いきなりの婚約破棄
「セイディ・アークライト。お前との婚約を破棄する」
気が付けば私は、ひんやりとした床に手をつき、目の前のひどく美しい男を茫然と見上げていた。
ついさっきまで、服と言えるのかすら怪しいボロ布を身に纏い、雨風もまともにしのげない小屋で裁縫をしていたはずなのに。何故か今私は、ひどく肌触りの良い美しいドレスを着て、煌びやかなパーティー会場のような場所にいる。
農作業や水仕事で日に焼け、ボロボロだった手のひらは白く美しく、形の良い爪には美しい色が乗っていた。
「…………?」
片方の手のひらを結んだり、開いてみたり。思った通りに動くこの手はどうやら、本当に私の身体らしい。
そして見知らぬ彼が私を「セイディ」と呼んだことが、自分の身体に戻ってきた何よりの証拠だった。
「ほ、本当に、元の身体に戻ったの……?」
思わずそう呟けば、そんな私を目の前の彼は鼻で笑った。
「はっ、いよいよ気が狂ったか。それとも狂ったフリをして、今更誤魔化そうとでもしているのか?」
「えっ? 私本当に、ずっと身体を乗っ取られていて、」
「つくならもう少しマシな嘘をつくんだな」
さっぱり信じて貰えない。とはいえ、これが当たり前の反応なのかもしれない。私達が経験してきたあの出来事を、信じてくれる人が一体どれだけいるだろうか。
そんなことを考えながら辺りを見回せば、周りにいた貴族らしきすべての人間は皆、蔑むような目で私を見ていた。
10年振りに自分の身体に戻れたものの、今自分が非常に良くない状況に置かれている、ということだけは理解した。私の人生、不運続きにも程がある。
「おい、聞いているのか」
改めて、目の前の彼を見上げる。まっすぐに見つめれば、何故か彼は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべて。けれどすぐに、氷のように冷たい視線を私に向けた。
そういえば彼は先程、私に対して婚約破棄という言葉を口にしていた気がする。それと同時に、伯爵家の令嬢だった私には、婚約者なるものが居たことをふと思い出していた。
黒曜石のような深い黒色の髪と、瞳。当時の彼とも、特徴が一致する。
「……もしかして、ルーファス?」
「な、」
「やっぱりルーファスなのね、こんなに素敵になって、」
「ふざけるな!!」
その途端、彼は思わずびくりと身体が震えてしまう程の大声を出した。場の雰囲気が、一気に凍り付く。
「っ本当に、お前は最低な女だな。今更、昔のような態度を取ってすり寄ってくるとは」
「えっ」
「どれだけ俺を苦しめれば気が済むんだ……!」
どうやら、火に油を注いでしまったらしい。先程の数倍、ルーファスらしき男性は怒っていた。
それと同時に、私は近くにいた令嬢によって、頭から液体をばしゃり、とかけられていた。どうやら、果実のジュースか何からしい。クスクスと嫌な笑い声が耳に届く。
口の中にも入ってきてしまったそれは、ひどく甘くて。
「……おいしい」
思わずそんな言葉が口から漏れた私を、周りは信じられない物を見るような目で見ていた。水以外の飲み物を口にしたのも10年振りだったのだ。引かないでほしい。
「とにかく、俺とお前は金輪際他人だ。二度と俺に顔を見せるな。今後は一切容赦はしない」
「…………はい」
記憶の中の彼は誰よりも優しくて、私を大切にしていてくれた気がする。一体、私の身体を奪っていた人間は、この身体で今まで、何をしていたのだろう。
色々と想像してみては、恐ろしくなっていた時だった。
べちゃりと頭や身体に、何かが降って来た。皿に乗っていた食べ物だと気づいた頃には、全身ベッタベタのドッロドロだった。なんて勿体無いことをするのだろうか。
そんな物ですら美味しそうと思えてしまうのだから、私はもう末期かもしれない。この10年間、毎日固いパンと具のほぼないスープだけの生活だったのだ。
とにかくこの状況は間違いなく良くない。何とかしなければ、と思っていた時だった。
「セイディ!」
突然、びっくりするほど綺麗な顔をした男性が現れ、私の手を取ったのだ。周りにいた女性達から、悲鳴が上がる。
とりあえず立ち上がりながらも、この人は一体誰だろうと思っていると、彼はこそっと私に耳打ちをした。
「……君は『雑草早抜きのセイディ』だろう?」
「ど、どうしてそれを……」
「僕だよ、僕は『腰痛持ちのジェラルド』だ」
「ええっ」
ジェラルドと言えば彼もまた、私と同じように身体を乗っ取られ、あの場所で奴隷のような扱いをされていた仲間だ。
毎日一緒に農作業をしていた、小太りで毛むくじゃらの中年男性が本当は、こんな姿だったなんて。
「僕もさっき、数年振りに自分の身体に戻ってきたらしい。そうしたらいきなり、セイディと呼ばれている君がこんな目にあっているんだから驚いたよ。身体を乗っ取られていて、と言っていたのを聞いて君だと確信したんだ。大丈夫?」
「ジ、ジェラルド……!」
正直、怖かった。何もかもわからないまま、こんな目に遭っているのだ。けれど長年の友人である彼が現れたことで、思わずほっとして、笑みが溢れた。
それと同時に刺さるような視線を感じ顔を上げれば、ルーファスの表情は、ひどく恐ろしいものに変わっていた。
「その男とも関係を持っていたのか? 尻軽女め……!」
「し、しりがる……」
訳もわからず罵られ、ジュースや食べ物を頭からかけられて。もう散々過ぎて訳がわからない。
「とにかく、この場から離れた方がいい」
「う、うん。わかった」
とにかく、今は状況を整理したい。分からないことが多すぎる。ジェラルドの手を取った後、わたしはふと再びルーファスへと視線を向けた。すると何故か彼の瞳は、ひどく悲しげに揺れていた。
悪いけれど、泣きたいのはこっちも同じだ。
そんなことを思いながら、私はジェラルドと共に、逃げるように煌びやかなパーティー会場を後にしたのだった。