守るべきもの
だから殺したんだ。
私を守るために……
—これは、私が選んだ結末だ。
夜の闇に、彼女の足音だけが溶けていった。
その罪を、誰かのせいにはしない。
優香は振り返らなかった。
もうすぐ、ここにも来るだろう。
遠くで、サイレンの音がした。
彼女はドアを開け、夜の冷気に身を晒す。
「じゃあ安心だ」
男は少し考えてから答えた。
「もう落ちてるんじゃないか」
優香は、ふっと笑った。
「ねえ」
優香は目を開けずに言った。
「人を殺した人間は、地獄に落ちると思う?」
『お前が悪い』
その言葉が、最後に聞いた声だった。
思い出すのは、床に落ちた携帯。
割れた画面。
震える指。
そして——彼の声。
優香はシートに背中を預け、目を閉じた。
ただ、事実としてそこにあった。
沈黙が落ちる。
それは重くもなく、軽くもない。
「後悔はね、殺したことじゃない」
助手席の男が、彼女を見る。
「もっと早く、やらなかったこと」
男はようやく口を開いた。
「……後悔は?」
優香は少し考えたふりをして、首を振った。
優しくなったり、泣いたり、謝ったりしながら。
「次はないから」
次は、必ずあった。
理由はどうでもいいことだった。
酒が切れていたとか、機嫌が悪かったとか。
そんな理由で人は、他人の人生を踏みにじる。
警察に行けばよかった?
逃げればよかった?
周囲は皆、そう言った。
でも、逃げた先にも彼は来た。
3年前。
最初に殴られた夜のことを、優香は今でもはっきり覚えている。
優香はフロントガラス越しに、さっきまでいた街の灯りを見ていた。
あの灯りのどこかに、彼女が“守られる前の自分”を置いてきた気がしていた。
ただ、ダッシュボードに置いた血のついた手袋から、ゆっくりと視線を逸らした。
エンジンは切ってある。
ラジオもつけていない。
聞こえるのは、冷えた空気がボンネットを撫でる音だけだった。
「……守る、ね」
助手席の男は笑わなかった。
否定もしなかった。
本当は、助手席に誰かがいたかどうかさえ、優香にはもう確信がなかった。
オレンジ色の火が夜の国道に一瞬だけ浮かび、すぐ闇に飲み込まれる。
だから殺したんだ。
私を守るために……
優香はそう吐き捨てて、タバコを車外に弾いた。




