夢の管理人
女性向けで、ブロマンス的表現があるので注意です。
1 夢の中の侵入者
またこの夢だ。
陽平が、中学二年生の頃のままの姿で俺に笑いかける。
「新、ごめんな。これからは、ずっとここにいるからさ」
いるから、なんだと聞いても、ただ微笑んでいる。陽平に触れようと手を伸ばすが、すり抜けてしまう。陽平の名前を呼ぼうとすると、途端に声がでなくなる。
(陽平!陽平!陽平……)
カーテンの隙間から光が差していた。
陽平が死んでから、たびたびこの夢を見る。もう二年経っていてもだ。むしろ最近は見る頻度があがり、この二週間は毎日この夢にうなされている。
最初のうちは、夢でも陽平に会えるのが嬉しかった。でも夢から覚めるたびに、彼がもうこの世にいないという事実を突きつけられ、絶望の沼に沈められるようになった。
おかしくなりそうだ。こんな夢はもう見たくない。いいや、陽平がいないこの世界がいっそ夢で、覚めてしまったらいいのに。
「野上、すげークマだぞ!最近ずっとぼーっとしてるし、顔色悪いし、本当に大丈夫か?」
須藤が心配そうに覗き込んでくる。最近はこれが日課になっている。俺は机に肘を置いて頬杖をつき、体に負担のない体制を探した。
「おお、ただの寝不足だから。明け方にちょっと寝てるし大丈夫」
「全然大丈夫じゃねーよ…」
須藤は本当にいい奴だ。だからこそ相談ができない。きっとすごく親身になってくれて、必要以上に悩むかもしれない。そういう奴だ。彼まで俺みたいに生気のない人間になる必要はない。
「とにかく、しつこいかもしれないけど、悩んでることがあるなら何でも聞くからな!」
「須藤……ありがとう」
須藤の優しさに安心したのか、数秒まぶたを閉じたら、うっかり眠りについてしまった。
夢の中の陽平に会うと、無理だとわかっていても触れようとしてしまう。俺は毎度のごとく手を伸ばし、その肩に……触れた。
触れた?
「え!」
びっくりした。声まででた。
すると夢の中で視界の端に気配を感じ、振り返ると、人がいた。すごく見覚えがある。
「おまえは……」
目が覚めて辺りを見回すと、彼とバッチリ目があった。まるで最初から俺を見ていたみたいに。
夢の中にでてきた男、神原樹だ。
俺達はしばらく見つめあっていたが、神原が先に目をそらした。
2尾行
俺はとうとうおかしくなったのかもしれない。クラスメートが故意に俺の夢に入ってきた、なんていう夢物語が頭から離れなくなってしまった。
そうしてさっそく神原樹の観察を始めた。
彼はいつも静かで、人の前にでようとはしない。それだけだとまるで目立たない人間みたいだがそうではない。彼は目立つ。
まず、かなりルックスがいい。繊細な輪郭の顔に、長い睫が縁取る涼しげな目が特徴的だ。身長は俺と変わらない平均だが、脚が長くスタイルがよい。
成績はトップクラスで、運動神経も抜群。部活には所属していないため、運動部が定期的に勧誘していると聞く。
そんな完璧な神原という男が、もしも不思議なパワーをもっていて……やはり俺はどうかしてしまったらしい。そうでなければこんな妄想をして、神原の後をつけるなんて行為にいたっている理由づけができない。
放課後、神原の後をこっそりとつける。彼は一人で教室をでて、廊下を歩いていく。昇降口と反対の方向に向かっていることから、真っ直ぐに家に帰らないことがわかる。俺はこの時ばかりは倦怠感を忘れて、期待と不安を抱いて、尾行という非日常感に胸を膨らませていた。
神原は、図書室に入って行った。俺は図書室に入るのなんてこれが多くて二度目くらいだろうが、彼は慣れた様子だった。
テスト期間でもなんでもない今日、図書室を利用する人は極端に少ない。俺は本棚の陰に隠れるようにして神原の後を追った。彼は一番奥の大きい机に向かう席に座った。その机には神原の他はうつ伏せて寝ている男子生徒が一人いるだけだった。うつ伏せた顔の下にノートや教科書が見える。
神原はリュックから教科書とノートを取り出し、勉強を始めた。
正直俺はがっかりした。神原は人の夢の中に入ることができて、放課後には部活もやらずに何やら普通じゃないことをしているのではないかと、本気で期待していたようだ。我ながら馬鹿だったと反省する。神原の成績がトップクラスなのは、こうやって普段から放課後に勉強に励んでいるからだ。当たり前な話だ。
倦怠感がどっと戻ってきた。もう帰ろう。そう思ったとき、神原が動き出した。
俺は本棚の陰に隠れて息を殺し、そうっと覗いた。神原が、眠っている男子生徒の背後に立っている。ここからでは神原が背を向けているから表情はわからない。彼は男子生徒の頭の三〇センチメートルほど上に手をかざした。すると、男子生徒の頭からビー玉くらいの光の玉のようなものがでてきて、神原の手に向かって上昇していくではないか。
これは夢か?まるでファンタジー作品のワンシーンのような光景が目の前で繰り広げられていた。俺は思わず身を乗り出し、無意識に一歩を踏み出そうとして、
「痛っっ!」
本棚の角に足をぶつけた。まずい。急いで本棚の陰に身を引っ込め、そのまま音を立てずに去ろうとした。しかし手首をしっかり掴まれて叶わなかった。
振り向くと神原の整った顔があって、神妙に眉を寄せてこちらを見ていた。手首にさらに力が入り、逃がす気がないらしいのがわかる。
「今の見た?」
どうしたものかと考える。見たと言えば俺は消されるのだろうか。それとも……
ここは強気に出ることにした。
「ああ、見た。しっかりとな」
「野上、このことは」
「言わない、誰にもな。その代わりさ」
静寂に包まれた図書室に響かないように、神原の耳元に唇を寄せた。
「場所を変えよう。お前のやってること詳しく聞かせてくれないか?そんで、俺に協力してほしい」
3 夢の管理人
神原樹の家は普通の一軒家だった。
神原の家に行くのは不安があったが、彼が話をする条件として指定してきたからしかたない。
神原の部屋は、モノトーンでまとめられて綺麗だった。いきなり来たのにここまで掃除が行き届いていることに驚きだ。
座布団や椅子が二人分ないため、ベッドに並んで腰掛けた。自分の部屋や、他の友達の部屋とあまりにも違うものだから、俺はついついはしゃいだ。
「すげえキレーで洒落た部屋でびっくりした!なんか、神原がいるとよけい画になるな。ドラマのワンシーンみたいだ」
「へ……?」
それまで難しい顔をしていた神原は、口をぽっかり開けて拍子抜けしたような顔をした。奴のこんな顔は初めて見た。
「からかってるのか?」
「そんなわけないだろ。ただの素直な感想だ」
神原は落ち着きなさそうにそっぽを向いてしまったが、意を決したように俺のほうに体を向けた。
「野上は、俺が普通じゃないってわかってるなら、これから話すことを信じてくれるか?」
「ああ、信じる」
目の前で不思議な現象を見たうえ、まるで夢に故意に侵入されたかのような体験をそているのだから。
「俺は、夢の管理人なんだ」
「夢の……管理人?」
神原は頷いた。そして慎重に説明しはじめた。
「俺は他人の夢の中に入ることができる。そうやって、人々の夢を管理してるんだ。内容によっては、処置をする」
「やっぱり……さっきの図書室でやってたのもそういうことか?」
「……そうだ。あの光の玉のようなものが、夢を実体化したものだ」
「処置って具体的に何をするんだ?どんな夢を、何のために処置する?」
「処置は、その夢を二度と見られないようにする。内容は、悪いが言えない。ただ、本当はどんな内容でも二度と見られないようにできる」
その言葉を聞いて、俺は喜びを隠せなかった。何よりも望んでいたことだったから。
「今日俺の夢の中に入ってきたよな」
「ああ……気づかれたのはうかつだった。野上の夢は、辺りが真っ白で、隠れる所がなかったから」
そこまで言って、神原は突然はっとした。「悪い、夢を覗き見されるなんて、気持ち悪いよな。野上の夢の内容は誰にも言わないし、俺自身もできるだけ忘れるようにするから」
「神原」
あまり目を合わせない神原の顔を覗き込むようにして呼んだ。神原は少し驚いたような顔をした。
「神原が本当に夢の管理人とかいうのなら、俺の夢を見ただろ?俺は神原を信じてるけど、念のために俺の今日の夢がどんなだったか、話せるか?」
「わかった。野上がそう言うなら」
神原は実際に見た情景を思い出すように目を閉じた。
「辺り一面が真っ白で何もない。いるのは野上と……中学生くらいの少年が一人。少年の名前はヨウヘイで、おそらく……野上の大切な人。」
信じているつもりだったが、実際こうも言い当てられると驚いた。
「それから、野上はこの夢を繰り返し見ている。それも何度も何度も」
「そんなことまで分かるのか!すっげえ」
神原は困ったように目をそらした。
「別にすごくない。野上、頼むから、俺がそういう能力を持ってることは、誰にも言わないでくれないか」
神原は俺の左腕を掴んで、懇願するように頭を下げた。サラサラの髪のつむじが見えた。
「誰にも言わないけど、俺から条件を出させてほしい」
神原は顔を少し上げて、上目遣いにこちらを伺った。
「条件?……わかった。聞こう」
「じゃあ、俺が繰り返し見ている夢を、二度と見られないようにしてくれ」
神原は俺の腕を離れ、ベッドの上で胡座をかいた。
「本当にそれでいいのか?」
「ああ、ぜひそうしたい」
「繰り返し見る夢には、意味がある。野上はあの夢を繰り返し見ることで」
「意味なんてない!」
自分でも驚くほど大きい声がでた。思わず立ち上がっていた。
「意味なんてない。あんなのが何度も何度もあったら辛いだけだ。ここんとこなんて毎日続いて、寝られたもんじゃない。陽平は」
目頭が熱くなった。だめだと思うのに、止められない。
「陽平は死んだ。中学のときに。ずっと一緒だったのに。あいつ以外とバッテリー組んで野球なんてやりたくない。あいつは最高のキャッチャーで、誰より俺をわかってて俺は陽平がいないと……なのに死んだ。あんな夢見たって頭がおかしくなるだけだ」
一気にまくし立てて、肩で息をする。
「野上が、彼が側にいることを強く望んでいるから、繰り返し夢に見るんじゃないか」
神原はいつものように無表情でもっともなことを言う。
「うるさい。とにかくあの夢はもう見たくない。二度と見られないようにしろ」
「悪いが、それは保留だ」
神原が言った途端、カッと頭に血が上り、気づいたときには神原に覆い被さって押さえつけていた。
「ふざけるな!これはお前のことを黙ってるための交換条件だぞ!」
神原は涼しい顔を崩さない。
「夢の管理人の仕事がやりづらくなるから黙ってほしいと頼んだが、野上が言いふらしたところでこんな夢物語みたいなことを簡単に信じる人はそうそういないだろう。だから別に、俺はそこまで困らないんだ」
悔しさと絶望で俺の怒りは頂点に達した。神原の手首をギリギリと握りしめていた。
「……っ野上、い、痛い」
さすがの神原も端正な顔を歪め初めたとき、ドアをノックする音が聞こえて間髪入れずにドアが開いた。
「たっく〜んお仕事早く終わって帰ってきましたよぉ」
すごい美女が入ってきた。小柄ながら抜群のスタイルで、ストールが似合う柔らかく優しい雰囲気をまとっている。微笑みを浮かべた顔は濃い睫毛に澄んだ目と、艶やかな唇が美しい。
「あらぁたっくん、お友達が来てたのね!まぁ嬉しい!たっくんがお友達を!」
俺は神原にまたがっていたことを思い出して速攻でベッドから降りた。神原に耳打ちする。
「おい、この美女はどちらさまだ」
「母さん」
「なんだって?」
若作りなんかでなく、本当に若々しく美しい。高校生の息子がいるようには見えない。同じ空間にいるだけでポーッとしてしまいそうなくらい魅力的だ。
神原夫人の前に立って軽く頭を下げた。
「ちわっす!野上新です!お邪魔してます!」
「あらあら礼儀正しいわねぇ」
神原が俺と夫人の間に割って入ってきた。
「母さん、いきなり部屋入るなって何回も言ってるんだけど。あと野上は別に友達とかそんなんじゃないから」
「あらあらまぁまぁ。お家まで遊びに来てくださったのに、お友達じゃないの?あらぁ……?」
夫人は神原と俺を交互に見て、合点がいったように頷いた。
「野上くん、たっくんをよろしくねぇ」
「はい!任せてください!」
「おい待て」
結局夕飯まで神原家でお世話になった。神原夫人は終始女神の微笑みをたたえて、俺の話を熱心に聞いてくれた。神原は口数少なく、たまに俺に厳しい視線を投げかけた。
「野上くん、もう帰っちゃうの?せっかくなんだからお泊まりしていってもいいのよぉ」
「いやいや、そこまでお世話になるわけに行かないんで」
「早く帰れ」
「そうお?またいらしてねぇ」
「もちろんです!」
「来るな!」
「もうたっくんたら。駅まで送って差し上げてねぇ」
神原はなんだかんだ夫人に弱いらしく、しぶしぶ俺を駅まで送った。
「野上、お前まさかつかみかかってきたこと忘れてるんじゃないだろうな」
「あれそんな痛かったのか?ごめん」
「素直に謝るな」
「でも神原だってあまりに無慈悲だぞ」
「こっちだって事情がある」
「事情って?」
「うるさい」
「えぇ……とにかく、俺は諦めないからな。またお前に頼み込んででも、あの夢を」
瞬時に神原の手に口を塞がれた。
「馬鹿、外でそういう話をするな」
「神原、お前……」
「なんだよ」
「神原夫人と同じ匂いがする」
「気持ち悪いな!」
「顔も似てるし」
「やめろ」
「可愛い」
「近寄るな!」
神原は真っ赤になって俺を思い切り蹴飛ばした。そうとう怒らせてしまったようだ。
なんだ普通の人じゃないか、と思う。何も恐れることはないし、そのうち協力してくれるに違いない。俺は久しぶりに軽い足取りで家に帰った。
4 信頼計画
明け方に薄っすらと眠りにつき、またあの夢を見る。
陽平がにこにこして立っている。いつものことだ。しかし俺は違和感を抱いた。まず、真っ先にこれは夢だと気付いた。これほど繰り返し見ているというのに、今までは目が覚めるまで夢だと自覚していなかった。
地に足がしっかりと着いているのを感じる。いつもはふわふわとおぼつかないはずだ。俺と陽平の二人だけで、どこだかわからない真っ白な空間なのはいつもと同じ。と思っていたら、陽平の足元に緑色の草が倍速で生えてきた。草は徐々に広がり、俺たちの足元を緑にしていく。上空は、ピンク色に染まっていき、雲らしきものが浮かんでいた。
「陽平」
声が出た。これはこの前からだ。
「よっ、新」
陽平が夢で声を発したのは初めてだ。陽平の声を聞いた途端、思わず彼を抱きしめた。感触があるのを確かに感じた。
「とまぁ、今朝の夢はこんな感じだったよ」
俺が報告を終えると、神原はジロリと俺をねめつけた。
「そんな話を俺にして何になる」
「べ〜つに〜?」
ここらへんで引くべきだろう。そして次の段階へいく。
「神原、ここに映画の前売りペアチケットがある」
「はぁ?」
「しかも」
俺はチケットをピラピラ見せびらかした。その映画のタイトルを見た途端、神原の瞳が輝いた。
「神原が今一番観たい映画なんでしょ?結構マニアックなんだな〜」
「な、なんで野上がそんなの知ってるんだ!」
「なぁにちょっと小耳に挟んだだけだって」
「別にお前と行く気はないぞ」
「でも、ペアチケットのほうが安いよな」
「うっ……安い……」
神原は物欲しそうな視線をペアチケットに注ぎながら、真剣に悩んでいるようだ。俺と行くことの嫌さと金の大切さを天平にかけているらしい。
神原が映画と節約に目がないのはリサーチ済みだ。しかしもうひと押し必要みたいだ。
「神原、今なら俺の奢りなんだぞ」
「奢り!」
神原の頬にパッと赤みが差した。
「俺と一緒に行く?」
「行く!」
順調だ。神原が夢の管理人について詳しく教えてくれないのも、俺の頼みを聞いてくれないのも、俺たち二人が信頼関係にないのが原因の一つだと考えた。ならば、信頼関係を築いていけばいい。
まずはただの友達として友好を深めていけばいい。協力してもらうのはそれからだ。
日曜日、初夏の太陽が張り切っているいい天気だ。待ち合わせ場所には、人がぞろぞろと集まっていた。一際目を引くのが神原だ。
「おっす神原」
「『おっす』じゃない。五分過ぎてる。俺をどれだけ待たせたと思ってるんだ」
「ごめんごめん。でも五分だぞ?神原すごい早く来てたんだな〜。そんなに楽しみにしてくれてたとは」
「なっ……違う、ついさっき来たところだ」
「あれ、でもずっと待ってたんじゃ」
「さっき来た」
「神原の私服初めて見たけど、やっぱかっこいいな」
「は……?誉めても言うこと聞かないぞ」
「いやそうじゃなくて、ただの素直な感想だって」
「……ふーん」
「前から思ってたけど、神原は誉められ慣れてるだろうに誉めると疑うよな」
「見た目のことなんて言われない」
「ええっ!」
女子がしょっちゅう騒いでるのを俺は知ってる。球技大会なんてあれば特にすごい。それを知らないなんて、よっぽど鈍感なのか。それとも、周囲に興味がないのか。
映画はいかにもB級で、これをわざわざ映画館で観たがる客の顔が観たいよなあと隣を向くと端正な顔がポップコーンを頬張っている。神原が抱えているポップコーンに手を突っ込むが、彼と同じタイミングでやってしまうと手を叩かれる。俺の奢りなのに。
映画の後、カフェに入って神原の熱い映画レビューをふんふんと相槌を打ちながら聞いていた。
「野上、お前はなんにもわかってないな。B級にはB級のよさがあるんだ」
ずいっと身を乗り出す神原。
「B級グルメだってそうだろ野上はどうせ焼きそば好きだろ」
そして今日の映画の監督の作品がB級的にどう素晴らしく、またどこが課題なのかペラペラと並べ立てた。
俺はまたふんふんと相槌を打って聞いていたが、突然神原は口をつぐんでコーヒーを飲んだ。決まり悪そうに目を伏せ、頬を紅潮させていた。
「野上その、悪かった。つい沢山語って……」
「謝ることなんてなんもねぇよ。神原の話聞くの楽しい」
話の内容はあまり入ってこないが、「嬉々として語る神原」が珍しくて見てるだけでおもしろい。
「そ、そうか?そうだったらいいんだけど……」
声色は心配そうだが、表情は少しほっとしたように見える。
「今度は、俺が野上の話を聞く」
それからは他愛のない話をした。別れ際に、また学校でと言うと、神原は満更でもなさそうだった。
「神原、ひょっとして、夢見ないようにしてくれたのか?」
俺がわくわくして聞いたら、神原は怪訝な様子だった。
「どういうことだ?」
「えっおまえじゃないの?」
「俺は何もしてない」
「でも昨日はぐっすり寝られて、3カ月ぶりにあの夢を見なかったんだ」
言葉にしたら事の素晴らしさを改めて感じ、喜びに打ち振るえた。
「なんにせよ、俺はやっと開放されたんだ!最高な気分だ」
まるで呪縛だった夢。たった1日見なかっただけで、俺は天にも上るような気持ちだった。
「どうだ神原、お前の力を借りなくてもなんとかなったぜ」
神原は怒るでもなく笑うでもなく、微妙な顔をしていた。しいて言うなら困惑しているように見える。
「神原?」
「あ?ああ……よかったな」
目を合わせてくれない。どこか上の空だ。
「本当は神原がやってくれたんじゃないの?照れなくていいんだぞ」
「いや、違う」
ちゃかすつもりで言ったら真剣な声で返されて少し戸惑う。
授業の始まるチャイムが鳴ってしまい、仕方なく席に着いた。
「野上、最近顔色よくなったな。眠れてるの?」
須藤がコッペパンをかじりながら言った。
「そうなんだよ!みるみる元気になってきたんだ!」
「それはよかった」
安心したように微笑む須藤。
「心配かけて悪かった」
「いやいや。野上が元気そうで嬉しい」
須藤は恥ずかしいくらい優しい言葉をかけてくれる。
「ところで最近、神原君と仲いいじゃん。元気になったのとなんか関係あるの?」
思わず固まってしまった。「仲いいじゃん」だって?周りからはそう見えているのか。いや、仲良くなろうとしたのは俺だ。しかし、神原の手を借りなくても夢を見ないでいることができると発覚した。だからもう仲良くする必要もない。
しかし、確かに今でも神原に絡み、いわゆる「仲いい」状態なのだ。
「いや、神原は関係ない……と思う」
本当にそうだろうか。
「ふーん?」
須藤は釈然としないようだったが、それ以上は追及してこなくて、別の話題に移した。
「神原〜もう帰る?」
「野上……」
ぐいと近寄り、小声で言ってみる。
「もし図書室とか行くなら、ついていっていい?アレをまたちゃんと見てみたいんだっぐぁっ!」
ど突かれた。
「だめだ」
「なんで!」
「うるさい」
もうだめだ。「うるさい」が出てきたら、彼は絶対引かないし、まともに取り合ってくれない。
「俺はすぐ帰る」
「待って神原ごめんって。じゃあさ、俺んち来ない?」
「なんで?」
「そりゃ、遊びにおいでって意味で」
びっくりしている神原にびっくりした。
「嫌なら、無理にとは……」
「まぁ、行ってもいい」
そっけない返事だが、心なしか満更でもなさそうだった。そうやって俺は神原を遊びに誘うことが多くなった。
「この映画のペア前売り券を買おうと思う」
神原は携帯画面を印籠のようにこちらに見せた。見たことのない俳優の、聞いたこともない映画の画像がそこにある。
「誰と行くの?」
神原はじわじわと顔を赤くし、耳まで赤くなった頃、俺を指差した。
「別におまえと行きたいわけじゃないが、ペア前売り券は安いから利用しない手はない。メジャーな映画とは言えないのにペア前売り券を売るなんてほぼ奇跡だからなおさらだ」
マイナー映画の自覚はあったようだ。
「野上なんかじゃなくて、川崎を誘いたいところだが、あいつは今部活が忙しいから……」
川崎というのは、神原とよく一緒にいるサッカー部のエースにしてイケメンという憎いあんちくしょうだ。
「川崎の代理とは俺には大役だな〜」
へらっと冗談を言ったつもりだったが、神原が妙に曇った表情を見せたのであわてた。
神原は俺にはこんなんだが、人当たりは悪くなく、結構友達がいる。クールだがそこがいいと人気で、人間関係は良好である。俺を誘うのは、趣味を隠していたいからだろうか。
「なんてな。もちろん行くって。今度の日曜日でいい?」
「本当か……!ああ、日曜日に」
目をキラキラさせる神原は本気で嬉しそうだ。よっぽど映画が好きなのか、ひょっとして俺と行くのが嬉しいのか。
どちらにしても、と俺は思う。こうしていると、神原が普通の人間にしか見えない。もしかしたら本当にただの人間で、あの時のことは夢だったんじゃないかと思ってしまう。夢の管理人なんて本当はなくて……。
この時はまだそう思っていた。あの少女に会うまでは。
5 問題少女
完全に遅刻だ。
神原、怒ってるだろうな……。彼に対して申し訳なく思う一方で、待たせるなとか待ってないとか言うのを想像して微笑ましくなる。
そんなことを思いながら、待ち合わせ場所に向かって走っていたときだった。一人の少女が、俺の前にふわりと立ちふさがった。
すんでのところで立ち止まる。なんだ?
「ごめんごめん急いでて、つい」
とりあえずぶつかりそうになったことを謝ったが、どうも変だ。彼女は意図して俺の前に現れたように見えた。俺を立ち止まらせるために。
「あなたが野上新クンだね」
凜とした声が俺の名を呼んだ。俺は彼女から適当な距離を取った。
セーラー服の美少女がそこにいた。肩まで伸びた髪は色素が薄く艶やか。濃いまつげに縁取られた大きな瞳。身長は150センチくらいだろうか。華奢で胸も控えめだが、ミニスカートから覗く脚がなまめかしい。
「ふーん?」
彼女はグッと上半身を突き出して、こちらを覗き込んだ。そらした背中が美しく、腰つきがしなやか。セーラー服の胸元がギリギリ見えそうになる。とにかく仕草が色っぽい。
「樹はこういう子がいいんだ」
艶やかに目を細めた。それまで彼女の色気に気をとられていたが、一気に目が覚めた。
樹?
「樹ってもしかして、神原樹のこと?」
そのとき、外車が走ってきて俺たちの横に止まった。
「また会おうね、新クン」
名前も知らない彼女は、俺を親しげに呼んで、スラリと車に入った。ミニスカートの中が見えそうだった。
外車を見送ってしばしぼーっとしていたが、正気に戻って待ち人の元へ走っていった。
案の定神原は前回以上にご立腹だった。「だから、女の子に引き止められてたんだって」
本当は引き止められる前から遅刻だったが、引き止められて余計遅れたのだからまるっきり嘘ではない。
「言い訳するならもっとましなのを用意しろ」
神原の冷ややかな視線に貫かれる。
「本当なんだって!セーラー服で、胸がぺたんこで、ウエストも脚も細いけど、妙に色気のある美少女!」
「はぁ?」
完全に呆れられている。売店に並びながらも弁解を続ける。
「俺の名前を知っててさ、たぶんおまえのことも知ってる。『樹』って言ってた」
一番気になっていたことだ。俺の知らない女の子だから、神原の知り合いで間違いないと思うのだが。彼女の言動からも、俺とは初対面なのは明らかだ。だいたいあんな美少女、一度会ったら忘れないはずだ。
神原が何も返してこないから、とうとう無視されたのかと思って隣を見ると、青ざめた表情で固まっていた。
「神原?具合でも悪いの?」
「野上」
急に肩を掴まれた。
「最近は『あの夢』を見てるのか?」
あの夢、とは陽平の夢のことに決まっている。しかし今何の関係があるというのだ。
「見てないよ。最近は全然」
「ならいい」
神原は真面目くさった顔のまま手を離し、何も喋らなくなった。
それからというもの、神原が少し変だ。楽しみにしていた映画なのに、始まる前からどことなく上の空で、本編が始まってもぼんやりとポップコーンに手を突っ込み、何も掴めていない手を口に運んだ。俺とかち合って手を突っ込んだときなんか、俺の手を握ってきた。
おかしい。神原の異常行動に頭を抱える。
神原はあの少女に心当たりがあるらしいことはわかった。彼をここまで動揺させるあの娘は一体何者なのか。真っ先に考えられるのは元カノくらいだが……。
映画館を出てすぐの噴水のところに腰掛けていたのは、忘れようもないセーラー服の美少女だった。
「はーい樹、少し久しぶりだね」
「凛々子……やっぱりおまえか」
神原とこの娘は馴れ馴れしく名前で呼び合う関係なのか。
「新クン、また会えて嬉しい!」
優雅に立ち上がり、艶めかしいおみ脚で近寄ってきて、俺の手を取ろうとしてきたが、神原が制した。
「凛々子、どういうつもりだ」
「あら、ごめんなさい。新クンにはまだ自己紹介もしてなかったね」
彼女は髪をさらりとかきあげた。
「私は五十嵐凛々子。樹と新クンと同い年。樹とは昔からの付き合いなの。新クン、樹が普通じゃないの知ってるんでしょ?私もね、樹と同じなの」
「同じって……」
彼女……五十嵐凛々子も『夢の管理人』ということか。
「凛々子、外だぞ。その話をするな」
「やだぁ樹ってほんと、真面目だよね。命令口調で偉そうだし」
彼女は俺の腕を取り、神原にあかんべえをした。あまりにも密着して、彼女の控えめな胸が腕に押し付けられる。柔らかい感触に反応して、俺は固くなった。
神原の絶対零度の視線が突き刺さる。
「ねぇ樹、何をもたもたしてるの?あなた、明らかに狙ってたのに、なんでチャンスをのがしたわけ?」
「別に意味はない」
「じゃあ、私がもらっちゃっていいのかな」
「なっ……」
神原は言葉を失って青ざめていた。話が全く見えない。五十嵐凛々子は俺の肩に頬までくっつけた。シャンプーの甘い香りと微かな胸の感触で話に集中できない。
「何をそんなに動揺してるの?樹らしくない。よっぽど情が移ったってことかな」
五十嵐凛々子は何故か嬉しそうに笑い、俺の腕からやっと離れた。
「……野上、行くぞ」
神原はいきなり歩きだしてしまった。慌てて後を追う。
「いいのか?彼女のこと」
「いい。早く帰るぞ」
俺は迷いながらもついていき、振り返ると五十嵐凛々子はニコニコして手を振っていた。
神原は俺に隠し事が多い。
「いいか、絶対にりりこには近づくな」
そうやって俺に釘を刺してきたけど、理由を全然説明してくれない。そういえば神原の信頼を得ていろいろ説明してもらうために仲良くし始めたのだ。そんなことすっかり忘れていたけど、まだ俺は彼の信頼を得ていないのだろうか。
神原のこと、もっと知りたい。
ポケットに手を突っ込み、二つ折りになっていた小さなメモ用紙を取り出す。
『24時、○○公園で待ってる』
五十嵐凛々子が、俺の腕に密着したときに入れてきたものだ。
神原を裏切るような真似はしたくなかったが、俺が動かないと、俺が何も知らないまま、何かが起きているんじゃないかと、そんな風に思った。
「来てくれるって思ってたよ。新クン」
街灯に照らされた五十嵐りりこは、ミステリアスな雰囲気で昼間以上に扇情的に見えた。
「りり……五十嵐さん」
「凛々子でいいって!いいというか、新クンにはむしろ、そう呼んでほしいんだけど」
懇願するように上目遣いをする。
「ねぇ、新クン……この時間に会うのって、どういう意味だと思った?」
小さな手が俺の手の甲を撫でてきたが、それをそっと払う。
「凛々子さん、早く本題に入らない?」
「あれ、意外とつれないんだ。でもそういうの、嫌いじゃないよ」
凛々子は妖艶に微笑んで、俺の周りを円を描くようにゆっくり歩き出した。
「お望み通り、単刀直入に言うとね。新クンは、樹を陽平クンの代わりにしてるよ」
耳を疑った。どうして陽平がでてくるんだ?
「自覚はないみたいだね。でも、決定的なのはね、新クン、陽平クンの夢を見なくなったでしょう」
そうだ、彼女もまた、神原と同じ『夢の管理人』なのだから、いつの間にか俺の夢の中に入ってきたことがあるのかもしれない。「確かに陽平の夢は見なくなった。でもそれと神原は関係ないんだろ」
神原は何もしていないと言っていた。それを信じていいなら。
「樹と仲良くなってから、陽平クンの夢を見なくなったでしょう。今まで陽平クンの夢を見ていたのは、陽平クンにいてほしかったからだよね。ということは、その夢を見なくなった今、陽平クンはいらなくなった」
「そんなわけないだろ!!」
声の大きさも、息づかいもコントロールがきかなくなる。
「陽平がいらないなんて、そんなことあるわけない!俺にとってアイツは、誰にも代えられない、大事な」
そこまで言って、言葉につまった。最近、陽平のことを思い出すことがあったか?夢にでてこなくなってから、陽平の顔を思い浮かべたか?
ない。まるで忘れてしまったみたいに陽平のことを考えなかった。あんなにずっと陽平の死を嘆いていたのに。なぜ?
神原が陽平の代わりになったから?
「そんなことがあっていいわけがない!!」
凛々子の薄い両肩を力任せに掴む。柔らかい身体に指が食い込む。理性なんてなかった。
「んっ…新クン、結構大胆だね」
腹部に強い衝撃が入り、仰向けになっていた。蹴られたらしい。
「勢い任せの激しいのも嫌いじゃないけど、ちょっとムードに欠けるかな」
凛々子が音もなく去っていくのを気配で感じる。俺は仰向けに転がったまま、星のない夜空を見ていた。
6 パラレルワールド
陽平がいた。これは夢だと瞬時にわかる。「けっして忘れてたんじゃないんだ。俺は陽平がいなくちゃだめなんだ」
陽平は少し困ったように微笑んだ。前は足元に草が生えていた程度だったが、今ではすっかり草が広がっていた。フェンスで囲まれていて、小さな原っぱのようだ。フェンスの向こう側では、道や家などの建物ができている途中だった。工事なんてしていない。何もないところに光りながら端からじわじわと現れてくる。
「新、キャッチボールしようぜ」
陽平がグローブを投げ渡してくる。キャッチボールなんて、最後にやったのはいつだったろう。久しぶりのボールの感触に胸がざわめく。
「あ!悪い!フェンス越えそう!」
陽平の投げたボールが大きく弧を描いた。「大丈夫!捕る!」
俺は駆け出して、フェンス付近で跳躍してボールを捕った。しかしバランスを崩して転んだ。
「おーい!大丈夫か!」
「へーきへーき」
擦りむけた膝を見る。結構、痛い。
「野上また顔色悪いな。すごいどんよりしてる……大丈夫か?」
須藤が焼きそばパンをかじるのを中断して言った。
「うん……ちょっとまた寝られなくなって」
「でもメシは食わないと」
俺は一応買ってきたホットドッグを見下ろす。全く食べる気がおきない。でも一口食べてみる。
「あれ」
「どうした?」
「味がない。いや薄いのか?」
須藤に一口食べさせる。
「普通にうまいけど。味あるじゃん」
味覚に個人差はあるらしいが、ここまで違うものか?俺からしたらこのホットドッグは異物を口にしたみたいに味がない。
「体調のせいじゃないか?風邪のとき味覚変なことあるし」
それもそうだと思い、あまり気にしなかった。
ふと視線を感じると教室の入口付近で神原が俺を見ていた。目があうと、彼は教室を出て行った。
陽平の夢を繰り返し見るのがずっと嫌だった。毎日辛い思いをするなら、忘れてしまうほうがまし。そう思っていたが、そんなの嘘だった。
忘れたらだめだ。誰かを代わりにするなんて、もっとだめだ。
それから毎日毎日、陽平の夢を見た。見る度に周りの景色がハッキリして、遠くまで空が続いていった。自由に動けるし、五感も鮮明になっていった。
神原がたまにチラチラとこちらを見ているのを感じる。俺から話しかけるつもりはあまりなかった。神原に止められていたのに勝手に凛々子と会ったのだから、それを悟られてはいけない。それにもし、俺が本当に彼を陽平の代わりにしているなら、止めないといけない。
「野上!すげえ血でてるぞ!」
体育の時間、クラスメートに指摘されて見ると、肘を擦りむいて血が流れていた。
「本当だ。いつの間に」
「気づいてなかったのかよ」
「さっき転んでたじゃん。その時のだろ」
須藤が真剣な顔で詰め寄ってきた。
「痛くないのか?」
「うん……全然痛くないな」
やせ我慢ではない。本当に痛みを感じない。
皆が口々に何か言っている声が、急に遠くなった気がした。地に足がついてないような不安定な感覚。空が遠くなっていく……
目が覚めると、見慣れない白い天井があった。
ベッドで寝ていたらしい。ベッドの脇のパイプ椅子に腰掛ける男が一人。
「神原」
「ここは病院だ」
「そうみたいだな」
「先生は医者の話聞いてる。親御さんに連絡ついたらしいから、そのうち来ると思う」
「来ないよ」
彼はやっと俺の目を見た。しばしの沈黙が流れる。
「……野上、りりこに会ったのか」
無言で頷く。怒られるかと思ったが、彼はただ2回瞬きをしただけだった。
「自分に何が起きてるか、わかってるのか?」
「体育の時倒れたんだろ。まぁたまにある話でしょ」
「全然わかってないな」
彼はおもむろに立ち上がり、俺に背中を向けてベッドに腰掛けた。
「おまえは、またあの夢を繰り返し見ている」
やはり知っていたか。
「繰り返し見ることで、夢の世界を構築しているんだ」
構築?
「現実とは別のところにある世界、俺たちはこれを『パラレルワールド』と呼んでいる。人間の強い願望が造り出す。繰り返し見るほど、夢はパラレルワールドに近づいていく。そうしてその夢を見ている人間は、現実の世界と夢の世界が逆転する。パラレルワールドが完成したとき、完全にそこの住人になり、二度と帰ってこない」
神原は夢の管理人というやつで、でも映画が大好きで語ると止まらない、普通の高校生で。でもやっぱり普通の高校生じゃないからこんな不思議な話をするんだ。
何に対してかわからないけど、俺は泣きたくなった。彼の背中を見つめる。
「つまり俺にとって、夢の世界が現実になるってこと?」
「そう言ってもいいだろう。野上の夢はパラレルワールドになる直前まできてる。野上の体も、パラレルワールドに移る直前だ。自覚あるんじゃないか。味覚や痛覚が鈍感になったり、体が思うようにならなかったりしているはずだ」
「パラレルワールドに体が移ったら、現実の世界の俺はどうなる」
「消える。行方不明者として扱われる」
そうか、と俺は上体を起こした。
「神原、どうしてギリギリまで黙ってた?」
「おまえは夢を見なくなったと言ってたから、大丈夫だと判断した。普通の人間には、できる限り余計なことを教えたくない」
まただ。神原は秘密主義だ。夢の管理人の掟だとでもいうのか。彼が夢の管理人の能力を使っているところを見てしまった俺にすらこうだ。
友達になったら教えてくれるかと思った。当初は利用するような気持ちだったが、友達になってからは、神原の秘密主義が二人の間に溝を作っているように感じる。
「また夢を見るようになったのは、りりこに何か言われたからだろう」
答えなかったが、肯定の意にとられただろう。
「俺の造るパラレルワールドは、陽平がいる世界なんだな」
独り言のつもりだったが、神原が勢いよく振り返った。
「野上、俺は」
口をパクパクして、言うことを整理しているみたいだ。
「野上に、選ぶ権利があるのかもしれない……でも、俺は」
俯いて、またしばし考えている。やがて、絞り出すような声が聞こえた。
「……野上にいてほしい」
それだけ言うと脱兎のごとく病室を出て行った。
7 嘘吐少年
一日病院で寝て、すぐに学校に復帰できた。身体はまだ倦怠感があるが、日常生活にそれほど支障はない。学校への通学路に、いつの間にか凛々子が立っていた。
「ちょうどよかった。りりこさん、君に聞きたいことがたくさんある」
「へえ積極的なんだ。嬉しいね」
「俺は『パラレルワールド』とかいう世界を造って、そっちに移ろうとしてるんだって?」
「そうだよ。樹、やっぱりまだ言ってなかったんだ。ま、当たり前だけど」
当たり前とはなんだろう。しかしこっちのペースに持っていかないと、この少女にはすぐ飲み込まれそうになる。
「俺みたいなことになる人間は他にもいるんだろ。そういうのを阻止するのが神原や凛々子さんたち『夢の管理人』の仕事なんじゃないの?二度と夢を見られなくする能力の説明がそれでつく。」
凛々子が静かになった。最初は肯定の意かと思ったが、彼女は大きな目をさらに大きくしていた。初めて見る、驚きの表情だ。
「夢の、管理人?なんのこと?」
今度は俺が驚く番だった。今までずっとその話をしていたというのに、彼女こそ何を言っているのか。
「凛々子さん、今更しらばっくれてるの」
「そんなわけないでしょ。あたしが新クンに嘘なんてついたことないもん」
凛々子ははっとした様子で、突然艶やな小悪魔のように口角を上げた。
「『夢の管理人』、樹がそう言ったんだね」
俺は黙って頷いた。目の前の美しい少女に対して、若干の恐怖を感じていた。
凛々子はつま先で立って、俺の耳元に吐息がかかる距離で言った。
「本当のことを教えてあげる……」
今度は唇がつきそうな距離で。
「『夢の管理人』なんて、存在しないよ」
……なんだって?
「本当はね、樹とあたしは、人間の夢を食べる『バク』なの」
彼女はさっと俺から離れて、ペラペラとしゃべりだした。
「樹とあたしは、人間の夢を食べる『バク』。特に極上な夢は、『パラレルワールド』になる直前の夢だねえ。ほとんど『パラレルワールド』の一部になっていた人間ごと食べることになるんだけど。これがたまらないの」
凛々子はとろけるような表情で舌なめずりをした。
「樹は、最初から新クンの夢を狙ってるんだよ。『パラレルワールド』になるのはほぼ確定の夢だからね。樹は、新クンを食べようとしてるの」
バク?夢を食べる?人間ごと?神原が、俺を。突然何を言い出すんだろう。全然わからない。そうだ、凛々子はいつだってなんだか怪しいじゃないか。何も鵜呑みにすることはない。
「神原がそんなことするわけないだろ」
はは、と笑ってそれだけ言った。
「樹、無愛想なくせに意外と信頼されてるんだ。これじゃあ言うに言えないね」
「神原は、夢の管理人だ」
「まだ言ってるの?新クンだって、薄々感づいてるはずでしょ。樹、秘密がとっても多かったんだから」
「でも」
「本人に確かめたらいいんじゃない?」
凛々子は歩を進めて、振り返った。髪がサラリとなびく。
「ひょっとしたら、そく食べられちゃうかもね」
放課後、神原と一緒に帰るのが習慣になっていたが、今日は一人でさっさと教室をでて時間をつぶした。しばらくしてから神原を探す。もう帰ったかもしれない。でももしかしたら、彼は俺がいないときに『夢の管理人』の仕事をしているはずだから、俺がもう帰ったと思って例の行動をしているかもしれない。今度こそこの目で最後まで確かめないといけないと思った。
神原は簡単に見つかった。生徒がいなくなったとある教室。いや、一人机に突っ伏して眠っている女子生徒がいる。夕日が差し込んでオレンジ色に染まっている教室に、眠っている女子生徒と、近くに神原だけがいた。
俺は息をひそめて足音を消して教室の中を覗く。まだ気づかれていないはずだ。
神原が女子生徒の頭上に手をかざす。あの時と同じだ。ビー玉くらいの光りの玉が上昇する。彼はそれをつまみ、口に運び……食べた。
――人間の夢を食べる「バク」
凛々子の言葉が頭の中で反芻される。
女子生徒が目を覚まして神原に気づいた。顔を真っ赤にして、広げていた勉強道具をカバンに詰め込み大急ぎで教室を出て行った。
「野上、いるんだろ」
呼ばれたからではない。もともと姿を見せるつもりだった。教室に足を踏み入れた。
「いつから気づいてたんだ」
「別に、ついさっきだ」
神原は窓枠に腰掛けた。俺は近づきながら問いかける。
「神原はさ、『バク』なのか」
教室の空気がピリッと張り詰めたのを感じる。神原は溜め息をついた。
「凛々子だな」
「答えて」
神原は窓枠から降りて俺を真っ直ぐ見た。
「ああ、そうだ。俺は『バク』だ」
目の前に、人間にしか見えないけれど、人間じゃないクラスメートがいる。それはとても不思議なことだが、どうでもよかった。
「『夢の管理人』ていうのは」
「嘘だ。そんなものはない。でっちあげだ」
「じゃあ神原は、俺のパラレルワールドを……俺を、食べようとしてたのか」
神原の瞳が怪しく光った。夕日に染められて、彼の端正な顔のコントラストがくっきりとして美しかった。彼の口角がゆっくりあがり、目を細めて俺を見つめた。
神原に右手を取られ、口元に引き寄せられる。
「そうだ。お前を食べようとしてる」
人差し指をくわえられると、歯の固い感触と舌の柔らかくぬるりとした感触がした。生暖かくてゾクゾクする。
「今だって」
廊下を全力で走るのなんていつぶりだろうか。
恐怖の感情がむくむくと湧き上がり、あの場にいられなくなった。俺が知っている神原ではない。夕日でオレンジ色に透ける瞳は、獲物を狙うようだった。妖艶な笑みは、馬鹿な人間を嘲笑いながら愛でるような異常性があった。
階段を駆け下り、靴をひっつかんで昇降口を出る。校門を駆け抜けて曲がり角までくると、脚をもつれさせながら後ろを確認する。誰もいない。
前屈みになって立ち止まった。息が苦しい。心臓と頭がどくどくと脈打つ。右手の人差し指を左手で握り込む。艶めかしい感触を思い出してゾクゾクする。
凛々子が言ってたことが正しいというのか。神原本人が肯定したのだから、普通に考えればそうなんだろう。……本当に?
違和感がある。俺は神原が俺の知っている神原だったときを思い起こす。
『でも、俺は……野上にいてほしい』
そうだ。確かに神原はそう言った。
息はとっくに整っていたけど、心臓のあたりがギュッと苦しい。真実なんてものがあるなら、誰でもいい、答えをさっさと教えてほしい。
「クッソ……なんでだよ!!」
8 傍にいる人
家に帰ってきても、神原と凛々子のことで頭がいっぱいだった。神原が本当に俺を食べようとしているなら、なんとかしないといけない。頼れるのはりりこだけ?しかしりりこだって神原と同じ「バク」とかいうやつなんだ。
「誰を信じればいい?いや、俺は何をしたらいい?なぁ、陽平……」
陽平の写真を見たら、目の奥が熱くなって胸がキシキシと痛んだ。。
「陽平がいてくれたら……いや、そもそも、陽平がいなくなったから、こんなことに巻き込まれたんだ」
陽平も、陽平のせいにする自分も嫌になって、もう何もかもが嫌だ。ベッドに身体を投げる。ほぼ「パラレルワールド」とかいう世界に移ってしまった身体は、もう自分のものじゃないみたいだ。眠りたくないけど、起きていたくない気分になって目を閉じた。
携帯のバイブ音が鳴った。ほっといてほしい。鳴り止まない。電話のようだ。
しかたなく携帯に手を伸ばす。着信拒否をしてやるつもりだった。
「須藤から……」
心配性のクラスメートの名前を見て、なんとなく電話にでた。
「……はい」
「あっ野上、悪いな、今平気?」
「うん」
しかし、須藤は何も言わず沈黙していた。たまりかねてこちらから促すと、
「ごめん、何言うか全然考えてなくて、ほんとごめん」
妙なことを言う。用があって電話してきたのではないのか。
「なんだそれ、変なの」
「うん、変だな」
少し笑う。久しぶりに声をだして笑った気がした。
「あのさ、野上……せっかくだから、最近思ってたこと言う」
「ん?おう」
「野上が今、何かやってるのは、わかる。たぶん俺に言えないことなんだと思う」
動機がした。
「俺にできることはないのかもしれない。でも、野上のそばにいる。邪魔だとか言うなよ?」
喉がぎゅーっと苦しくなって、声がでない。嫌な苦しさではない。電話だと、声がでないのと黙っているのの区別がつかないな、とぼんやり思った。
「じゃ、あんま長話しても悪いし、そろそろ切るわ」
あわてて声を絞り出す。
「す、須藤」
「ん?」
「ありがとう」
「うん」
電話でも、相手の笑顔が伝わってくることもあるらしい。
電話を切った後、ベッドに仰向けで寝そべった。天井をしばし見つてから、明日に備えて眠りについた。
少し道に迷いながらも、神原の家に着いた。意を決してインターホンのチャイムを押す。
「はぁい」
神原夫人の可愛いらしく柔らかい声がインターホンから聞こえた。
「野上新ですけど」
「あらぁ野上君!お久しぶり〜。あがってあがてぇ」
正直戸惑った。神原夫人とどう接したらよいかわからない。そもそも彼女は事情を知っているのだろうか。神原の母親ということは、彼女もまたバクだということなのか。だとしたら一応用心する対象なのだろうか。
あまり考えられるまもなく、神原夫人が玄関のドアを開けた。
「いらっしゃい野上君。さぁ入って入って」
ダイニングテーブルに通されたところでひょっとしてと思った。
「あの、神原……樹君は」
「ごめんなさいねぇたっくんは今出かけちゃってて」
決心していただけに、拍子抜けしてしまう。
「そうだったんすか。俺、お邪魔してよかったのかな」
「大歓迎よぉ!私、もっと野上君とお話してみたかったの。」
神原家は突然お邪魔してもやはり綺麗に片付いている。
「たっくん、最近はコーヒーのほうがいいとか言って飲んでくれないからつまんなかったの。野上君が飲んでくれて嬉しいわぁ」
紅茶が彼女の趣味らしい。今の俺にとっては無味無臭だけれど、にごりのない綺麗ば色をしていた。
本当は、神原と直接話し合おうと思って来た。もし襲い掛かってくるようなら、戦う覚悟だってあった。しかし、神原婦人とのお茶会が始まってしまい、どうしたらいいかわからなくなる。正直、彼女のこともどこまで信用していいか迷う。
黙りこくっていると、婦人が静かに言った。
「たっくんと何かあった?」
紅茶の水面を見つめながら頷くことしかできなかった。
「そう。最近たっくんの様子が変だったから、野上君と何かあったのかなって思ってたのよ」
「神原が?」
神原の様子がどう変なのだろう。俺はずっと気が付かなかった。しかしこの話しぶり、夫人は神原が俺を食べるつもりだとか全然知らないのだろうか。
「たっくんはね、すごく野上君のこと、気に入ってるのよぉ」
「そうでしょうか。よくわかりませんが」「わからなくって当然なの。あの子、できるかぎり人に好意を抱かないようにしてるから、野上君への気持ちもひた隠しにしてるんだと思う」
「どうして」
「人と関係を持っても、自分も相手も幸せになれないと思ってるのよ」
「それはもしかして、神原が他の人と違うからですか」
夫人は長い睫毛をふせて、ぽつりと言った。
「やっぱり、野上君は知ってるのね」
「知っていると言っても、正直よくわかっていません。教えてくれませんか」
「野上君には知っていてほしいと、私も思うわ」神原夫人は遠くを見つめた。
「私の旦那さん、つまりたっくんのお父さんはね、他の人と違うの。私は普通の人。だから、たっくんは、半分だけ普通の人じゃないの」
つまり、バクと人間のハーフということか。
「お父さんのような人は『バク』と呼ばれてると聞いたことがあるけれど、『バク』が私たちとどう違うのか、詳しいことは実はなんにも知らないの。ごめんなさいね」
バクだと知っていて結婚したのかと尋ねると、
「ええ。何か他の人と違うところがあって、何かしているのは感じていたけれど。でもそれって、誰でもそうじゃない?誰だって、他の人と違うわ」
俺の目を見て微笑んだ。
「旦那はね、私にほとんど何も教えてくれなかった」
なかなか教えてくれないで隠している神原とイメージがかぶった。
「不安になりませんか。もどかしくなったり、相手を信じられなくなったりしませんか」
「なるわ。でもね、あの人が話したがらなかったのは、私を想っているからよ。それだけは痛いほど感じたの」
彼女は胸に手を当てて一呼吸置いた。
「たっくんには、本人に関わることだからちゃんと説明したみたいだけれど。でも説明した後、私たちの前から姿を消したわ。ずっと悩んでいたらしくて、一緒にいたら私たちに迷惑をかけるって結論を出した。匿名で仕送りがくるんだけれど。たっくんはそのこと良く思ってないみたい。無責任だって。」
「それなら最初から、関係を持たないほうがいい、ということなんでしょうか」
「たっくんには悪いことをしたと思ってるわ。あの子ときどき、自分を『半端もの』って言うの。野上君、あなたには選ぶ権利があるけれど、私はたっくんがあなたに会えて、本当によかったと思っているわ」
「俺がどんな選択をするか、俺にもわかりません。ただ言えるのは、今、神原に会いたいんです」
彼女は何も言わずに頷いた。
神原と会って話すのは、彼女がいない場所のほうがいいような気がした。今日のところは家に帰ることにして神原宅を出た。
まさか帰ることができないなんて思いもしなかったんだ。
9 目論見
目が覚めると、夢の中だった。
身体がすごく軽く、自由に動く。夢と現実の世界がほぼ逆転して、現実がいかに不自由になっていたかを実感する。
自分の家の前にいた。現実の自分が住んでいる住宅街そっくりだ。しかし見上げると、ピンク色の空がどこまでも続いていて、現実ではないのがわかる。
今まではなかった人の気配がある。車が通るし、人が歩いている。この人たちも、俺が作り上げてしまったらしい。これがパラレルワールド。まさか、完成してしまったのか?
「まだ未完成だよ」
聞き覚えのある少女の声がして、振り向くと、五十嵐凛々子がふわりと降り立った。「野上クン、ごめんなさいね。眠ってもらっちゃって」
「凛々子さん、あなたが俺を……何故?」
「ふふ。パラレルワールド間近の夢を食べるときはね、夢の中に入らないといけないの。」
「な?」
凛々子が右手を上に挙げると、ピンク色の空にひびが入った。ゴゴゴと音がして、足場が大きくぐらついて、地割れが起きる。家々がメリメリと音を立てて地面から離れ浮き始めた。人々の悲鳴が聞こえ、人々はあっけなく消えた。
胃の辺りがふっとする感覚がすると同時に、俺は地面から足が離れ、中に浮いていた。
「もう我慢できないの。だってこんなに美味しそうなんだもの!!いただきます!!」
強い風邪が吹き、あらゆる物が凛々子に向かって引き寄せらていく。俺も例に漏れず、凛々子のもとに吸い込まれていく。
バキバキメキメキと世界が壊れ、彼女の小さな身体が吸い込んでいく。吸い込む力が増し、俺は凛々子の目の前に飛ばされる。キスしそうな距離まで吸い込まれ、ああ、もうだめだと思い、目をつぶった。
しかし何も起きない。恐々目を開けると、凛々子が困惑した顔で空を見上げていた。俺を含め吸い込まれて引き寄せられていた物たちが、静止している。
上を見上げると、ひびがが入っていたピンク色の空に、さらに細かい亀裂がたくさん入り、バリンと大きい音がしたかと思うと、穴が空いたところから何かが降ってきた。
近づいてくるとパーカーにジーンズというラフな服装の細身な少年で、凛々子と俺の間に割って入った。その姿は紛れもなく、アイツだ。
「神原!」
神原は俺抱きしめるように抱えて、大きな弧を描いてとんぼ返りし、50メートルほど凛々子から距離をとり、着地した。ありえない身体能力に驚愕する。空中に浮かんでいた建物や電柱やその他様々なものが、重力を思い出したように地面に落ちた。ゴガンゴガンと耳をつんざくような音がする。
何が起きているのだかさっぱりだ。とりあえず間一髪助かったらしい。神原に押し付けている胸の中で心臓がバクバク脈打っている。
「間に合ってよかった」
耳元で神原が呟いて、急に俺を突き放した。
「できるだけ遠くまで走れ!野上!」
「神原!おまえ、やっぱり俺の夢を食べるって嘘だったんだな!なんであんなこと!」
「ああでもしないとどんどん首突っ込んでくるだろおまえ!意味なかったみたいだけどな!いいから走れ!」
五〇メートル先で呆然とひざまずいていた凛々子が立ち上がった。
「たぁつきぃぃぃーーー!!!」
怒りの叫び声と共にたった2歩ターンターンと半分距離をつめ、3歩目で高く跳躍した。
「もたもたすんな野上ぃぃぃーーー!!!」
神原の聞いたことのない絶叫に、ああこれは本当にまずい状況なんだなと感じた。
神原の言うことを聞いてとりあえず走り出す。逃げることしかできないのか?俺にできることはないのか。
公園に逃げ込み、横倒しにしてあるコンクリートでできた土管のような物の中に潜り込んだ。陽平とキャッチボールをした公園だ。
神原が頑張ってくれているんだ。俺の夢が凛々子に食べられそうだから。俺も逃げてばかりいないで何かしないと。何か俺の夢が食べられるのは、すなわち俺自身が食べられることを意味するわけで、今たいへんな危機であるということだ。
変に冷静な自分がいる。なぜだろう。自分の命が危ない。神原まで巻き込んでいる。なのに。
ふと気配を感じて隣を見ると陽平がいた。いつの間に潜り込んでいたのか。いやそもそも、この世界の人間たちは皆消えてしまったのかと思っていたが。
「新。こんな所にいないほうがいいぞ」
陽平が困ったように微笑む。彼は俺が創り出してしまったんだ。彼がいる世界を作り出してしまった。
俺はこの世界をどうしたいのだろう。食べられて俺と共に消えてしまうのだけは避けたい。しかしこのままこの世界が残ったら、俺はここの住人になるのか。
陽平と反対側から俺の名を呼ぶ声がして、神原が入って来た。
「パラレルワールドに近づくほど夢は食べるのにエネルギーがいるんだ。さっき膨大なエネルギーを使った凛々子は、しばらくは食べられない。巻いてきたけど、俺たちを探してるみたいだ」
「神原、本当にありがとう。それであの、今だけ、陽平も一緒にいてもいいかな」
俺はおずおずと陽平を指す。神原は俺をまじまじと見た。
「陽平君がいるのか?」
「いるだろ、ここに」
「誰もいないぞ」
おいおい何を言ってるんだと陽平に障ろうとしたら、彼はスッと消えてしまった。
「だいたい、この世界の人々は凛々子が全部吸い込んだだろ。脆いものから消えるんだから。野上だけは、俺があらかじめセキュリティを強化しておいたから今こうしているんだ」
「神原すっげぇ」
「もっと褒めろ感謝しろ」
その時、突然ガンと硬い音がして振動し、コンクリートにひびが入って一気に割れた。思わず神原をかばったが、ここでは彼の方が断然動けるため余計な行為だった。手や顔に傷ができて血がでた。目の前で凛々子が仁王立ちしていた。
「逃げられないよ二人とも」
神原が俺の腕を取って走り出す。俺は抗って立ち止まった。
「凛々子さん!あなたは何がしたいんだ!」
「バカ野上!無駄だからやめろ!」
凛々子が手を顔の前でクロスすると、風が巻き起こる。バクっていうのは夢の中では万能らしい。
「凛々子さんの目的は、最初から俺の夢を食べることだったとしたら、今まで散々俺や神原にかまってきたのは何の意味があったんだ?」凛々子の起こした風は強くなり、立っているのがやっとだ。「俺が夢を見続けるように仕向けたのはわかる。でも、バクの真相を教えたり、神原に催促するようなことを言っていたのはなんなんだ?」
「野上、やめろ!それ以上聞くな!」
何故か神原が過剰に反応する。凛々子はクロスしていた手を力なく下した。
「樹、私たちは、ずっと人間が大嫌いだったね。樹の場合、お母さん以外の人間だけど」
話しかけたのは俺なのに、巻所は神原に向かって話し出した。
「はるか昔は、バクがたくさんいた。でも人間に悪夢を見せる、なんてデマが広まって大量虐殺された。残った少数のバクは、人間の形に変化して、人間の中に紛れ込むことで生き残った。今では人間たちは、バクの存在なんてすっかり忘れて、おとぎ話の生き物だと思っている。ひどい話」
凛々子の真顔を初めて見た。
「人間のせいで絶滅まで追い詰められたバクが人間の中で生きないといけないなんて、とんだ皮肉。でも、人間の夢を食べるにはうってつけの環境でもある」
「凛々子、それ以上言わなくていい」
神原はしゃがみこんでしまった。
「パラレルワールド完成間近の夢は、本当に極上なの!バクなら誰だって食べたい。でも、パラレルワールドを作り出す人間は、めったにいない。だから、実際にパラレルワールド間近の夢を人間ごと食べたバクはほとんどいない。夢新クンはとっても貴重なの」
「それで、凛々子さんは俺を狙ってたのか」
「樹が狙ってる人を横取りするつもりなんてなかったよ。でもあまりにももたもたしてるから、タイムリミットが来る前にあたしが食べることにしたの」
「神原が食べようとしてたのはフリだったんだろ」
反論すると、凛々子はニヤニヤと神原に流し目を送った。彼はゆらりと立ち上がった。「確かに最初は、野上の夢がパラレルワールド完成間近になったら食べる予定だった」
俺の目を見ずに、彼は言った。
「俺は人間ごと夢を食べたことはない。半端物の俺にそれができるのかもわからなかった。こんなに近くにパラレルワールドを創り出そうとしている奴がいるって知って、食べてみようと思った。」
俺を一瞥した。
「でもやめた。凛々子、お前ひょっとして、誰かを食べたんじゃないか」
凛々子は口の端だけで笑った。
「別にどうだっていいクラスメートだったよ。そうでなくても、人間は私たちバクに狩られたってしかたないでしょ。だから食べたってどうってことないの。」
凛々子が祈るように手を組むと、彼女自身が煌々と光りだす。
「樹、新クンを食べてよ。それで証明して。私のしたことを肯定してよ!!」
凛々子の体からパチパチと電気が放電して、解き放たれた。そこかしこに飛び散り、爆発が起きる。
「野上逃げろ!」
神原が煙にむせながら叫ぶ声がする。爆風で目の前がよく見えない。その中を突っ走った。凛々子の元へ。
目が痛い。熱い。手探りでその小さな身体を見つけて、抱きしめた。
視界が開けた。離れた所で伏せている神原が見えた。凛々子は攻撃は止めたが、俺を拒絶している。
「離してよ。どういうつもり?」
「離さない」
腕に力を込める。柔らかい身体は震えていた。
「ずっと辛かったんだな。苦しくて、耐えるのに必死になってた」
「何言ってるの?全然わからないよ」
「凛々子さんは、人を自分の手で消してしまったこと、後悔してるんだ。自分のしたことを神原に肯定してほしいってさっき言ってたじゃないか。あれこそが本音なんだ」
「うるさいうるさいうるさい!」
思い切り突き飛ばされて仰向けに倒れこむ。前にも似たようなことがあった気がする。凛々子は俺に馬乗りになり、俺の喉元に手を伸ばした。
「あたしはバクなの。人間の一人や二人消したってどうってことない。人間が消したバクの数に比べれば可愛いもんだし、人間への罰みたいなものなんだから」
「凛々子さん、そんなに悲しそうな顔して言っても、一生懸命に自己暗示してるようにしか見えない」
顔に何か降ってきて、温かく濡れた。凛々子は顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげていた。
「もう無理しなくていいよ」
彼女は俺の肩に顔うずめ、静かに涙を流した。
俺・神原・凛々子の3人は、ひっくり返っていたベンチを起こして腰掛けていた。辺りはすっかり荒れ果てている。
凛々子が完全に泣き止んだ頃、沈黙を破ったのは神原だった。
「野上が元の世界に戻るには、野上自身がこの世界を壊さないといけない」
「壊すって言われても」
凛々子の手によって壊れたも同然の姿ではないか。
「そうじゃなくて、完全に消すんだ。野上が望んで創った世界を、野上が必要としなくなれば消える」
陽平が生きていることを望んで創ってしまった夢の世界。ならば、陽平への未練を切ればこの世界は消える。
「この世界の陽平も消えてしまったんだよな」
神原は無言で頷き、凛々子は目を伏せた。でも確かに、公園に逃げ込んだときに陽平に会ったのだ。
「神原と凛々子さんは、自由に戻れるんだろ?先に現実の世界に戻ってて」
2人に向き合うように立ち上がった。
「野上、気づいているかわからないが、パラレルワールドは創り直すことができる。」
神原は俯いて言った。顔が見えないが、何かを押し殺すような声だった。
「教えたくなかったが、野上の本当の気持ちが知りたい」
凛々子が小声で「馬鹿ね」と呟く。
2人の顎を掴んで、無理やりこっちを向かせた。美少年と美少女が並んで似たような表情ーー目の表面は濡れていて、双方は驚きに見開かれているーーをしていた。
「『先に』戻っててって言っただろ」
わざと真面目くさった顔をしてみせた。
「俺はお別れしてこなくちゃいけない奴がいるんだ」
顎にやっていた手を2人の頭に乗せ、くしゃくしゃ撫でる。ニッコリ笑いかける。2人とも普段やられないことをされたのだろう。赤面している。
「あっちで待ってるぞ」
俺の手を払って神原が立ち上がる。
「あたしも」
撫でる手を離すと心なしか名残惜しそうな凛々子も神原の隣に並んだ。
急に目も開けられないくらい眩しい光が放たれ、治まった頃目を開けると2人は消えていた。
10 世界が消えるとき
「出てきてくれないか……陽平」
一瞬で、中学生の頃と何ひとつ変わっていない陽平が姿を現した。
いつものようにニコニコと微笑している。この笑顔に何度助けられてきただろう。この笑顔を失ってから、どれだけ耐え難い悲しみに押しつぶされそうになっただろう。
陽平の肩に手を伸ばす。肩に触れることなくすり抜けてしまう。やはり。
「おまえは、俺が願望で創り出した陽平じゃないんだな」
平気だ、うまくやれると思っていたが、胸が締め付けられて息苦しくなった。呼吸が少し乱れる。
「新。まだ大丈夫だから。ゆっくりでいいよ」
やっぱり陽平なんだなと思った。何も変わらない。器が大きくて、気が長くて、お人好し。
「陽平。ごめんな、心配かけて。俺がいつまでもこんなだから、おまえをこんな所まで来させた」
彼は静かに、俺の言葉に耳を傾けてくれていた。
「おまえの代わりなんて誰もいない。誰だって変わりはいないんだ。陽平はこれから先も、俺にとって大事な存在であり続ける。今度は心配かけさせることはしないから」
彼はただ頷いて、先を待ってくれる。
「大事な存在だなんて、いき、生きてるときに、言いたかった」
喉につかえるものを感じて唇が震える。目の奥が熱くて必死にこらえる。言い切るまではだめだ。
「陽平、ありがとう、ありがとう」
「新、笑って」
ああ、彼らしいなと思いながら震える唇をギュッと結んでから、グッと口角を上げた。「新には、笑っててほしい。でもたまには、思いっきり泣いたらいいじゃないか」
「ああ、そうするよ」
「待っててくれてる人たちがいるんだろ」
「おう」
新、と昔と同じように彼は呼びかけてくる。
「わかってるよ」
世界がサラサラと消え始めた。陽平の身体は淡い光に包まれ、ふわりと宙に浮いた。上昇していく。
触れられないとわかっていても、手をめいいっぱい伸ばした。
「陽平ぇぇーーー!ありがとう!ありがとう!」
伸ばした手をそのまま振る。辺りはすっかり消えてきていた。陽平も手を振って答えてくれる。
頬に熱いものが流れた。たまにはいいだろうと流し続けた。
11 エピローグ
ドアを開ければ、今ではお馴染みのモノトーンでまとめられたシックな部屋が迎えてくれる。
「すっげえ綺麗な部屋!本当に男子高校生か?」
「須藤は神原ん家来るの初めてだったな」
須藤は物珍しそうにキョロキョロと見回している。床にはこれから鑑賞する神原の映画コレクションが積まれている。
「まぁまぁ、立ってるのもなんだし腰掛けてろよ」
と俺は我が物顔で言い、ベッドに座ったら、
「きゃん!」
すぐ下から高い悲鳴がしてバッと離れた。
「な、なに今の……犬?」
須藤が不安そうに近づいてくる。よく見たら掛け布団がうっすらと盛り上がっている。掛け布団を端から一気に剥がした。
「お、女の子?!誰?!」
須藤が顔を真っ赤にして一歩引く。スミレ色のワンピースに包まれた華奢な身体が現れたのだ。ベッドに広がった髪は色素が薄く柔らかそうで、長い睫毛に縁取られた潤んだ目が俺を見つめていた。
「凛々子さん、何してるの」
彼女は優雅に身を起こしてぺたんこ座りをした。膝丈の裾が股の辺りまでずり上がり、白い脚が露わになる。
「新クンが来るって聞いて、来ちゃった」
「うん……いやあの」
「ああこれ?だって脱がせる楽しみがあったほうがいいでしょう?」
「服を着てる理由じゃなくて!」
凛々子の視線が妙に熱っぽい。彼女は妖艶に微笑むと、細い腕で驚くほど強い力で俺を引き寄せた。彼女はベッドに仰向けになり、その上に覆い被さる体制になる。
「新クン、あたし本気になったから」
「おいおいおい」
須藤に救いを求めると、顔を両手で覆って恥じらっている。しかし、
「指の間から見てるじゃねーか!」
ガチャリとドアが開いた。
「茶と菓子持ってきたぞ」
紅茶のいい香りと共に神原が入ってくる。入ってくるなり真顔で固まる。
「野上おまえ、よくも人のベッドで」
「か、神原違うんだこれは」
凛々子の上からどこうとするが、彼女は離してくれない。神原の冷ややかな視線が痛い。
「たっくぅん、お砂糖忘れてたわよぉ。て、あらあら〜」
間の悪いことに神原夫人まで来てしまう。
どうにかこうにかベッドから降りるがりりこが追い回してくる。
「ひぃぃ神原助けて」
「うるさいお前なんかどっか行け」
「えぇ?『野上にいてほしい』とか言ってなかったっけ」
「それは夢だろ」
「現実だって!」
今ここにいるのも、現実なんだ。窓から見える外は真っ青な空が続いていて、穏やかな日の光が俺たちを明るく照らす。
「野上、何急にニヤニヤしてるんだ」
神原がいぶかしげに言う。須藤は「本当だー」と笑い、凛々子は俺の顔を覗き込み、神原夫人は「うふふ」と微笑む。
今夜はよく眠れそうだ。俺が何も言い返さずに笑うと、神原も顔をほころばせた。
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