そこに青年が求めているであろう答えはないが、それがそのありようなのだから、と。


「君にも、きっとその魅力がわかる時が来るよ」

古生物学者は老荘な笑みを浮かべて語りかける。

「僕には、今は、まだ」

青年は、若く苦々しい表情を浮かべながら、ぽつりとそう言った。


「君が、今の熱意をずっと覚えてさえいれば、いつかきっと——」

古生物学者が返すその言葉が終わるよりも前に、その青年の姿は、居並んで二人の問答を聞いていた聴衆たちの中へと、溶けるように消えていった。


生きとし生けるものは、命あるからこそ、いつかは歴史の積み重なりの中に仕舞われて、そして忘れ去られていく。しかし、そんな厳然たる連鎖が目の前に横たわっているからこそ、生命の一つ一つは眩いほど尊く輝いている。


オビラプトルの話に目を輝かせていた少年は、いつかその情熱を失って普通の大人になるかもしれない。

研究の意義を問いただした青年も、名を成すことのないまま研究界を去っていくのかもしれない。


それでも、古生物学者は願う。

古生物学という儚くも美しい学問が、自らの言葉によって揺り動かされた人々の手によって未来永劫連綿と継承され続けることを。

そしていつか、千年、万年の時を超えて、探究の鋒に立つ学者たちが、あるいは、探求を始める新たな生命体たちが、今この時、ここに自分たちがいたことを証明してくれる、その時が来ることを。


本短編は2021年5月に開催される文学フリマ東京で頒布する予定の合同誌「夜半のユニゾン」に収録する作品のひとつです。

本誌には、この作品を含めた色とりどりな10つの短編小説が収録されています。是非お手に取っていただければ幸いです。

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