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あいのよー120214

 火鉢に温められた部屋は心地いいが、なんとも眠くなってしまう。眠気を覚ますためにアマーリエは窓を開けた。すうっと冷たい空気が逆巻く窓辺に椅子を移動させ、火照った頬に冬の風を当てる。しかしその冷気は、寝ぼけ眼には刺激が強すぎたらしい、浮かんできた生理的な涙をそっと拭う。

 夜の闇は静かで、星は慕わしい。雲のない青い夜空が広がっている。

 あの人のようだ、と、なんとなしに思った。

(会いたいな……)

 出張で王宮を空けていたキヨツグが戻ってきたのが今日。だから一日、不在中に溜まっていた仕事を処理しているはずだ。邪魔をしてはいけない、と思うのに、脳裏には『二月十四日』の日付が回る。特にこだわるつもりはないのに、特別なものだと意識してしまっている自分が、少し恥ずかしい。

 二月十四日、バレンタインデー。チョコレートやお菓子を贈るそれは、都市にいた頃は友人間でのイベントだった。好きな異性に渡したことは一度もないし、渡したいと思う人もいなかった。すべての恋愛ごとが、アマーリエにとっては別の世界の出来事だった。まるで画面越しに見る、選ばれた人たちの物語。

 しかし今回は、焼き菓子を作り、カードを書いている。彼への好意がある。妻としての礼儀のつもりもある。やってみたかったという好奇心も正直あるし、自分たちがどこにでもありふれた夫婦なのだと思いたかったのも大きい。

 時計を見る。もうすぐ、日付が変わってしまう。

 会いに行けばいいのはわかっている。いつだってそうすることができる。駆けて行けば、きっと彼は抱きとめてくれるだろう。

 でも、会いに来てほしい。

 私だけではないと思わせてほしい。これほど深く愛しているのは彼もそうなのだと、示してほしい。同じだけの愛は持てないとわかっていても、望む。あるいはそれよりも強く強く愛してくれること。あなたしかいない。抱き締めてほしいと願うのは、あなたしか、いなかった。

(……私、わがままになった)

 心の奥の囁きが生んだ涙が、視界を覆う。

 夜は、だめだった。眠る前の一人きりの部屋で、寒い季節、夜深くになると、突然寂しくなる。悲しくて、震える。情けなくて、痛くて、苦しい。過去を思い出し、いまが幸せだと思うのに何度も後ろを振り返って、このときが失われる瞬間を恐れている。

 は、と吐いた息が白く掠れた。目元を拭う。

 わかっている。こんな気持ちになるのなら会いに行けばいい、なんて。

 そのとき、控えめなノックの音が響き、アマーリエは息を飲んだ。彼は自分の寝室であってもちゃんと叩いて来訪を知らせてくれる。

 だがこの音ではない。ここまで来られる者は限られているから、慎重に答えた。

「……どなたですか?」

「夜分遅くに申し訳ございませぬ。ユメでございます。天様のご命令を受けて参上致しました。いまお時間はよろしゅうございますか?」

「御前? ちょっと待って」

 意外な人物の声に、慌てて羽織ものに袖を通して、扉を開ける。

 ユメはもう一度夜の来訪の比例を詫び、手紙を差し出した。

 見慣れた筆跡で短い言葉が記されている。流麗な文字は、今夜中に部屋に戻ることはできないが少し時間が空いたのでこちらに来ないか、という誘いだった。

「これって……」

「時間が遅うございますゆえ、お休みになられるのでしたら無理強いはせぬと天様の仰せでございました。如何いたしますか? 行かれるのなら、ユメがご案内いたしまする」

 アマーリエの返事は決まっている。

 灯りを手にしたユメに案内されて向かった先は、キヨツグの私的な場所である紺桔梗殿の、執務室ではない、個人的な部屋だった。ユメが訪れを告げると、返事があった。扉を開けるとすぐにその人が目に飛び込んできて、アマーリエの胸は高鳴った。

 キヨツグがそこにいる。それだけで胸がいっぱいで、泣きそうだ。

 失礼いたします、と告げてユメが去ると、部屋に二人きりになる。

 手招いたキヨツグが座る隣に腰を下ろすと、密やかに彼が口を開いた。

「……すまぬ。予期せぬことが立て続けにあって、しばらく片付きそうになくてな」

「いえ……」と言って、首を振るしかできない。本当に会いたかったのだという実感で、胸が詰まって何も言えないのだ。こっそり懐に忍ばせたものを、服の上から撫でる。

「……今日は愛を告げる日なのだろう?」

 包み込むような言葉に、アマーリエは一瞬言葉を失い、恐る恐る頷いた。意を決して、隠していたカードと焼き菓子の箱を手渡し、呟く。

「すみません……」

 首を傾げて、理由を伺うキヨツグの手が、アマーリエの髪を撫でていく。子ども扱いされているような気持ちになるも、それが許され、受け止めてくれる人なのだと思うと、さらに気持ちが溢れてしまう。

「……何故、謝る」

「会いたいとか、側にいたいとか……そういうことを言うのが迷惑になるんじゃないかと思ってしまって。なのにすごく悲しくて。いままでなら、こんなの全然平気だったのに。こんな気持ちになるくらいなら、勇気を出して会いに行けばよかったです」

 あなたのせいだ、と言外に責めると、キヨツグは静かな微笑みをこぼした。

「……私とて同じだ」

 頬に添えられた手が顔を上げさせる。

「……いつだって会いたい。抱き締めていたい、触れていたいと思っている。だが、お前がそれを望んでいるかを考えると、躊躇してしまう」

 目を見開くアマーリエを、慈しむように包んで、彼は言う。

「……たとえば、何を望む? お前の喜びのために、私はどうすればいい?」

 笑う瞳には熱が宿り、アマーリエの冷えた背に触れる手は温かい。

 望むこと。望むことはたくさんある。数えきれないほどある。それを全部口にしていいいのかどうか、アマーリエにはまだわからない。

 けれどそう告げられることは、アマーリエに泣いてしまいそうなほどの安堵をもたらした。

(会いに来て……)

 小さな願いが、叫ぶように輝きを増す。

(会いに来てもいいって言って)

 あなたは私のものだと教えて。

 私はあなたのものだと教えてほしい。

 すべて、何から何まであなたのものだから。だから私がもう無理だって言ってしまうくらい、愛してください。

 溢れるものを言葉にできず、泣き濡れた目で涙を堪えることしかできないでいるアマーリエに、キヨツグが緩やかに顔を近付け、震える唇を啄んだ。息を継ぐ間に溢れてしまいそうになる嗚咽を飲み込んで、アマーリエは願う。

(――私に、キヨツグ様をください)


 恋しくて泣きたくて。

 愛しくて、愛おしすぎて。


「……私はお前のものだ」

 底知れぬほど深い声色で告げた彼に、アマーリエは自らそっと唇を寄せた。

 チョコレートでも焼き菓子でもなく、この人が欲しい。だから、多くの人は甘い菓子を差し出して、思いに代えるのかもしれない、と、アマーリエは初めて、恋する人々の思いを実感した。

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