1.5.学園生活(5)
相波結樹は、自分以外のことにはあまり興味を持たず、なおかつ、のんびりしていられる分には自分のことにもあまり関心がない。しかし、梅雨も過ぎたころ、妙な脱力感と頭痛に襲われることが多くなっていた。
当初はとるに足りない体調の変化であり、これは何らかのシグナルではなく、ノイズに違いないと考えていたのだが、その体調変化が睡眠を妨げるようになってきて、これはノイズではなく、何らかの良くないことの兆候あるいは良くないことそのものなのだ、ととらえざるを得なくなった。
最初は波のない大会の水面に一滴異物がしたたり落ちる程度でしかなかった波紋が、次第に大きくなり、常態化し、寄せては返す波かそれ以上のようになって穏やかさをかき乱した。
満足に、気持ちよく、最大限に眠りに落ちることがないということは結樹にとって生まれて初めてのことだった。10時間も寝ていないのに、睡魔が襲ってこないのだ。とにかく、昼間に眠くならない。
教室に異様な空気が漂っていたのは結樹が起きて授業を聴き、ノートをとっていたからだ。結樹自身も自分が何をしているのかということに猜疑心と不安がいっぱいでたまらない。授業中に眠りに落ちないで授業を聴いてノートをとって気を紛らわせてはいけないほどに、自分は何かに追い詰められているのである。
隣の田中祥子が、最近何かあったのか、と尋ねると、ややいら立ちを含んだ声で「あまり眠れないんだよ」と答える。
「最近、10時間も寝ていないんだ。すごく気持ちが悪い」
結樹が真っ正直な気持ちを告白すると、田中祥子は困惑を隠しきれない表情をしていた。当然のことながら、不眠症に悩む人間のハードルはたいていは10時間という数字にならない。結樹は普段は当然それをわきまえているはずだったが、余裕のなさのあまり、何が普通で何が普通でないかということや自分の苦境と他人の苦境がどのくらい違っていてその違いが一般的にどの程度意味があるのかということに気づけなくなっていた。
「晩は眠れてるの?」
「11時に寝て7時起きしているよ。学校で眠れないことがおかしいんだ」
「そう、なんだ。ロングスリーパーとショートスリーパーっていうやつのロングスリーパーみたいなものなのかな」
「目が冴えて仕方がないんだ」
「私、6時間寝れば頭がはっきりする方だから、ちょっと相波のことはわからないかも」
「生き物としての仕組みがちょっと違うんだろうな」
「同じ人間だよ?」
「野良猫と田中さんとの距離と、俺と田中さんとの距離がどれくらい離れているかなんて全然わからないだろ。いや、うん、ごめん、少しイライラしてしまった」
「気にしないで。誰だって気分悪いことあるよ」
心配をかけたにもかかわらず、少し語気を強めてしまったことを結樹は後悔した。普段は何をしようとも自己嫌悪に陥るなんていうことは何もないのだから、やはり普段通りに事が進んでいないのだ。普段通りであれば、言動が行き過ぎるということはないし、言動に対して公開することもない。そもそも、眠りについていてコミュニケーションを遮断しているため、田中祥子に話しかけられるという事象自体がほとんど起きない。
父親や母親に家でしか眠れない、学校で眠れない、という悩みを伝えても、十分に夜眠れているんだったら問題がない、という回答しか返ってこなかった。むしろ、学校で寝ることを前提にしているほうがおかしい、学校の先生やクラスメートのことを何だと思っているのだ、と母は説教を始めるくらいだった。いや、別に自分の関心の外にいる連中なんてNPCみたいなものだろう、と言うと、母親は怒りをあらわにした。
そういうわけで、クラスメートに悩みを打ち明けるわけでもなく、家庭で話すわけでもなく、校庭のベンチで横になって空を見上げながら、どうすりゃいいんだ、とつぶやいた。
「教師としては、どうすりゃいいんだ、なんて聞かされたら聞き逃すわけにもいかないな」
と結樹の独り言に答えたのは寒川だった。
痩身かつ長身で少し猫背という寒川が結樹の方を、表情の読み取りにくい顔で見ている。いや、と結樹は恥ずかしそうに黙りそうになるが、寒川がは「まあ話してみろ」と言う。
結樹は寒川に、自分が十分に睡眠がとれなくなったという旨を話した。結樹は教師のことを信頼できる相手とも思っていないし、信頼できない相手とも思っていない。会話をすれば、何らかの応答を返す装置みたいなものだと認識している。
寒川個人に対してはどうだろう? あまり印象のない、数学の講師だったか、授業はいつも聞いていないが、おそらくこの人は自分の担当ではなかったはずだ。だから話しかけてきたのかもしれない。自分の受け持っている生徒に結樹がいたとすると、あまり好ましい生徒だとは思うまい。そもそも授業を聴かないし、まじめに取り組まない。
寒川は悩みを馬鹿にするわけでもなく、まじめに聞き入れる感じでもなく、
「平均的な人の悩みとは思えないが、君は普段の自分ができていることをうまくできていないのだな」
と言う。
結樹の今の事態を言い表すのに、うまい表現だと思った。他のたくさんの人たちが悩んでいないことだったとしても、結樹にとってはそうではない。結樹が心地よい状況が客観的に見てどうであるかとは別として、うまくいかなくなった、ということが問題と言われればその通りだ。平均的な人が7時間寝れば十分に疲れが取れる、満足できるというのとは結樹の状況は全く異なる。
寒川は、結樹の感じている違和感やどうしようもなさを理解できない、ということは伝えた。しかし、結樹が違和感やどうしようもなさを感じていることを理解してはいる。他人の痛みがどのようであるかは理解できないが、他人が痛みを覚えていることは理解できる。
「自分の体調が良くないと思うなら、検査に行ってみてはどうだろうか。調子が悪いと思うなら、気のすむまで検査でもなんでも受けてくるといい。自分の納得のいくまでやってみればいいだろう。学校なんて休めばいいし」
「そうですね」
結樹は一通り病院を回ってみることにした。
だが、病院でいろいろな検査をしてみることは(それどころか、どちらかというと説教に近い対応をされてしまったのだが)あまり問題解決にはつながらなかった。まず、睡眠不足という症状ははっきり否定される。当然のことだ。世間一般からすれば十分に眠ることができているということから、睡眠が絶対的に足りていないということはあり得ず、睡眠から満足感が得られていないということは睡眠が満足に取れていないということではない。色々と話をした結果、睡眠外来ではなく、精神科に案内されて抗不安薬を処方された。抗不安薬を口にすると、全身から力が抜けるような気持ちがあったり、妙な高揚感を覚えることはあったが、結果として眠ることはできなかった。
寒川にその旨を伝えると、
「それでいい。これで考えなければいけないことが減った。10のことを考えるよりも8のことしか考えなくてよくなる方がいい。8のことを考えるよりも5のことしか考えなくてよくなる方がいい。そうして刈り込んでいった先の1か2から選べば、負担は軽くなる」
と寒川は結樹がこのような筋道をたどることをあらかじめ予想できていたかのように応じる。
「体の不調が見つからなかったのなら、少なくともはっきりとした形でわかる不調はないものと思えばいい。薬を飲んでも以前のように眠れなくなったのだとしたら、その薬が適切でないという判断もできる」
「そういうものですか」
結樹のことばに寒川はうなずいた。
「手っ取り早く消せるものを消して残ったものだけ検討するのが理にかなっている。俺は4択問題と人生のあいだにはそう大きな隔たりがあるとは思っていない。4択問題で等しく4つを吟味するやつは、テストでいい点を取ることができない。どうでもいい選択肢の分、思考力や記憶力を無駄遣いしているからだ。人生の場合、答えに至るまでの道が少し複雑に見えるだけだ。複雑に見えるのなら、複雑さを取り除けばいいだけだろう。俺はだいたいそうしている。こういうことを言うと、あまり君のような年頃の生徒には理解されないが、君はどちらかというとそういう考えを好むタイプに見えるが」
「まあ、そうですね。俺もどうでもいいことを気にするのは嫌いです。正直、病院に行って、すっきりしたというのはありますね」
しかし、解決したわけではない。




