廻-3-
「おやすみ、遥」
包帯でその顔を隠した廻は、『遥』に声をかけ、いつものように眠りについた。
異常を確認したのは、翌日の朝のことだ。
窓から入る陽光を包帯越しに感じ、廻は目を覚ました。今日はまだ、仕事の予定は入っていない。
ゆっくりと起き上がり、包帯で視界を遮っているのにもかかわらず、真っ直ぐに洗面所に向かう。
洗面所の鏡は、取り外してある。自分の顔をなるべく見ないようにするためだ。包帯を外して、丁寧に洗顔する。
タオルで雫を拭き取り、振り向き-廻はそこで、初めて異変に気付いた。
-?何かしら…
昨日まで、当たり前にそこにあったもの。
自分にとって、確かに必要なもの。
「-っ!!」
しばらく気づかなかったのも無理はない。廻にとってそれは、確認するまでも無く絶対にそこに存在し続けるはずのものだったのだから。
「遥!!?」
『遥』-瓶に詰められた女性の生首が、消えていた。
☆
廻が七階でエレベーターを降りると、見知った顔がひょっこりと現れた。
「や、ようこそ、メグさん」
にこにこと爽やかな笑みを浮かべる、カストが。
「…あなたね、遥を連れて行ったのは」
「あっはは、そんな睨まないでよ」
眉を下げて笑うカストを、廻は静かに睨みつける。
「遥を返して」
「今は無理かな」
笑顔のまま口だけを動かす相手に、廻の苛立ちは最高潮になる。
「…そう。じゃあ、勝手に探すわ」
「おっとと、まぁまぁ、待ってよ」
立ちふさがるカストを怒鳴りつけようと口を開き-だが廻は、声を出すことができなかった。
怖気が、した。
カストのその人懐っこい顔は確かに笑みを浮かべているのに、その赤い目は微塵も笑ってなどいなかった。かといって、怒りをたたえているわけでも殺気を発しているわけでもない。ただ、その目には感情が無かった。
「…あのねぇ、メグさん」
ふいに、鼓膜を優しい声に絡め取られる。
「……何よ」
「『遥さん』がここに来たのはね、『遥さん』の意志なんだよ?」
「………嘘」
「本当だって。だって、『遥さん』がそう言ってたもん」
「………」
沈黙が、二人の間を支配する。
-ねぇメグさん。俺知ってるんだよ?
-メグさんは賢くて聡い人だからさ。どこかで気付いているはずさ。
-『遥』さんは、もういないんだってことに。
-でも。
「…本当に?本当に、遥がそう言ってたの?」
絶望したような、それでいて何故か底抜けに嬉しそうな顔で、廻はカストに訊ねる。
その表情を見て、カストは確信した。
-でも、『遥』さんを喪ったばかりのメグさんは、確かに『遥』さんの生存を信じていて。
-その時作られた虚構から、まだ抜け出せてないんだよ、あなたは。
-だから。
「うん、言ってたよ。」
-だから、他の人に認めてもらいたかったんでしょ?
-『遥』さんは、確かに存在しているんだって。
廻の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「はっ…遥、が、そう、言うなら…」
涙に滲んだ視界は、目の前のそれを捕えることができなかったのだ。
「仕方…ないわね…」
「うん、俺も、そう思うよ。」
目の前で微笑む、赤い悪魔の顔を。
☆
「D、それ、どうするの?」
Dの事務所に戻り、カストは開口一番そう訊ねた。
Dのデスクの上には、瓶入りの生首-『遥』が置いてある。
「…廻は、あの部屋に満足したのかい?」
質問を返されたカストは、だが嫌な顔一つせず、笑みさえ浮かべて答えた。
「うん、すっごく気に入ったみたいだよ。」
Dの事務所の正社員となったものには、部屋が与えられた。
事務所の上下階である六階と八階に、合計七部屋。社員寮のようなものだ。
現在埋まっているのは、今回入居した廻を合わせて六部屋。内一部屋は、カストの部屋だ。
廻の部屋の壁に、カストはガラスケースを埋め込んだ。その中に、『遥』がいる仕様だ。
ただ、ガラスケースの中の『遥』は、もちろん偽物だが。
「-これは」
Dがゆっくりと口を開く。
「いざという時の、質にするんだよ。ありきたりだけどね」
「ふうん。捨てないの?」
「可哀想だろう」
言いながらもクツクツと笑うDに、カストも笑顔になる。
「まぁ、Dがそう言うなら、俺は何がどうなろうがどうでもいいけどね」
そんな二人の会話などつゆ知らず。
廻は、今も部屋で、『遥』と話している。