第6話「模型屋の朝と、奪われた光」
*画面越しの対局における、マブイの直接接触は禁止されていない。*
>*なぜなら、そのような状況を、規則の立案者は想定しなかったからである。*
>――競技規則、付則第九条の解釈に関する注記
第6話「模型屋の朝と、奪われた光」
夜明け前の水前寺模型店は、静寂そのものだった。
ハルトが厨房へ下りると、昨日と同じ光景があった。巌が、節くれだった大きな手で味噌汁をよそっている。油と鉄粉が七十年かけて染み込んだ手。無数の細かな傷が刻まれた手。プロ選手として、職人として生きてきた男の歴史が、そこにある。
「……じいちゃん、おはよう」
「ああ、座れ」
差し出されたのは、昨日と変わらぬ豆腐の味噌汁だ。ハルトは一口啜り、その熱さに少しだけ安堵した。更生局での光景が、悪い夢だったかのように思えるほど、この場所は普通に満ちている。
作業台の隅のホログラムデッキが、自動で起動した。朝のニュースだ。
「——更生局最高顧問、エジプト氏が語る、新たな管理社会の展望について……」
その名前が流れた瞬間、巌の動きが止まった。
お玉を持ったまま、画面を凝視している。ハルトは箸を止めた。祖父の横顔に、見たことのない表情があった。後悔とも、苦しみとも取れる、遠い目。それが一瞬だけ浮かんで——消えた。
「……エジプト」
巌が、絞り出すように呟いた。
「じいちゃん? 知り合いなのか?」
返事はなかった。節くれだった手が、微かに震えている。ハルトはもう一度「じいちゃん」と呼びかけようとした——その時、ホログラムデッキの映像が乱れた。
ノイズが走り、朝のニュースが消える。代わりに、白銀の髪の男がこちらを見据えていた。
『……久しぶりだね、水前寺くん』
スピーカーから流れる声は、ニュースのものではなかった。皮膚の下に直接染み込むような、冷たい響き。
『将軍が目覚めたと聞いて、じっとしていられなかった。……君の孫か。やはり来たな、という気がしていたよ。君は昔、私に最高に美しい夢を見せてくれた。だからこそ——今日、ここへ繋いだ』
巌がハルトの肩を、無言で強く押した。
ハルトは床に転がった。立ち上がろうとした瞬間、ホログラムデッキから光が溢れ出した。部屋の空気そのものが黄金に変色していくような、じわりとした侵食。それはゆっくりと、しかし確実に、巌の身体を包んでいった。
「じいちゃん!」
光の中で、巌の瞳が揺らいだ。「水前寺巌」という個の輪郭が、滲むように薄れていく。ハルトは祖父の肩を掴み、名を呼んだ。
呼べば呼ぶほど、祖父の視線がハルトから離れていく。
「じいちゃん——! じいちゃん!!」
「……ハルト……か?」
声が、掠れていた。認識の回路が、無理やり繋ぎ直されているような間。ハルトは「ああ、俺だ、じいちゃん」と叫んだ。しかし祖父の目は、ハルトを通り抜けて、どこか遠くを見ていた。
光が収まった。
巌は立ったまま、微動だにしない。恐る恐るその顔を覗き込むと、見たことのないほど穏やかな、しかし完璧に的外れな笑みがそこにあった。
「……おはよう、ハルト。今日は、良い天気だね」
「…………え?」
「さあ、朝食を食べよう。味噌汁が冷めてしまうよ」
ハルトの指先から、力が抜けた。
目の前にいるのは祖父だ。しかしそこには、油の匂いも、厳しさも、「水前寺巌」という人間が持っていたものが、何もなかった。
『……美しいだろう?』
虚空からエジプトの声が響いた。『闘争を忘れ、穏やかに過ごす。これが私の「秩序」だ。返してほしければ、来るがいい——黄金の城へ』
声が消えた。
ハルトはしばらく動けなかった。
罠だ——分かっている。それでも。
「エジプト」
ハルトはトランクを掴み、立ち上がった。ヴィンテージ機の歯車が、低く唸った。
「じいちゃんを返せ。……それだけだ」




