083
蒼龍は、龍の住処にある鎮守の森へと舞い降りる。それは、今もまだ己の背で丸まって泣き続ける少年を、龍王である緑龍の元へ送り届ける役目を、蒼龍が引き受けたからだ。
鎮守の森に、人族の少年が暮らしていることは、蒼龍も父の紅龍から聞かされ知っていた。森で迷っていた少年と櫻龍が出会ったことが始まりとなり、蒼龍や江龍も少年と話すようになった。人族を知らない世代である櫻龍は、他の人族と少年は違うと言い、人族と関わるなと言った蒼龍の言葉を聞かなかった。
そうして、いつの間にか蒼龍や江龍も、人族でありながら謙虚で慎ましい少年を、受け入れていた。それは、この三年で龍の住処に住まう他の龍たちにも徐々に伝わり、それまで危害を加えてきた龍たちや、邪険に扱っていた龍たちでさえ、少年の姿を見ると気まずそうに顔を背けるように変わっていった。
中には、少年に謝罪し、会話するようになった龍も存在している。それでも矜持が邪魔をして、謝罪できない龍たちの方が圧倒的に多かったが。
櫻龍が少年と盟友になったと話したのは、一年程前のこと。少年が不老であることを知った櫻龍は、少年と永遠の友であろうと誓い合ったのだと。番である白龍にも認めてもらえたのだと。少年が泣くほど喜んでいたのだと、嬉しそうに蒼龍と江龍に語った。
時が経ち、少年はアルトディニアへ旅立ってしまった。しかし、櫻龍は少年がアルトディニアに旅立つことは人族として、正しい形なのだと納得していた。
櫻龍は、少年と再び出会えることを信じていた。少年も櫻龍と同じように、再び出会えると信じていた。
産卵期に入り、会うことが叶わなかった櫻龍に「再会を楽しみにしている」いう言葉を、緑龍に託して少年はアルトディニアへ旅立った。
それなのに、誰がこんな形での永遠の別れが来ると思うだろうか。早すぎる別れは、覚悟できるものでも、納得のいくものでもなく……。
番の白龍から、卵が盗まれ、櫻龍が堕龍へ堕ちるかもしれないと知らされたのは、少年が旅立って数日後のこと。皆、龍の住処から還縁の場にいる櫻龍を見守っていた。
そこに突如、傍らに櫻龍の子を伴って少年が現れたのだ。まさか少年が櫻龍の卵を奪ったのか? そう言った龍もいたが、その疑問はすぐに払拭された。紅龍が現れ、事の顛末を語って聞かせたのだ。
少年は、【龍王を守護する者】と二人で櫻龍に堕ちてはならぬと、子は此処に居るのだと、ボロボロの姿になっても叫び続けた。
そうして、もう堕龍化は免れぬと思われた、その時。少年は、自らの命も省みず、龍術を用いて櫻龍の心を救った。親である蒼龍や江龍、番である白龍の声さえ届かなかった櫻龍の心に、少年の心が届いたのだ。そうして、自我を取り戻した櫻龍は、父である蒼龍へと語り掛けてきた。
己の闇は、もう払うことは出来ない。だが、ウィルの住まう世界を壊したくない。だから、せめてウィルの手で、己を逝かせて欲しい、と。
江龍や白龍にも、櫻龍の意志は届いていた。祖父である紅龍にも、櫻龍の声が届いたのだろう。無言で、紅龍はアルトディニアとの境界へ飛び立った。蒼龍達も、その後を追った。
ボロボロの姿となり、少年の命が器から、零れ出そうとしている。それでも少年は、櫻龍を送ることを拒んだ。大事な友を失いたくないと、初めて出来た友を手に掛けることはしたくないと、涙を零した。
残酷な願いであることは、蒼龍たちとて理解している。しかし、櫻龍の気持ちも蒼龍は理解できるのだ。自分という存在を忘れてもらいたくない。独占欲の強い龍だからこその願い。少年が発した『絶対に忘れてなんかやらない』という言葉は、櫻龍が言った通り、櫻龍や白龍にとって最高の手向けとなった。
番を亡くした龍は徐々に弱り、やがて命を失う。白龍も、いずれ亡くなっただろう。しかし、それより前に発端となった人族を恨み、堕龍へ堕ちる可能性は確かにあった。否、既に堕ちかけていたのだろう。……白龍の美しく輝いていた鱗が煌めきを失い掛けていたのだから。
櫻龍の選択は正しく、少年は櫻龍と白龍を苦しませることなく送ってくれた。だが、その少年の心は深く傷つき、今もまだ涙が枯れずにいる。
『少年よ、我が娘と婿は、其方に送られて幸せだったのだ。決して、悲しみに囚われてはならぬ』
鎮守の森で龍王へ預けても尚、身体を丸めたままむせび泣く少年の姿が、蒼龍の脳裏に浮かぶ。どうか、立ち直ってほしいと願わずにはいられなかった。
緑龍は、うずくまったまま動かないウィルを見詰めていた。アルトディニアへ旅立ったウィルを見続けていた。竜人族の青年と出会った時も、魔法士たちの罠に嵌められ龍術を使った時も、大精霊の作り出した人形と対話した時も、そして人を斬った時も、全てを見続けていた。
否。緑龍には、見続けることしか出来なかったのだ。龍王の能力をもってすれば、助けることは容易い。だが、それは過去と同じ罪を犯すこと。この世界は、既に龍王の管理下にあった世界ではない。
自らの力で生きているからこそ、そこには喜び、悩み、楽しみ、悲しみが生まれる。それが、他者に与えられたものであってはならないと緑龍は感じていた。
しかし、今回の出来事は、幼いウィルには重すぎた。大切に思っていた相手を、盟友であった櫻龍と友の白龍の命を自らの手で害さねばならなかったのだから。
『ウィルよ。其方には、残酷な別れじゃろうが、櫻龍も白龍もウィルに救われたのじゃよ。他の者では、天へ還らせることは出来なかったのじゃ。……今は、泣きたいだけ泣くがいい。じゃが、蒼龍も言うた通り、決して悲しみに囚われてはならぬ。この地に住まう龍たち、皆の願いじゃ』
緑龍の言葉に、ウィルの身体が揺れる。ずっと、堪えていたのだろう。
「……どう、して……どうして、どうしてっ! ……ッ……うわぁああああああああああっ!」
ウィルは、腕を地面に打ち付け、大地に縋るようにして、泣き叫ぶ。その泣き声は、鎮守の森だけでなく、龍の住まう森にも届く。余りにも悲痛で森に住まう龍たちも、少年が早く立ち直ることを天に祈り龍鳴を上げる。その泣き声は陽が昇り、そして、その陽が暮れるまで龍の住処に響いていた。
「礼を言う。⋯⋯我では、泣かせてやることは難しかっただろう」
「ウィルは、儂の弟子でもあるのじゃ。礼を言われるようなことはしとらんぞ」
ウィルが泣き疲れて意識を失うと、木の陰からフォスターが姿を現す。ずっと、その場所でウィルを見守っていた。緑龍は、ウィルからフォスターへと眼を向ける。姉龍の盟友であった古代神は、同胞を失い、盟友の姉龍を亡くし、その心を氷らせたと他の古代神から伝え聞いていた。
「其方は、まだ泣けぬのか」
「……泣き方など、遠い昔に忘れた」
「お主の姿を見れば、煌龍が悲しむじゃろうて」
「…………」
フォスターは、緑龍の言葉に答えることなくウィルを抱える。すると、その隣で丸くなっていた幼龍も起き上がる。今まで、ずっと傍から離れず、ウィルの隣に居たのだ。
「キュイー」
首を傾げ鳴く姿に、フォスターは溜息を吐く。亡くなった龍からウィルに託された想いは、フォスターにも届いていた。
幼龍は、母親から受け取るべき龍力をウィルから受け取った。だが、そのことが幸いして親を亡くした今も、堕龍にならず生きている。櫻龍も白龍も、幼龍がウィルの龍力を宿していることに気付き、ウィルに幼龍を託したのだ。
フォスターも、ロッツェに言われるまでもなく、そのことに気付いていた。幼龍をウィルから離すことは、簡単ではないが可能だ。魂に刻まれた記憶を、ほんの少し書き換えればいい。だが、それをしようとは思えなかった。
「其方も来い」
「キュ」
短く幼龍に告げ、家路を辿る。腕の中に居るウィルは、龍の住処に住んでいた頃に比べ、痩せたように見える。纏う服も、その器もボロボロになっていた。フォスターが肉体強化をしていなければ、その命は既になかっただろう。
「……馬鹿者。何故、呼ばなかった」
呼べば、駆け付けてやることも出来ただろう。恐らく、そうなれば古代神としての力を失う。それでも、助けたいと願ってしまった。
その時にフォスターも気付いたのだ。戯れで始めたことが、この容易く壊れてしまう存在が、己の心の有り様を変えていたことを。同胞を失い、盟友を亡くし、止まってしまっていた己の時間が再び動き出していたことを。
家に着き、ウィルをベッドへ横たえると、ウィルの魂を抜き取り、器の修復を始めようとした。幼龍は、抜き出されたウィルの魂へ寄り添うように座っている。その姿を見て、きちんと見極める幼龍に感心していた。
「ねえねえ。随分とボロボロだけど、それって治るー?」
間延びした声に、フォスターは大きく溜息を吐く。声と同時に、部屋の中にロッツェが現れたのだ。
「貴様を呼んだ覚えはないが?」
「別にいいじゃん。その器を治すの手伝おうと思って来たんだし」
「……何を言っている?」
「壊れる前に時間を戻してあげる。ちゃんと、レマニーとかにも許可もらってきたよー。大変だったんだから、感謝してよねー」
ロッツェの言葉に、フォスターは目を見開く。いくら神であっても侵してはならないことがある。そのひとつが時間だ。時を戻すことは、神にとっても禁忌なのだ。
「ならん。それは禁忌だ」
「だからー、許可は貰ってるって。別に世界の時間を戻すわけじゃないしさぁ。ただ、今回だけね。これが、その許可書だよ。修復不可の場合、器の時を戻すことを認めるって書いてあるでしょ? それ、どうやっても真面に直るとは思えないんだよねー」
差し出された書類を受け取ると、そこには確かにロッツェが伝えた言葉が書かれている。
「どうやって……」
「えー。それ、訊くのー?」
「否、いい。どうせ、碌なことじゃない」
眉間を押さえるフォスターにロッツェはフフンと笑う。確かに、碌でもないと言われれば、そうかもしれない。反対した神々を脅してきたのだ。フォスターが魔神として堕ちれば、世界の崩壊が早まる。そうなってもいいのかと。
「まあ、そんなことは置いといてー。ついでに、もうちょっと魂君の器を強化しなよ。幼龍が手に持ってんのって、櫻龍と白龍の龍玉でしょ。それ使えば、器の負担なしで、ふつーに龍力を使えるように出来るようになるからさ。ちなみに、そっちの許可も龍王様と龍達に貰ってあるから、心配ないからねえ。僕ってば、ちょー頑張ってきたんだから」
フォスターがウィルを見守っている間に、黄龍と蒼龍、そして紅龍の元を訪ね、器の状態とウィルの負担なく龍力を使うために、龍玉が必要なことを話して、許可を貰った。勿論、此方は脅していない。ただし、幼龍を育てるためとは言ったが、本当の話なので脅しではない。
ロッツェは、そのまま器の修復を始める。よくこんな状態で生きていたなと思えるほどに損傷が激しい。臓物も骨も腱も、あらゆる箇所が傷ついていた。
「そうそう。ルース達にも、ちゃんと加護を授けるように頼んでおいたよー。ほら、中途半端だったでしょ。魂君なら、与えられた力をちゃんと使いこなせるだろうしさー。躾も行き届いてるから、間違った方向にもいきそうにないしねー。僕も加護つけちゃおうかなぁ。そうしたら、時空間魔法と重力魔法も覚えられるようになるだろうしねー。うーん、これぐらいが一番調整しやすいかな。後は、僕の加護を目一杯詰め込んでっと、こんなもんかな。あ、流石に服は戻さないからねー。めんどくさいし」
そこには、フォスターが創り上げた器が横たわっていた。そう、神界で創った頃の器だ。
ロッツェは龍の住処に、度々訪れていた。その時の状態を知っていて、それでも一番、器の状態が安定していた時に戻したのだ。過度に時を戻せば、その分ロッツェに負担がかかるというのに。
「すまない。其方も我と同じように、壊れていたのだな」
「は? な……に、言い出したのかな?」
「アレを一番慕ってたロッツェが、壊れぬ訳がなかったというのに……」
古代アルトディニアで反乱が起こり、龍王が堕とされた。この時、三柱の一柱である神フォスターは心を凍らせた。そして、最高神である『叡智を司る神』は、沈黙を貫くため眠りに就き、未だ目覚めていない。
「やだなー。しんみりした雰囲気って苦手なんだよね。大丈夫、大丈夫。壊れたりしてないって。まだ、やりたいことあるしねー。まずは、魂君に治って貰わないと。知ってた? 帝国で、余計なことしてくれちゃってる人族がいるんだよねー。もう、おかげで大変なことになっててさ。魂君には、そいつらを何とかしてもらおうかと思って――」
「ロッツェ!」
フォスターが怒鳴りつけると、ロッツェは話すことを止め、フォスターへ視線を向ける。
「それほどの怒りを抱いていたなら、何故、我を助ける?」
「うん。正解だ。ようやく気づいたね。僕は、君に対して怒りを抱いている。……本当、やることなすこと中途半端過ぎて笑えるよ」
「⋯⋯ロッツェ」
「アルトディニアに生きる者たち全てを愛するが故に、魔神に堕ちることを拒み心を凍らせた君も、龍王が去った後の世界がどうなるかを悲しんで、敢えて堕龍になった君の盟友も中途半端すぎて笑えない」
「たとえ貴様であっても、ヴィルヘルミナのことを悪く言うことは許さぬぞ」
「悪く言ってるつもりはないけど? 僕は事実を言ってるだけ。まあ、僕はベリウスが目を覚ますまで消えたりしないって決めてる。ああ、君が変なこと言い出すから、忘れるところだった。これ、紅龍から預かった。魂君に渡しといて」
手渡されたのは、紅の宝玉。ロッツェの説明だと、通行証だという。この宝玉にウィルの魔力を込めると龍の住処へ転移する。逆に、龍の住処から帰りたい場所を思い描き、魔力を込めれば帰ることが出来るという優れた物だ。
「まあ、それを使うかどうかは、魂君に決めさせればいいんじゃない? 後、器を自分好みにしたいのは理解できるけど、その器って幼すぎるから、もう少しくらい成長させてやりなよね。ちょっと、可哀想で笑えた」
ロッツェはおどけたように告げると、虚空へと姿を消した。その虚空を見つめ、フォスターは呟く。
「中途半端か⋯⋯そんなこと貴様に言われずとも、我が一番解っている」




