第二話 王太子擁立──静かなる対立の始まり
王国暦842年──
婚約破棄から三日後の朝。
王宮は、普段通りの静けさを装っていた。
しかし、宮廷の石畳を歩く侍従の靴音はどこか重く、
文官たちの動きは不自然なほど早い。
“何かが起き始めている”。
その空気を、誰もが薄く感じていた。
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◆◆王の私室にて──寵姫の囁き
王は珍しく早朝から寵姫を呼び寄せていた。
私は王妃のお遣いで、その周辺の廊下を歩いていたが──
耳に入ったのは、やわらかな声。
寵姫
「……陛下。こんな機会は、滅多にございませんわ。
ほとんどの国内貴族が支持していた、レオンハルト殿下が暴走なさったのです。
神意に違いありません」
王
「……ふむ」
寵姫はさらに寄り添い、甘く囁いた。
「末の王子アレクさまこそ、
未来を背負うべきお方です」
王の手がぴくりと動いた。
寵姫の声は毒のように甘く、
同時に理性を溶かす熱を帯びていた。
「正妃の実家など恐れる必要はありません。
陛下が選んだ王太子こそ“正義”なのですわ」
王
「……そう、か……」
寵姫
「ええ。
今こそ……アレクさまを王太子に」
廊下の向こうで、侍女たちが足を止めた。
王の声が、低く響く。
「……わかった。
近いうちに……発表しよう」
その瞬間、宮中の空気がわずかに歪んだ。
誰にも聞こえぬほど微かに。
しかし確かに“何かが切れ目を見せた”瞬間だった。
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◆◆王妃の怒り
報告を受けた王妃は、
静かに、しかし確実に怒りを深めていた。
王妃
「……この国の王は、もう理性を失ったのかしら」
私は側に控えながら、
王妃の指先が震えていることに気づく。
怒りというより、これは——
“覚悟”の震えだった。
王妃
「アレクを王太子に?
公爵家の後押しも失って、第一王子の地位が揺らいでいる今、
陛下は“口実”を見つけただけのこと」
王妃は目を閉じ、深く息を吐いた。
「……やむを得ません。
侯爵家を呼び戻します」
侍女たちが息を呑んだ。
侯爵家──
正妃の実家であり、王国最大軍閥を率いる名門。
“動けば国が揺れる”とまで言われる家。
王妃は私に視線を向けた。
「エレオノーラ。
あなたも来なさい。
レオンハルト様の婚約者であったあなたには、
まだ役割が残っているはずです」
私は静かに頭を下げた。
「……承知しました」
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◆◆侯爵家本邸──静かなる巨影
その日の午後、王妃と私は急遽馬車で侯爵家本邸へ向かった。
豪奢な門が開くと、
中庭にはずらりと整列した軍装の騎士団が。
「……これは……」
思わず息を呑んだ。
平時に、侯爵家の騎士団がここまで集められることは本来あり得ない。
王妃が私にだけ聞こえる声で呟く。
「動くつもりなのよ。あの家は」
侯爵家当主──王妃の兄にあたる人物が歩み寄る。
侯爵
「妹よ。知らせを聞いてすぐに兵を集めた」
王妃
「……陛下は、アレクを王太子にしようとしているわ」
侯爵
「やはりな」
侯爵の瞳には、冷たい決意が宿っていた。
「王家の継承は“正妃の子”以外認めぬ。
これは建国以来の原則。
それを破るというのなら──」
侯爵はゆっくりと指を天へ向けた。
「王であろうとも、止めねばならぬ」
騎士たちの鎧が音を立てた。
重い、重い覚悟の音だ。
私は息を呑んだ。
王宮で見た不穏な気配が、
ここで輪郭を持ち始めていた。
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◆◆決裂
その夜。
王宮へ戻った王妃は王の寝室の前に立ち、
侍従をすべて下がらせた。
扉が閉まる音が響く。
王妃
「陛下……。
アレクを王太子にするおつもりだとか」
王
「……ああ。
あの子こそ適任だ」
王妃
「陛下。
正妃の子を差し置き、
寵姫の子を王太子に据えるなど前例がございません」
王
「前例など不要だ!」
弾けるように怒声が上がる。
王
「ワシはアレクを愛しておる!
あの子こそ……未来の王だ!」
王妃はゆっくり王に近づく。
その声音は静かだった。
「……陛下。
もしそのようなことをなされば……
侯爵家は黙ってはおりません」
王が凍りつく。
「侯爵家は、既に“動く”準備を整えております」
寵姫の顔に怯えが走った。
王妃
「王国は壊れます。
陛下が、その引き金を引くおつもりなら……
私は止めるしかありません」
王
「……脅すのか」
王妃
「いいえ。
事実をお伝えしただけですわ」
長い沈黙。
扉の外の空気まで凍るほどの、
深く、暗い沈黙だった。
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◆◆こうして、僅かなひびが入った
その夜、王宮中に広がったのは
誰にも説明できない“重苦しい沈黙”。
まだ対立は表には出ていない。
剣も血も流れていない。
だが──
確実に何かが始まった。
第一王子レオンハルトは、
リリアと共に幸せそうに過ごしていた。
彼だけが何も知らず、
何も気づいていなかった。
公爵家の後押しを失い、
王になれない道を歩き始めていることさえも。
女王の寝室で、
寵姫の居室で、
侯爵家の大広間で──
この国の未来はもう、
静かに軋みを上げていた。




