廻-1-
彼女は、裏社会の中でも都市伝説のような存在だった。
確かに存在しているはずなのに、誰もその姿を知らない。
-いや、正確には、『本当の姿を知らない』のだ。
わずか一時間、依頼する時間が違った二人が彼女の話をしたところ、見事に噛み合わないのだ。
一方は、妖艶な美女だったと言い。
もう一方は、精悍な顔つきの少年だったと言う。
ただ、コロコロと変わる外見に反し、その名前だけは変わらずに、裏社会に存在し続ける。
彼女の名は-
「ねぇ、遥」
広々とした部屋に、唯一置かれている大きな鏡。その鏡に向かってメイクをしながら、少女は口を開いた。
「ワタシたち、裏社会では結構有名なんだって。ついこの間飛び込んだばかりなのに…裏社会って、ハリウッドより全然甘いわね」
「………」
「ふふ、事実でしょ?『こちら側』は力の無いものには厳しいけど、力を持つ者には果てしない富を与えてくれるわよね。こんな心地良い弱肉強食を感じられるなんて、この国もまだまだ捨てたもんじゃなかったわ」
相槌の一つも打たない相手に向かって、少女はマスカラを重ねながら言葉を紡ぎ続ける。
「ねぇ、遥。ワタシたちならきっと、どこに行ったって大丈夫よ。そう思わない?」
「………」
淡いピンクのグロスを塗り終え、少女はにっこりと鏡の中の自分に笑いかけた。鏡の前の机に広げていたメイク道具の一式を片付け立ち上がると、束ねていた長く美しい黒髪を解き、さらりと流す。
くるりと振り返ると、ふわりとスカートが膨らみ-先ほどから一言も発しない相手に、少女はやや照れ臭そうに微笑んだ。
「やだ、やめてよ。遥の方が、何十倍も、何百倍も綺麗よ。」
瓶の中で美しい微笑を浮かべる、その生首に向かって。
☆
洒落た雰囲気の小さなカフェの一席に、少女は先ほどから腰かけている。
と、彼女の向かいから、一人の青年が現れた。
「ごめんごめん、待った?」
申し訳なさそうに謝る青年に、少女はにっこりと微笑んだ。
「ううん、全然」
青年の頼んだコーヒーが来ると、少女は待ちかねていたように角砂糖を二つ、そのカップに入れた。
「おっ、気が利くじゃん」
「ははは、もう慣れちゃったもん。修くんいっつも、お砂糖二つだもんね」
「さすがみー子、俺の将来のお嫁さん」
「もぉ、やめてよこんなとこで!」
少女の言葉に、二人は声を上げて笑う。
と、一通り笑い終えてから、少女がすっと席を立った。
「あれ、どこ行くの?」
「お花摘みに」
「ふはっ」
吹き出した青年を残し、少女は店の奥へと姿を消した。
その後、青年は突然苦しみだし、倒れ、そのまま息を引き取るのだが-結局少女は、帰ってこなかった。
☆
口座への入金を確認し、青年は依頼人に電話をかけた。
『…はい』
「どうも。入金、確認しました。この度はご利用ありがとうございました」
『…ありがとうございます。…本当に、ありがとうございました』
「いえいえ、俺は仕事でやってるだけなんで。では…っと、そうそう。あなたのお顔の情報は、誰の目にもつかないようちゃんと処分しておきました。ご安心ください」
『…はい。何から何まで、本当にありがとうございます』
「それでは、俺はこれで。またのご利用が無いこと、お祈りしています」
目の前に通話相手がいるわけでもないのに、にっこりと愛想笑いを浮かべ、青年は通話を終わらせた。
ふう、と息をつき、鏡の前に腰かける。ストッパーを外し、椅子をくるりと反転させた。青年の切れ長の目と、瓶の中の『遥』の目が、ばちりと合う。
「…ねぇ、遥」
青年は机の上からメイク落としのシートを一枚取り出し、するり、するりとメイクを落としていく。
「俺…、ワタシ、もう一回あなたのメイクがしたいな。ねぇ、久しぶりに、さ。良いでしょ?」
「………」
「…そっか。…まぁ、遥がそういうなら仕方ないかぁ。ちぇー」
「………」
瓶から、答えは返ってこない。
完全にメイクを落とした彼女は、その顔に、ぐるぐると包帯を巻いた。鼻と口は出し、気道はしっかり確保する。
布団もベッドもソファも、何もない部屋で、彼女は横たわった。
「…ねぇ、遥。」
愛おしそうに、幸せそうに。生首に語りかける彼女の耳には、確かに聞こえているのだ。
「…おやすみ」
『遥』の、「おやすみ、廻」という声が。
裏社会で、『顔の無い女』として有名になっている殺し屋。
彼女の名は、廻。