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111122

「いい夫婦の日」

 口に出してみると、それは不思議な単語に思えた。淡い霧のように掴みどころがないのに、しっかりとアマーリエに疑点を突きつける、にも関わらず、やはり現実味がない。カレンダーが『暦』や『日めくり』と呼ばれる国にいると、語呂合わせ等で設定された旧暦東洋の記念日は存在しないも当然だ。アマーリエも、こうして友人のメールを読むまで思い出しもしなかった。

 結婚して半年以上過ぎた、十一月。木枯らしが、冷たい冬風に変わったリリスの国で、アマーリエ・エリカ・コレット・シェンは、悩ましさのせいでため息をついた。



       *



 半年も経つと、細々とした仕事、たとえばちょっとした手紙の返事だとか、近々予定に組まれている訪問の打ち合わせだとかいったものを終えた後、お茶とお菓子を手に女官たちとちょっとおしゃべりをして、ちょっとでは済まないくらい時間が過ぎていて、ということが増えるようになった。アマーリエが、日々の生活と習い事と仕事に慣れたおかげだと言えるだろう。

 そうやって、やることが多くて活動時間が長くなると、就寝時刻も遅くなる。そうすると先に仕事を終えたキヨツグが寝殿にいる夜も時々発生し、二人が顔を合わせる時間もまた、長くなった。もしかしたら、女官たちはそれを見越して、アマーリエが寝る前におしゃべりに興じるのかもしれない、とまで思ったほどだ。

 ともかく、夫婦の時間が増えたことは、良いことなのだと思う。

「今日は、何があった?」

 二人の夜は、キヨツグのその言葉から始まる。

 大まかな出来事やユメやアイたちから報告が上がっているはずだが、こうして直接聞いてくれるのは、気にかけてくれているのがわかるようで嬉しかった。二人がまだちゃんと夫婦でなかった頃、彼がそう問うことすらできない壁をアマーリエは作っていて、どこまで踏み込んでいいものか悩ませたものだったけれど、いまは違う。

 それでも、愛する人に話を聞いてもらうのは、やっぱり照れ臭い。まだよく顔を見れず、たどたどしく話すアマーリエを、キヨツグはかすかな微笑みをたたえて静かに聞いてくれる。以前に比べて自分の考えを伝えられるようになったけれど、恐怖心は残ったままだ。考えを話すことで相手を傷つけるかもしれないし、嫌われる発言になってしまうかもしれない。そこにいるのが家族である夫でも、本音を話すのはしばらく時間がかかりそうだった。それを後ろめたく感じているのに、なかなか勇気が出ないのが、我ながらもどかしい。

 ――この人は、限りなく広い心で私を包もうとしてくれているのに、どうして私は、すべてを明かすことができないんだろう……。

 政略結婚は、アマーリエの生まれ育ったヒト族の価値観として、歪んだ繋がりであるという認識がある。そのせいだろうか、と考えたけれど、たとえこの関係が政略によるものでなかったとしても、自分は良心の痛みに苛まれただろう。だからきっと、私に問題があるのだと、アマーリエはため息をついた。

 ある日の夕刻、アマーリエの住む宮に、キヨツグの身の回りをする女官が伝言を携えてきた。

「真様のお時間をしばしいただきたいと天様が仰せでございます。北のお庭でお出でになられますよう、お願い申し上げます」

 女官が帰って、アマーリエはアイの顔を見た。アイも不可解な表情になったが、結局、女官たちに命じてアマーリエを暖かく装い、送り出した。

 灯り持ちとなる女官のココとともに、アマーリエは指示された北庭に向かった。暗い道の向こうにあった灯火は、アマーリエを待つよう命じられた侍従か武官のようだ、と思ったら、先を歩いていたココがぎょっと立ち竦む。顔を青ざめさせて言葉を失っており、アマーリエは近付いてくる灯りの持ち主を注意深く見た。

「案内ご苦労。道が暗いゆえ、注意して戻るように」

 闇の中から知った声がして、驚いた。

 手にした灯篭に映し出されたのはキヨツグだった。暗い視界が苦手だったので気付かなかった。

 種族として持って生まれた視力の良さで、アマーリエよりも族長の存在に気付いたココは、「ありがとうございます失礼いたしますっ!」と早口に言って、跳ねるように頭を下げると素早く立ち去った。彼女の灯りがちゃんと明るい方にたどり着くのを確認してから、アマーリエはそっとキヨツグを見上げた。

 間違いなく、彼だった。雰囲気が違うと思ったら、彼も防寒着姿なのだ。黒地に流れるような草模様を黒の糸で刺繍し、襟と袖口に鈍く光る黒い毛皮をあしらっている。見れば見るほど豪奢なのは、明らかに手仕事である刺繍の模様があまりに緻密で美しいからだ。

 そう思うアマーリエも、刺繍の施されたコートを着ている。黒地だが鮮やかな紅の花がいくつも花開き、色とりどりの糸のおかげで華やかな一着になっている。

「……夜分に悪かった」

 ひそやかな声に、アマーリエはふるふると首を振った。

「あの……こちらこそ、お待たせしてしまって……」

 キヨツグがここにいたのだからそういうことだろう。だが、彼はゆるりと瞬きをしただけで何も言わなかった。

「……付き合ってくれるか」

 拒否する理由はない。

 キヨツグは灯篭を低く、アマーリエの足元を照らすような位置に変えて、歩き出した。前方が暗くて見えないだろうと思うのに、やはりリリス族は夜目が利くらしく、足取りはしっかりしている。むしろ見えているはずのアマーリエの方がちょっと頼りない。かなり緩い歩調だったのだが、キヨツグはふと立ち止まって、焦るアマーリエに向かって手を差し出した。

 しばらく、それを見つめてしまう。

「……手を」

 沈黙を、不理解だと思ったのだろうか。はっと顔を上げて、おずおずとその手を取る。

(暗くてよかった……)

 男の人の手を握るときにどんな顔をすればいいのか、わからないでいただけだったのだが、こうして手を繋ぐとどうにも顔が火照って仕方がなかった。彼の目がアマーリエの赤面を捉えないよう、俯き気味になって進む。

 北の庭は、アマーリエとキヨツグが虹を見たあの場所のことだ。キヨツグが足を止めたその空も、美しい星々が作り物めいた眩さで夜を彩っている。寒さのせいかほんの少し、夜も、星も、月も、青みを帯びているように見えた。

 銀の粉を撒いたような空に、青白い息が消え、季節を感じた。温かな灯篭の光も、冬の景色に変わる星座も。ああ、もう一年経つんだ。私がここに来て、それだけの時間が流れたのだ、と。

「十一月二十二日」

 今日の日付が口をついて、目を伏せた。

「……どうした」

 呟きを聞いたキヨツグが問う。じっと黙っていると、促すように手を揺らされた。その仕草に、ちょっと気が抜けて、苦笑のまま、思ったことを考え考え口にした。

「ヒト族の間で、ちょっとした風習? 記念日? みたいなものがあって。政府の認可を受けているとか、休日ってわけじゃないんですけれど。それが十一月二十二日にあって。あっ、まだ二十二日ですよね?」

 キヨツグは月を見上げ「……零時までにはもう少しある」と言った。

「……何の記念日だ?」

 やっぱり言わなければよかった。

 後悔しても遅い。アマーリエは肩を竦め、小さく答えた。

「いい夫婦の日、です」

 しばし、沈黙が流れた。

 それはそうだろうな、と思う。いい夫婦、だなんて。アマーリエだってしっくり来ていないのだ。考えてしまうのは当然だろう。困らせて申し訳なかった。そう言おうと息を吸い込んだとき、「……それは……」と探るようにキヨツグが言った。

「……語呂合わせか。一を『い』、二を『ふ』とする、東洋古語でも限定的な読みだな」

 日付が意味するところよりも、言語的な方に興味が向いたらしい。らしいような、気遣いが感じられるような。でも恐らくどちらも考えての発言なのだろう。だからアマーリエも、そうですね、と話に乗った。

「いまの世の中だと、知らない人の方が多いような物事でしか読まないでしょうね。私も、人に聞くまで何故十一月二十二日がその記念日なのかわかりませんでした。リリスにはこういう記念日はありませんよね?」

「……記念日ではないが、この季節、祭祀が多い」

 うっとアマーリエは詰まった。ここ数日、先々に控えている祭儀について打ち合わせし、儀式の手順について頭に詰め込んでいる最中だったからだ。リリス族に嫁いで、初めての年末年始。大きな公務を控え、日々、緊張と不安とともに、必死に学んでいる。

 それでも悲しいかな、頭の容量と身体の動きが追いつかず、毎日打ちのめされているアマーリエが、堪えきれずに呻いていると、声もなくキヨツグが手を伸ばしてきた。導かれて目を上げた視界が、影になる。

 そっと唇を啄ばまれたアマーリエが硬直していると「……慣れぬな」とキヨツグが苦笑に近い呟きを漏らした。

「……慣れてもらわねば、困る」

「は、あの、どっ努力、努力は、してるんですけど……!」

 石像状態から解けぬまま、ろくに頭が働いていない状態で返答すると、キヨツグが笑った――いや、声は聞こえないけれど、手を口に当てて目を逸らしたので、絶対笑っている。

(ひどい!)

 真っ赤になって震えていると、キヨツグは緩んでしまった自分の顔を撫でていつもの表情に戻り、柔らかない気をこぼした。

「……本当に、努力してくれるのか」

「します!」

 そんなことも出来ないと思われているのか、一転して憤慨しかけると、キヨツグはそうではないと首を振った。

「……本当に、私でいいのか」

 アマーリエは動きを止めた。

 キヨツグは頭を振り、先ほどの言葉を吟味するようにして、言い換える。

「……『私でいい』というのは、少し違うな。限られた範囲ではあるが、お前は選ぶことができる。選んでいいのだ。それは、私でなくとも、良い」

 冷静な表情で紡がれる、慈しみと気遣いは、アマーリエの胸をひりつかせた。

 息を吸う。

 胸を膨らませて、吐く。

 そして、両手でもってキヨツグの頬を、ぱん! と挟み込む。

 突然の行動に面食らうキヨツグに、言った。

「好きでもない相手に、か、か身体をっ、委ねると、思いますかっ?」

 急激に勢いが萎んだのは、羞恥が優ったからだった。いけない、これではまったく、決め台詞にならない。のぼせたみたいに頭がぐらぐらして、意味もない叫び声を上げたくなったが、早鐘を打つ心臓を宥めるがごとくぐっとい気を飲み込むと、アマーリエは言葉を探し、必死に差し出した。

「あなたが好きです。きっと、これが最初で最後だと、思うんです」

 二十年だ。

 都市にはたくさんの人がいた。アマーリエより若い人も、同い年の人も、少し年上やうんと歳が離れた人もいた。男の人もいたし、女の人も、あるいはそれに当てはまらない人もいた。好きだと言ってくれる人も、その中にはいた。そう思ってくれた人もいたと思いたい。

 その中で、二十年生きた。

 見つけた最初の恋が、あなただった。

「もう、あなたなんです。あなたに決めたんです。だから」

 言葉が、消える。

 合わさった唇から、それは吐息となって甘く溶け、息を求める拙さは疑いを口にした彼を責める泣き声になった。

 これまで受け止めるだけだった口づけが、ほんの少し、求めるように変わったのは、アマーリエの思いが強くなったからだ。

 好きだ。大切だ。あなただけ。愛してる。それらの言葉の率直さに照れて飲み込むより、口にした方が幸せなことだってある。アマーリエの

場合は、なおさらそうだろう。

「……悪かった」

 身を離して、キヨツグが言った。

「いいえ」とアマーリエは答えた。そう思ってくれるだけでいいと思うのに、上手く言う術がなかった。だから、抱き締めてくれる手や、速く打つ鼓動がそれを知らせてくれるよう、身を預けながら祈った。

「……私で良いのなら、これからも側にいてくれるか」

「はい。こんな私でよければ」

 キヨツグが、ほっと息を吐く。かすかな緊張が抜けていくのを感じ、アマーリエは、聞いてはいけないかもしれないと懸念を覚えつつも、好奇心に勝てず、尋ねていた。

「その……それを言うために、ここに?」

「……臆病者だろう?」

 星空の下、二人きりになれる特別な時間を作ったのだという真相を、言葉少なに、自嘲で肯定して、彼は目を細める。アマーリエはとんでもないと首を振りながら、どきどきと、それでいてほっとしながら、胸の内で呟いた。

(そっか……キヨツグ様も、不安だったんだ)

「……帰ろう。夜も更けてきた」

「あっ、はい。今夜はだいぶ冷えますね。手が冷たくなってきました」

「……寒いのなら、暖めるが」

 キヨツグがぼそりと言って、アマーリエは微笑んだ。

「はい。火鉢を置いて、部屋を暖めましょう」

 と答えてから、キヨツグが顔を背けるのを見た。

「……? あの……」

「……なんでもない。行こう」

 心なしか笑み含んだような明るい声で言う彼の、差し出されて手に手を重ねながら、もう一度、今度は唇で呟いた。

 いい夫婦の日。 

(いい夫婦に、なれればいい)

 初めて迎える十一月二十二日は、少し寒くて、心がどきどきして、温かかった。




初出:111122

改訂版:200926

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