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涙雨と竜眼

 冷たいものを感じて空を仰いだアマーリエの眦を雫が掠めた。

 あっと思い、近くに置いていた籠を抱えて半身を屈めながら急いで雨をしのげそうな大樹の下へと走る。小石よりも柔らかく、けれど季節を象徴する重い雨が地を穿ち、みるみるうちに潤いを満たしていく。

(降ってきちゃったかあ……)

 きらびやかな上衣を水滴を払いながら顔をしかめる。こんな高価な服を濡らして、染みにならなければいいけれど。洗濯機を使わない、リリスでの暮らしで、こうした衣服の手入れの方法をアマーリエは知らない。だから汚したら伏して許しを乞うくらいはしなければならないと思うけれど、それはそれで、あなた様がそのように下手に出てはなりません、とたくさんの人に叱られるのだろう。

(その前に、一人でどこかに行かないでくださいって注意されるかな……)

 どこへ行くにも何をするにも付き人や護衛がいるアマーリエだが、勉学の時間だと割と融通が効き、付き添いは最低限になる。その時間は大半が座学で、関係者は限られるし、稀に移動しても常に人目があるからだ。ときには教師自身が、アマーリエの集中が切れるからと人払いを求めることもある。

 いまはそんな医学の学習の時間だった。ハナに指示された薬草を摘みに、アマーリエは指定された薬草園に足を踏み入れた。危険な植物もあり、また大勢に踏み荒らされては困るため、付き添いも護衛も最低限に絞られていた。アマーリエは初めて立ち入る場所に興味を惹かれ、せっかくの機会だからと一生懸命に園内を観察して回った。ただ指示された薬草を集めるためだけに立ち入り許可が出たわけではないだろうと、長すぎる制限時間から推測したのだ。

 だが薬草園は想像以上に広大だった。王宮という場所に見合う、ちょっとした公園くらいの規模があり、すっかり見慣れた身近な薬草もあれば、繁殖が困難な希少種、判別が難しいものもあった。離れたところには温室があり、思いがけず果樹も見かけたが、普段から口にする果実もまた薬となりうるのだったと改めて気付かされた。

 そうやって奥へ奥へと進みながら、何度も足を止めてしまって周囲を観察する自分の面倒さにはたと気付いたアマーリエは、付き添いの者たちにしばらく一人にしてほしいと頼んだ。そうやって遠ざけることで、こんな自分にずっと付き合わなくていいと示したのだ。

 これ以上向こうに行かないと約束したおかげで、アマーリエは束の間の一人の時間を得て薬草を摘んでいたが、雨に降られていまに至る。

 籠から摘み立ての青い香りが立ち上る。指先はほんのり緑に染まって同じ緑が香っていた。手入れされた白い指先を見つめていると、後ろ首に冷たい雫が当たって声もなく悲鳴をあげ、慌てて立ち位置を横にずらす。

(約束と違うって怒られるかな……雨に降られたからって言い訳するのはだめだよね……)

 ここにいると伝えていたはずの場所から結構離れてしまっている。彼女たちも雨宿りしているはずだと思うけれど、職務を思えば探されているだろうか。みんながずぶ濡れになってしまう前に戻った方がいいかもしれない。

「…………」

 降る雨はどこでも同じなのだ、と銀空を見上げて思う。

 幾分か冷たくはあるけれど、曇り空も雨に煙る風景も、生まれ育った街と大きく変わらない。大気の温度が下がり、緑と土の匂いが増して、視界にうっすら暗い帳が降りる。すべてのものは曖昧に、薄暗い影のようになって、都市の雨の日を思い出してしまう。

 滴る雨と、灰色に光る明るい窓。電灯が消えたリビング。虚ろに吸い込まれていく「ただいま」を告げた自分の声。何とも言えない寂寥感と諦念、力なく手を伸ばして明かりのスイッチを入れる、その一瞬に思う。誰もいない。私を迎えてくれる人は誰も。

 ――私は、ひとりぼっち。

 雫の落ちる「ぴちゃん」という音で現実に引き戻され、アマーリエは唇を結んできつく目を閉じた。

(……こんな気持ちになるくらいなら、一人になるんじゃなかった……)

 ずっと見られているようで窮屈だったり、見守られて、何をするにも大事にされるのが申し訳なかったり、身勝手に移り変わる心が、重くて、苦しい。自由を望んで、なのにこうして物悲しい気持ちになる自分が救い難くて辛かった。

 でも、ここはリリス。故郷から遠く離れた異種族の国。これまでも家族も友人も、過去も日常もすべて置いてここに来た。アマーリエにもたらされたものがあるとすれば、それは――。

「…………」

 ふと、何か聞こえた気がして顔を上げた。

 それは気のせいではなかった。じゅく、と湿った音をさせて、誰かが泥を踏んでこちらにやってくる。雨の幕の向こうに傘を差した背の高い人影を見るが、誰なのか判然としない。リリス族はみんな高身長で、男性なのか女性なのか遠目ではわかりづらいのだ。

 すらりとした人物がゆっくりと近付いて、やっと誰だったのかを知った。

「お探ししましたわ、真様」

 そう言って、傘を差しかけながらたおやかに首を傾げたのは、アマーリエ付きの筆頭女官のアイだった。

「アイ。迎えに来てくれたの?」

「はい。雨が降りそうだと言われて、傘をお持ちしする準備をしていたら、このような空模様に。濡れてはいらっしゃいませんか?」

「大丈夫。すぐにここで雨宿りしていたから」

 それはようございました、とアイはアマーリエに自分の傘を差しかけようとする。アマーリエは慌てて彼女が手にしている傘を示した。

「それだとアイが濡れちゃう。自分で差すから、その傘をもらえる?」

「そういうわけには参りません、と言いたいところですが、そうなるような気がしておりましたわ。どうぞ、お持ちくださいませ」

 苦笑した彼女から傘を受け取る。傘の素材は、都市のそれとまったく異なり、丈夫な紙を貼ってある。外側は赤いが、差してみると内側は黒く、雨が叩く音が楽器を鳴らすように賑やかで面白い。

 籠を持つというアイの申し出を断って、二人で庭を出ようと歩き始めると、すぐに雨脚が弱まった。不慣れな裾捌きで足元を派手に汚さずに済みそうだとほっとする。

「付いてきてくれていた人たちが雨に濡れていないといいけれど……」

「ご安心くださいませ。こちらに来る途中に見かけて、どこかで雨をしのぐよう申し伝えておきました」

 それならよかった、とアマーリエは胸を撫で下ろして、不慣れな衣装の裾を汚さないよう細心の注意を払って足を進める。「そちらに水溜りがございます」とアイが教えてくれるが、どうしてももたもたしてしまう。

「ご、ごめんなさい、すぐ追いつくからアイは先に……」

 途端にアイはにっこりした。

「申し訳ありません、雨音でよく聞こえません」

 うっと肩を縮める。それは気遣いとは申しません、と言われているのは気のせいではないだろう。これ以上のやりとりは不可能だと判断して、アマーリエは必死に、一生懸命に、けれど優雅にアイの後に続いた。

 そのかいあって薬草園を出て、近くの建物の屋根の下に至る。傘を渡して廊下に上がるが、足袋は濡れ、裾にも泥が跳ねていてがっくりしてしまった。

「お部屋に戻ってお召し替えをいたしましょう。お寒くはございませんか? 何か温かいものを用意させますわね」

「ありがとう……面倒をかけて、本当にごめんなさい……」

 悄然とするアマーリエに何か言いたげにしたアイだったが、やれやれと眉尻を下げ、何も言わず先導を始める。

 世話を焼いてもらえるほど何かできているわけではない。威厳もなければ、そもそも立派な人間でもないのに、彼女たちの誠実さや忠義が失われるのが怖い。そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。恐縮して謙虚でいればいいだけではないのだと、リリスで暮らすようになって初めて知った。

 とぼとぼと歩きながら思い浮かべる、立派なあの人の姿。

 凛々しくも優雅で、堂々とした姿。泰然としていて、揺るぎなくて、静かで、それでいておおらかで優しい。

 その隣に立つのなら、いったいどんな女性がふさわしいだろう?

(……少なくとも、肩を縮めて背中を丸めているような人じゃない)

 そう思った瞬間、背筋が伸びた。まだ落ち込んでいるし悲しい気持ちは消えていないけれど、姿勢を正してしっかり前を見ると、それを取り繕おうと努力する気構えが生まれる。

 やがて雨宿りを命じられていたお付きたちと合流したが、アマーリエは「迷惑をかけてごめんなさい」と自分の考える礼儀正しさと誠実さを表すつもりで頭を下げた。謝る必要はないと固辞されたが、そのときのアマーリエは、内側はともかく見た目だけは、力なく肩を落とした子どものように頼りない姿ではなくなっていた。

「アイ様。真様は、アイ様が見つけられたのですか? よくどこにいるのかおわかりになりましたね」

 付き添いの女官が首を傾げて不思議そうに言う。護衛官も頷いていた。

「もしかしてずっと近くにいらっしゃったのですか?」

「いいえ。ご指示いただいたのです。真様の居場所をご存知の方から、雨が降りそうだから傘を持っていくようにと」

「そうだったの?」

 薬草園にいるところを見られていたのか、とアマーリエは驚いた。やはりここでは常に誰かが見ていると思って行動しなければならないのだ。

 けれど気付かなかったことが一つ。

 アイが敬うような物言いをする相手、指示をし得る人間は、この王宮ではごくごく限られているということ。

 自らに言い聞かせていたアマーリエは、先を行くアイが遠くの廊下の角にじっと視線をやっているので、何を見ているのだろうかと首を傾げた。

「アイ、どうかした?」

「いいえ、何も」とアイは振り向いて微笑を寄越す。

「『竜の目』が、真様を見ていた気がしただけですわ」

 比喩なのか冗談なのか、アマーリエが目を瞬かせていると、アイはもう一度先ほど見ていた回廊に視線を投げてからくすりと肩を竦めた。

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