もう一度、ここから 1
「おはよう。セイディ。今日はいい天気だ」
今日もアークライト伯爵邸を訪れた俺は、ベッドの上で横たわるセイディに声をかけた。
──あの日、彼女が魔道具を使ってから二年が経つ。
元の身体に戻ったセイディは未だに目覚めず、ずっと眠り続けている。
胸部の傷は深く、なんとか命は取り留めたものの、いつ目を覚ますか分からないらしい。
今すぐかもしれないし、数年後かもしれない。もしくは一生、このまま目覚めない可能性もあるという。
あの日セイディを救えなかった自分が──ただ彼女が目を覚ますことを祈ることしかできない今の己の無力さが、どうしようもなく憎かった。
だが彼女のお蔭で魔道具はあの瞬間に完全に壊れ、全員が元の身体に戻ることができている。
「お前が好きだった花を買ってきたんだ」
いつしかベッドの側の花瓶の花を替えることにも、慣れてしまっていた。騎士団長としての職務や次期侯爵としての仕事の合間を縫って、できる限り毎日こうしてセイディの元を訪れている。
そうしていつものようにセイディの手を握り、椅子に座って声をかけていると、室内にノック音が響く。
やがて中へ入ってきたのは、エリザだった。
「こんにちは、ルーファス様」
「ああ」
エリザは黄金色の髪を耳にかけ、ふわりと微笑むと、俺の隣にあった椅子に腰を下ろした。
彼女もよくセイディの見舞いに訪れており、こうして顔を合わせることも珍しくない。
「本当はノーマンも一緒に来る予定だったんですが、仕事が長引いているみたいで」
「そうか」
あの日以来、セイディ以外の全員が本来の身体と生活に戻り、平和に暮らしている。
とは言え、メイベルとフィンドレイによって騙されていた男爵夫妻が全ての事実を知り、受け入れ立ち直るまでには時間がかかったそうだ。
仕方のなかったことではあったものの、我が子が二度も別人になっていることに気付かず、罪のないセイディを鎖で繋いで監禁していたのだ。
人の良い男爵夫妻が自身を責めるのも、当然だった。
それでもエリザとこれまで失った時間を少しずつ埋めながら、穏やかに過ごしているという。
『メイベルは元々、我が家の清掃担当のメイドだったそうです。当時の私は幼く、身の回りの使用人の顔しか覚えていなかったので、気付くことができませんでした』
メイドとして働きながらエリザを傍で見ていたからこそ、完璧にエリザ・ヘインズとして擬態することができていたのだろう。
その後、メイベルはメイド達の中でいじめに遭い、不憫に思った男爵夫人が紹介したのが大司教の屋敷での仕事だったらしい。
結局そこで盗みを働き、強制労働施設へ送還されたという。そしてタバサ達と知り合い、大司教の屋敷へ忍び込む計画を立て、全てが始まったのだ。
『……母はメイベルを元々よく気にかけていたそうで、メイベルも母に懐いていたようです。まさかこんな形で恩を仇で返されるなんて、と泣いていました』
そう話したエリザは、悲しげな表情を浮かべていた。
──メイベルは現在、国内で最も厳しい環境だというナポロフ監獄に収監されている。
死刑は確定しているが、これまで類を見ない事件のため慎重に進めているという。死ぬよりも辛い環境と言われている監獄での生活に苦しみ、いっそ殺してほしいと懇願しているそうだ。
エリザ・ヘインズとして愛されて過ごした華々しい十年とは、天と地どころの差ではないだろう。
ノーマンと入れ替わっていた男は、元に戻った後すぐに毒が原因で命を落とした。ニールと入れ替わっていた男も既に、口封じでメイベルによって殺されたらしい。
地下牢で拘束されていたタバサも重い刑罰は確定しているが、メイベルとは違い殺人を犯してはいないため、我が国の法律では死罪は免れる可能性が高いそうだ。
「ニールもそろそろ帰ってくるんだろう」
「はい。来週、隣国から戻ってくるそうなので、セイディに早く会いたいと話していました」
辺境伯家の長男であるニール・バッセルも完全に元の暮らしに戻っており、家を継ぐための勉強として隣国へ留学していた。
彼の場合は入れ替わった人間が大人しい人間だったこともあり、最後に会った時は「僕だけあまり苦労していないんだ」と苦笑いしていた記憶がある。
セイディが自身を犠牲にしてすんでのところで元の身体に戻ることができたノーマンも、今では弟達と共に幸せに暮らしている。
──あれから大司教が神殿の代表として全ての教皇の罪を告白したことで、人間の身体を入れ替える魔道具の存在、そしてこれまで巻き込まれた人々のことが表沙汰となった。
死にたくないと懇願してきた大司教もあの暮らしを続けるのは死よりも辛いと考えたのか、己や教皇の罪を認め、事件のことを明らかにしたいと志願したのだ。
数多の死者を出し、大勢の人間の人生を狂わせ──敬われていた教皇という存在がただの殺人鬼だった、と発覚したこの大事件は国中だけでなく他国にまで広がって騒然となり、国王陛下も収束に尽力するまでとなった。
その結果、タバサの行いによって稀代の悪女として疎まれていたセイディも、不幸な事件に巻き込まれた女性として現在、誰からも同情される立場となっている。
俺の父も彼女やその両親の境遇に同情し、アークライト伯爵家の名誉回復に努めていた。
「みんな元通りになったのに、セイディだけが目覚めないなんて……」
目を伏せ、エリザはセイディの頭をそっと撫でる。
「でも、セイディならきっと、ある日突然、おはようって起きてきてくれると思うの」
「……ああ」
エリザは困ったように微笑むと、また来るといい伯爵邸を後にした。
俺は少しでもセイディの側にいたくて、仕事のギリギリまでここで過ごすことにした。
真っ白な彼女の手を取り、そっと指を絡める。
握り返されることはないものの、この温かな体温に何度救われたか分からない。
「どうか、目覚めてくれ……頼む……」
いつまでも目覚めないセイディの手に、縋り付く。
ただこうして祈ることしかできない己の無力さが歯痒くて、心底嫌気が差した。
「……守れなくて、本当にすまない」
何より俺はまだ、彼女に好きだとちゃんと伝えることすらできていないのだから。




