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201122−141122

 太陽の光を受けた小さな雨の雫が、草原を金色に輝かせる。

 天気雨――リリスでは小さな神の御渡りと考えられている気象を見上げていたアマーリエは、周囲が供え物だなんだと動き出すのを見て、つい、笑みを零してしまった。

(帰ってきた、って感じがするなあ)

 シャドでも、家のどこかで香を焚き、小さな花をまるで花嫁に降らせるように投げているのだろう。ブーケのようなそれを思い浮かべながら、アマーリエはまた、黄金色に輝く空と流れる雲を見た。

 そうして、あ、と目を開く。

(虹が出る)

 雨雲と空の光が作り出す不思議な陰影は、虹の環が生まれる前兆だ。

 そのとき、慕わしい気配がして振り返った。最初からそうであったかのように視線が絡み、アマーリエとキヨツグは互いに微笑んだ。

 アマーリエの隣に彼が腰を下ろす。彼のまとう乾いた草のような香りも、静かな佇まいも、こちらを気遣う眼差しや声も、何もかも馴染んでしまって——もう、彼なしには生きられなくなってしまったと、子どもじみたことを思う。

 人間というのは本来、一人でも生きていけるものなのだろう。万が一最愛の人を喪ったとしても。泣きながら。何度も死を望みながら。それでも、生きなければ、と立ち上がるのだ。愛する人から得たものを生かそうとして。

(でも、私は、浅ましいから……)

 死は、無だ。宗教を持たないアマーリエはそう思っている。愛する人と一緒にその無に取り込まれてしまえればどんなに幸せだろうとも考えている。そうして、そんなものに奪われるなんて許せないと思う。この香りも、名前を呼ぶ低い声も、手のひら、指先の温もりも。すべてを賭けていま、私を隣に置いてくれること。死という、生命の帰結にすら、盗られたくない。なんて見苦しく、拙い感情だろう。

 けれど愛が美しいものだけでないことは、もう知っている。

「……っ」

「…………」

 不意に手を触られ、小さく息を飲む。当然のように絡まる指に、アマーリエは頬を緩ませながら、静かに、ひそやかに、自らも握り返すことで答えた。

(この手は、私だけのもの)

 雨は、やがて細っていく。差し込む光が雲間に陰影を作り出したとき、最初からそこにあったかのように、音もなく、七色の橋が空に架かった。

 視線が交わり、アマーリエはキヨツグに微笑みかけた。

「キヨツグ様が来てくださって、よかった」

 この世界の美しいものを、隣り合って見上げることのできる喜びを、この人に感謝する。

 キヨツグが柔らかく目を細めたので、アマーリエはゆっくりと目を閉じた。

 失うことを恐れながら、ともにあったこの瞬間。夫婦として過ごした日々の欠片を、いつか思い返すだろう。この日この瞬間のそれはきっと、天気雨の日の虹の色をしている。




       *****




 小さな神が嫁ぐ徴としての天気雨の中、寿ぎの儀式が終わる。片付けは他の者に任せ、キヨツグはアマーリエとともに部屋に戻った。このくらいの雨ならば、と小庭を突っ切ったアマーリエの髪に、ささやかな雨の雫が飾るように光る。屋根のある場所までやってくると、キヨツグは彼女に手を伸ばした。

「……濡れたな」

 撫でるようにして軽く拭うと、アマーリエは笑った。

「いいんですよ。このくらいの雨は気持ちいいですから。この様子だと、きっと草原はきらきらして綺麗でしょうね」

 彼女と見た草花が雫を受けているのを想像し、キヨツグはふっと笑った。思わぬ反応だったらしいアマーリエは首を傾げている。

「私、何か変なことを言いましたか?」

「……いや。ずいぶん、リリスらしくなったと」

 まず思うのが草原の風景だった、つまり彼女は自然とこの地のことを考えるようになっている。それが嬉しく、誇らしい。かつて故郷を思い、胸を痛めていたアマーリエが、リリスの美しさを語って微笑む日が、ようやくやって来たのだ。

 はっと目を大きくしたアマーリエは、刹那、泣きそうな顔をし、それを振り払って、晴れ晴れと言った。

「それはもう、たくさんの人に鍛えられましたから。まだ一人で生きていけるほどの生活力はないですけれど、いつかそうなってみせます」

「……ならずとも良い」

「え?」

 雨垂れの雫が、アマーリエの周りで瞬いている。光が降り、雨がきらめき、洗われたよう世界が輝く。それだけでキヨツグはこの世に感謝したくなる。

「……私は、お前がいなくては生きてはいけぬ」

 手を伸ばし、髪の色を柔らかく変える水雫を拭い取る。毛先を遊ばせながら指を絡めると、アマーリエはじわじわと赤くなっていく目元を伏せた。恥じらう姿は、まさに霧雨に打たれる花だ。可憐であるがゆえに、これ以上のことをすればどうなってしまうのだろうと、性質の悪い悪戯心がもたげてしまう。

「……あ、あの……髪を……」

 いつまで触っている気なのかと問おうとしているが、聞こえないふりをする。

 雨上がりの空を、駆け足で雲が流れる。黄金色の陽光が、さらに明るく、世界を照らしているのを、アマーリエの瞳の中に見る。その美しさを囁いてもよかったが、それよりも、一つの願望が勝った。言わせてみたい、と思ったのだ――お前がいないなど考えられない、その、答えとなる言葉を。

「……私が愛する妻は、この世でお前ただ一人」


 アマーリエが返した言葉は、キヨツグだけが知っている。

2020年11月22日いい夫婦の日小話。

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