美少女と骨盤爆発サラリーマン
都会にも雪は降る。
田舎に住む人に言わせれば、「何を当たり前の事を」と鼻で笑われるかも知れない。だが、田舎に比べれば都会は極端に積雪量が少ない。
「これ……辞表です……」
何の前触れも無く、痩せた男が辞表と書かれた封筒を差し出す。社長は何も言わず、それを受け取る。
「これで私も、晴れて自由の身か……」
今しがた辞めた会社のビルを見上げ、痩せた男はニヘラッと笑みを溢す。
今日はホワイトクリスマスだ。楽しい楽しいクリスマスなんだ。
くすんだ茶色のロングコートを身に纏った男は、雪の降る街を歩き出した。
街には人が溢れていた。手を繋ぐカップル、楽しそうに笑う親子、サンタのコスプレをした若者、そのどれもが男にとって眩しいものであった。
「今日はクリスマスイブか。ケーキでも買って帰ろうかな」
男は近くの店に立ち寄る。
自動ドアを潜ると、甘い香りが鼻を刺激する。
「そう言えば──」
男はある事を思い出してしまう。
「私は甘い物が苦手だった」
やりきれない。こんなのはあんまりだ。
男は悔しそうに唇を噛み締めた。
その時──
「どうかなさいましたか?」
澄んだ美声にハッと顔を上げると、そこには美少女が心配そうな顔で立っていた。
「具合でも悪いのですか?」
男は直感的に悟った。これは『運命なのだ』と……。
気付けば少女の手を掴んでいた。
「ちょっと時間を下さい」
男は一瞬躊躇したが、エサを頬張るロバのような表情を浮かべると少女の手を強く引いた。
『運命』。そう、運命なのだと、自分に言い聞かせる。
店の前で立ち止まる。見渡せば、変わらない街の風景が映し出される。
「サラリーマンなんですか?」
「サラリーマン──」
不思議そうな顔で尋ねてくる少女に、思わず口ごもる。
しかし、ここで立ち止まる訳にはいかない。
「脱サラして今はフリーです」
男は、吐き気を催してしまうような満面の笑みを向けた。
「そうなんですか」
少女もまた、可憐な満面の笑みを向ける。
「ケーキ買おうとしてたんだ」
「良いですね、ケーキ」
「でも、甘い物が苦手なんだよ」
少女は戸惑った。空は雪に覆われているのに、何故この男の人はケーキが苦手なんだろう?
少女は不思議に思った。
「ケーキ、股間に塗りたくろうと思ったんだ……」
しんしんと雪が降り注ぐ中、男は声を震わせた。
か細い。なんてか細いんだろう。少女が声をかけようとする。
男は泣いていた。声を噛み殺して、ただ大粒の涙を流していた。
「良かったら……一緒にどう?」
少女は困った。自分にはまだ早い。ここは穏便に断ろう。
少女は言葉を発しようとしたが、驚くべき出来事に開きかけた口をすぐさま閉じた。
「ああ……ああ……」
身に染みる冬の風が吹く。そんな中、男はスーツのズボンを脱ぎ始めた。
慣れた手つきで革のベルトを外し、焦らすように焦らすように──ズボンを下ろした。
「でーんでーんむーしむーし、かぁーたつぅーむぅーりぃぃぃぃぃ♪」
男の涙はすっかり乾いている。上機嫌に口ずさんだ童謡は、半音だけずれていた。
しかし、少女は指摘しなかった。母の教えを貫いたのだ。
「素敵です」
少女のその言葉に、男は身震いした。
歓喜、感激、感動、どれ程の言葉を用いても今の彼の膝の裏の痒みは表せないだろう。それほど、彼は喜びにうち震えていた。
「そこの貴様! 何をしている!!」
喧噪。確かに街は喧噪を極めていたが、それとはまた異なった喧噪に二人は振り返った。
「公衆の面前だぞ! 場を弁えろクズ人間!!」
見ると、サンタのコスプレをした屈強な男二人が何事か怒鳴り散らしながら駆けてくる。
警察っぽい帽子を身に付けている事から警察なんだろうなと、楽観的に男は悟る。
「抵抗は罰金なり!!」
少女が身を引くと、有無を言わさず警官の一人が警棒を振り下ろしてくる。
いつ以来だろう。こんなスリルを味わったのは。
小学五年生の時、友達の吾郎君に『マスカルポーネ』と偽って自分の爪をご馳走した時も、こんな感じでドキドキしたな。
男はスウェーバックで警棒を軽々とかわす。
「でーんでん、むしむしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃやああああああああああっはあああああ!!」
極上の頭突きを浴びせる。これ以上無い……これ以上無い程美しい頭突きだった。
警官は重力に逆らって空を飛ぶと、空中で爆死した。
降り注ぐ肉片は、儚げな粉雪のようで幻想的だった。
「失礼しました、皇帝陛下!」
もう一人の警官は開脚前転が得意らしく、くるくると開脚前転で巣に帰っていく。
「……追わないんですか?」
「取るに足らないよ」
穏やかな沈黙が二人を包む。照れ臭そうにはにかむ彼女に見とれてしまっていたとでも言うのか。
男はやれやれと、溜め息をつく。
「触ってみるかい?」
通報されたって構わない。さっきみたいに追い返せばそれで解決だ。
清々しい気分に、男は微笑んだ。
少女は恥ずかしそうにもじもじするが、ゆっくりとその手を差し伸べる。
触れるか触れないか──そこそこ際どい所で、彼女の手が止まる。怯えているのだろうか?
「明日はきっと来るよ」
男は少女の手を取ると、優しく自分の下腹部に導いた。
白魚のようにきめ細かい手が、下腹部に触れる。
世界が産声を上げた瞬間だった。
「温かいです……」
「人の温もりなんてちっぽけな物さ」
二人はひたすら頭を撫で合った。時を忘れる程に……。
男の頭が禿げる一歩手前、少女は撫でるのをやめた。
「運命……ですよね?」
「間違いなく運命だよ」
こうして二人出会えた事は、今後教科書に載る事だろう。
仮に載らなかったとしても、深夜のラジオで流されるはずだ。
まさに奇跡。人間とは素晴らしい生き物だ。
「実は私、脱サラしてサラリーマンではなくなったんだけど」
「先程、仰ってましたね」
男は緊張していた。これは言っても良い事なのか?
もしもこれを話して彼女のお通じのリズムが狂ってしまったら……。考えるだけで頭痛がしてくる。
だが、男に残された道は一つしか無かった。
深呼吸し、思い切って告げてみる──
「私、もう少しで死ぬんです」
言った……言ってしまった。もう後には引き返せない。彼女のお通じのリズムは、果たして無事なのだろうか?
おずおずと彼女を見やると、意に反して少女は笑顔だった。
「苦労したんですね」
全ての罪を包み込むかのような柔らかな彼女の笑顔を目の当たりにして、男は自分の腸がギュルリと鳴ったのを感じた。
彼女なら大丈夫。全てを打ち明けられる。
「病気……なのですか?」
男は決意を固め、口を開く。
「私、もうすぐ骨盤が爆発して息絶えるんです」
ついに打ち明けてしまった。
いくら覚悟を決めたと言えど、やはり口内はパリッパリに乾燥していた。
都会の風は冷たかった。
容赦無く吹き付けるそれは、もはやどの季節に吹く風よりも風らしくあった。
少女は微笑む。
「病院、行きましょっか」
男は頷く。力強く頷く。鞭打ちになろうが関係無い。この際、鞭打ちにでもなんでもなってやろう。
二人はガッチリと手を繋ぐと、緩慢な足取りで病院へと向かって歩きだした。
「残念ながら、余命はあと一週間……持っても、残された時間はあと一時間でしょう」
「そんな……なんとかならないのですか?」
「我々は玩具売り場の店員じゃない。壊れた玩具を直せるのは、その道のプロだけだ……分かるね?」
男は、病院のベッドに横たわりながら少女と医師のやり取りをぼんやりと聞いていた。
麻酔が効き始めたのか、やけに眠い。重い瞼を必死に抉じ開けていると、優しい香りがした。
「駄目でした……治る見込みは皆無だそうです」
彼女だ。彼女が病室に入ってきたんだ。
男は寝ぼけ眼で少女を見つめながら、そんな事を脳内で反復した。
柔軟剤だろうか? それにしても彼女は良い匂いだ。
「大丈夫、そんなに気にしてないから」
強がってはみたものの、やっぱり死ぬのは怖かった。
得体の知れない“死”という事象。
もういっそ“死”という概念その物が消え去ってくれれば良いのに。
男は恐怖にうちひしがれた。
「あたし、貴方に会えて良かった」
「……私もだよ、彩花」
「愛美です」
「……私もだよ、愛美」
「本当に良かった」
少女は泣いていた。笑顔のまま泣いていた。
涙でグシャグシャになっていても、彼女は可愛らしかった。可愛らしい故に、心が痛む。
「死にたくない」
不意に、口を突いてそんな言葉が出てしまった。
少女はハッとする。家の鍵を掛け忘れたのだろうか? それともエアコンの消し忘れだろうか?
しかしこの寒い時期だ、エアコンと言う線はいくら何でも薄いだろう。
男は思考する。
「そうですよね、あたしももっと貴方とお話がしたいです」
「………」
「もっともっと……貴方と……!」
段々と、少女の台詞に嗚咽が混じり始めてくる。少女も辛いのだろう。
純白のベッドは、仄かに薬の匂いがする。
「こんなに早いお別れなんて……あんまりです……」
「私に……私に娘がいたら──」
「え……?」
男は、精一杯の優しい微笑みで少女を見上げる。
「きっと君みたいな人だったのかな?」
少女は泣き崩れる。
君には涙なんて似合わないよ、笑って。
男は口を開こうとしたが、突如襲った激痛に身を捩る。
「……!! 大丈夫ですか!?」
「うっ、うがああああああああああ!」
腰に猛烈な激痛が走る。息を吸うのもやっとの程の痛み。
絶え間無く無意識に発せられる断末魔の叫び。
「誰か! 誰か助けて下さい!!」
少女は叫んだ。手元にナースコールという文明の発達がもたらした、とても便利なブツがあるのに大声で叫んだ。
ちょっぴり原始的な彼女も可愛らしいと、男は断末魔の要所要所に笑い声を挟む。
「うぎゃああああああああああっひゃひゃひゃひゃぐぎゃああああああああああうひひひへはははのわあああああああああああああああいひひひ!!」
「どうかしましたか!?」
少女の声を聞き付け現れたのは、ナースのコスプレをした年老いた医師だった。
「まぁクリスマスイブだもんねうぎゃああああああああああああああああああああ!!」
医師は叫ぶ。
「お嬢さん、ここは危ないから! 危ないから退がるんだ!!」
「嫌です! 死なないで!!」
徐々に霞んでいく意識の中、男は悟った。これが人生なんだと。
骨盤が爆発する持病を抱えてても良い。むしろ爆発しても構わない。君にこの言葉を伝えられるのなら──
「短い間だったけどありがとう。好きだよ……」
少女にちゃんと届いただろうか?
脳を揺るがす爆発音と共に、男の意識は塵も残らず消し飛んだ。
「そんな……あんまりです……」
ショックで泣き崩れる少女に、ナースのコスプレをした医師が寄り添うようにして囁く。
「彼は大切な事を我々に教えてくれた。君も強く生きるんだ」
少女は立ち上がり、キュッと拳を握り締める。
「あたし、頑張ります。あの人の死を無駄になんてしません……ありがとうございました」
唇を一文字に結んだ少女の瞳に、曇りなど無かった。
迷い無き意志には、きっと最高の人生が待っているだろう。
命とは……尊い物である──
~fin~
都会にも雪は降る。
田舎に住む人に言わせれば、「何を当たり前の事を」と鼻で笑われるかも知れない。だが、田舎に比べれば都会は極端に積雪量が少ない。
「これ……辞表です……」
何の前触れも無く、痩せた男が辞表と書かれた封筒を差し出す。社長は何も言わず、それを受け取る。
「これで私も、晴れて自由の身か……」
今しがた辞めた会社のビルを見上げ、痩せた男はニヘラッと笑みを溢す。
今日はホワイトクリスマスだ。楽しい楽しいクリスマスなんだ。
くすんだ茶色のロングコートを身に纏った男は、雪の降る街を歩き出した。
街には人が溢れていた。手を繋ぐカップル、楽しそうに笑う親子、サンタのコスプレをした若者、そのどれもが男にとって眩しいものであった。
「今日はクリスマスイブか。ケーキでも買って帰ろうかな」
男は近くの店に立ち寄る。
自動ドアを潜ると、甘い香りが鼻を刺激する。
「そう言えば──」
男はある事を思い出してしまう。
「私は甘い物が苦手だった」
やりきれない。こんなのはあんまりだ。
男は悔しそうに唇を噛み締めた。
その時──
「どうかなさいましたか?」
澄んだ美声にハッと顔を上げると、そこには美少女が心配そうな顔で立っていた。
「具合でも悪いのですか?」
男は直感的に悟った。これは『運命なのだ』と……。
気付けば少女の手を掴んでいた。
「ちょっと時間を下さい」
男は一瞬躊躇したが、エサを頬張るロバのような表情を浮かべると少女の手を強く引いた。
『運命』。そう、運命なのだと、自分に言い聞かせる。
店の前で立ち止まる。見渡せば、変わらない街の風景が映し出される。
「サラリーマンなんですか?」
「サラリーマン──」
不思議そうな顔で尋ねてくる少女に、思わず口ごもる。
しかし、ここで立ち止まる訳にはいかない。
「脱サラして今はフリーです」
男は、吐き気を催してしまうような満面の笑みを向けた。
「そうなんですか」
少女もまた、可憐な満面の笑みを向ける。
「ケーキ買おうとしてたんだ」
「良いですね、ケーキ」
「でも、甘い物が苦手なんだよ」
少女は戸惑った。空は雪に覆われているのに、何故この男の人はケーキが苦手なんだろう?
少女は不思議に思った。
「ケーキ、股間に塗りたくろうと思ったんだ……」
しんしんと雪が降り注ぐ中、男は声を震わせた。
か細い。なんてか細いんだろう。少女が声をかけようとする。
男は泣いていた。声を噛み殺して、ただ大粒の涙を流していた。
「良かったら……一緒にどう?」
少女は困った。自分にはまだ早い。ここは穏便に断ろう。
少女は言葉を発しようとしたが、驚くべき出来事に開きかけた口をすぐさま閉じた。
「ああ……ああ……」
身に染みる冬の風が吹く。そんな中、男はスーツのズボンを脱ぎ始めた。
慣れた手つきで革のベルトを外し、焦らすように焦らすように──ズボンを下ろした。
「でーんでーんむーしむーし、かぁーたつぅーむぅーりぃぃぃぃぃ♪」
男の涙はすっかり乾いている。上機嫌に口ずさんだ童謡は、半音だけずれていた。
しかし、少女は指摘しなかった。母の教えを貫いたのだ。
「素敵です」
少女のその言葉に、男は身震いした。
歓喜、感激、感動、どれ程の言葉を用いても今の彼の膝の裏の痒みは表せないだろう。それほど、彼は喜びにうち震えていた。
「そこの貴様! 何をしている!!」
喧噪。確かに街は喧噪を極めていたが、それとはまた異なった喧噪に二人は振り返った。
「公衆の面前だぞ! 場を弁えろクズ人間!!」
見ると、サンタのコスプレをした屈強な男二人が何事か怒鳴り散らしながら駆けてくる。
警察っぽい帽子を身に付けている事から警察なんだろうなと、楽観的に男は悟る。
「抵抗は罰金なり!!」
少女が身を引くと、有無を言わさず警官の一人が警棒を振り下ろしてくる。
いつ以来だろう。こんなスリルを味わったのは。
小学五年生の時、友達の吾郎君に『マスカルポーネ』と偽って自分の爪をご馳走した時も、こんな感じでドキドキしたな。
男はスウェーバックで警棒を軽々とかわす。
「でーんでん、むしむしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃやああああああああああっはあああああ!!」
極上の頭突きを浴びせる。これ以上無い……これ以上無い程美しい頭突きだった。
警官は重力に逆らって空を飛ぶと、空中で爆死した。
降り注ぐ肉片は、儚げな粉雪のようで幻想的だった。
「失礼しました、皇帝陛下!」
もう一人の警官は開脚前転が得意らしく、くるくると開脚前転で巣に帰っていく。
「……追わないんですか?」
「取るに足らないよ」
穏やかな沈黙が二人を包む。照れ臭そうにはにかむ彼女に見とれてしまっていたとでも言うのか。
男はやれやれと、溜め息をつく。
「触ってみるかい?」
通報されたって構わない。さっきみたいに追い返せばそれで解決だ。
清々しい気分に、男は微笑んだ。
少女は恥ずかしそうにもじもじするが、ゆっくりとその手を差し伸べる。
触れるか触れないか──そこそこ際どい所で、彼女の手が止まる。怯えているのだろうか?
「明日はきっと来るよ」
男は少女の手を取ると、優しく自分の下腹部に導いた。
白魚のようにきめ細かい手が、下腹部に触れる。
世界が産声を上げた瞬間だった。
「温かいです……」
「人の温もりなんてちっぽけな物さ」
二人はひたすら頭を撫で合った。時を忘れる程に……。
男の頭が禿げる一歩手前、少女は撫でるのをやめた。
「運命……ですよね?」
「間違いなく運命だよ」
こうして二人出会えた事は、今後教科書に載る事だろう。
仮に載らなかったとしても、深夜のラジオで流されるはずだ。
まさに奇跡。人間とは素晴らしい生き物だ。
「実は私、脱サラしてサラリーマンではなくなったんだけど」
「先程、仰ってましたね」
男は緊張していた。これは言っても良い事なのか?
もしもこれを話して彼女のお通じのリズムが狂ってしまったら……。考えるだけで頭痛がしてくる。
だが、男に残された道は一つしか無かった。
深呼吸し、思い切って告げてみる──
「私、もう少しで死ぬんです」
言った……言ってしまった。もう後には引き返せない。彼女のお通じのリズムは、果たして無事なのだろうか?
おずおずと彼女を見やると、意に反して少女は笑顔だった。
「苦労したんですね」
全ての罪を包み込むかのような柔らかな彼女の笑顔を目の当たりにして、男は自分の腸がギュルリと鳴ったのを感じた。
彼女なら大丈夫。全てを打ち明けられる。
「病気……なのですか?」
男は決意を固め、口を開く。
「私、もうすぐ骨盤が爆発して息絶えるんです」
ついに打ち明けてしまった。
いくら覚悟を決めたと言えど、やはり口内はパリッパリに乾燥していた。
都会の風は冷たかった。
容赦無く吹き付けるそれは、もはやどの季節に吹く風よりも風らしくあった。
少女は微笑む。
「病院、行きましょっか」
男は頷く。力強く頷く。鞭打ちになろうが関係無い。この際、鞭打ちにでもなんでもなってやろう。
二人はガッチリと手を繋ぐと、緩慢な足取りで病院へと向かって歩きだした。
「残念ながら、余命はあと一週間……持っても、残された時間はあと一時間でしょう」
「そんな……なんとかならないのですか?」
「我々は玩具売り場の店員じゃない。壊れた玩具を直せるのは、その道のプロだけだ……分かるね?」
男は、病院のベッドに横たわりながら少女と医師のやり取りをぼんやりと聞いていた。
麻酔が効き始めたのか、やけに眠い。重い瞼を必死に抉じ開けていると、優しい香りがした。
「駄目でした……治る見込みは皆無だそうです」
彼女だ。彼女が病室に入ってきたんだ。
男は寝ぼけ眼で少女を見つめながら、そんな事を脳内で反復した。
柔軟剤だろうか? それにしても彼女は良い匂いだ。
「大丈夫、そんなに気にしてないから」
強がってはみたものの、やっぱり死ぬのは怖かった。
得体の知れない“死”という事象。
もういっそ“死”という概念その物が消え去ってくれれば良いのに。
男は恐怖にうちひしがれた。
「あたし、貴方に会えて良かった」
「……私もだよ、彩花」
「愛美です」
「……私もだよ、愛美」
「本当に良かった」
少女は泣いていた。笑顔のまま泣いていた。
涙でグシャグシャになっていても、彼女は可愛らしかった。可愛らしい故に、心が痛む。
「死にたくない」
不意に、口を突いてそんな言葉が出てしまった。
少女はハッとする。家の鍵を掛け忘れたのだろうか? それともエアコンの消し忘れだろうか?
しかしこの寒い時期だ、エアコンと言う線はいくら何でも薄いだろう。
男は思考する。
「そうですよね、あたしももっと貴方とお話がしたいです」
「………」
「もっともっと……貴方と……!」
段々と、少女の台詞に嗚咽が混じり始めてくる。少女も辛いのだろう。
純白のベッドは、仄かに薬の匂いがする。
「こんなに早いお別れなんて……あんまりです……」
「私に……私に娘がいたら──」
「え……?」
男は、精一杯の優しい微笑みで少女を見上げる。
「きっと君みたいな人だったのかな?」
少女は泣き崩れる。
君には涙なんて似合わないよ、笑って。
男は口を開こうとしたが、突如襲った激痛に身を捩る。
「……!! 大丈夫ですか!?」
「うっ、うがああああああああああ!」
腰に猛烈な激痛が走る。息を吸うのもやっとの程の痛み。
絶え間無く無意識に発せられる断末魔の叫び。
「誰か! 誰か助けて下さい!!」
少女は叫んだ。手元にナースコールという文明の発達がもたらした、とても便利なブツがあるのに大声で叫んだ。
ちょっぴり原始的な彼女も可愛らしいと、男は断末魔の要所要所に笑い声を挟む。
「うぎゃああああああああああっひゃひゃひゃひゃぐぎゃああああああああああうひひひへはははのわあああああああああああああああいひひひ!!」
「どうかしましたか!?」
少女の声を聞き付け現れたのは、ナースのコスプレをした年老いた医師だった。
「まぁクリスマスイブだもんねうぎゃああああああああああああああああああああ!!」
医師は叫ぶ。
「お嬢さん、ここは危ないから! 危ないから退がるんだ!!」
「嫌です! 死なないで!!」
徐々に霞んでいく意識の中、男は悟った。これが人生なんだと。
骨盤が爆発する持病を抱えてても良い。むしろ爆発しても構わない。君にこの言葉を伝えられるのなら──
「短い間だったけどありがとう。好きだよ……」
少女にちゃんと届いただろうか?
脳を揺るがす爆発音と共に、男の意識は塵も残らず消し飛んだ。
「そんな……あんまりです……」
ショックで泣き崩れる少女に、ナースのコスプレをした医師が寄り添うようにして囁く。
「彼は大切な事を我々に教えてくれた。君も強く生きるんだ」
少女は立ち上がり、キュッと拳を握り締める。
「あたし、頑張ります。あの人の死を無駄になんてしません……ありがとうございました」
唇を一文字に結んだ少女の瞳に、曇りなど無かった。
迷い無き意志には、きっと最高の人生が待っているだろう。
命とは……尊い物である──
~fin~