最終話「最後の一振り、一歩から始まる明日」
最終話「最後の一振り、一歩から始まる明日」
白亜の塔の頂上。雲海を眼下に見下ろすそこには物理的な床はなく、星々を繋ぎ合わせたような巨大な盤面が展開されていた。
ソロモンは、静寂そのものを纏って待っていた。
「氏胤が論理を、片倉が可能性を繋いだか。……だがハルトくん、それらはすべて、私の前では零に収束する。この世界のすごろくは、あまりに多くのバグを生み出しすぎた」
ソロモンが掲げたのは、面が存在しないかのように滑らかな漆黒の球体——零のダイス。
「始めようか。人類の存続を賭けた、最後のアンティ・バトルだ」
ソロモンがダイスを「振る」。音はない。ただ、盤面上の空間がインクを零したように黒く塗り潰されていく。
「私の出目は常に『零』。君がどれだけ進もうと、私が一振りするたびに、君の歩んだマスは存在ごと消滅する」
ハルトの《魔導将軍・マギ・プロフェット》が、一歩踏み出す。だが、進んだ瞬間に後ろの道が消えていく。これまでの歩みを支える基盤が失われ、ハルトは宇宙の深淵に浮いているような錯覚に陥った。
「……っ、じいちゃんの模型店も、みんなが待ってる街も……全部消すつもりかッ!」
「それが浄化だ。君の一を積むたびに、私は零でそれを打ち消す。この終わりのない演算に、君のマブイがいつまで耐えられるかな?」
ソロモンの攻撃は、物理的な破壊ではない。ハルトの存在そのものを無価値なデータとして抹消する概念の暴力。マギ・プロフェットの黄金の装甲が、色を失い、灰色に透け始めていた。
通信機から、ノイズ混じりの声が聞こえた。
「……ハルト……。……あきらめるな……」
氏胤の、冷徹だが熱い信頼。片倉の、泥臭く力強いエール。
(……俺の後ろに道がなくても……あいつらが繋いでくれた一は、俺の中に、この機体の歯車の中に刻まれてるんだ!)
ハルトは、消えゆく盤面の上で、ダイスを振るのをやめた。
道具の先に、もっと大切なものがある——そう感じた。
機体から降り、剥き出しの魂でソロモンと対峙した。
「ソロモン。あんたの言う『零』は、ただの空っぽだ。……でも、俺たちの『一』は、空っぽじゃない。……昨日食べた味噌汁の味も、ネジを締める時の手の痛みも……全部詰まってるんだよ!!」
ハルトが拳を握ると、砕け散った将軍のメダルの破片が、鼓動に合わせて光を放ち始めた。
右拳に——氏胤の白銀が宿る。
左拳に——片倉の黒が宿る。
胸に——セナの指先が修理してきた歯車の温もりが伝わる。
胃の奥から——じいちゃんの味噌汁の熱が湧いてくる。
「一回じゃ届かない。……でも、一を積み重ねれば、それは世界になるッ!!」
「――これが、俺たちのアンティだッ!!!」
「……馬鹿な。存在しないはずの一の累積が、私の零を侵食しているだと……!?」
ソロモンの顔が、初めて恐怖に歪んだ。
ハルトが放ったダイスは、盤面を転がるのではない。消し飛ばされたはずの過去のマスを、一歩ずつ強引に再構築しながら突き進んでいく。
将軍の影が、魔導師の杖を巨大な剣へと変え、ソロモンの機体を一刀両断にした。
閃光が塔を包み込んだ。
ソロモンは、光の中に消えながら、一度だけ笑った気がした。
宇宙の盤面が、静かに砕け散った。
数ヶ月後。
復興が進む街には、かつての殺伐とした空気はなかった。アンティ・ルールは廃止され、すごろくは再び「みんなで楽しむ遊び」へと戻っていた。
片倉からメッセージが届いていた。「美咲が今日、本当の青空を見た。ちょっと泣いた」。それだけだった。
どこかから、また無記名の精密部品が届いていた。梱包の几帳面さだけが、あの男らしかった。
あの少年・アサヒは、街のどこかで普通に生きているはずだ、とハルトは思った。
水前寺模型店の前。ハルトはセナと一緒に、錆びたヴィンテージ機のメンテナンスをしていた。
「……ねえ、ハルト。結局、あの将軍の魂はどうなったの?」
ハルトは懐の、今はただの古びたメダルに触れた。「……さあな。でも、時々、歯車が噛み合う時に『もっと丁寧に扱え』って声が聞こえる気がするよ」
そこへ、松葉杖をついた片倉がやってくる。「よぉ、ハルト! 新しいリーグの登録、行こうぜ。今度は『凡骨リーグ』ってのを俺が作るんだ!」
「……フン。相変わらず低レベルだな」
いつの間にか現れた氏胤が、鼻で笑いながらも、手にはしっかりと自分のエントリープラグを握っていた。
ハルトは空を見上げた。あの塔も、神も、もういない。あるのは、どこまでも続く、地続きの明日だけだ。
「……よし。行こうか」
ハルトはポケットから、小さな木製のダイスを取り出した。特別な力は何もない。一から六までの数字が刻まれただけの、どこにでもあるダイス。
彼はそれを高く放り投げ、最初の一歩を踏み出した。
いつだって、この「一」から始まる。
【からくりすごろく 完】




