夜鳴坂の怪異
夜鳴坂の怪異
序章 夜鳴坂にて
宝暦八年。
武蔵国 千鳴谷は、山と田畑に囲まれた小さな谷あいの集落だった。
谷を貫く一本の坂道がある。
日が暮れると鳥も鳴かず、獣も近寄らぬその坂を、里人は夜鳴坂と呼んでいた。
もっとも、それは後の名である。
当時、その坂はまだ別の名で呼ばれていた。
その名を、今は誰も知らない。
弥吉が谷へ流れ着いたのは、その年の春のことであった。
十五になるかならぬか。
痩せた身体に擦り切れた着物をまとい、どこから来たのかと問われても答えなかった。
父を知らぬと言った。
母を知らぬと言った。
生国を尋ねても黙るばかりであった。
里人は気味悪がった。
だが旅絵師の宮部宗春だけは違った。
宗春は村外れの小屋へ少年を住まわせた。
行く当てがないならいればよい。
そう言ったのである。
夏になる頃には噂が広まっていた。
田に病が出た。
弥吉のせいだ。
子どもが高熱を出した。
弥吉が来てからだ。
夜更けに奇妙な鳴き声がした。
あれは弥吉に違いない。
誰かが言った。
あれは人ではない。
すると別の誰かが言った。
鵺だ。
鳥でもなく獣でもない。
何者とも知れぬ怪物だ。
そしていつしか、誰もがそう呼ぶようになった。
秋の終わりである。
名主が死んだ。
嵐の夜だった。
稲妻が谷を照らし、風が木々を鳴らしていた。
翌朝、名主の死体が夜鳴坂の中腹で見つかった。
喉は深く裂かれ、周囲には血が散っていた。
誰かが震える声で言った。
獣にやられたのだ。
違う者が首を振る。
獣ではない。
あれがやったのだ。
あれ。
誰も名前を言わなかった。
言う必要がなかった。
皆が同じものを思い浮かべていたからだ。
その日のうちに男たちは竹槍を持って集まった。
松明が灯された。
夜の谷を火が揺れた。
鵺を狩る。
誰かが叫んだ。
誰かが応えた。
その声は坂を満たし、谷へ響いた。
宗春は弥吉を逃がそうとした。
だが間に合わなかった。
男たちは小屋を取り囲んでいた。
弥吉は静かだった。
不思議なほど静かだった。
「お前は逃げろ」
宗春は言った。
弥吉は少し笑った。
「俺が逃げたところで、あいつらは納得するのか」
宗春は返す言葉を失った。
遠くから松明の灯りが近づいてくる。
怒号が聞こえる。
鵺だ。
鵺を出せ。
鵺を殺せ。
弥吉は立ち上がった。
「先生」
宗春は少年を見た。
「もし俺がいなくなったら」
そこで弥吉は少しだけ笑った。
まるでひどく可笑しい話でもするように。
「俺が人間だったって覚えていてくれ」
その言葉だけを残し、弥吉は闇へ駆け出した。
男たちの叫び声。
松明の光。
激しい雨。
そして夜鳴坂に響く正体の知れぬ鳴き声。
その夜を最後に、弥吉の姿を見た者はいない。
後年。
ある絵師が一巻の絵巻を残した。
名を『鵺之図絵巻』という。
人はそれを怪異の記録と呼んだ。
だが、その絵師だけは知っていた。
あの夜、坂にいたのは鵺などではなかった。
一人の少年だったことを。
第一章 久世古美術店
その日、久世古美術店を訪れたのは、駆け出し小説家秋月恒一こと私、折口恒一と民俗学者 物集院秋津の二人だった。
初夏の陽気に包まれた東京の町は賑わっていたが、店の中だけは別の時代に取り残されたように静かである。
久世古美術店は、骨董店というより古い時代そのものを押し込めた倉庫のような場所だった。
天井近くまで積み上げられた木箱と書画の間を細い通路が縫うように走っている。
棚には仏像、茶器、掛軸、古地図、正体の分からぬ置物まで並び、客がひとつ品を探そうとしただけで何かを倒してしまいそうだった。
店内には古紙と木材、それに線香の混じった独特の香りが漂っている。
だが不思議と埃っぽさはなく、むしろ長い歳月を閉じ込めた静けさだけがそこにあった。
古い振り子時計の音が響く店内で、店主の久世善兵衛は湯呑を片手に眉を顰めていた。
「だから申し上げているじゃありませんか」
久世古美術店の奉公人の小夜が机を叩いた。
「絶対に何かありますって!」
「何かとは何です」
秋津は冷めた声で言った。
「だから怪異です!」
「怪異ならありません」
「まだ見てもいないじゃないですか!」
「見なくても分かります」
いつものことである。
小夜が怪異を主張し、秋津が否定する。
そのやりとりを善兵衛は苦笑しながら眺めていた。
「まあ、そう邪険にするな秋津先生」
善兵衛が言った。
「品物そのものは珍しい」
そう言って机の上の桐箱へ手を置く。
「見つかったのは蔵の整理中だそうだ」
蓋が開かれる。
中から現れたのは、一巻の古びた絵巻だった。
「これが?」
私が尋ねる。
「鵺之図絵巻」
善兵衛が答えた。
慎重に広げられた絵巻の上には、夜の坂が描かれていた。
霧の立ち込める坂道。
その中腹に立つ黒い影。
猿のような顔。
獣の胴。
蛇の尾。
だがどこか曖昧だ。
絵師自身がその姿を知らぬまま描いたように輪郭が定まらない。
「気味が悪いでしょう」
小夜が得意げに言う。
「確かにな」
私は頷いた。
しかし秋津は見向きもしない。
彼が見ていたのは、絵巻の隣に置かれた数枚の和綴じ文書だった。
「そちらが本命か」
私は呆れて言った。
「当然です」
秋津は即答した。
「絵巻など後世の創作でも描けます。しかし記録は違う」
「普通は逆じゃないか?」
「普通ではありませんので」
秋津はさらりと言った。
小夜は頬を膨らませた。
「先生、絶対絵巻そのものには興味ないでしょう」
「ありますよ」
「本当ですか?」
「箱に」
「箱ですか」
善兵衛が吹き出した。
秋津は構わず文書を手に取った。
表紙に目を落とす。
その瞬間だった。
秋津の動きが止まった。
「どうした?」
私が尋ねる。
秋津は小さく呟いた。
「文化十二年写……」
「古いのか」
「百年以上前です」
そこで初めて秋津の目が変わった。
私はその顔をよく知っている。
珍しい文献を見つけたときの顔だ。
面倒事に首を突っ込む直前の顔とも言う。
小夜も察したらしい。
「食いつきましたね」
「食いついていません」
「食いついてます」
「違います」
「顔がそう言ってます」
秋津は返事をしなかった。
代わりに文書を開く。
僅かな沈黙。
やがて低い声で読み上げた。
夜鳴坂にて
鳥とも獣ともつかぬ声あり。
里人これを鵺という。
私と小夜が顔を見合わせる。
続きがあった。
夜更けに坂を越える者、
その声を聞けば迷うという。
「よくある怪談ですね」
小夜が言った。
秋津は返事をしない。
さらに頁をめくる。
すると。
されど鵺の姿を見たる者なし。
その声のみ谷に響けり。
そして次の行で。
秋津の指が止まった。
表情が消える。
私にはそれが少し不気味に思えた。
「秋津?」
彼は一文を見つめている。
当谷には
鵺の子と呼ばるる者あり。
何者の子か知る者なし。
部屋がしんと静まった。
「どうした」
私はもう一度尋ねる。
秋津は答えない。
視線だけが文書を追っていた。
そしてゆっくりと次の頁を開く。
破れている。
紙の下半分が失われていた。
残った文字だけが読めた。
鵺の子、夜鳴坂にて消ゆ。
その夜、坂にて鳴く声あり。
人にあらず。
獣にあらず。
されど誰もがその名を知る。
そこで文章は途切れていた。
秋津は長い間黙ったままだった。
やがて善兵衛が静かに言う。
「その品は少々気味が悪い」
「でしょう!」
小夜が身を乗り出した。
「だから調べてください!」
「断ります」
秋津は即答した。
「えぇっ!?」
「私は忙しいので」
「今絶対興味持ったじゃないですか!」
「持っていません」
「嘘です!」
秋津は文書を閉じた。
それから再び開く。
今度は箱の裏側に貼られた古い紙片へ目を向けた。
しばらく黙読する。
その目がわずかに細くなった。
「……なるほど」
「何か書いてあるのか」
私が尋ねると、秋津は紙をこちらへ向けた。
この図巻ならびに聞書、
災いを招く故に封ず。
決して夜鳴坂へ持ち出すべからず。
そして下には、
文久三年
□□□□
読めない署名。
秋津はしばらく考え込んでいた。
「先生?」
小夜が声を掛ける。
秋津はようやく顔を上げた。
「千鳴谷はどこです」
「調べるんですか!?」
「いいえ」
「いいえ?」
「少し見てみるだけです」
私は思わず吹き出した。
小夜は勝ち誇ったように笑った。
第二章 千鳴谷の怪
秋津は絵巻から視線を外し、聞書を指先で軽く叩いた。
「そもそも鵺とは何かご存じですか」
小夜が勢いよく手を挙げる。
「知ってます!」
「猿の顔で、狸の胴体で、虎の手足で、蛇の尻尾の妖怪です!」
「半分正解です」
「半分ですか?」
「その姿は後世に作られたものです」
秋津は机を指で叩いた。
「面白いことに、文献ごとに姿が違う」
「猿の顔と言うものもあれば、猫の頭と言うものもあります」
「胴体が狸だったり虎だったり鳥だったりする」
「尾も蛇だったり狐だったりする」
「随分適当だな」
「ええ」
秋津はうなずいた。
「つまり誰も見ていないのです」
部屋が少し静かになった。
「見ていない?」
「見ていない」
「鵺は正体が定まらない」
「だから人々は自分の恐れるものを継ぎ足していった」
「猿でもない」
「虎でもない」
「蛇でもない」
「その全てであり、そのどれでもない」
秋津は静かに言った。
「鵺というものは、実のところ随分と曖昧な存在です」
「曖昧?」
と私が尋ねた。
「最も有名なのは『平家物語』ですね」
「源頼政の鵺退治か」
秋津は頷く。
「ええ。宮中に現れた怪物です」
「猿の頭に、狸の胴、虎の手足、蛇の尾を持つと言われています」
「現在、我々が思い浮かべる鵺の姿は、ほとんどがこの系統でしょう」
小夜が感心したような声をあげた。
「じゃあ、本当にそんな姿だったんですか」
「分かりません」
秋津は即答した。
「そもそも『平家物語』でも重視されているのは姿ではなく鳴き声です」
「闇の中から聞こえてくる正体不明の不吉な声。それが本質です」
そして聞書をめくる。
「一方で、江戸時代の『和漢三才図会』では事情が変わります」
「どう違うんだ」
「こちらでは鵺は怪物というより、夜に鳴く鳥として扱われています」
「鳥なのか」
「ええ。現在でいうトラツグミに近い存在ですね」
「つまり鵺という言葉は、怪物を意味したり鳥を意味したりする」
「随分いい加減ですね」
と小夜が言う。
「そうとも言えますし、だからこそ興味深いとも言えます」
秋津は少しだけ笑った。
「『平家物語』の鵺は正体の分からない怪物です」
「『和漢三才図会』の鵺は夜に鳴く鳥です」
「姿も違う。性質も違う」
「それなのに同じ鵺と呼ばれている」
私は腕を組む。
「つまり?」
秋津は聞書の一文を示した。
当谷には
鵺の子と呼ばるる者あり。
「私は、この一文の方が気になります」
「なぜです」
「鵺がいた、ではなく」
「鵺の子がいた」
秋津の声がわずかに低くなる。
「怪物がいたという話ではない」
「誰かが、そう呼ばれていたという話です」
「『平家物語』にも『和漢三才図会』にも共通していることがあります」
「何だ」
「誰も本当の鵺を知らないのです」
秋津は静かに聞書を閉じた。
「だから人は、正体の分からないものに鵺という名を与えた」
「鳥でもない」
「獣でもない」
「人でもない」
そして小さく付け加える。
「あるいは、人として扱いたくない者に」
小夜は珍しく口を閉じていた。
「つまり」
私が言う。
「その鵺の子というのは、実際にいた誰かかもしれないと?」
「その可能性はあります」
秋津は答えた。
「少なくとも、この聞書を書いた人物は怪物そのものよりも、その人物を記録しようとしているように見えます」
「だから気になるんですか?」
小夜が尋ねる。
「気になりません」
「嘘です」
「気になりません」
「二回言いました」
善兵衛が吹き出した。
秋津は咳払いを一つして誤魔化した。
「そもそも民俗資料というものは」
「また始まった」
私が呟く。
「人の話を最後まで聞きなさい」
「先生がそう言うと説得力がないな」
秋津は無視した。
「資料には書かれた目的があります」
「怪談なら怪談を書き残すため」
「地誌なら土地を記録するため」
「ですが、この聞書は少し妙です」
そう言って破れた最後の頁を示した。
「鵺が出たという話なら、鵺の話を書けばいい」
「しかし途中から鵺そのものではなく、鵺の子の記録に変わっている」
「つまり書き手の関心は怪物ではなく、その人物だった可能性があります」
私は改めて一文を眺めた。
当谷には
鵺の子と呼ばるる者あり。
妙な文章だった。
怪異譚というより人の噂話に見える。
「先生」
小夜が不思議そうに首を傾げる。
「その人が本当にいたとして、どうして鵺なんて呼ばれたんでしょう」
秋津は答えない。
しばらく黙り込んでいた。
私はその横顔を見た。
珍しい。
秋津が考え込む時は大抵、古文書の記述についてだ。
しかし今は違うように見えた。
まるで何か別のことを思い出しているようだった。
「秋津」
声を掛ける。
彼は我に返ったように顔を上げた。
「なんです」
「いや」
私は首を振る。
「別に」
だが胸の奥に小さな違和感が残った。
物集院秋津は怪異を信じない。
妖怪を笑う。
幽霊話など欠伸をしながら聞いている。
その男が、
鵺の子という一文だけで黙り込んだ。
それが妙に気になった。
善兵衛は湯呑を置いた。
「ところで秋津先生」
「なんです」
「千鳴谷は東京だ」
秋津が顔を上げる。
「……東京ですか」
「意外そうだな」
「山奥だと思っていました」
「思い込みだ」
善兵衛は棚から一枚の地図を取り出した。
「この辺りだ」
広げられた地図の一角。
そこには確かに、
千鳴谷
の文字があった。
そしてすぐ脇に。
夜鳴坂
という名も記されていた。
秋津の指先が、その名の上で止まる。
ほんの一瞬だった。
だが私は見逃さなかった。
彼の目が、
まるで昔の傷跡を見つけた人間のように揺れたことを。
すると小夜が机を叩いた。
「決まりですね!」
「何がです」
「調査です!」
「決まっていません」
「今地図見てましたよね」
「見ました」
「行くんですよね」
「行きません」
「絶対行きます!」
秋津は深々とため息をついた。
そして再び聞書へ目を落とす。
破れた最後の頁。
鵺の子。
夜鳴坂。
消ゆ。
その三つの言葉を静かに見つめる。
やがて。
「……少しだけ」
小さく呟いた。
「少しだけ見てみましょうか」
小夜が歓声を上げる。
私には、その言葉が妙に重く聞こえた。
後になって思えば。
あの時すでに秋津は調査を始めていたのだ。
千鳴谷ではなく。
自分自身の過去を。
第三章 千鳴谷へ
翌日。
私たちは千鳴谷へ向かっていた。
東京市内とはいえ、中央の賑わいから外れるにつれて風景は徐々に変わっていく。
石造りの洋館が減り、古い長屋が増える。
舗装された道は細くなり、やがて坂道ばかりになる。
初夏の日差しは強かったが、不思議と空気はひんやりしていた。
私は汗を拭いながら言った。
「本当に東京なのか、ここは」
「東京ですよ」
秋津は素っ気なく答える。
「ただ忘れられただけです」
「土地がか」
「ええ」
彼はそう言うと地図を畳んだ。
その時だった。
「先生!」
後ろから元気な声が飛んできた。
振り向くと小夜が駆けてくる。
その後ろを善兵衛がゆっくり歩いていた。
「小夜さん」
「置いていくなんて酷いです!」
「別に置いていません」
「置いていきました!」
「現に来ています」
「屁理屈です!」
私は思わず吹き出した。
善兵衛が肩を竦める。
「まあ諦めなさい秋津先生」
「諦めています」
「早いな」
そうして歩き続けるうちに、谷は次第に深くなっていった。
両側の斜面には木々が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。
やがて秋津が足を止める。
視線の先には古い石碑が立っていた。
苔むした石に刻まれた文字は半ば擦り切れている。
だが辛うじて読めた。
千鳴谷
「着いたか」
私が呟く。
谷の向こうには古い家並みが見えていた。
決して貧しい町ではない。
だがどこか古い。
時間だけが取り残されたような景色だった。
その時だった。
風が吹いた。
谷の奥から。
ひゅう、と。
細い笛のような音。
小夜が顔を上げる。
「聞こえました?」
「風だろう」
私は答えた。
しかし小夜は首を振る。
「違います」
「今の」
「鳴き声みたいでした」
秋津は何も言わなかった。
ただ谷の奥を見ている。
妙な横顔だった。
懐かしい場所を見る顔ではない。
嫌な記憶を思い出した人間の顔だった。
谷へ入ると、まず目についたのは鳥居だった。
古い朱塗りの鳥居。
傍らには看板が立っている。
夜啼稲荷
「ここが」
小夜が声を潜める。
「夜啼稲荷……」
境内は静かだった。
狐像は片耳が欠けている。
石灯籠は傾いている。
だが手入れそのものは行き届いていた。
近くに人の姿が見える。
箒を持った老人がこちらに気付いた。
「見慣れない顔だな」
低い声だった。
「神尾秀信さんですか」
秋津が尋ねる。
老人は少し驚いたようだった。
「そうだが」
「夜啼稲荷の宮司と聞きました」
そのとき、善兵衛が秋津の後ろから手を挙げる。
「神尾さん、その節は」
「あ、久世さん、こちらこそ」
「じゃあ あんたが物集院先生か」
神尾は頷いた。
「そこにおる久世さんから話は聞いている」
そしてじっと秋津を見る。
不意に言った。
「夜鳴坂を見に来たのか」
「ええ」
「やめておけ」
小夜が目を輝かせた。
「やっぱり何かあるんですね!」
「ある」
神尾は即答した。
「昔からな」
秋津が溜息をつく。
「ありません」
「ある」
「ありません」
「ある」
私は思わず笑いそうになった。
二人とも真顔だった。
神尾は腕を組む。
「先生」
「なんです」
「あの坂は昔から鳴く」
「風でしょう」
「違う」
「鳥です」
「違う」
「気のせいです」
「違う」
まるで子供の喧嘩である。
小夜など途中から楽しそうに見ていた。
神尾は最後にこう言った。
「なら夜に行ってみるといい」
「行きません」
秋津は即答した。
神社を後にしてさらに谷を進む。
しばらくすると道が二つに分かれていた。
一つは住宅街へ。
もう一つは谷奥へ続いている。
谷奥側の道には古い立札が立っていた。
夜鳴坂
私は足を止める。
不思議だった。
ただの坂だ。
坂にしか見えない。
だがなぜか目を離しづらい。
木々が覆いかぶさり、
昼間なのに薄暗い。
坂の上は見えない。
途中で曲がっている。
だからその先が分からない。
それだけのことだった。
それだけのはずだった。
ふと横を見る。
秋津が立ち尽くしていた。
視線は坂へ向けられている。
私は初めて見た。
物集院秋津という男が、
何かを恐れる姿を。
「秋津?」
声を掛ける。
彼はゆっくり振り返った。
「何です」
「いや」
私は言葉を選んだ。
「この場所、初めてじゃないな」
一瞬だった。
本当に一瞬。
秋津の目が揺れた。
しかし次の瞬間にはいつもの無表情へ戻っている。
「どうでしょう」
そう言って坂から目を逸らした。
「私は昔から忘れっぽいので」
明らかな嘘だった。
付き合いの長い私には分かる。
秋津は何かを知っている。
そしてその何かは、
夜鳴坂そのものよりも、
ずっと恐ろしい記憶なのだろう。
その時はまだ、そう思っただけだった。
まさか十八年前に消えた一人の少年へ、この坂が繋がっているとは夢にも思わなかったのである。
第四章 鵺の子
日が傾き始めていた。
谷は狭く、夕暮れが早い。
秋津は相変わらず聞書を手放さない。歩きながら何度も頁を開いている。
私は呆れたように言った。
「秋津は本当に古文書が好きだな」
「好きではありません」
「嘘をつけ」
「事実を愛しているだけです」
「同じじゃないか」
秋津は返事をしなかった。
しかし聞書から目を離そうともしない。
神尾秀信が苦笑した。
「先生は昔からそうなのですか」
「昔からです」
「余計なお世話です」
秋津はそう言いながら、やはり頁をめくっていた。
「先に鵺塚をご覧になりますか」
神尾が言った。
「鵺塚?」
「ええ」
案内された先には小さな石碑があった。
大きな塚ではない。
人目につかない場所にひっそりと佇んでいる。
石碑には、
『鵺塚』
とだけ刻まれていた。
「昔からあるのですか」
私が尋ねる。
「今のものは新しい」
神尾は答えた。
「ですが、以前からこの辺りには鵺を祀る塚があったそうです」
「本当に鵺を?」
「さあ」
神尾は肩をすくめる。
「少なくとも人々はそう信じたのでしょう」
秋津が石碑を見つめる。
「鵺の墓というより」
ぽつりと言った。
「誰かの記憶の墓でしょうね」
私は聞き返そうとしたが、秋津はそれ以上語らなかった。
鵺塚を後にし、私たちは月隠横丁へ向かった。
古い長屋が並ぶ細い路地だった。
洗濯物が頭上を渡され、夕餉の支度の匂いが漂っている。
どこにでもありながら、なぜか谷の奥へ迷い込んだような閉塞感があった。
神尾が小さく付け加えた。
「昔から住んでいる者もおります」
「昔?」
私が聞き返す。
「十八年前のことを知っている者も」
その時だった。
秋津の手が止まった。
本の頁をめくる指が静止する。
ほんの一瞬。
しかし私は見逃さなかった。
「十八年前とは」
私が尋ねる。
神尾は意外そうな顔をした。
「ご存じありませんか」
「何をです」
「夜鳴坂の事件ですよ」
秋津は黙ったまま聞いている。
「この谷では昔も人が死んでいるのです」
神尾はそう言った。
「同じ坂で」
私は思わず夜鳴坂を振り返った。
「殺人事件ですか」
「ええ」
神尾がそれ以上語ろうとしなかった時だった。
「鵺の話ですか」
声がした。
振り向くと、一軒の長屋の前に女が立っていた。
三十代後半ほど。
どこか疲れた顔をしている。
「高瀬いとさん」
神尾が紹介する。
「事件当夜、夜鳴坂の近くにいた方です」
いとは頭を下げた。
「大したことは知りませんよ」
「ですが」
私が訊く。
「鵺の声を聞いたそうですね」
いとの顔色が少し変わった。
「あれが何だったのかは分かりません」
「でも聞いたんです」
風が吹く。
どこか遠くで戸が鳴る。
「鳥みたいな声でした」
「でも鳥じゃない」
「獣みたいでもあった」
彼女は困ったように眉を寄せた。
「子供が泣いているようにも聞こえました」
私は思わず秋津を見る。
秋津は黙っている。
「それが鵺です」
神尾が言う。
「違います」
秋津が即座に言った。
「います」
神尾。
「いません」
秋津。
「いる」
「いない」
「二人とも落ち着け」
私は頭を抱えた。
いとは苦笑した。
「でも昔から、あの声を鵺だと言ってました」
「昔から?」
私が尋ねる。
いとは頷いた。
「私が子供の頃も」
「その前も」
そして少し声を落とした。
「十八年前の事件の時も」
秋津の視線が上がる。
「夜鳴坂で地主が殺されたんです」
「白石与一」
その名前を聞いた瞬間。
秋津の表情がわずかに固まった。
「犯人は」
私が尋ねる。
いとは躊躇う。
だが周囲の住民の方が先に答えた。
「鵺の子だ」
「羽鳥蓮だよ」
「事件の後で消えた」
「逃げたんだ」
「死んだんだろう」
口々に言う。
だが妙だった。
誰も真相を知らない。
それなのに。
全員が羽鳥蓮という名前だけは知っている。
「鵺の子?」
私は訊いた。
「そう」
いとが静かに言う。
「親が分からない子だった」
「だから皆そう呼んだ」
秋津が口を開く。
「それで」
低い声だった。
「それで鵺ですか」
いとが困ったように笑う。
「分からないものは怖いでしょう」
秋津は何も言わなかった。
ただ夜鳴坂を見ている。
まるでそこに誰かが立っているかのように。
帰り道。
私は隣を歩く秋津へ声を掛けた。
「なあ」
「何です」
「羽鳥蓮って誰だ」
秋津の足が一瞬だけ止まった。
ほんの僅か。
だが確かに。
「知りません」
即答だった。
だが私は作家だ。
人の嘘には慣れている。
秋津は嘘をついていた。
今日一日。
絵巻にも。
聞書にも。
伝承にも。
ほとんど興味を示さなかった男が。
羽鳥蓮という名が出た瞬間だけ黙った。
知らないはずがない。
そう思った。
谷の向こうに夜鳴坂が見える。
夕暮れの坂は黒く沈み、まるで何かを隠しているようだった。
その時だった。
ヒョー……
風の音だったのか。
鳥の声だったのか。
私は思わず振り返る。
しかし秋津は振り返らない。
前を向いたまま、小さく呟いた。
「人は理解できないものに名前を付けます」
「鵺みたいにか」
「ええ」
そして少し間を置いて続けた。
「ですが」
その声だけは妙に寂しそうだった。
「名前を付けられた方は、たまったものではありません」
私は返す言葉を失った。
その時はまだ知らなかった。
十八年前の夜鳴坂で何が起きたのか。
そして羽鳥蓮という少年が、秋津にとってどれほど大きな存在だったのかを。
第五章 夜鳴坂の死
翌朝。
私たちは神尾秀信に紹介してもらった宿で遅い朝食を取っていた。
昨夜のことだ。
月隠横丁で聞いた羽鳥蓮の話が妙に気になっていた。
秋津も聞書を開いてはいたが、いつもほど集中しているようには見えない。
何かを考えている。
そんな時だった。
玄関の戸が乱暴に開いた。
飛び込んできたのは神尾だった。
顔色が悪い。
息も乱れている。
「大変です」
秋津が顔を上げる。
「何がありました」
「夜鳴坂で人が死にました」
空気が変わった。
秋津が立ち上がる。
「誰です」
神尾は唾を飲み込んだ。
「白石正道です」
一瞬。
誰も言葉を発しなかった。
白石正道。
千鳴谷の実力者。
再開発の中心人物。
そして。
十八年前に殺された白石与一の息子。
私は秋津を見る。
秋津の表情は変わらない。
しかし昨日から付き合っている私には分かった。
目だけが異様に鋭くなっている。
「現場は」
「夜鳴坂です」
秋津は帽子を手に取った。
私たちは急いで現場へ向かった。
夜鳴坂には既に人だかりができていた。
警官の姿も見える。
坂の中腹には縄が張られ、その向こうで何人もの人間が動いていた。
谷全体が落ち着きを失っていた。
「本当に死んだのか」
「見つかった時にはもう」
「やっぱり鵺だ」
声が聞こえる。
「またか」
「昔と同じじゃないか」
その言葉に私は振り返った。
老人たちが小声で話している。
「羽鳥の家の奴も消えてるらしい」
「蒼司か」
「やっぱりな」
「蓮の血だ」
「また鵺だよ」
私は眉をひそめた。
しかし次の瞬間だった。
秋津の足が止まった。
あまりにも突然だったので驚いたほどだ。
秋津は人々の方を見ていた。
「蓮の時と同じだ」
誰かが言う。
「鵺の家の人間だからな」
別の誰かが頷く。
「最初から分かっていた」
秋津の表情が消えた。
昨日とは比べものにならない。
怒っている。
私はそう感じた。
秋津は滅多に怒らない。
皮肉は言う。
不機嫌にもなる。
だが感情を露わにすることはほとんどない。
しかし今は違った。
「証拠はありますか」
静かな声だった。
だが周囲が一瞬で静まる。
「え?」
「羽鳥蒼司君が犯人だという証拠です」
老人は答えられない。
「それは……」
「ありませんね」
秋津はそれだけ言った。
そして坂を見上げる。
遠くを見るような目だった。
私はふと思った。
この男は。
この場所を知っている。
羽鳥蓮という名前を知っている。
そして。
十八年前に何があったかも知っている。
そうでなければ、この反応は説明できない。
「秋津」
「何です」
「この土地の何かを知っているな」
秋津は答えなかった。
風が吹く。
長い沈黙。
やがて秋津は静かに言った。
「今は事件の方が先です」
否定ではなかった。
私はそれ以上聞かなかった。
その時だった。
「関係者以外は下がってください」
低い声が響いた。
振り返ると、一人の男がこちらへ歩いてくる。
二十代半ばほど。
短く刈り込んだ髪。
鋭い目。
外套の下には洋装。
いかにも刑事という顔をしていた。
「警視庁です」
男は警察手帳を見せた。
「早瀬隆明」
私は軽く頭を下げる。
「折口恒一です」
「怪奇小説家です」
早瀬は露骨に微妙な顔をした。
「小説家」
歓迎されていないらしい。
次に視線が秋津へ向く。
「こちらは」
「物集院秋津です」
「民俗学者です」
早瀬の眉が動く。
「民俗学者」
嫌そうな顔だった。
「なぜ民俗学者が殺人現場にいるんです」
秋津は平然としている。
「事件を調べているからです」
「警察の真似事ですか」
「いいえ」
秋津は即答した。
「私は伝承を調べています」
「死人が出ているんですが」
「知っています」
「なら結構です」
全然結構ではない顔だった。
早瀬は私の方を見た。
「先生」
「はい」
「その学者先生が勝手なことを始めたら止めてください」
「難しい注文ですね」
「でしょうね」
初めて早瀬が少しだけ笑った。
だが秋津を見る目は変わらない。
面倒な人間を見る目だった。
一方の秋津も、
どう説明しても理解してもらえない相手を見る顔をしている。
私は心の中でため息をついた。
どうやらこの二人。
仲良くなるまで少し時間がかかりそうだった。
現場周辺には縄が張られ、警官たちが忙しく動き回っていた。
私たちは規制線の外で足を止める。
早瀬は露骨に嫌そうな顔をした。
「見物なら帰ってください」
「見物ではありません」
秋津が答える。
「先生方は皆そう仰います」
早瀬は冷たく言った。
「ですが現場は見世物ではない」
どうやら本当に学者が嫌いらしい。
秋津も反論せず、ただ静かに夜鳴坂を見ていた。
その時だった。
人垣の向こうから軽い声がした。
「失礼」
振り返ると、一人の男が人々の間を縫うように歩いてくる。
三十歳前後。
細身。
整った顔立ち。
柔らかな笑みを浮かべている。
手には手帳。
胸ポケットには鉛筆。
「東京日日新聞です」
男は慣れた様子で名刺を差し出した。
相良朔也
東京日日新聞 記者
「新聞記者ですか」
私が受け取ると、相良は人の良い笑みを見せた。
「ええ」
「昨夜から騒ぎになっていましてね」
「面白い記事になりそうなので」
早瀬が嫌そうな顔をする。
「記事になる前に捜査の邪魔をしないでください」
「もちろんです」
相良は肩を竦める。
「私は話を聞くだけです」
その態度が妙に自然だった。
人に警戒心を抱かせない。
記者としては得な性格だろう。
「あなた方も取材ですか」
相良が私たちへ向く。
「いえ」
私は答えた。
「学者と小説家です」
「それは面白い」
相良は笑った。
「怪談の調査ですか」
「まあ似たようなものです」
「なら利害が一致しますね」
その言葉に秋津が顔を上げた。
「利害?」
「ええ」
相良は当然のように答える。
「私は事件を追っています」
「先生方は夜鳴坂を調べている」
「どうせ同じ場所へ行くことになるでしょう」
言われてみればその通りだった。
すると神尾が小さく言った。
「蒼司君の家へ行かれますか」
秋津が頷く。
「まずはそこからでしょう」
「でしたら私も同行してよろしいですか」
相良が言った。
「羽鳥蒼司という人物を取材したい」
早瀬がすぐ口を挟んだ。
「取材は後です」
「分かっています」
相良は苦笑した。
「警部補殿は怖いな」
「まだ警部補だとは言っていませんが」
一瞬。
相良が黙った。
「失礼しました」
「雰囲気で」
すぐに笑顔へ戻る。
だが秋津の視線が一瞬だけ相良へ向いた。
ほんの一瞬。
何かを記憶するような目だった。
こうして私たちは、
警察とは別に羽鳥蒼司の行方を追うことになった。
現場を離れる頃には、日はすっかり傾いていた。
夜鳴坂を振り返ると、規制線の向こうではまだ警官たちが動き回っていた。
「今日はここまででしょうね」
相良朔也が言った。
手帳を閉じながら小さく肩を竦める。
「ずいぶん大きな事件になりそうだ」
「新聞記者としては喜ばしいのでしょうか」
秋津が言う。
「まさか」
相良は苦笑した。
「死人の出る話は嫌ですよ」
「記事にはなりますが」
「本音はどちらです」
秋津が平然と聞く。
「先生は意地が悪いな」
相良は笑った。
だが不快そうには見えない。
そのやり取りを見ながら、私は二人の相性が案外悪くないことに気付いた。
早瀬とは違う。
相良は秋津の偏屈さを面白がる側の人間らしい。
神尾が尋ねる。
「これからどうされます」
秋津は少し考えた。
「羽鳥家を調べたいですね」
その言葉に相良の視線がわずかに動く。
「蒼司君ですか」
「はい」
「失踪と事件が無関係とは思えません」
秋津は淡々と答えた。
「私もそう思います」
相良が頷く。
「白石正道氏の殺害と羽鳥蒼司の失踪」
「偶然にしては出来過ぎている」
「明日、私も同行して構いませんか」
私は思わず相良を見る。
記者にしては妙に積極的だった。
だが本人は自然な顔をしている。
「取材ですか」
「ええ」
相良は笑う。
「どうせ一人で調べても同じでしょう」
「先生方と行動した方が面白そうだ」
「面白がるな」
私は呆れた。
「失礼」
相良はそう言いながらも少しも反省していないようだった。
秋津はしばらく相良を見ていた。
「構いません」
やがてそう答えた。
「ただし責任は持ちません」
「十分です」
「危険な場所へ行くかもしれません」
「記者ですから」
「死人も見ますか」
「なるべくなら見たくありませんね」
相良はそう言って笑った。
どこか掴みどころのない男だった。
人当たりは良い。
言葉も柔らかい。
しかし時々、何を考えているのか分からなくなる。
ふと秋津を見る。
秋津もまた相良を見ていた。
探るような目だった。
しかしすぐに帽子を被り直す。
「では明日」
「羽鳥家で」
相良が答える。
「ええ」
約束を交わすと、相良は一礼して去っていった。
夕暮れの道を歩きながら、私はその背中を見送る。
「どう思う」
私は尋ねた。
「何がです」
「相良記者だ」
秋津は少し考えた。
「感じの良い人ですね」
「お前の評価とは思えないな」
「そうですか」
「絶対に何か続きがあるだろ」
秋津は小さく笑った。
「感じの良い人ほど注意が必要です」
「ほらな」
私はため息をついた。
谷には夕闇が降り始めていた。
その向こうに夜鳴坂の黒い影が見える。
明日になれば、羽鳥蒼司についてもっと分かるだろう。
第六章 鵺と呼ばれた少年
明治四十三年。
夏。
私は父に連れられて千鳴谷へ来ていた。
父は古記録の調査が目的だと言っていた。
私は半分ほどしか理解していなかったが、それでも退屈ではなかった。
むしろ本郷の屋敷より面白い。
谷には古い祠があり。
夜鳴坂には怪談があり。
村人は様々な昔話を知っていた。
だが父は忙しかった。
「秋津」
「はい」
「一人で遠くへ行ってはいけません」
「分かっています」
返事だけしておく。
どうせ私は本を読む。
冒険するような子供ではない。
事実、その日も私は神社の石段に座って本を読んでいた。
蝉が鳴いている。
風はない。
夏の匂いがした。
「お前」
突然声を掛けられた。
顔を上げる。
見知らぬ少年が立っていた。
私より少し年上。
痩せている。
日焼けはしていない。
黒髪。
妙に大人びた目をしている。
しかし。
笑っていた。
「さっきから見てたけどさ」
少年は言った。
「面白い奴だな」
「そうですか」
「そうだよ」
遠慮がない。
私は本を閉じた。
「どこがです」
「皆遊んでるのに」
少年は私の隣へ腰掛けた。
「お前だけ本を読んでる」
「好きなので」
「俺は嫌いだ」
即答だった。
「字が多い」
「本ですから」
「頭が痛くなる」
私は少し考えた。
「恐らく向いていません」
少年は吹き出した。
「なんだそれ」
しばらく笑っている。
不思議な男だった。
初対面なのに距離が近い。
だが不快ではない。
「お前、名前は」
「物集院秋津です」
「長いな」
「そうでしょうか」
「秋津でいいか」
「構いません」
すると少年は頷いた。
「じゃあ秋津」
「君は」
「蓮」
少年は笑う。
「羽鳥蓮」
それが最初だった。
私は知らなかった。
この少年が十八年後になっても忘れられない存在になることを。
その時はまだ。
ただ少し変わった少年だと思っていた。
蓮は石段へ寝転がった。
「なあ秋津」
「何ですか」
「お前も気味悪いって言われるだろ」
私は少し考えた。
「よく言われます」
「やっぱりか」
蓮は満足そうに笑う。
「俺もだ」
「そうなのですか」
「うん」
そして空を見上げたまま言った。
「だから話しかけた」
私は首を傾げた。
「理由になっていますか」
「なってる」
「変な奴は変な奴が分かるんだ」
正直よく分からなかった。
だが蓮はずっと楽しそうだった。
しばらくして。
遠くで子供たちの声が聞こえた。
「おい」
「鵺だ」
「またいるぞ」
誰かが笑った。
「鵺!」
蓮へ向かって呼び掛ける。
私は眉をひそめた。
「友達ですか」
「いや」
蓮は笑った。
「違う」
「では何故」
「さあな」
肩を竦める。
「皆そう呼ぶから」
鵺。
その言葉だけが何故か耳に残った。
私は聞く。
「嫌ではないのですか」
蓮は少し黙った。
ほんの一瞬だけ。
そして笑った。
「どうせ俺なんか鵺だからな」
その言葉を。
私は生涯忘れなかった。
なぜならその時。
私は初めて腹が立ったからだ。
「あなたは人でしょう」
蓮が目を丸くする。
「は?」
「鵺ではありません」
「人です」
蝉の声だけが響く。
蓮はしばらく私を見ていた。
やがて。
困ったように笑う。
「変な奴だな」
「よく言われます」
「俺もだ」
そして蓮は大声で笑った。
ある日の午後だった。
私は蓮と川原にいた。
蓮は子供たちに頼まれた竹細工を作っている。
本人は面倒そうにしていたが、妙に手慣れていた。
「おい」
蓮が振り返る。
少し離れた場所に小さな男の子が立っていた。
六つか七つほど。
大きな目でこちらを見ている。
「また来たのですか」
私が言う。
「ああ」
蓮は苦笑した。
「最近はどこへ行っても付いてくる」
男の子はこちらへ近づいてきた。
しかし私を見ると足を止める。
人見知りらしい。
「ほら」
蓮が手招きする。
「挨拶くらいしろ」
男の子はしばらく迷った後、小さく頭を下げた。
「蒼司です」
か細い声だった。
「物集院秋津です」
名乗ると蒼司は目を丸くした。
どうやら子供らしくない名前だと思ったらしい。
「秋津」
蓮が呆れたように言う。
「子供相手に氏名全部で名乗る奴があるか」
「そういう名前ですから」
「そういう問題じゃない」
蒼司がくすりと笑った。
その瞬間、蓮も笑う。
二人はよく似ていた。
顔立ちではない。
笑った時の目元が似ていた。
「叔父ちゃん」
蒼司が蓮の袖を引く。
「なんだ」
「今日も泊まっていい?」
蓮は困った顔をした。
「お前な」
「おばさんに怒られるぞ」
「でも叔父ちゃんのところがいい」
蒼司はそう言って蓮の腕にしがみついた。
蓮は大きくため息をつく。
「仕方ないな」
その声は優しかった。
私は少し意外だった。
蓮は子供たちには好かれていたが、誰かを特別に可愛がる印象はなかった。
だが蒼司だけは違った。
蓮は蒼司の頭を軽く撫でる。
「お前は本当に泣き虫だな」
「泣いてない」
「昨日泣いた」
「泣いてない」
蒼司は真っ赤になる。
蓮は声を上げて笑った。
その笑顔を見ながら、私は思った。
もし蓮に弟がいたなら、きっとこんな感じなのだろうと。
夕方。私たちは夜鳴坂の上に座っていた。谷へ沈む夕日を眺めていた。
「なあ秋津」
「何です」
「お前は何になるんだ」
「学者です」
「即答かよ」
「決まっていますから」
蓮は可笑しそうに笑った。
「じゃあ学者になったらさ」
「何ですか」
蓮は少しだけ空を見上げた。
「俺みたいなのも調べろよ」
「あなたみたいなの?」
「忘れられる奴」
その言葉が妙に心に残った。
「忘れられませんよ」
私が言うと、蓮は苦笑した。
「忘れられるさ」
その笑顔だけは、妙に寂しかった。
私はその理由を知らなかった。
知ろうともしなかった。
ただ友人だと思っていた。
だが。
その年の夏。
夜鳴坂で人が死んだ。
夏の終わりだった。
その朝、谷は異様な騒ぎに包まれていた。
普段なら畑へ向かうはずの大人たちが集まり、何かを囁き合っている。
女たちは戸口から不安そうに外を見ていた。
子供たちは追い払われている。
村中に落ち着きがなかった。
私は神社の石段で本を読んでいた。
そこへ蓮が駆け上がってきた。
珍しく息を切らしている。
「秋津」
「どうしました」
「人が死んだ」
私は本を閉じた。
「誰です」
蓮は答えなかった。
代わりに顎で坂の方を示す。
「来い」
言われるまま後を追う。
夜鳴坂へ近づくにつれて人が増えていく。
ざわめき。
緊張。
恐怖。
子供の私にも分かった。
これはただ事ではない。
坂の中腹には人垣ができていた。
「下がれ」
「子供は見るな」
大人たちが怒鳴っている。
それでも隙間から見えた。
人間の足。
血。
白い着物。
私は思わず立ち止まった。
「あれは」
蓮が小さく答える。
「白石与一だ」
地主の名だった。
谷でその名を知らない人間はいない。
裕福で。
影響力があり。
誰もが逆らえない人間。
私は遺体を見ていた。
しかし蓮は群衆を見ていた。
そこが違った。
やがて大人たちの会話が耳に入る。
「殺されたらしい」
「誰が」
「分からん」
「夜中だ」
「見回りの者が見つけた」
次々と噂が飛び交う。
その時だった。
「昨夜」
「与一さんと口論していた奴がいたな」
誰かが言った。
周囲が静かになる。
「確かに」
「見たぞ」
「坂の下だった」
嫌な沈黙だった。
蓮も気付いていた。
私も気付いた。
話が妙な方向へ向かっている。
「誰だ」
誰かが聞く。
一拍の沈黙。
そして。
「羽鳥のガキだ」
空気が凍った。
蓮の表情が消えた。
私は思わず隣を見る。
「鵺の子だよ」
別の声。
「昨日も揉めていた」
さらに別の声。
「やっぱりな」
何の根拠もない。
まだ事件は起きたばかりだ。
警察だって来ていない。
誰も調べていない。
それなのに。
人々は既に答えを決め始めていた。
私は蓮を見る。
蓮は笑った。
いつものように。
しかし。
その笑顔は初めて見るものだった。
諦めに似ていた。
「馬鹿だな」
蓮は小さく呟く。
「俺じゃないのに」
私は言った。
「当然です」
「現場も見ていません」
「犯人だと決められるはずがありません」
蓮は少しだけこちらを見た。
「秋津」
「何です」
「お前、本当に変な奴だな」
「よく言われます」
蓮は笑う。
だが今回は続かなかった。
坂の上から怒鳴り声が響く。
「警察を呼べ!」
「誰も近づくな!」
騒ぎはさらに大きくなっていく。
そして私は気付いた。
遺体そのものよりも。
人々の目の方が恐ろしい。
彼らは真相を求めていない。
誰かを求めている。
責任を押し付ける相手を。
その視線の先にいるのが。
羽鳥蓮だった。
私と蓮は夜鳴坂を下っていた。
向こうから男が歩いてくる。
白石宗一だった。
与一の長男である。
村の若者たちからは慕われていた。
私も何度か顔を合わせたことがある。
「蓮じゃないか」
宗一が笑う。
柔らかな声だった。
「最近は悪さしてないか」
「してないよ」
蓮も笑う。
「つまらんな」
周囲も笑う。
普通の世間話だった。
しかし宗一の目だけは笑っていなかった。
その視線は蓮へ向けられている。
一瞬だけ。
値踏みするように。
何かを計るように。
私は妙な居心地の悪さを覚えた。
宗一が去った後。
私は聞いた。
「知り合いですか」
蓮は肩を竦めた。
「地主の息子だよ」
「良い人でしょうか」
蓮は少し黙った。
それから笑う。
「どうだろうな」
「俺はあんまり好きじゃない」
「なぜです」
「好きじゃないから」
答えになっていなかった。
だが蓮はそれ以上話さなかった。
第七章 夜鳴坂の別れ
白石与一が殺されてから三日が過ぎた。
谷はすっかり変わってしまっていた。
大人たちは集まれば事件の話をする。
子供たちは蓮の名を囁く。
誰もが犯人探しに夢中だった。
そして、その犯人はほとんど決まっていた。
羽鳥蓮。
証拠はない。
だが皆そう思っていた。
いや、そう思いたがっていた。
「やっぱり鵺だったんだ」
「前から気味悪かった」
「何を考えているか分からない奴だったしな」
そんな言葉が聞こえるたびに、私は腹が立った。
私は現場を見ていた。
もちろん警察のような知識はない。
だが一つだけ分かることがあった。
蓮が犯人ではない。
少なくとも私にはそう思えた。
そもそも蓮は与一を憎んでいた様子がない。
嫌ってはいた。
しかし殺したいほどではない。
そして何より。
事件当日の蓮の様子が妙だった。
私が最初に違和感を覚えたのは、殺人ではなく蓮だった。
事件の翌日。
蓮は妙に落ち着いていた。
「お前、平気なのか」
私が聞くと、蓮は笑った。
「何が」
「皆、あなたを疑っています」
「知ってる」
「怖くないのですか」
蓮は空を見上げた。
「怖いよ」
即答だった。
だが次に浮かべた笑顔が気になった。
「でも今さらだからな」
今さら。
まるで最初から覚悟していたかのようだった。
そして三日目の夕方。
蓮は姿を消した。
育ての親である老婆が、真っ青な顔で村中を探していた。
「蓮が帰らないんだよ」
私は嫌な予感がした。
夜になると騒ぎはさらに大きくなった。
「逃げたんだ」
「犯人だからだ」
誰かがそう言った。
まるで待っていたように。
私は走った。
蓮がよくいた場所を回った。
神社。
川辺。
夜鳴坂。
どこにもいない。
最後に辿り着いたのは、老婆の家だった。
家の中は暗かった。
老婆は一人で座っていた。
目が赤い。
泣いていたのだろう。
「何か聞いていませんか」
私が聞くと、老婆は力なく首を振った。
「何も」
「ですが」
言葉が止まる。
「何ですか」
老婆は迷うように俯いた。
「昨日の夜だったかね」
「知らない男が来たんだよ」
私は顔を上げる。
「男?」
「うん」
「立派な身なりをしてた」
「蓮と少し話していた」
背筋が寒くなった。
「誰です」
「分からない」
「顔は見えなかった」
だが。
私は一人だけ思い当たった。
白石宗一。
与一の長男。
事件の翌日から妙に落ち着いていた男。
父を失った人間とは思えないほど。
私は次の日。
宗一の家の前まで行った。
子供一人でどうにかできるとは思わない。
だが確かめたかった。
本当に関係ないのか。
宗一は庭にいた。
私を見ると笑う。
「やあ、物集院君」
私は驚いた。
なぜ私の名前を知っている。
宗一は穏やかに続けた。
「蓮君を探しているのかい」
胸がざわついた。
「なぜそう思うのです」
「仲が良かっただろう」
笑顔だった。
だが目は笑っていない。
その瞬間。
私は初めて恐怖を覚えた。
この人は何かを知っている。
なぜか分からない。
証拠もない。
だが確信だけがあった。
蓮は逃げたのではない。
逃がされたのでもない。
追い出されたのだ。
誰かによって。
そして私は。
その誰かが目の前にいる気がしてならなかった。
だが十歳の私には、何一つ証明できなかった。
私は父に話した。
知っていることを全部話した。
白石宗一のこと。
事件のあと蓮と会っていたこと。
育ての親の家へ見知らぬ男が来たこと。
蓮が怯えていたこと。
そして突然姿を消したこと。
父は黙って聞いていた。
話し終わっても、
しばらく何も言わなかった。
「秋津」
「はい」
「それは推測です」
私は唇を噛んだ。
「しかし」
「そうだとしても証明できません」
分かっていた。
分かっていたから苦しかった。
「ですが父上」
「蓮は犯人ではありません」
「そうかもしれません」
「そうです」
私は思わず声を荒げた。
「蓮はそんな人ではありません」
「知っています」
父は静かに答えた。
「ですが、それだけでは足りません」
その言葉は刃物よりも鋭かった。
私は初めて知った。
真実と証明は違う。
知っていることと、
示せることは違う。
そして子供の言葉はあまりにも軽い。
私は部屋を飛び出した。
走った。
夜鳴坂へ。
蓮がいる気がした。
いるはずだと思った。
まだ間に合うと。
そう信じたかった。
坂の途中。
人影を見つけた。
「蓮!」
呼ぶ。
人影が振り返る。
蓮だった。
私は駆け寄った。
「何処へ行くのです」
蓮は笑った。
いつもの笑顔だった。
だが少し疲れていた。
「遠くかな」
「答えになっていません」
「そうだな」
沈黙。
私は必死だった。
「逃げる必要はありません」
「誰も証明していません」
「警察だって」
「皆が疑っているだけです」
蓮は静かに聞いていた。
「私が話します」
「父にも」
「警察にも」
「皆にも」
「だから」
言葉が震える。
「だから行かないでください」
蓮は少し目を伏せた。
そして困ったように笑う。
「秋津」
「何です」
「お前は優しいな」
「違います」
「違わないよ」
蓮は首を横に振った。
「でもな」
一歩下がる。
「世の中にはどうしようもないことがある」
「ありません」
「あるんだよ」
その言葉だけ妙に大人びていた。
私は初めて気付いた。
蓮は最初から知っていたのだ。
自分が鵺と呼ばれている意味を。
村人が何を見ているのかを。
そして。
私だけが理解していなかった。
「蓮」
「秋津」
蓮は空を見上げた。
「お前は学者になるんだろ」
「なります」
「じゃあ調べろ」
「何をです」
「俺みたいな奴を」
笑う。
「忘れられる奴をさ」
私は何か言おうとした。
だが言葉にならなかった。
蓮は夜鳴坂を下り始める。
私は追いかけようとした。
しかし足が動かなかった。
追いかけたところで何ができる。
十歳の私に。
何ができる。
何もできない。
何一つ。
「蓮!」
最後に呼ぶ。
蓮は振り返らなかった。
ただ片手だけ上げた。
そして闇の中へ消えた。
それが最後だった。
翌日。
羽鳥蓮は失踪した。
村人たちは言った。
「逃げた」
「やはり犯人だった」
「鵺だった」
誰も確かめようとしなかった。
誰も話を聞こうとしなかった。
誰も。
人として扱わなかった。
私は知っていた。
蓮は鵺ではない。
人間だ。
友人だ。
だが証明できなかった。
守れなかった。
救えなかった。
夜鳴坂に立ちながら、
私は初めて思った。
妖怪など恐ろしくない。
本当に恐ろしいのは、
人が人を怪物にしてしまうことだ。
そしてその夜。
私は初めて泣いた。
第八章 羽鳥蒼司
秋津の語りを聞いた私は、しばらく言葉を失っていた。
夜は深い。
旅籠の部屋には行灯の明かりだけが揺れている。
「つまり」
私はようやく口を開いた。
「羽鳥蓮は犯人じゃなかった」
秋津は黙って頷く。
「そして消えた」
「はい」
「宗一に追われて」
秋津はしばらく沈黙した。
「証明はできません」
静かな声だった。
「ですが私はそう考えています」
その言葉には十八年分の後悔が滲んでいた。
私はふと疑問を口にした。
「蒼司は知っているのか」
秋津の目が上がる。
「何をです」
「蓮のことだ」
秋津は首を横に振った。
「知りません」
「誰も話さなかったのでしょう」
「都合が悪いからか」
「ええ」
秋津は窓の外を見た。
「谷の人々にとって蓮は犯人です」
「その方が楽だった」
「真実を考えなくて済みますから」
行灯の火が揺れた。
「蒼司君は」
秋津が続ける。
「蓮とは違います」
「そうなのか」
「はい」
即答だった。
「蓮は人と距離を取る人間でした」
「蒼司君は違います」
「むしろ人の輪の中に入ろうとする」
「好かれたいと思っている」
私は少し意外だった。
谷の噂だけを聞けば、
蒼司もまた孤独な青年だと思っていた。
「子供達には人気があります」
神尾が口を挟む。
「祭りの手伝いもする」
「荷運びも手伝う」
「困っている老人がいれば放っておけない」
「良い青年ですよ」
そう言ってから神尾は表情を曇らせた。
「なのに」
その先は言わなかった。
言う必要もなかった。
皆分かっている。
羽鳥である。
その一点だけで。
蒼司は見られている。
「また鵺か」
「蓮の時と同じだ」
昼間聞いた言葉が蘇る。
私はようやく理解した。
谷の人間は蒼司を見ていない。
見ているのは蓮だ。
十八年前の事件だ。
蒼司自身ではない。
そこへ神尾がぽつりと言った。
「蒼司君は時々言っていました」
「何と」
「叔父さんは本当に人殺しだったんでしょうか、と」
部屋が静かになる。
「私は困りましたよ」
神尾は苦笑した。
「谷では当たり前の話ですから」
「皆そうだと思っている」
「ですが彼だけは違った」
秋津が目を閉じた。
まるで何かを噛み締めるように。
「そうですか」
その声は僅かに震えていた。
「秋津」
私が呼ぶ。
「何です」
「君は」
言いかけて止まる。
秋津は分かっている顔だった。
「蒼司君を見ていると」
静かに言う。
「蓮を思い出します」
私は何も言わなかった。
「だからこそ」
秋津は続ける。
「今度は間違えたくない」
行方不明になった羽鳥蒼司。
十八年前に消えた羽鳥蓮。
二つの名前が私の頭の中で重なった。
そして初めて気付く。
この事件は白石正道殺害事件ではない。
物集院秋津にとっては、
十八年前に終わらなかった事件の続きなのだ。
その夜、秋津は眠らなかった。
机に向かい、十八年前のメモを見つめ続けていた。
まるで今度こそ、誰かを失うまいとするように。
翌朝。
私たちは旅籠の前で相良朔也と待ち合わせていた。
谷の朝は遅い。
山の稜線から覗く陽も、まだ十分には届いていなかった。
「お待たせしました」
相良が軽く頭を下げる。
昨夜と変わらぬ柔らかな笑顔だった。
「いえ」
私は懐から小さな紙片を取り出した。
「これを」
「何です?」
「帰りの乗合馬車の切符です」
相良が目を丸くする。
「用意してくれたんですか」
「神尾さんに頼まれた」
「なるほど」
私は三枚の切符を確認する。
「物集院」
秋津が受け取る。
「折口」
自分の分をしまう。
最後の一枚を差し出した。
「相良さん」
一瞬だった。
本当に一瞬。
相良の視線が宙で止まる。
「……ああ」
小さく返事をして切符を受け取った。
すぐに笑顔へ戻る。
「ありがとうございます」
私は特に気にしなかった。
名を呼ばれて考え事から戻ることくらい誰にでもある。
だが秋津だけは相良を見ていた。
本当に一瞬だけ。
「どうしました?」
相良が気付いて尋ねる。
「いいえ」
秋津は帽子の位置を直した。
「何でもありません」
相良は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
羽鳥家は谷の外れにあった。
大きくはない。
だが手入れはされている。
門の前で秋津が足を止める。
視線が庭へ向いていた。
庭の隅には竹馬が立て掛けられている。
古い木馬もある。
しばらく見つめた後、
秋津は静かに呟いた。
「変わっていませんね」
「来たことがあるのか」
私は思わず聞いた。
秋津は少し黙る。
「昔です」
それ以上は語らなかった。
私は理解した。
ここは蓮がいた家なのだ。
十八年前。
秋津が毎日のように通った場所。
蒼司がまだ幼かった頃の家。
そして。
蓮が最後に戻った家かもしれない。
相良はそんな私たちを見ながら静かに言った。
「羽鳥蒼司という人がどんな人だったのか」
「まずはそこからですね」
秋津はゆっくり頷く。
「ええ」
「今度こそ間違えないために」
玄関では蒼司の母が私たちを迎えた。
疲れ切った顔だった。
息子が失踪して二日。
無理もない。
「蒼司のことが分かるなら、何でも見てください」
そう言う声も弱々しかった。
秋津は静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
「失礼します」
家の中は驚くほど整頓されていた。
「思ったより綺麗ですね」
相良が言う。
「蒼司君らしいです」
神尾が頷く。
「昔からそうでした」
秋津は既に観察を始めていた。
机。
本棚。
箪笥。
壁。
窓。
何かを探すようでありながら、
何も見逃さないようでもある。
私は蒼司の部屋へ入った。
六畳ほど。
質素な部屋だった。
本棚には農業関係の本。
村誌。
観光案内。
子供向けの読本。
机の上には帳面が置かれていた。
「日記でしょうか」
相良が手を伸ばす。
秋津が先に開いた。
几帳面な字だった。
祭りの予定。
畑仕事。
神尾への頼まれ事。
近所の老人の手伝い。
特に変わった内容はない。
「真面目な人間ですね」
相良が言う。
「ええ」
秋津は頷く。
「少なくとも周囲の評価とは一致しています」
しかし次の頁で秋津の指が止まった。
頁の端に小さな走り書きがある。
『叔父は本当に人殺しだったのか』
部屋が静かになる。
しばらく誰も喋らなかった。
「蓮のことか」
私は呟いた。
秋津は黙っている。
さらに頁をめくる。
同じような記述が何度か出てきた。
『皆はそう言う』
『だが証拠はあるのか』
『神尾さんは教えてくれない』
私は帳面を見つめた。
蒼司は調べていたのだ。
十八年前の事件を。
「偶然ではありませんね」
相良が静かに言う。
「ええ」
秋津も同意した。
「蒼司君は蓮について調べていた」
「そして正道氏は殺された」
嫌な一致だった。
その時だった。
秋津が机の引き出しを開ける。
底に紙切れが挟まっていた。
折り畳まれた古い紙。
誰かに隠すようにしまわれている。
秋津が慎重に開く。
中には簡単な地図が描かれていた。
夜鳴坂。
鵺塚。
夜啼稲荷。
そして。
谷の最奥部。
山中の一点へ丸印が付けられていた。
「ここは?」
私が尋ねる。
神尾が顔を曇らせる。
「昔の炭焼き小屋です」
「今は使われていません」
「人も寄り付きません」
「なぜです」
神尾は少し迷った。
「十八年前」
「蓮が最後に目撃された場所の近くだという噂があります」
空気が変わった。
秋津の目付きが鋭くなる。
相良も真剣な顔になった。
「蒼司君はそこへ向かったのでしょうか」
私が言う。
「可能性はあります」
秋津が答える。
そして紙を裏返した。
そこにもう一行だけ文字があった。
『本当のことを知っている人がいる』
達筆ではない。
急いで書いた文字だった。
私は思わず顔を上げた。
「本当のこと?」
「十八年前の事件でしょう」
秋津が言う。
「蒼司君は誰かに辿り着いた」
「だから消えた」
誰も反論できなかった。
その時だった。
私の隣で相良が小さく呟く。
「間に合えばいいですが」
声は静かだった。
だが妙に重く聞こえた。
秋津が一瞬だけ相良を見る。
しかし何も言わない。
やがて帽子を手に取った。
「行きましょう」
「どこへ」
「炭焼き小屋です」
秋津は地図を畳んだ。
「蒼司君は十八年前を追っていました」
「なら答えは、その先にあります」
私は窓の外を見る。
山の向こうには夜鳴坂が見えた。
十八年前に蓮が消えた場所。
そして今。
蒼司もまた、その影を追っていた。
羽鳥家を出た時だった。
門の前に一人の青年が立っていた。
二十代半ばほど。
作業着姿。
日に焼けた顔。
背は高く、骨太な体格をしている。
だが顔色は冴えなかった。
青年は私たちを見ると小さく頭を下げた。
「羽鳥さんのことを調べてる先生方ですよね」
秋津が足を止める。
「あなたは」
「高城俊介です」
青年は答えた。
「蒼司の友人でした」
過去形だった。
その言葉が妙に胸に引っ掛かる。
「友人でした、ですか」
私が尋ねる。
俊介は苦く笑った。
「今も友人ですよ」
「ただ、どこにいるか分からないので」
秋津が静かに口を開く。
「最後に会ったのはいつですか」
「事件の前の日です」
「夜鳴坂でした」
また夜鳴坂だった。
「何をしていました」
「昔の事件を調べてました」
俊介は即答した。
「昔?」
「十八年前です」
「羽鳥蓮の事件ですよ」
秋津の目が少し細くなる。
「蒼司君は何と言っていましたか」
「叔父さんは犯人じゃないって」
俊介は迷いなく言った。
「証拠もないのに、皆が犯人だと思い込んでるだけだって」
私は蒼司の日記を思い出した。
『叔父は本当に人殺しだったのか』
まったく同じ疑問だ。
「それで?」
秋津が促す。
「何か見つけたみたいでした」
俊介は少し声を落とした。
「真実を知っている人がいるって」
相良が顔を上げる。
「真実を知っている人?」
「ええ」
「誰かまでは教えてくれませんでした」
「でも嬉しそうでしたよ」
俊介は遠くを見るように言った。
「やっと辿り着いたって顔でした」
その言葉に秋津は黙り込む。
蓮を知る者の顔だった。
長い沈黙。
やがて俊介がこちらを見る。
「先生」
「何です」
「蒼司を見つけてください」
その声は震えていた。
「谷ではもう始まってるんです」
「何がです」
「また鵺だって」
私は思わず視線を落とした。
「蓮の時と同じだ」
「羽鳥の人間だからだ」
「どうせ犯人だろうって」
俊介は拳を握り締める。
「蒼司はそんな奴じゃない」
秋津の表情が固くなった。
十八年前。
蓮を守れなかった少年の顔だった。
「約束はできません」
秋津は静かに言う。
俊介の顔が曇る。
だが秋津は続けた。
「しかし」
夜鳴坂のある山の方を見る。
「私は同じ間違いを繰り返すつもりはありません」
俊介はしばらく秋津を見つめていた。
やがて小さく頭を下げる。
「それだけで十分です」
彼が立ち去った後。
私は秋津へ尋ねた。
「信用できるか」
「できます」
即答だった。
「珍しいな」
「蒼司君を心配している」
秋津は帽子を被り直した。
「それだけで十分です」
相良は黙ってそのやり取りを聞いていた。
そして私たちは炭焼き小屋へ向かった。
十八年前、羽鳥蓮が消えたと噂される場所へ。
山道は思った以上に荒れていた。
人一人がようやく通れる獣道のような道を、私たちは黙々と進む。
先頭を歩くのは地理に詳しい相良だった。
その後ろを秋津。
私は最後尾を歩く。
やがて木々が途切れた。
「あれです」
相良が指差した。
斜面の中腹。
朽ちかけた小屋が建っていた。
屋根は半分崩れ落ち、壁板も腐っている。
人の気配はない。
だが不思議と、その場所だけ空気が重かった。
「ここが炭焼き小屋か」
私が呟く。
秋津は何も答えなかった。
小屋を見ている。
まるで何かを思い出しているようだった。
「来たことがあるのか」
私の問いに、
「十八年前に」
とだけ答えた。
それ以上は語らない。
私は何も聞かなかった。
聞かなくても分かる。
ここは秋津にとって、決して思い出したくない場所なのだ。
相良が戸を押す。
ぎぃ、と嫌な音がした。
中は暗かった。
炭を焼くための炉。
崩れた棚。
散乱した木屑。
長い年月を感じさせる空間だった。
「蒼司さんが何か残しているといいんですが」
相良が周囲を見回す。
私は床を調べ始めた。
すると隅に、新しい足跡が残っているのが見えた。
「秋津」
声をかける。
秋津もしゃがみ込んだ。
「新しいですね」
「ああ」
「蒼司のものか?」
「あるいは別の誰かです」
秋津は床を見つめる。
その表情が少し険しくなった。
「一人ではありません」
「何?」
「少なくとも二人」
私は思わず足元を見る。
確かに。
注意して見れば異なる靴跡が混じっていた。
「蒼司君はここで誰かと会った」
秋津が言う。
私は妙な寒気を覚えた。
その時だった。
「先生」
相良の声が響く。
小屋の奥だった。
私たちは急いで向かう。
崩れた棚の裏。
そこに古い木箱が置かれていた。
「これです」
相良が箱を開ける。
中には帳面が入っていた。
古びた和綴じの冊子だった。
秋津が手に取る。
慎重に頁を開く。
達筆すぎて読みづらい。
だがところどころ判読できる。
『明治二十年』
『谷にて変死』
『鵺の噂あり』
私は顔を上げる。
「また鵺か」
「ええ」
秋津は静かに頁をめくる。
そしてある場所で手を止めた。
珍しく目を見開いている。
「どうした」
私が尋ねる。
秋津は無言で帳面を差し出した。
そこに書かれていた名前を見て、私は息を呑んだ。
弥吉
小さく記されただけの名前。
しかし確かに書かれている。
「誰だ」
私が尋ねる。
秋津はすぐには答えなかった。
やがて低い声で言う。
「二百五十年前の人間です」
「二百五十年前?」
「夜鳴坂の伝承に登場します」
相良が興味深そうに身を乗り出した。
「鵺の伝説ですか」
「ええ」
秋津はそう答えたが、その表情は硬いままだった。
「妙ですね」
「何が」
「蒼司君は十八年前を調べていた」
秋津が帳面を閉じる。
「ですが、この小屋には二百五十年前の資料もある」
「偶然じゃないのか」
「違います」
即答だった。
「蒼司君は三つの事件が繋がっていると考えていた」
私ははっとする。
二百五十年前。
十八年前。
そして現在。
まるで同じ悲劇が繰り返されているかのようだ。
その時だった。
小屋の外で何かが音を立てた。
ガサッ。
誰かが木の枝を踏んだ音。
全員が振り返る。
秋津は素早く戸口へ向かった。
「誰だ!」
私も飛び出す。
しかし森の中には誰もいなかった。
揺れる木々だけが見える。
風はない。
「逃げたか」
私が呟く。
秋津は地面を見ていた。
「どうした」
「足跡があります」
私も覗き込む。
比較的新しい。
今ついたばかりのように見えた。
「誰かが我々を見ていた」
秋津が言う。
相良も近寄って来る。
「村人でしょうか」
「分かりません」
だが秋津の眼は、明らかに別の可能性を考えていた。
十八年前の真相を知る者。
あるいは蒼司を連れ去った者。
沈黙が落ちる。
やがて秋津が足跡の先を見つめながら呟いた。
「急がなければなりません」
「何をだ」
「相手も動いています」
その声には焦りがあった。
普段の秋津からは想像できないほどの。
「折口君」
「なんだ」
「蒼司君はまだ生きているかもしれません」
私は思わず顔を上げた。
「本当か」
「ですが」
秋津は険しい顔をする。
「十八年前と同じ結末になる時間も近い」
森の奥を見つめる。
その視線の先には、夜鳴坂へ続く山があった。
そして私は気付かなかった。
私たちの少し後ろで。
相良朔也が。
ほんの一瞬だけ。
足跡の方向を見て、静かに微笑んでいたことを。
第九章 三つの夜鳴坂
炭焼き小屋を後にした頃には、すでに日が傾いていた。
山道を下りながら、私たちはほとんど口を利かなかった。
見つかった帳面。
弥吉という名。
そして蒼司が追っていた痕跡。
どれもが答えではなく、新たな疑問ばかりを増やしていた。
村へ戻る頃には、空は赤く染まり始めていた。
一葉館へ帰り着くと、私はようやく大きく息を吐いた。
相良は取材の整理があると言って部屋へ戻り、私と秋津は縁側に腰を下ろした。
庭には夕暮れの静けさが広がっている。
秋津は帳面を膝の上に置いたまま黙っていた。
考え込んでいる時の癖だった。
「何か分かったのか」
私は尋ねた。
秋津はすぐには答えなかった。
しばらくしてから静かに口を開く。
「折口君」
「うん」
「私は勘違いをしていました」
珍しい言い方だった。
秋津は自分の誤りを滅多に口にしない。
「何をだ」
「今回の事件です」
秋津は遠くの山を見つめた。
「私はずっと、与一氏殺害事件の続きだと思っていた」
十八年前。
白石与一殺害。
羽鳥蓮失踪。
秋津にとって忘れられない事件。
それが現在へ繋がっていると。
私もそう考えていた。
「違うのか」
「違います」
秋津は首を横に振った。
「少なくとも、それだけではない」
私は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
秋津は炭焼き小屋から持ち帰った帳面を開く。
あの古い記録だった。
黄ばんだ紙の一頁を指差す。
そこには小さく名前が記されている。
弥吉。
「この人物です」
「二百五十年前の男だったな」
「ええ」
秋津はページを撫でた。
「夜鳴坂の鵺伝承に登場する人物です」
「それが今回と何の関係がある」
秋津は少し考えてから言った。
「折口君。鵺とは何だと思いますか」
奇妙な質問だった。
「妖怪だろう」
「いいえ」
秋津は静かに否定した。
「少なくとも、この土地では違う」
その声は確信に満ちていた。
「鵺とは、人ではなくなった者に貼られる名前です」
私は息を呑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、何かが繋がった気がした。
羽鳥蓮。
十八年前、村人たちは彼を犯人扱いした。
証拠もないのに。
噂だけで。
恐怖だけで。
「まさか」
「ええ」
秋津は頷いた。
「弥吉も同じです」
そして続ける。
「村人たちは弥吉を鵺と呼んだ」
「十八年前には蓮を鵺と呼んだ」
「そして今は蒼司君だ」
私は言葉を失った。
確かにそうだった。
俊介も言っていた。
谷ではもう始まっている。
また鵺だ、と。
蓮の時と同じだ、と。
何も変わっていない。
「つまり」
私は慎重に言う。
「二百五十年前にも、十八年前にも、今と同じことが起きたと?」
「その可能性が高いでしょう」
秋津は答えた。
縁側に沈黙が落ちる。
夕暮れの風だけが庭木を揺らしていた。
やがて秋津がぽつりと言った。
「私は蓮を救えませんでした」
珍しく感情の滲む声だった。
「秋津」
「ですが、今ようやく分かりました」
その眼は夜鳴坂のある山を見ていた。
「蓮だけではなかったのです」
「え?」
「もっと前から続いていた」
私は思わず帳面を見る。
弥吉。
蓮。
蒼司。
三つの名前が頭の中で並んだ。
そして気付く。
これは連続した事件なのではない。
繰り返される構図なのだ。
誰かが罪を着せられる。
村が恐怖する。
人が鵺にされる。
「折口君」
秋津が静かに言った。
「我々は今まで間違った事件を追っていました」
「何だって?」
「これは与一氏殺害事件の真相を探る話ではありません」
秋津は帳面を閉じた。
「二百五十年前から続く、この土地そのものの病を追っている」
その言葉に私は背筋が寒くなった。
個人の犯行。
単独の殺人。
そんな話ではない。
村全体が抱え続けてきた何か。
夜鳴坂という土地そのものに巣食う闇。
「つまり、事件は三つあるのか」
私の問いに秋津は頷く。
「ええ」
そして指を一本立てた。
「二百五十年前。弥吉の事件」
次に二本目。
「十八年前。羽鳥蓮の事件」
最後に三本目。
「そして現在。羽鳥蒼司の事件」
秋津の視線が鋭くなる。
「表面上は別々です」
「しかし本質は同じです」
「誰かがまた、人を鵺にしようとしている」
その瞬間だった。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
振り返る。
相良朔也だった。
「お二人とも、こちらでしたか」
相良は穏やかに笑う。
「少し気になる話を聞きました」
「何です」
私が尋ねる。
相良は手帳を開いた。
「古い村史を見せてもらったんですがね」
そう言って顔を上げる。
「弥吉という人物ですが」
秋津の目が細くなる。
「知っているのですか」
「名前だけです」
相良は答えた。
「ただ妙なんですよ」
「妙?」
「彼もまた、犯人だと言われていたそうです」
夕暮れの光が消え始めていた。
私はその時初めて感じた。
今まで追っていた殺人事件が。
思っていたより遥かに大きな何かへ姿を変えつつあることを。
そして夜鳴坂の闇は、まだその全貌を見せてはいなかった。
第十章 弥吉
宝暦七年。
千鳴谷に一人の少年が現れた。
名は弥吉という。
年の頃は十五、六。
痩せた体に薄汚れた着物をまとい、旅人とも乞食ともつかぬ姿だった。
どこから来たのか。
親は誰か。
なぜ谷へ流れ着いたのか。
何一つ分からない。
分かっているのは、腹を空かせていたことだけだった。
「行く当てはあるのか」
旅絵師の宮部宗春は尋ねた。
少年は首を横に振った。
「ない」
「家は」
「知らない」
「親は」
「覚えてない」
宗春はしばらく黙った。
そして苦笑する。
「では仕方ない」
「しばらく私の家へ来い」
弥吉は怪訝そうな顔をした。
「なんでだ」
「放っておくと死ぬだろう」
「知らない奴なのに」
「知っている奴なら死なせるのか」
宗春がそう言うと、少年は少しだけ笑った。
それが二人の出会いだった。
しかし谷は弥吉を受け入れなかった。
元からいる者ではない。
どこの誰とも知れない。
それだけで十分だった。
作物が病にやられる。
弥吉のせい。
家畜が死ぬ。
弥吉のせい。
夜に獣の声がする。
弥吉のせい。
誰かが言った。
「あれは鵺だ」
その言葉は谷を巡った。
「鵺だ」
「鵺の子だ」
「人ではない」
宗春は腹を立てた。
「馬鹿馬鹿しい」
「何が鵺だ」
「ただの子供じゃないか」
だが村人たちは聞かなかった。
恐怖は理屈より強い。
不作の理由が欲しい。
不幸の理由が欲しい。
誰かのせいにしたい。
弥吉はそのためにあまりにも都合が良すぎた。
ある日。
弥吉が言った。
「先生」
「何だ」
「俺は鵺なのか」
宗春は筆を止めた。
ゆっくりと少年を見る。
「誰がそう言った」
「みんな」
「では私は違う」
「先生は変わり者だから」
弥吉は笑った。
宗春も笑う。
「その通りだ」
そして真顔になる。
「よく聞け」
「お前は弥吉だ」
「それ以上でも以下でもない」
その言葉を弥吉はしばらく黙って聞いていた。
そして秋。
事件が起きた。
名主が殺された。
夜鳴坂だった。
遺体には深い傷があった。
血に濡れていた。
村は騒然となる。
「鵺だ」
誰かが言う。
「鵺が名主を殺した」
そして次の日には。
「弥吉が名主を殺した」
になっていた。
宗春は愕然とした。
何の証拠もない。
見た者もいない。
だが村人たちは信じていた。
いや。
信じたかった。
真犯人が別にいることを。
宗春は薄々察していた。
白石源之丞。
名主の嫡男。
父の死によって最も利益を得る男。
だが宗春に証拠はない。
口にしたところで誰も聞かない。
そして鵺狩りが始まった。
松明を持つ村人。
逃げる弥吉。
鳴り続ける怒号。
「捕まえろ!」
「鵺だ!」
「鵺を逃がすな!」
宗春は必死に叫んだ。
「違う!」
「その子は人間だ!」
だが誰も聞かなかった。
夜鳴坂の闇へ。
弥吉は消えた。
その日を境に。
弥吉を見た者はいない。
翌年。
村人たちは語った。
「鵺は山へ逃げた」
「今も夜になると鳴いている」
「夜鳴坂には鵺がおる」
宗春は何も言わなかった。
ただ筆を取った。
鵺を描こうとした。
猿の顔。
獣の胴。
蛇の尾。
伝承のまま描こうとした。
だが描けない。
どうしても描けない。
なぜなら。
宗春は鵺を見ていない。
見たのは。
一人の少年だけだった。
宗春は紙を替えた。
そして最後に描いた。
夜鳴坂の闇の中。
振り返らず歩いていく少年の背中を。
名を。
弥吉という。
後に『鵺之図絵巻』と呼ばれることになるその絵巻の末尾に、宗春は小さく書き残した。
鵺なるものを見たる者なし。
ただ人々の恐れのみあり。
そしてさらに。
村人は鵺を恐れたのではない。
己らと異なる者を恐れたのである。
二百五十年後。
その言葉は再び夜鳴坂で繰り返されようとしていた。
第十一章 鵺之図絵巻
翌日。
私は秋津と共に久世古美術店を訪れていた。
店の奥にある座敷には、例の絵巻が広げられている。
『鵺之図絵巻』。
そして、その傍らには数冊の古文書。
『千鳴谷聞書』。
小夜は絵巻の方へ身を乗り出していた。
善兵衛も煙管を片手に覗き込んでいる。
一方の秋津はというと。
絵巻にはほとんど視線を向けず、最初から聞書に没頭していた。
「秋津」
私は思わず声を掛けた。
「絵巻は見ないのか」
「見ていますよ」
返事だけは返ってくる。
だが目は紙面から離れない。
「いや、見ていないだろう」
秋津はそこでようやく顔を上げた。
「絵は後です」
「まずはこちらを」
そう言って聞書を軽く持ち上げる。
「こういう品で本当に重要なのは、付属する記録です」
小夜が苦笑した。
「普通は絵の方に興味が行くと思うんですけど」
「だから私は普通ではありません」
平然と言う。
善兵衛が肩を揺らした。
「まったくだ」
「昔からそうだよ、先生は」
「立派な骨董を見せても添え書きばかり読む」
「来歴の方が面白いので」
秋津は即答した。
善兵衛は呆れたように煙を吐いた。
「学者というのは難儀な生き物だな」
秋津は聞書を読み進める。
私は隣から覗き込んだ。
夜鳴坂にて
鳥とも獣ともつかぬ声あり。
里人これを鵺という。
「ただの怪談だな」
「今のところは」
秋津は頷く。
夜更けに坂を越ゆる者、
その声を聞けば迷うという。
さらに頁をめくる。
やがて後半へ入る。
されど鵺の姿を見たる者なし。
その声のみ谷に響けり。
秋津の指が止まった。
当谷には
鵺の子と呼ばるる者あり。
何者の子か知る者なし。
座敷の空気が変わる。
秋津はその一文をじっと見つめていた。
まるで百年以上も前に書かれた文字の向こうに、誰かの顔を見ているようだった。
「どうした」
私が尋ねる。
「……続きを」
低い声だった。
最後の頁は破れていた。
読める箇所だけが辛うじて残っている。
鵺の子、夜鳴坂にて消ゆ。
その夜、坂にて鳴く声あり。
人にあらず。
獣にあらず。
されど誰もがその名を知る。
その先は欠損していた。
静寂が落ちる。
私は絵巻へ目を向けた。
前半に描かれているのは、私の想像する鵺だった。
猿のような顔。
獣の胴。
蛇の尾。
古い伝承そのままの異形。
しかし後半へ進むにつれ、その姿は曖昧になっていく。
輪郭が崩れる。
墨が滲む。
何を描いているのか分からなくなる。
そして最後。
そこに描かれていたのは怪物ではなかった。
一人の少年の後ろ姿だった。
夜鳴坂へ向かうように立つ影。
「面白いだろう」
善兵衛が言った。
「最初は怪物を描こうとしている」
「だが最後は人間になる」
秋津は静かに絵巻を見ていた。
「宮部宗春は」
ゆっくりと言う。
「怪異を書こうとしたのではありません」
「人を書こうとしたのでしょう」
私はその横顔を見る。
どこか敬意があった。
二百五十年前に生きた絵師へ向ける、不思議な共感のようなものが。
その時だった。
「秋月先生」
小夜が私を呼んだ。
「え?」
思わず顔を上げる。
一拍遅れてから、
「ああ、私ですか」
と返事をした。
「聞いてなかったんですか?」
小夜が首を傾げる。
「いや」
私は苦笑した。
「その名前で呼ばれると少し反応が遅れるんだ」
「筆名ですもんね」
「そういうことだ」
小夜は納得したように頷いた。
その瞬間だった。
秋津の手が止まる。
本当に僅か。
だが、その目が鋭くなる。
私には理由が分からなかった。
聞書。
絵巻。
相良朔也。
別々だったものが、秋津の頭の中で結び付いたらしかった。
しばらくして。
秋津は聞書を閉じた。
「折口君」
「何だ」
秋津は珍しく、まっすぐ私を見た。
「ありがとうございます」
私は思わず聞き返した。
「は?」
「あなたのおかげです」
「何の話だ」
秋津は少しだけ笑った。
だがその笑みはどこか寂しげだった。
「十八年前」
私は言葉を失う。
「私は真相に辿り着いていました」
「蓮の事件か」
「ええ」
秋津は静かに頷く。
「ですが私は救えなかった」
「証明できなかったからですか」
「それもあります」
そして少し視線を落とした。
「何より、一人でした」
私は黙る。
秋津がそんな弱音にも似た言葉を口にするのは珍しかった。
「今回は違います」
「何が」
秋津は聞書を持ち上げる。
「私は記録ばかり見ていました」
「古文書も」
「戸籍も」
「伝承も」
そして私を見る。
「ですが人を見ていたのは、やはりあなたです」
私は首を傾げた。
「私か?」
「ええ」
「相良氏の違和感に気付くきっかけは、あなたでした」
「何もしていないぞ」
「そう思っているのはあなただけです」
秋津は静かに言った。
「私一人なら見落としていました」
その言葉に私は少し驚いた。
物集院秋津が。
誰かを頼ったことを認めている。
それは私が知る彼には珍しいことだった。
私には分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
十八年前の秋津は、一人だった。
しかし今の秋津の隣には。
私がいた。
第十二章 相良 朔也
東京市本郷区 文部省古記録調査課
午後の陽光が窓から差し込んでいた。
文部省古記録調査課。
大量の文書と書架に囲まれた執務室で、物集院春雅は一通の電報を見つめていた。
短い文章だった。
夜鳴坂事件調査中
相良朔也について調査願います
物集院秋津
春雅は小さく息を吐いた。
「秋津が人物調査を依頼するとは珍しいな」
弟は基本的に他人を調べない。
人を見る。
話を聞く。
現地を歩く。
それが秋津のやり方だった。
戸籍や公文書に頼ることは少ない。
だからこそ、この電報に違和感があった。
春雅は机の引き出しを開き、一冊の手帳を取り出す。
夜鳴坂事件。
白石正道殺害。
羽鳥蒼司失踪。
数日前に地方紙の記事で目にした内容だった。
「相良朔也、か」
名前を口にする。
新聞記者。
それ以上の情報はない。
だが秋津が調べてほしいと言う以上、理由があるのだろう。
春雅は席を立った。
数時間後。
調査課の資料室。
戸籍台帳。
除籍簿。
住民記録。
古い届出書。
職員たちが次々と資料を運んでくる。
「課長、その人物ですか?」
「ええ」
春雅は眼鏡を押し上げた。
「少し気になることがありまして」
まず現在の戸籍。
相良朔也。
東京市在住。
職業は新聞記者。
ここまでは普通だった。
しかし春雅は眉をひそめる。
「養子?」
戸籍に不自然な移動記録がある。
出生地。
養子縁組。
改姓。
何かを隠すような履歴だった。
「続きがありますね」
春雅は次の書類を請求した。
二時間後。
執務室。
机の上には大量の書類が並んでいる。
春雅は一枚ずつ確認していた。
異変に気付いたのはその時だった。
「これは……」
出生記録。
母親の名前。
養父の名前。
そして認知記録。
春雅の視線が止まる。
しばらく動かなかった。
やがて静かに椅子へ背を預ける。
「なるほど」
その声は普段と変わらない。
だが表情だけが僅かに厳しくなっていた。
手元の資料にはっきりと記されていた。
実父
白石 正道
春雅は資料を閉じた。
偶然にしては出来すぎている。
現在の被害者。
白石正道。
その男の私生児。
それが相良朔也だった。
「だから夜鳴坂なのか」
小さく呟く。
相良は取材に来たのではない。
自分自身の過去を追っていた可能性が高い。
しかし。
春雅はそこで思考を止めなかった。
「秋津が気付くほどだ」
それだけではない。
きっと弟はもっと別の違和感を感じている。
だから調査依頼を送った。
春雅は再び立ち上がる。
「白石家も調べましょう」
翌日。
白石家の戸籍。
過去の住民記録。
土地台帳。
古い聞き取り資料。
次々と照合していく。
そして春雅は新たな事実に辿り着く。
相良の母親は若い頃、
白石家へ奉公に出ていた。
そしてその後、突然村を離れている。
まるで追い出されるように。
「これは――」
春雅の表情が険しくなった。
資料を整理する。
相良。
白石正道。
白石宗一。
羽鳥蓮。
羽鳥蒼司。
夜鳴坂。
一本一本だった糸が、
少しずつ結ばれ始めていた。
だがまだ足りない。
決定的な何かが欠けている。
春雅は机へ向かった。
便箋を取り出す。
宛名を書く。
物集院綾乃
そしてペンを走らせた。
綾乃
一葉館へ向かえ。
秋津へ資料を届けてほしい。
相良朔也について重要な事実が判明した。
おそらく今回の事件と無関係ではない。
詳細は同封資料を参照。
私ももう少し調べる。
場合によっては私自身が現地へ向かう。
春雅
書状を書き終えると、春雅は窓の外を見た。
夕暮れの東京が広がっている。
しかし彼の視線は遥か西方を向いていた。
夜鳴坂。
弟がいる土地。
そして二百五十年前から続くという闇。
「秋津」
珍しく弟の名を口にする。
「何を見つけた」
春雅は机の上の資料を見下ろいた。
その最上段には、一枚の戸籍が置かれている。
相良 朔也
実父 白石 正道
静かな執務室に、紙をめくる音だけが響いていた。
一葉館。
私と秋津、それに早瀬の三人が客間に集まっている
時だった。
廊下を歩く足音が聞こえる。
障子が開いた。
「兄様」
物集院綾乃だった。
いつもの和装姿。
だが表情は少し硬い。
「綾乃」
秋津が立ち上がる。
「兄様からです」
綾乃は封筒を差し出した。
「春雅兄上か」
秋津は封を切る。
中から数枚の書類が現れる。
戸籍。
認知記録。
養子縁組届。
私は横から覗き込んだ。
「何だ、それは」
秋津は答えない。
資料を次々と読み進める。
やがて最後の一枚で手が止まった。
長い沈黙。
「秋津」
私の声にも反応しない。
そして静かに言った。
「そうですか」
その声は怒りにも似ていた。
「兄上」
「見つけてしまいましたか」
私は嫌な予感がした。
「何が分かった」
秋津は一枚の紙を私へ差し出した。
そこに書かれていた文字を見て、私は息を呑んだ。
相良 朔也
実父 白石 正道
「……何だと」
部屋から音が消えた。
早瀬が資料を奪うように見る。
「冗談じゃないぞ」
綾乃が静かに続ける。
「春雅兄様の調査では、相良氏の母親は白石家へ奉公に出ていました」
「その後、千鳴谷を離れています」
「事実上の追放だったそうです」
誰も口を開かない。
私は思い出していた。
相良朔也。
誰よりも熱心に夜鳴坂を調べていた男。
記者として。
事件を追っていると思っていた。
だが違った。
あの男は。
自分自身を調べていたのだ。
「だから夜鳴坂へ来たのか」
早瀬が低く呟く。
「自分の父親を」
秋津は頷いた。
「おそらく」
「それだけではありません」
そして静かに聞書を取り出した。
「弥吉」
「羽鳥蓮」
「羽鳥蒼司」
その三つの名を並べる。
「そして相良朔也」
私は顔を上げた。
「相良もか」
「ええ」
秋津の声は重かった。
「彼もまた鵺だったのでしょう」
静寂が落ちる。
出生を隠され。
父を持たず。
正しい名も持てず。
他人の姓で生きてきた。
何者でもない者。
どこにも属せない者。
それは弥吉と似ていた。
蓮とも似ていた。
蒼司とも似ていた。
「ですが」
秋津が言った。
「そこで終わらなかった」
机の上に置かれた白石家の資料。
白石正道死亡。
羽鳥蒼司失踪。
夜鳴坂。
全てが一本に繋がる。
私はようやく理解した。
「蒼司に罪を着せる気か」
秋津は静かに目を閉じた。
「ええ」
「十八年前と同じです」
「誰かが犯人になる」
「そして」
「最も都合の良い人間へ罪が押し付けられる」
早瀬が拳を握る。
「羽鳥家か」
「鵺の家系」
秋津は頷く。
「蒼司君は犯人ではありません」
「なら相良だと言うのか」
「証明はまだできません」
秋津は即答した。
「ですが」
そこで言葉を切る。
珍しく感情が滲んだ。
「私は二度と同じことを繰り返させるつもりはありません」
蓮。
救えなかった少年。
秋津は今もその名前を背負っている。
そして今回。
蒼司は蓮と同じ場所へ立たされようとしている。
だから。
秋津は立ち上がった。
「会いに行きましょう」
「誰にだ」
私が尋ねる。
秋津は帽子を被る。
その目は真っ直ぐ前を向いていた。
「相良朔也」
「いえ」
小さく首を振る。
「白石朔也に」
静かな声だった。
だがその声には確信があった。
十八年前、秋津は真実に辿り着いても何もできなかった。
しかし今は違う。
私がいる。
早瀬がいる。
綾乃がいる。
春雅もいる。
そして何より。
蒼司はまだ生きている。
秋津は扉へ向かいながら、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「あなたも鵺だったのでしょう」
その言葉は相良へ向けたものだったのか。
それとも蓮へ向けたものだったのか。
私には分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
夜鳴坂の悲劇は、まだ終わっていない。
第十三章 鵺
夜鳴坂は静まり返っていた。
夕闇が谷を覆い始めている。
風だけが木々の葉を鳴らしていた。
坂の中腹。
そこに羽鳥蒼司が立っていた。
その前に相良朔也。
そして少し離れた場所に白石宗一。
三人の間に漂う緊張だけが、この場の異様さを物語っていた。
「来てくれたんですね」
蒼司が宗一へ言った。
静かな声だった。
責める口調ではない。
怒鳴りもしない。
ただ答えを求めていた。
宗一は目を伏せている。
「蒼司……」
「聞かせてください」
「……」
「叔父さんは本当に人殺しだったんですか」
風が吹いた。
宗一の肩が微かに震える。
だが返事はない。
代わりに笑ったのは相良だった。
「十八年だ」
ぽつりと言った。
「十八年も誰もその質問をしなかった」
蒼司が相良を見る。
相良は自嘲気味に笑った。
「皆、楽だったんですよ」
「犯人が決まっていたから」
「証拠なんて必要ない」
「羽鳥蓮が鵺だった」
「それで終わりだ」
「あなたが正道さんを殺したんですね」
蒼司の問いに、
相良は否定しなかった。
「ええ」
あっさりと認めた。
「私が殺しました」
宗一が息を呑む。
しかし相良は構わない。
むしろようやく話せる相手を見つけたようだった。
「知っていましたか」
「私の母は白石家に奉公していたんですよ」
「父は母を捨てた」
「私も捨てた」
「認知もしない」
「姓も与えない」
声が低くなる。
「私は何者だったんでしょうね」
誰も答えない。
「白石でもない」
「相良でもない」
「いるはずなのに、いない人間」
苦く笑う。
「私も鵺だった」
蒼司は黙って聞いていた。
やがて静かに口を開く。
「だから父を殺した」
「ええ」
「でも」
蒼司は首を振った。
「だからって、どうして僕だったんです」
相良の表情が僅かに歪む。
「……」
「どうして僕を犯人にしようとしたんですか」
長い沈黙。
相良は目を閉じた。
「簡単ですよ」
「羽鳥家だったからです」
「蓮の家だからです」
「十八年前、白石家は蓮を鵺にした」
「だったら今度は羽鳥家が鵺になればいい」
「そう思った」
吐き出すように言った。
その瞬間。
蒼司の顔に悲しみが浮かぶ。
「それじゃ同じじゃないですか」
相良が顔を上げる。
「何?」
「あなたが憎んだ人たちと」
蒼司は震える声で続ける。
「叔父さんがされたことを、僕にしようとしただけじゃないですか」
相良は何も言えなかった。
言葉を失った。
初めてだった。
取材の時も。
推理を弄んでいた時も。
常に余裕を見せていた男が。
今だけは言葉を持たなかった。
「そこまでです」
坂の下から声が響く。
全員が振り向く。
秋津だった。
私。
綾乃。
神尾。
俊介。
そして早瀬。
全員が夜鳴坂を上がってくる。
秋津は宗一の前で止まった。
「白石宗一氏」
宗一は目を閉じた。
もう逃げられないと分かっている顔だった。
「羽鳥蓮は犯人ではありませんでした」
「……」
「違いますか」
長い沈黙。
宗一が絞り出すように言った。
「違う」
蒼司が息を呑む。
俊介が拳を握る。
「私は知っていた」
宗一は震えていた。
「蓮じゃないことを」
「最初から」
誰も声を出さない。
「父は恨まれていた」
「商売でも土地でも」
「敵が多かった」
「だが皆が蓮を疑った」
「そして私は……」
顔を覆う。
「止めなかった」
「なぜです」
秋津が問う。
静かな声だった。
だが十八年分の怒りが込められていた。
「なぜ止めなかった」
「蓮はまだ子供だった」
「あなたは知っていた」
「それでもなぜ」
宗一は泣いていた。
「怖かったんだ」
「白石家が終わるのが」
「父の恥が晒されるのが」
「皆が蓮を犯人だと言った」
「だから……」
嗚咽が混じる。
「だから私は黙った」
「蓮が消えれば終わると思った」
「終わらなかった」
静かに言ったのは蒼司だった。
宗一が顔を上げる。
「十八年経っても誰も救われなかった」
蒼司の目には涙が浮かんでいる。
「叔父さんも」
「相良さんも」
「僕も」
秋津が一歩前へ出る。
夜鳴坂を見上げた。
「鵺とは何でしょう」
誰も答えない。
「弥吉は鵺ではなかった」
「羽鳥蓮も」
「羽鳥蒼司も」
「相良朔也も」
相良が顔を上げる。
秋津は真っ直ぐ見返した。
「誰も怪物ではありません」
「人です」
静かな声だった。
「ただ居場所が欲しかった」
「認められたかった」
「名前を呼んで欲しかった」
「それだけだった」
相良の唇が震える。
「先生」
「はい」
「俺は……」
その先が続かない。
「俺も」
「人でしたか」
秋津は迷わなかった。
「ええ」
「あなたも人です」
相良の目から初めて涙が落ちた。
沈黙を破ったのは早瀬だった。
一歩前へ出る。
警察手帳を開いた。
「相良朔也」
低く通る声。
「白石正道殺害の容疑で逮捕する」
相良は抵抗しなかった。
ただ頷いた。
「そうでしょうね」
どこか諦めたような笑顔だった。
手錠が掛けられる。
その音だけが妙に重く響いた。
続いて早瀬は宗一へ向き直る。
「白石宗一」
「十八年前の事件に関する虚偽証言及び証拠隠蔽の容疑について、改めて事情聴取を行う」
宗一は力なく頷いた。
「逃げません」
その顔は、十八年間抱えていた重荷に潰された人間の顔だった。
「蒼司君!」
その声に蒼司が振り返る。
「先生」
安堵したように笑う。
「無事で……」
秋津は言いかけて口を閉じた。
数秒の沈黙。
そしていつもの無表情を取り戻したように見えたが、その声は少しだけ震えていた。
「無事でよかった」
蒼司は目を丸くする。
秋津がそんなことを口にするとは思っていなかったのだろう。
「先生」
「ですが」
秋津はすぐに続けた。
「一人で行動してはいけません」
珍しく厳しい口調だった。
蒼司は少し肩をすくめる。
「すみません」
「謝る相手が違います」
「え?」
「あなたのお母上です」
蒼司は押し黙った。
秋津は視線を落とす。
そして静かに言った。
「今回の事件で私も痛感しました」
「何をですか」
蒼司が尋ねる。
秋津はしばらく答えなかった。
夜鳴坂を見上げる。
十八年前。
あの夜に消えた少年を見ているようだった。
「人は一人で真実を追うべきではありません」
低い声だった。
「一人では届かないことがあります」
私は黙ってその横顔を見ていた。
蒼司もまた何かを察したようだった。
「蓮さんのことですか」
秋津の目がわずかに揺れる。
しかし否定はしなかった。
「ええ」
静かな返事だった。
「私は昔、一人で何とかしようとしました」
「結果として何もできなかった」
夜鳴坂に風が吹く。
「だから」
秋津は蒼司を見る。
「今後は誰かを頼ってください」
「神尾さんでも」
「俊介君でも」
「私でも構いません」
少し間を置き、
珍しく柔らかな声で続けた。
「あなたは、もう一人ではないのですから」
蒼司は目を伏せた。
そして小さく頷く。
「はい」
その返事を聞き、
秋津はようやく安心したように小さく息を吐いた。
私だけが気付いていた。
今の秋津は、羽鳥蒼司を見ているようでいて、
十八年前の羽鳥蓮にも言葉を掛けていたのだということを。
夜鳴坂に風が吹いた。
どこか遠くで鳥が鳴く。
ヒョー、と。
神尾が空を見上げる。
「鵺ですかね」
秋津は少し考え、
そして小さく笑った。
「どうでしょう」
「ただの鳥かもしれません」
「物集院先生」
秋津が振り返る。
「何です」
早瀬は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「今回は助りました」
「あなたがいなければ蒼司君は見つからなかったでしょう」
「相良も」
「宗一も」
「追い詰められなかった」
秋津は苦笑した。
「私は何もしていません」
「そういうところですよ」
早瀬も少し笑う。
「あなたは自分のやったことを過小評価しすぎる」
「先生」
「はい」
「借りができましたね」
秋津が目を瞬く。
早瀬は少しだけ笑った。
「何かあれば言ってきてください」
「警察にしかできないこともある」
秋津は静かに頭を下げた。
「覚えておきます」
「そうしてください」
その背を見送りながら私は思った。
十八年前。
秋津は一人だった。
だが今は違う。
私がいる。
綾乃がいる。
春雅がいる。
そして早瀬もいる。
もう二度と、一人ではなかった。
終章 神田古書店街
数日後。
私は秋津に付き合わされ、神田の古書店街を歩いていた。
事件は終わった。
白石宗一は全てを認めた。
蒼司は生きていた。
相良もまた、自らの罪を認めた。
初夏の陽射しが石畳を照らしている。
通りには古書店が並び、店先には木箱に入った古書や古雑誌が積み上げられていた。
紙の匂いが漂う。
秋津は相変わらずで、事件の余韻などどこ吹く風と言わんばかりに、ひたすら古書を物色している。
「少しは事件を振り返ったらどうだ」
私が言うと、
「振り返っています」
と秋津は答えた。
「古記録を探しながら」
「まるで説得力がないな」
人混みの中を歩いていた時だった。
私たちの横を一人の男が通り過ぎる。
帽子を深く被った男だった。
すれ違いざま。
男は小さく言った。
「忘れられる奴は調べたか」
秋津の足が止まる。
男は続けた。
「お前」
「ちゃんと学者になったな」
そのまま歩いていく。
「待って!」
私は振り返った。
だがもう人混みに紛れて見えない。
秋津だけが立ち尽くしていた。
「もしかして」
私が尋ねる。
秋津はしばらく答えなかった。
やがて小さく笑う。
本当に小さく。
「ええ」
そして前を向いた。
「昔の友人です」
空はよく晴れていた。
鵺の声は聞こえなかった。
ただ、人の声だけが神田の町に響いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。簡単でもよろしいので感想をいただければ幸いです。よろしくお願いします。




