ノーマン・ボーウェン
「……ほ、本当に、ノーマンなの?」
思っていたよりもずっと、声が震えた。そんな私に、目の前の彼は「ああ、そうだよ」とはっきり言ってのけた。
本当に、本物のノーマンなのだろうか。彼の嬉しさを隠せないようなその様子に、思わず期待してしまう。
「ずっと君やエリザと一緒にいた、ノーマンだ」
「…………」
「セイディが元気そうで、本当に良かったよ」
私は逸る気持ちをぐっと抑えると、口を開いた。
「どうして、私がセイディってわかったの?」
「歩いている君を見て、あれが稀代の悪女のセイディ・アークライトだと、話をしている人達がすぐ近くにいてね。この身体に戻ってから色々と調べていて、近いうちに君に会いたいと思っていたから、つい嬉しくて声を掛けたんだ」
ニールも、彼と同じことを言っていた。同世代の貴族令嬢にセイディという名の人間は、私しかいないのだという。
「今、話せる時間はある? あの味も具も無いスープや硬いパンより、美味しいものをご馳走するよ」
それに彼の話しぶりからして、きっと本物に違いない。私が頷くと、ノーマンはやはり嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。あそこのカフェが良さそうだな。入ろうか」
そう言って彼が指さしたのは、大通りに面したお洒落なカフェだった。そしてハーラやティムにノーマンのことを簡単に説明し、店内へと入ろうとした、瞬間。
突然、ティムに思い切り腕を引かれたかと思うと、私は彼の後ろに隠されるような形になっていて。そんな彼の手にはいつの間にか、剣が握られていた。
「きゃああああ!」
「っ早く逃げろ! 喰われるぞ!」
「何故、氷狼がこんな所に……!」
そしてあちこちから、悲鳴や叫び声が上がる。
何事かと慌てて辺りを見回せば、何匹もの狼のような魔獣の姿があり、私は言葉を失った。どうして、魔獣がこんな所にいるのだろう。街中には出ないと、ラモーナ先生に教えてもらったばかりだというのに。街の人々の様子からしても、これは異常事態のようだった。
ティムは「お嬢様、下がっていてください!」と言うと、こちらへと走ってくる二匹へと向かっていく。
突然のことに戸惑ってしまい、足が動かない。生まれて初めて見た魔獣の姿は、あまりにも恐ろしいものだった。
「セイディ、危ない!」
そんな中、氷狼と呼ばれた魔獣が吐いた氷の塊がこちらへと向かってきて、すぐにノーマンが私を抱きしめるように庇ってくれた。私を庇ったことにより氷の塊が掠ったらしく、彼の腕からは血が流れ出ていて、泣きたくなる。
一瞬でも彼を疑ってしまったことが、申し訳なくなった。
「っノーマン、ごめんね、すぐ手当てを、」
「俺は大丈夫だから、そんな顔をしないで」
腕が痛むのか少し眉間にシワを寄せながらも、ノーマンは笑みを浮かべた。そんな表情に、胸が痛む。
「とにかく今は、ここから逃げよう」
「でも、皆が……」
「君が逃げることを、皆望んでいるに決まっている」
ティムは変わらず、数匹の魔獣と戦っている。他の氷狼の相手をしている護衛達の後ろにはハーラの姿もあり、今のところ無事なようで少しだけほっとした。
「セイディ、急いで」
やがて強い力で腕を引かれ、つられて走り出す。どうか皆無事でと祈りながら、私はその場を離れたのだった。
◇◇◇
「セイディ、大丈夫か?」
「う、うん……」
訳もわからず走り続け、やがてたどり着いたのは路地裏のような場所だった。人気はなく、ひどく暗い。
ここまで来ればもう安心だろうと、彼は微笑んだ。
「皆、大丈夫かな……」
こうして自分だけ逃げて来てしまったけれど、とにかく他のみんなが心配で。とりあえず近くで馬車を拾い、先程の道を避けて屋敷へと戻ろうと思っていた時だった。
「ごめんな、セイディ」
突然、ノーマンがそう呟いた。一体、彼は何に対して謝っているのだろうと思いながら、顔を上げる。
すると彼の背後から、数人の男性が現れたのだ。そしてようやく、何かがおかしいと気がついてしまった。
「お前らがいると、俺たちが困るんだ」
「ノーマン……?」
「ははっ、お前の言うノーマンならまだあの場所にいるよ。この身体はノーマン・ボーウェンの物だけどな」
その言葉に、頭を思い切り殴られたような衝撃が走った。男の言葉の意味を理解すると同時に、血の気が引いていく。
「いつもぞろぞろと護衛を連れてるしさあ、こうして連れ出すのに苦労したよ」
──この男は、私達の身体を奪った犯人の一人なのだ。私達の人生を奪った、絶対に許せない相手が目の前にいる。
そしてノーマンはまだあの場所にいて、この男の身体の中にいるのだろう。全員が、元の身体に戻れた訳では無かったのだ。エリザだって、まだあの場所にいるのかもしれない。
そう思うと泣き出したくなるのと同時に、言葉にならないほどの怒りが込み上げてきて、私は思わず右手を振り上げたけれど。すぐに手首をきつく掴まれてしまった。
「っ絶対に、許さないから……!」
「だろうな。でも俺達だって、ようやく手に入れたこの生活を手放したくないんだ」
「私をまた、あの場所に戻すの……?」
「いや、お前にもタバサにも死んでもらうよ」
タバサとは一体、誰の事なのだろう。そして何の躊躇いも無く「死んでもらう」と言う目の前の男が、恐ろしくなる。
「実はお前、俺の好みなんだよ。あいつさえ煩くなければ、殺さずに俺が飼ってやっても良かったんだけどな」
そして男は私の手首をぐいと引き、顔を近づけた。ノーマンの身体で声で、そんなことを言わないで欲しい。
「……まあ、今すぐ殺す予定だったけど、少しくらい遊んでも許されるよな?」
そんな言葉に、背筋がぞくりとした。こんな人間に殺されるのも、何かをされるのも耐えられるはずがない。
まだコントロール出来ない水魔法を使ってでも、なんとか逃げられないかと必死に頭を回転させていた時だった。
突然、視界の端にいた男達の身体がぐらりと倒れたのだ。
どさりという鈍い音がして、すぐにノーマンの身体を奪った男も首だけで振り返った。彼からしても予想外の事態だったのか、その瞳は驚いたように大きく見開かれていく。
「おい、お前らどうしたんだよ! 何があった?」
そんな中、ゆっくりと暗闇の中から誰かの足音が近付いてくる。男は慌てたように、私の首に腕を回した。私を人質にでもしようと思ったのかもしれない。
静まり返り空気が張り詰める中、不意に「ねえ」と聞き覚えのある声が響いた。まさかとは思いながらも、やがて現れた人物の顔を見た瞬間、私は言葉を失った。
──どうして彼が、ここにいるのだろう。
「お前、セイディに何してんの?」
無表情のジェラルドは、そう言って首を傾げた。