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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第三章 青き河の畔で(一)

「ったく、ひでえ有様だなぁ、おい」

 シグレの言いようはもっともだと、ミナは、燃えて尽きて果ててしまった霊樹の巨体を見やりながら思った。

 村がまたひとつ、滅びようとしている。

 青みがかった黒髪のほとんどを白い頭巾で覆い隠し、爽やかな白装束の上から灰色の外套を纏った少女。長い睫が特徴として上げられる控えめな顔に、少しばかり疲労が浮かんでいた。

 紅土の村。その霊樹の社の境内に、彼女たちはいた。

 村の守護が焼かれて失われ、その枝葉が火の雨となって降り注ぎ、灰が舞い煙が踊るという、地獄の初期段階とでも言うべき状態は終わったようだ。そういった光景――阿鼻叫喚の地獄絵図は、ここに着くまでに嫌というほど見ていた。

 ただ、血と死の臭いが立ち込め、忌むべき妖夷の気配のおかげで、特になにかが変わったようにも思えないのだが。

 ふたりの前方――拝殿、本殿へと至る参道には、人間や化け物の亡骸が入り乱れるようにして横たわり、大量の血がこの神域を汚していた。

 惨禍の痕。

 それはやはり、地獄の一風景なのかもしれない。

「!」



 ――大樹が燃えてゆく。

 村の守護が失われていく。

 村の外の森から数え切れない泣き声が聞こえた。

 妖夷の群れが、村を蹂躙する。

 武器を手にとって戦おうとする若者たちはおろか、女、子供、老人に至るまで、容易く妖夷という名の死の暴威に飲まれていく――。



 不意に彼女の脳裏を過ぎったのは、かつて見た光景だった。

 それは、絶望という。

 ミナは、いつの間にか汗で濡れていた額を右手で拭うと、自らの胸に当てた。鼓動が早まっている。いくつもの顔と名前が、頭の中に浮かんでは消えた。

 ひとが、死にすぎた。

「これも、ミズキの仕業でしょうか?」

 ミナは、背後を振り仰いだ。

「だろうな。あの馬鹿野郎、長老どもになにそそのかされたか知らねえが、よそ様の霊樹まで手にかけるこたぁねえだろ」

 唾棄するように、シグレ。ミナより多少年上の青年だ。短髪で、鋭い眼をしていた。鈍色の瞳に力強い光がある。鍛え上げられた肉体は、ミナと同じ白の衣服と灰色の外套に覆われていて、よく見えない。右手の甲に剣の印があった。剣士なのだ。

「青河だけじゃ飽きたりねえってか?」

 シグレが、自分の左手に右拳を叩きつける。行き場のない怒りの処分に困っているのだろう。

 青河の村。

 ふたりの生まれ故郷であり、半年前に滅びた村。

 いや、滅ぼされたのだ。

 ミズキひとりの手によって。

「シグレ……」

 彼の名をつぶやきながら、ミナは、胸に当てた手に知らぬうちに力を込めていたことに気づいた。手を開いてみると、じっとりと汗ばんでいた。村のことを思い出せば、そうなるだろう。つい半年前のことだ。なにもかも鮮明に覚えている。

 安寧は打ち破られ、運命は流転した。

 少女は、自分の身に起きた変化を思うたびに、運命の不思議というものを考えるのだ。

 村が滅びなければ、彼女はあのまま守護の内側で平穏に暮らしただろう。外界のことを何も知らず、この大地を覆う森の深さもわからず、妖夷も、おとぎ話の化け物かなにかだと思い続けただろう。

 シグレとも、これほど親しくなってはいなかったはずだ。

「!」

 ミナは、無数の刃が全身に突き刺さるような感覚に身震いした。はっと、顔をあげる。血塗られた道の向こう、誰かが呼んでいるような気がした。いや、元より数多の声のようなものは聞こえていた。それは、死んでいったものたちの怨嗟であり、生への執念、生者への憎悪。

 祭神のいなくなった神域には、数え切れないほどの怨念が渦巻いていた。が、そういったものとは明らかに違う、もっと切実で、強力な呼びかけ。

 きっとミナにしか聞こえない、声。

 ミナは、我知らず駆け出していた。

「おい! ちょっと待て! ひとりで行くなよ!」

 背後からシグレの声が聞こえたが、構っていられなかった。早く、その声に会わなければならない、でなければ、数多の憎悪に押し潰されて消えてしまう。焦燥感が、彼女を駆り立てた。

 死体で埋め尽くされた参道を迂回し、拝殿の横を通り抜け、本殿へ。

「これが……本殿?」

 ミナは、息を切らせながら、つぶやいた。

 本殿――それはもはや名ばかりだった。壁も柱も天井も破壊され、どこからどう来たのかわからない木の根や、無数の枝、木片やらなにやらが辺り一帯に散らばっている。

 本殿の高床はまだ原型を留めていたが、その上には妖夷の屍骸が無数に転がっていた。どす黒い血が床を塗り潰し、死臭が蔓延している。

「ったく、少しは護衛の立場を考えて欲しいもんだ」

 やれやれ、といった様子で、シグレ。体力的に考えれば、追いつくのは簡単だったはずだ。でなければ、護衛など勤まるわけもない。

 ミナは、シグレを振り返ると、すぐに頭を下げた。

「ごめんなさい」

「それでよろしい。で、なんだ?」

「声が――」

 答えながらミナは、視線を本殿に戻し、目を見開いた。

 本殿の中心に、光があった。

「声?」

 シグレの声は、ミナの耳には届いていなかった。光がゆっくりと形を変えていくのに見入っていたからだ。シグレにはきっと見えていないのだろう。ミナの頭の中に、その確信だけはある。

 淡く青白い光は、少しずつひとの形を成していく。

 それは、剣を持つ少年の姿だった。

 ただ、慟哭している。

 だれかの死を悼んでいるのか、それとも、修羅へと転じた己の運命を嘆いているのか。

《トウマ!》

「え……?」

 ミナは、頭の中に飛び込んできた激しい叫びに、思わず声を上げた。

 気づくと、少年の姿が、儚げな少女へと変貌していた。美しい少女だった。神子を連想させるような装束を身に纏い、強くなにかを訴えるようなまなざしでこちらを見ていた。

 死者なのだろうか。

《トウマを助けてあげて……!》

 とても切実な願いなのだろう。強く激しい光が、ミナの心に射し込み、感情を激しく揺さぶった。ミナの脳裏にいくつもの情景が過ぎる。

 それらはきっと、少女の記憶――。

『駄目』

 少女とは異なる声音。男とも女とも知れぬ異形の不協和音。それとともに、少女の足元に影のような揺らめきが生まれた。

 ミナは、得体の知れない恐怖に、自分の身体が震えていることを知った。かといって、どうすることもできない。動くことも出来なければ、呼吸すら難しくなっている。

『あなたは役目を終えたのよ。眠りなさい』

 優しくも厳然たる音色だった。一切の反論を許さない、絶対者の言葉。

 影の揺らぎから次々と黒い腕が伸びて、少女の華奢な身体に絡み付いていく。そのまま影の中へ引きずり込むつもりなのだろうか。

《トウマ――!》

 少女の絶叫は、彼女の淡い光が影の中に飲み込まれたことでかき消された。

 本殿に、ふたたび静寂が降りてくる。

 ミナは、呆然とした。

「ミナ……なにがあったんだ?」

 怪訝そうなシグレの問いかけはもっともだ、と、ミナは、激しい動悸がする胸を押さえながら思った。とはいえ、なにから話せばいいのだろうか。

 そもそも、あんな現実離れした出来事を話したところで、相手にしてくれるのだろうか。

 一瞬の邂逅。

 まるで白昼夢のようなものだ。

 しかし、ミナは、この出来事を夢や幻の一言で片付ける気にはならなかった。

「トウマ……」

 少年の面影が、脳裏に焼きついてしまった。

 少女が見る彼は、いつだって優しい笑みを浮かべていた。

 そんな少年が慟哭していたのだ。

 助けなくてはならない。

 それも運命みたいなものかもしれない。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 いくつかの声が、脳内で錯綜する。

 いくつかの場面が、目の前で展開する。

 森に囲まれた村の中心で。

「青河の村から――」

 ミズキの声。

「百斬衆――」

 炎のような赤い瞳。

「霊来文書――」

 これはソウマの声だ。

 神速の太刀筋が交錯する――

「トウマ!?」

 モモの悲痛な呼び声が聞こえて、トウマは、はっと顔を上げた。祖父の亡骸を前にして、どれくらい茫然としていたのだろう。

 頭の中に飛び込んできた情報量のおびただしさに、強い痛みと眩暈を覚える。ソウマの剣印を受け継いだ――あるいは奪い取った――ことによる影響なのだろう。ソウマの記憶の一部が、垣間見えた。

 ふらふらと、トウマは、モモの姿を探して視線をさまよわせた。場所は村の南端、トウマの実家の前。

 妖夷と化したソウマの身体から現れ、対峙するふたりを取り囲んでいた無数の黒蛇は、ソウマがその生命を閉じたと同時に活動を停止したらしく、周囲の地面に屍骸となって転がっていた。ふたたび動き出す様子はない。

 漠たる静寂の中で、モモは――。

「母さん……?」

 トウマに助けを求めるように手を伸ばし、ゆっくりと前のめりに倒れていった。彼女の背後に、男の姿が見えた。男の双眸が狂ったように輝いていた。満身の力で振り下ろされた剣が、生々しい鮮血を浴びて鈍く光っていた。

 崩れ落ちるのは母の体か、理性のすべてか。

 静かに、音もなく、トウマの手の内に剣が顕現する。刀身に文字が刻まれた無骨な刀。いつになく冷ややかな重みが、トウマの手にかかる。

 倒れ伏したモモの背中はばっさりと切り裂かれ、真っ赤な血がとめどなく溢れていた。痛みだけが、トウマの中を駆け巡っていた。

 それは決定的な致命傷。

 どうあがいても覆しようのない、宣告。

 母が、死ぬ。

 いつ、どこから来たのかもわからなければ、何者かも、その目的もわからぬ男の手にかかって。

 ぎらぎらと輝く男の目が、トウマを捉えている。大男だった。傷だらけの身体を惜しげもなく披露し、幅の広い刀身を持つ剣を構えていた。

 野生的な面構えには、見覚えがあった。

「村長の命は絶対なんだ、トウマ」

 仕方がないだろうとでも言いたげな、しかし、言い訳を取り繕っているわけではない、声音。

 確か、村で小さな剣術道場を開いていた男だ。ソウマに連れられて何度か足を運んだことがあった。剣印を持っているのだという噂を聞いたことがある。だが、肝心の名前までは思い出せなかった。いや、いまさらどうでもいいことなのかもしれない。だから、思い出せないのか。

「俺の捕縛だろう?」

 トウマは、自分の心が急速に冷えていくのを認めた。そして、それを止めるつもりもない。意識は冴え渡り、視野が広がっていく。滅びゆく村の通り、蠢く妖夷の影、風に流れる砂の粒まで見えた。

 雑音は聞こえなかった。

 ただ、敵の声だけが耳に届いていた。

「ん? 知らなかったか?」

 男が、剣を軽く振った。刀身に付着したモモの血が飛び散る。

「おまえに関わるすべての滅却」

 トウマは、血の味が口の中に広がっていることに驚いていた。いつの間にか、唇を強く噛んでいたらしい。

「それが新たな命令なんだ、トウマ」

 トウマは、男が言い終えるより早く、大地を蹴っていた。超高速の飛躍は、トウマと敵の間合いを瞬く間に無に帰した。男の双眸が、驚愕に見開かれる。

「はあっ!」

 気合いとともに繰り出したトウマの横薙ぎの斬撃は、ぎりぎりのところで男の剣に受け止められた。火花が咲く。ふたりはそのまま、二度三度と剣を打ち合った。そのたびに響く剣撃音が、トウマの鼓動を早めていく。

「驚いたぞ、トウマ。強くなった!」

 トウマの目の前の男の顔には、喜悦が広がっていた。それは、修羅の悦びかもしれない。対峙する敵が弱いことほど悲しいものはなく、剣の先に立つものが強いときほど、修羅の魂は燃え盛るのだ。

「黙れ」

 トウマは、唾棄するように告げると、冷え切った魂の命ずるままにその場から飛び退った。

 男が、それを悪手と踏んだのか、獰猛な笑みのまま突っ込んでくる。繰り出されるのは、猛然たる突き。一陣の突風のような攻撃だった。

 トウマは、一転、跳躍した。突っ込んでくる男の頭上を飛び越えながら、刀を振るう。あざやかな剣閃が、男の左肩を切り裂いた。血が噴き出すのを見届けられない。

 着地とともに、男を振り返る。

「トウマ……ははは!」

 男は、笑っていた。

 ざっくりと斬られた左肩をそのままに、右手だけで剣を構えていた。その表情は、やっと念願が叶ったとでも言いたげな、満足感だけがあった。

「剣と剣の戦い! 命を削る戦い! これこそが、俺の求めていたものだ! トウマ、おまえもそうだろ!」

 狂ったような――まさにそうとしか言い様のない叫び声を聞きながら、トウマは、しかし、凍てついていく自分の心も似たようなものだと認めていた。みずからの意志で剣を手に取ったそのときから、闘争の中になにものにも変えがたい悦びを見出していた。

 それは呪われるべき宿業。

 忌むべき本質。

 修羅のすべて。


 

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