【お題】黒髪和服妹は白蛇ラミア
少女は薄闇の中をただひたすらに走り抜けていた。止め処なくこぼれ落ちる涙によって視界が霞みそうになる中、ただただ町から離れたかった少女は、脇目もふらずに山中へと続く林道を駆けた。
幼い頃に、兄と慕った少年や近所の友人達と朝から晩まで駆けずり回った山道は、少女にとって庭のようなものだ。尤もそれも、子供が分け入ることを許された範囲での話であり、山の奥まで踏み込めばその限りではない。
少女は自身も気付かぬ内に、見知らぬ地――明らかに手入れの施されていない寂れた神社にたどり着いてた。
近く開かれる夏祭りに備え浴衣の着付けを行っていたところで親と些細なことで喧嘩してしまった少女は、そのまま勢いで家を飛び出した。流石に靴はスニーカーだったが、足の動きを阻害する藍の浴衣のために無駄な体力を消耗してしまったようだ。
他に人の気配がしないことを悟り少女はようやく体を休めた。涙はまだ多少流れていたが、それでも先程よりは落ち着いてほとんど止まりかけている。
(人が居ないのなら、しばらくは見つからないかな)
少女はそう考え肩の力を抜く。気が緩んだところで、此処は何処だろう、と初めて状況の確認を始めた少女は、それからだんだんと未知の場所に立っている現状に不安を抱き始めた。
一面に白い小石が蒔かれている神社には、その名が刻まれているような物は見当たらず、石造りの白い鳥居は所々が欠けている。本殿を含めた木造の建造物は至る所に腐敗が見られ、風が吹けば今にも崩れてしまいそうな印象を受けた。
しかし、そんなオンボロ神社の中にあって、ある意味異様な――異常な、と言うべきかも知れない――石像が一つ、神社の丁度中央辺りに据えられていた。
大蛇。或いは白蛇。一般的には狛犬が在るような台座に、一匹の大きな白蛇を象った像が、一切の瑕もなく鎮座していた。この像だけつい最近新調されたのではないかと思われるほどに、それは周囲の景色から浮いている。
そんな不可思議な光景に半ば呆然としていた少女は、ふと肩の辺りに何らかの気配を感じて振り返った。蛇だ。細長い蛇が木の枝からぶら下がりながら、至近距離で少女に睨みをきかせている。
「ひっ!?」
心臓が止まりそうなほどの驚愕に少女は飛び上がると、足が縺れそうになるのを堪えて一目散に神社の境内へと逃げ出した。それが拙かったのかもしれない。敷かれた小石を踏む間に、何か芯の通った柔らかい物を思い切り踏みつけた感触がして、思わず立ち止まる。
おそるおそる視線を足下に向けると――
――シミ一つ無い真っ白の白蛇が、踏み潰されて赤い血を飛び散らせていた。しばらくのたうち回った後、白蛇はピクリとも動かなくなった。
「あ、ああ……」
その場にしゃがみ込んだ少女は、自身がしでかした事を認識して声にならない悲鳴を上げた。歯の根が噛み合わない。
――白蛇を殺すと呪われる
古くから伝承されているオカルト話であるのだが、日も暮れた夏の日、妖しげな神社でそのような目に遭ってしまえば、誰しもそれを信じずにはいられないだろう。無論彼女も例外ではなかった。
震える手で自らが殺した白蛇の亡骸をすくい上げ、酷く怯えた様子で境内の外の地面を掘り返した。乱雑にならない程度に急いで埋葬を済ませ一心不乱に許しを請う。身体の震えが収まらない。
ざあっ、と草木を揺るがす風が吹いた。枝葉が擦れる音が辺りに響く。それに紛れるようにして、カサカサと何かが草花を擦る音が届く。一つではない。少女を取り囲むように幾つもの音源が辺り一面からどんどん近づいてくる。
その音がピタリと止んだ頃、少女は恐る恐る顔を上げた。
蛇。蛇。蛇。
百を数えるのではないかと言う程の蛇が、全て少女に顔を向けている。恐怖が、飽和した。
「助けて……お兄ちゃん……」
そうして少女――白子明の意識は闇に呑まれた。
岩国玄が都心から離れた某県の片田舎に帰省したのは、夏休みの初めのことだ。夏休みの始まりが7月上旬という全国でも珍しい大学のため、月の半ば頃にはもう故郷へと帰ってこられた。
今年は例年に比べて気温が非常に高く、まだ初夏の内に東京というコンクリートジャングルを離れられたのは僥倖であると言えよう。
駅を降りた玄の目の前には、一年前となんら変わらない故郷の牧歌的な風景が広がっていた。まだまだ収穫にはほど遠い稲穂が山側から吹いてくる風に揺られている。
駅から家までは徒歩だと少しばかり時間が掛かる。しかしわざわざ迎えを呼ぶというのも家族に手間をかけるので、散歩がてら自分の足で帰ることにした。
多少の遠回りを覚悟で日陰の多そうな場所を選んで歩いていると、気付いたときには山裾近くまで来てしまっていたらしい。幼い頃に遊んだ記憶が朧気ながら有り、玄はついつい懐古的な気分を味わった。道路からほど近い所に雑木林があり、それが見える限りずっと斜面に沿って上へと続いている。夏休みにはよく虫取り網を担ぎ、カブトムシだのクワガタムシだのを友人達と取りに行ったものである。
未だ当時の姿を失っていない町並みにどこか安堵めいた物を感じながらしばらく歩くと、山の中へと続く道が現れた。
この道に関しては玄は自身でも驚くほどはっきりと覚えていた。草の生い茂る道を進めば、かつて秘密基地と称して同級生の友人や幼馴染みの少女と朝から晩まで遊び回った場所が在るはずだ。
子供がほとんど居なくなってしまったために、もう現在はその秘密基地は何もないただの自然の一部と化しているだろう。
ただでさえ遠回りしているためこれ以上の寄り道が憚られた玄は、もう一度見てみたいという願望に蓋をし、また明日にでも訪れようと決め今日はもう実家で休むことにした。
そうして足を家に向けた時。山中から草が擦れるような音が連続して届いた。振り返る。僅かに人影のような物が見えたが、すぐに藪の中に消えた。おそらく町の誰かだろうとアタリをつけて、それっきり興味を失った玄は帰路についた。
夕方に近づいてきた頃、ようやく玄は実家へとたどり着いた。
「ただいま」
そう玄関口で叫んだ玄を家族は温かく迎えた。
「おかえり。玄が帰ってくるって聞いて、佐藤さんも新田さんも、近所の人達皆集まってくれたよ」
そう言って母親は差し入れと思しき酒瓶を掲げて見せる。たった一人の帰省を周辺住民総出で歓迎してくれる町の親近感が、玄は何より好きだった。しかし、いつもなら先ず真っ先に自分を迎えるであろう少女が一向に現れない。玄はそのことを訝しみ、母親に尋ねてみた。
「明は? 今居ないの?」
すると母親は言葉に詰まったような素振りを見せ、ばつが悪そうに質問に答えた。
「明ちゃん、昨日進路のことでお父さんと喧嘩して飛び出したっきり帰ってこないらしいの」
帰ってきた答は玄にとって予想外の物だ。妹のように可愛がってきた幼馴染みの少女の身にもしもの事があれば……と居ても立ってもいられなくなった玄は、慌てて母親に詰め寄って問いただす。
「ちょ……警察に連絡は!? ていうか何で皆こんなにのんびりしてるんだよ!?」
「それがね、財布も携帯も定期も全部置いてっちゃったからそう遠くへは行けない、って明ちゃんのお父さんが言うの。何人か捜した方がいいんじゃないかとも言ったんだけど、他所の家のことだ、って取り合ってもらえなくてね。それに、明ちゃんだって流石に野宿はしないだろうから、多分お友達の所にお邪魔してるんでしょう。だったらこういうことは時間が解決してくれるのを待つのが一番ってね」
「いや、それでも……ああ、もういいよ。俺だけでも捜しに行ってくる。遅くなるかも知れないから、懐中電灯頂戴」
母親があまり深刻に考えていない理由も一応は理解できた。決して広い町ではなく、そこらの住民はほぼ全員が知り合いのようなもので、町に居る限りは万が一ということもないだろうからだ。
しかし頭では解っていても、やはり心配なことに変わりはない。玄は懐中電灯を受け取ると荷解きもせぬまま、晩ご飯までには帰ってきなさいね、という母の言葉を背に受け家を飛び出した。
今のところ、誰かの家に厄介になっていないという条件においては、一カ所だけ心当たりがある。昼間に見た人影らしきもの。確証はないがあれが明の物だとすれば、まだ近くにいるかも知れない。そう判断した玄は、山を目指して北へ駆けた。
日が暮れ始め昼間より薄暗さが増した林道を進む。時折足を掠める草に今更七分丈のズボンを履いてきたことを後悔していると、玄の前に本当ならば翌日訪れるつもりだった秘密基地の跡地が現れた。跡地とは言っても実際にはもうその面影すら無く、背の高い草に覆われてどこか哀愁を漂わせている。もしかしたらと思って来てはみたものの、明どころか人の気配すらない。
やはり間違えたか――そう考え引き返そうかした時だ。一本の獣道が山の更に奥へと続いているのが目に入った。獣道というには些か真新しさがあったが、草が軒並み押し倒されて一本の道を形作っている。
その軌道は正に蛇――それも化け物のような大きさの――のようにうねっている。クモだのムカデだの一匹見たら三十匹はいる感じの黒い悪魔だのといった足のある害虫は全く平気だが、どうしても蛇だけは苦手だった。少し気分が悪くなったが玄はそのまま獣道を進むことにした。
果たしてその行き着く先は一宇の襤褸神社であった。いよいよ薄気味悪くなって来たが、もしかしたらここに明がいるかもしれない。そう思い、自身に発破をかける意味も含めて大声で明を呼んだ。
「明ー! いるなら返事をしてくれー! 俺だ、玄だー!」
しかし帰ってくるのは静寂のみ。無駄足をだったか、と帰りかけたその時。
「お兄ちゃん?」
少し離れた叢から、懐かしい、しかし耳に馴染んでいる透き通った声が届く。振り向くとそこには十数年を共に過ごした幼馴染みの姿があった。何故か藍色の生地に色取り取りの花があしらわれた浴衣を着ているが、その姿は紛れもない白子明の物だ。
普段は背中辺りまで伸びている艶めいた黒髪を今はアップで纏めおり、白いうなじが藍の浴衣に良く映えている。その姿に普段とは違った印象を与えられた。
「明! 良かった、無事だったか。心配したぞ……って、お前背伸びた? 何か高くないか?」
再会の喜びも適当に、玄は率直に感じたことを尋ねた。遠目にはいまいち解らないが、今の明の背は玄よりも高いように思われる。いよいよ暗くなってきたせいで、明の表情は良く見えなかった。
「……お兄ちゃん」
「うん? どうした?」
「お兄ちゃんなら……助けて……くれるよね」
「何だって?」
夕方の薄闇に覆われた世界。逢う魔が時。魔に出逢う時間。叢をかきわけて現れたモノ。明の上半身を持つモノ。その下半身は――白い鱗を備えた無足の長大な胴。白蛇の大蛇だった。それが玄に向かって、ゆっくりと、確実に近づいてくる。
「……え? な……あか……ひっ、うああああああああ!?」
初めは固まっていた玄だが、鱗一枚一枚を認識出来るほどの距離にまで近づかれた頃に数歩後退ったかと思うと、驚愕と恐怖の叫び声と共に背を向けて逃げ出した。
「待って、お兄ちゃん!」
元来た道を全力で駆ける玄を明の姿を持つ大蛇が追う。玄は必死に逃げたがそれでも間は開かない。不安定な山の斜面を走る玄と違い、這うだけでいいというのは大きなアドバンテージだった。
秘密基地の跡地に着き、そろそろ町の明かりが見えだそうかという時。
「射的のテディベア!」
「え?」
突然の不可解な言葉に思わず足を止めて振り向いた玄に、明は勢いもそのままに色白の華奢な腕で力の限り抱きついた。思わぬ襲撃に玄は尻餅をつく。玄は慌てて明を引き剥がそうとするが、自身の身長の二、三倍はあろうかという長さの白蛇部分による加重と、切羽詰まった様子で込め続けられる力のせいで離れない。
「東山のアゲハ蝶! UFOキャッチャーのぬいぐるみ! シロツメ草の冠! 雪ウサギ! お兄ちゃんに貰った物全部言える、全部覚えてる! 信じてお兄ちゃん、私、明だよ!」
確かにそうだった。玄自身も忘れていたような物まであるが、確かに全て玄が明にプレゼントした物だ。今にも泣き出しそうな目で玄を見つめるその姿は、幼い頃に泣きついてきた明の姿そのものだった。
「明、なのか? 本当に?」
今尚自らをきつく締め付ける腕に幾分落ち着きを取り戻し、玄は疑問というより確認の意味を込めて言葉をかけた。木々の合間から降る月明かりだけが二人を照らしていた。
玄は自宅の玄関をくぐり、既に夕食、もとい宴会の準備が終わっている和室へと入った。
明から事のあらまし――白蛇を踏み殺してしまい、大量の蛇に囲まれて気絶して、気付けば臍から下が白蛇に変わっていたこと――を聞いた玄は、一先ず明のための食料の調達を兼ねて帰宅することにした。
酷く不安そうに見つめてくる明に、その場に残るべきかと多少……盛大に葛藤したが、やはりここは一旦戻るべきと決め別れてきた。帰り際何度も振り返っては罪悪感に呑まれそうになったが。
「玄君お帰り。また男前になったなぁ」
「はは、ありがとうございます」
昔馴染みの小父さんのお世辞に適当に返事を返しつつ、玄はおそらく”白蛇の呪い”であろう怪奇現象の解決策を練った。が、たかだか20年を生きただけで特にオカルト方面に明るいわけでもない玄にそんな方法が思いつくはずもなく、仕方ないとばかりに目の前の小父さんに訊くことにした。
話が一段落ついた頃合いを見計らい、それっぽい理由をつけて何とはなしに尋ねる。
「ああ、そうだ。ところで小父さん、何かこの辺に伝わる伝承とかって知りませんかね?」
「うん? 伝承って、昔話みたいなのかい? これまた何で?」
「ええ。実は大学の友達が大のオカルト好きで……ネットでは調べられないような、地域独特の伝承とか知りたがるんですよ。今度帰省するって話したら、是非調べてきてくれって頼まれちゃいまして」
「ほーう。だけどなぁ、そんなもんあったかなぁ?」
「何かないですか? 例えば……白蛇の呪い、みたいな」
”白蛇”と耳にした途端ピクリと反応した。「これはいきなり脈ありか?」と期待した玄であったが、小父さんはうんうん唸るだけで特に何かを知っている様子はない。落胆を隠せない玄に小父さんはポツリと一言告げた。
「……武さん」
「はい?」
「武さん……玄君のお爺さんなら、多分知ってるんじゃないかな」
意外と身近な知恵袋の存在に、落胆していた心が高まってきた。小父さんへの礼もそこそこに玄は祖父の元へと急いだ。
「じいちゃん」
「おお、玄か。どうした?」
離れの和室で新聞を読んでいた祖父を見つけた。穏やかな細目に促されるように、早速解呪法を聞き出そうと祖父に質問を投げかける。
「じいちゃんさ、白蛇の呪いって知ってる?」
「ああ、知っとる。それが何だ?」
皺だらけの祖父が今は非常に頼もしく見える。玄は希望を見いだしたかのように祖父に詰め寄った。
「じゃあ呪いの解き方は? 何でもいいんだ、教えて!」
「解き方、な。呪われた状況にも依るが、まあ知らんことはない。だがそれを知ってどうする?」
僅かに祖父の目が鋭くなった。普段は温厚な祖父の変貌に気圧される。
「……必要なんだ。大事な奴を助けるために」
「白蛇様ってなぁ一度怒らせると鬼より怖い。そんな呪いを解くなんて生半可なことじゃねぇ。それこそ冗談抜きで命懸けだ。半端な心構えでやったら惨い死に方するぞ」
呪いを解けると知った時は心底喜びそうになったが、祖父の雰囲気が物語る事の重大さに、気を抜いて良いような事態ではないと悟る。「未だするつもりがあるのか」と険を増した瞳が問うてくる。それでも。
「それでも、やらなくちゃならないんだ」
全ては明のために。血は繋がっていないが実の妹のように大事な幼馴染みのために。その意志が伝わったのかもしれない。祖父はふっと気を静め、元の穏やかな目で玄を見つめる。
「そうか」
祖父はそれっきり咎めるようなことは何も言わず、戸棚から古い紙の束を持ってくると、玄に呪いの解き方を細かく伝えた。
深夜。日付が変わり、誰もが寝静まった頃、極力音を立てないようにして玄は家を出た。
夕方と同じ道を通って神社付近で相変わらず奇怪な姿をした明と合流し、タッパに詰めた夕飯の残りを明に差し出しつつ尋ねる。
「明、白蛇を埋めたって言ってたけど、何処に埋めたんだ?」
「えっと……確かここら辺に」
懐中電灯で照らすと、明が指し示した場所には確かに土が盛られた形跡があった。玄はそれを素手で掘り返す。
しばらく掘り進めると白蛇の姿が現れた。明に踏みつぶされた箇所以外はほぼ無傷で、未だ腐敗も始まっていない。
「何してるの、お兄ちゃん?」
明が怪訝そうに訊いてくる。白蛇の亡骸を掘り出した玄は、緊張と恐れがない交ぜになった表情で明に告げる。
「今から呪いを解くんだ」
「え、もう解き方分かったんだ!? 私は何をしたらいいの?」
一転して明るくなった明とは対照的に、玄はいよいよ余裕のない顔になってきている。若干引きつった笑みで一言だけ返す。
「何もしなくていいよ。明は此処で待っててくれればいいから」
この言葉に面食らった明は玄に詳細を求めた。にじり寄ると、体勢的にどうしても白蛇の部分が玄の目前に迫る形になってしまい、それが余計に玄を追い詰める。
「どういう事? 私には出来ないことなの?」
「ああ。町中を通るんだ、もし明がやって誰かに見つかったら言い訳出来ないだろう?」
――だから。だから、明はここで俺の帰りを待っててくれ。そうすれば俺は絶対帰ってくるから。
白蛇の遺骸を両手に乗せ、沈痛な面持ちを隠すように立ち上がる。この顔を明に見せてはいけない。要らぬ心配をかけるだけだ。玄は今だけ、明かり一つ無い真っ暗なこの神社に感謝した。
白蛇夜行。正に白蛇の呪いの為にあるような名前の解呪方法であるが、内容は至って簡単。白蛇の亡骸を在る地点から別の場所へと移すだけである。
要は真夜中に、声を一切出さず丁寧に北山の神社から東山の麓にある神社まで白蛇を運搬すれば良いのである。ただ言葉にするだけなら非常に簡単な作業だ。
「……」
暗い夜道を両手に白蛇を乗せたまま、玄は北山の麓から東山を目指して歩いていた。周りを九十八匹の蛇に囲まれながら。
数えるのも嫌になるような数の蛇がたむろしているのを最初に見たとき、玄は自らの目を疑った。祖父の話には聞いていたが、やはり半信半疑な部分もあったのだ。
視覚的にキツイものがある大量の蛇の群れ。しかし実際一番辛いのは、時折思い出したように蛇達が絡みついてくることである。蛇嫌いの玄にとっては正しく地獄。条件に”丁寧に”と有るために、片手を使って蛇を振り払う事も出来ない。時折街灯が夜道を照らしているが、今だけはこのおぞましい光景をまざまざと見せつけられるため、手放しに歓迎することは出来なかった。
祖父の話に依れば、万が一白蛇を雑に扱ったり驚いて声を上げた場合、周りの蛇が一斉に襲いかかり喰い殺されてしまうのだという。
一歩一歩を慎重に踏みしめる。下手に急いで蛇を踏んづけてバランスを崩し……なんてことになったら一貫の終わりである。
時にシマヘビがズボンの裾から舌を伸ばして脚を舐め。時にシロマダラが脚に螺旋状に巻き付き。時にアオダイショウが上着の裾から入り込んで胴に直接鱗をこすりつけ、襟元から顔をのぞかせたり。
蛇の気まぐれで行われる拷問に等しい悪戯。今でこそ全身に鳥肌をたてながらも声を押さえていられるが、もし蛇達が一斉に絡みついてきたら即終了、なんてこともあり得る。
そうならないためにも、一秒でも早くこの試練を終わらせようと決意を新たにした。
一体どれ程の距離を歩いただろうか。東山の神社は未だなのか、と焦りも最高潮に達しようかという頃。今までは徒に単発の悪戯を仕掛けていただけだった蛇達が一斉に動き出した。数匹、数十匹の蛇が競うように玄の身体に巻き付いてくる。
突然の変動に混乱する玄を置き去りに、蛇達は着実に全身を包み込む。このまま押しつぶされて圧死するのではないかとさえ思われた。
(重い……! 足が……動かない……!)
一匹一匹ならおぞましい感触に耐えるだけでいい。だが、無数の蛇に集られた玄は、その重さによって動きを阻害される。今や白蛇を掲げ持つ腕を除いた全身が蛇のオブジェと化した玄は完全に立ち止まってしまっていた。
最後には顔まで蛇で覆われ、蛇独特の悪臭が二重に玄を苦しめる。
自分はこのまま倒れて解呪に失敗、そして喰い殺されて終わってしまうのだろうか。そんな暗いイメージを浮かべてしまったが為か、遂に玄の足は今にも頽れそうなほどに震えだした。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
恐怖を振り払おうと必死に頭を振った。だが頭に浮かぶのは自分が蛇の餌になる姿のみ。もうだめだ。ここでおしまい。このまま足が折れて、そこに蛇達が群がってきて殺されるのだろう。
そうやって諦めかけた玄は、蛇で覆われた視界が一瞬開けたところに一つの光源を見た。
神社。今居る角を左に曲がった先に、東山のふもとの神社が街灯に照らし出されその姿を際だたせていた。それを捉えた瞬間、脳裏を明の顔がよぎる。
――そうだ。自分を信じて待っている人がいるんだ。こんなところでへこたれてる場合じゃない。歩けよ、俺。
足に力が戻った。一歩踏み出す。さっきよりもずっと遅い一歩。しかし確実な一歩。そしてまた一歩。一歩。一歩。一歩。
神社まで後僅かとなった時、一匹のアオダイショウが顔の前まで頭を運び、玄と見つめ合った。
その蛇の瞳と目を合わせ、玄はフッと笑顔を浮かべた。
――俺の勝ちだ。
神社に最後の一歩を踏み出した。それを合図にしたかのように、蛇達が玄から離れだす。やっと蛇地獄から解放された玄は休む間もなく白蛇の埋葬を開始した。
埋葬を終え黙祷を捧げて神社から出てきた玄は、神社の鳥居から先程の曲がり角まで、道の両脇に蛇が整然と並んでいるのを発見した。そこに敵意は一切無く、一様に首をもたげる姿はまるで玄を讃えているかのようであった。
北山の麓まで戻った玄を、藍の浴衣をきちんと着こなし、今度こそ完全なる人の姿をした明が迎えた。片手には夕食の残りが詰まったタッパを持っている。その量が全く減っていないことから、おそらく一切手を付けていないのだろう。
ありがとう、お兄ちゃん。そう言って満面の笑みを見せる明の目尻には涙が浮かんでいる。どちらともなく手を繋いで二人は帰路についた。
「そういえば明。進路のことでおっちゃんと喧嘩したって聞いたんだけど」
「ん。えっとね」
少しばつが悪そうな明だったが、喧嘩の理由を正直に話した。
自分の希望した大学と父親の推した大学が食い違ったこと。些か不純な志望動機だった自分とは違い、父親の意見は理に適っていたこと。つい感情的になりすぎて家を飛び出してしまったこと。
話すうちに恥ずかしさが込み上げてきたのか、明は少し顔をほてらせていた。
「俺と同じ大学に? まあそれなら確かに明の学力と此処からの距離を考えたら、おっちゃんの勧める大学の方がレベル高いし近いし良いんだろうけど……。なんなら、俺も説得手伝おうか? 成功するか保証はできないけど」
「いや、もういいの。私やっぱりお父さんに従うことにしたから。ごめんね、お兄ちゃん」
それまたどうしていきなり? という玄の質問に明は自嘲気味な苦笑いで答えた。
「今お兄ちゃんと同じ大学にいったら、私絶対お兄ちゃんに甘えちゃう。今日お兄ちゃんを待ってる間何にも出来なくって、イヤになるくらい思い知らされちゃった。だからしばらくは自分を磨こうと思うんだ」
握っていた手を離し玄の正面に回り込んで、上目遣いで覗き込むようにして明は続ける。
「すぐに、お兄ちゃんを簡単に堕とせるくらいの”いい女”になるからね」
だからそれまで待っててね。そう告げる明の姿は、妖しくも美しい白蛇のようだった。
白蛇夜行は完全にオリジナル、より正確に言うなら嘘っぱちの解呪法です。決して真似しないでください。
もし白蛇を殺してしまった時は、直ぐにお祓いをお願いしてください。こっくりさんもそうですが、動物の怨念というのは本当に怖いです。
万が一この作品の方法で呪いを解こうとして失敗されても、私は一切の責任を負いません。というかまず蛇98匹なんて集まりません。
何で98匹なの?何で北山から東山に移しただけで呪いが解けるの?という疑問については、お手数おかけしますが活動報告をご覧になってください。