在栖-3-
端的に言うと。
在栖の仕事は未遂に終わった。
依頼人が、死亡したのだ。
Dの事務所の入ったビルに着き、エレベーターを待っている時に、情報屋から連絡が入り、発覚した。
『依頼人が死亡した。Dに殺されたとみて、まず間違いない』と。
驚きで数秒固まった在栖だったが、すぐに気を取り直すと、情報屋に「ありがとう」とだけ告げて、エレベーターに乗り込んだ。
まだ何か言いたげだった彼には悪いが、依頼でなくなったとしても、在栖はDに会ってみたかった。
裏社会で伝説と謳われる、三人の殺し屋。彼らと契約を取り付けるなど、Dという人物もまた、かなりの大御所なのだろう。
-どんな奴なんだろう。
-Dを見た時…
-俺の目には、何が見えるのだろう?
七階に着き、エレベーターの扉が開くと、赤い髪の青年がひょっこりと顔を出した。
「いらっしゃい。君、アリスくん?」
「………そうですけど」
自分の名前を知っている。一体何者なのだ。在栖は警戒心を隠そうともせずに間合いを取る。
そんな在栖に気を悪くした様子も無く、青年はエレベーターの扉が閉まらぬよう押さえながら口を開く。
「ああ、ごめんごめん。俺はカスト。Dの…秘書?みたいなもんかな。まあ怪しいものじゃないから、安心して」
そう言ってにっこりと浮かべた笑みは、彼のたれた目と相まって、とても人懐っこく見えた。
「…」
とりあえず、今攻撃してくるつもりは無さそうだ。そう思った在栖が警戒をある程度解くと、
「じゃ、Dの部屋に案内するよ」
とカストは背を向けた。
簡素なデスクが置いてあるだけの部屋で、窓から射す陽光を背に浴びながら、その男-Dは薄笑いを浮かべて座っていた。
「やあ、いらっしゃい、在栖くん」
毛先の赤い白髪は、彼の存在そのものから、現実味を奪っている。聞いていた通り、目元は見えない。
だが、在栖の目は、それ以上彼を見ていられなかった。
「………っ!!っあっ…!?」
その視線は、Dの背後に釘付けになった。目をいっぱいに見開き、在栖は固まる。
カチカチ、カチカチと、耳障りな音が聞こえてくる。
気持ち悪いぐらい冷静に、それは自分の歯が立てているものだと気付いた。
自分の体の芯を、黒くどろりとしたものに持って行かれそうになる。
可笑しいぐらい冷静に、それは自分の中に生まれた恐怖だと気付いた。
在栖の様子を黙って見ていたDは、満足げに吐息のような笑みを漏らした。
「…やはり、噂は本当だったようだね。君には-君の瞳には、」
苦しい。息が酷くしづらい。吐く息は途絶え、吸う息は体内に入っていかない。
見てしまった。とてつもない数の『それ』を。
「この世のものではないモノが、見えるんだろう?」
そこにいることすら忘れそうになっていたDの声が、在栖を現実に引き戻した。
何とか、『こちら側』に存在するもの-Dとカストに、意識を集中させる。
「…信じてくれたのは、あなたで三人目です」
在栖は、生まれた時から目がほとんど見えなかった。何もかもがぼやけた色の塊に見えた。
ただし、それは『此岸』にあるものだけだったが。
この世界には、同時に重なって存在する『此岸』と『彼岸』がある。生きて実体を持っているものが棲まう『此岸』と、死んで思念体のみになったものが棲まう『彼岸』。
二つは確かに重なり合っているが、確かに別離した存在である。そのため、それぞれに棲まうものたちに、互いの存在は見えないのだ。通常は。
そう、在栖は異常な人間だった。本来ならば見えるはずの無い、『彼岸』が見える。霊感がある、などというレベルではない。何しろ彼には、『此岸』よりも『彼岸』の方がはっきり見えたのだから。
「そりゃあ信じるさ。金に貪欲なあの情報屋が、嘘をつくはずもないしね。電柱にぶつかって謝るような青年が、殺し屋として生き抜いているなんて、そのぐらいのハンデがあって当然だ。」
「…その情報はどこから」
「ソースは明かせないね」
必死で笑いをこらえているカストを軽く睨み、在栖は再び、Dの後ろに目を向けた。
「…あなた、どこか体が悪かったりしないんですか?」
「全然、そんなことは無いよ。どうして?」
「………いえ」
Dの後ろには、おびただしい数の思念体がいた。それも、すべてが怨念の塊である。
-まあ、こんな仕事してたら当然か。
-負の思念体は、少なからず此岸に影響を与えてくるものだけど…
-何ともない、ってとこが、やっぱり尋常じゃない。
在栖が見えていることに気付いたいくつかの思念体は、在栖の目を介してその念を送り込もうとしてきたのだが、在栖は簡単にそれらを跳ね飛ばす。
-生憎、生まれた時からこれだからね。慣れてるんだよ。
黄色い瞳でそう語りかけ、怯えた様子の彼岸のものたちから、此岸の二人に視線を移す。
「…今回、あなたを殺すよう俺に依頼してきた人間がいました。そいつを殺したのは…」
「ああ、私だよ。正確には、私の指示を受けた彼が、だけどね。」
『彼』とDが指したのは、Dの隣に立つカストだった。
「…あなたも殺し屋だったんですか」
「…俺は、同業者殺ししかしないけどね。」
「…」
『同業者殺し』という単語にわずかに目を細めたものの、在栖はその無表情を崩さない。
「-よく分かりました。俺が訊きたかったことは以上です。では」
そう言って、背を向けた。
が、彼の足を、Dの言葉が止める。
「君、私のところで正規社員になる気は無いかい?」
「…?」
いきなり何を、と訝しげに振り向いた在栖だったが-Dを見て、固まる。
先ほどまでとは段違いの殺気が、いつの間にか部屋に満ち満ちていた。
「もちろん、強制はしないよ。でも、君ほどの殺し屋が専属契約も持たずにフラフラとしているのは、あまりにも危険だ。もう君の評判は、こちら側の社会の誰もが知っている。どうやら君自身に、その自覚は無いようだけれど」
自覚が無い、わけではなかった。
契約を結んでしまうと、入ってくる金が減る。
だがそれ以上に、在栖は、この社会から抜け出せなくなるのが怖かった。
まだ在栖は十八だ。少なくとも、あと六十年は生きたい。
常日頃から彼岸が見えているからか、在栖の『生』に対する執着は、異常なものがあった。
死にたくない。そのためには、こちら側の社会にいつまでもい続けることは、得策ではない。
だから、どこの業者とも契約は結ばなかった。
-無理さ、無理だよ。
声が、聞こえた。
-お前はもう戻れないよ。
-なんだと?
-そんなに人を殺しまくって。そんなに殺しの技術を磨いて。
-お前に、向こうでの生活ができるわけがない。
-うるさい。
-素直になっておけよ。でなけりゃお前…
-黙れ。
-今ここで、死ぬぞ?
声の出所を探してみるも、目の前のDの後ろには数えきれないほどの思念体がいて、どれが語りかけてきたのか判然としない。いや、もしかしたら、すべてが語りかけてきたのか。
Dの笑みが見える。その身にまとう殺気までも、目に見えるようだ。
死にたくない。
在栖の答えは、決まっていた。