第二章 修羅の道理(四)
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「まったく、おまえという奴は」
波打ち際、声がした。
「力を望んだのは、おまえ自身だろう?」
赤い装束の男。
「力を望み、剣を手にしたんだ」
あざやかに燃える夕日の逆光で、その顔が見えない。
「こうなることくらいわかっていたんじゃないのか?」
男は侮蔑の表情でも浮かべているのか。
「それとも、だれかの救いの手を期待していたか?」
ただ、哀れんでいるだけか。
「そんなこと、あるわけがない」
男が告げる。冷厳と告げる。
「おまえは修羅の道を往くんだ。絶望と失意と数多の骸が横たわる、無明の道を」
男が手を差し出した。傷だらけの手。
「だが、安心しなよ。なにも独りで行けとはいっていない。独りで行って、勝手に死なれても困るしな」
その手に光が収斂し、一振りの刀を形成する。
「俺も往くさ」
刀の刀身に刻まれた文字が、眩い光を放った。
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「――!」
トウマは、全身が激痛に苛まれていることに気づいて、現実に戻った。地面に横たわっている自分を認識する。周囲には無数の悪意が渦巻いている。痛みが、散発的に身体のどこかに生まれた。なぶられているのだ。
「どうした、トウマ」
声音だけは優しげだった。しかし、声の主が化け物で、この攻撃の元凶だということを考えると、寒気すら覚える。だが、それでも。
「じっちゃん」
縋りたい思いもある。
「それでは俺を超えるどころか、あの男を追うことも出来んぞ?」
攻撃の嵐が止んだ。ソウマが、トウマに立ち上がることを要求している。決着をつけるためだろう。
剣と剣で。
「ひとの道の果て、道を踏み外して修羅となり、妖夷に成り果てたよ。俺は」
ソウマの告白を聞きながら、トウマは、刀を頼りに身体を起こした。全身がずきずき痛む。満身創痍かもしれない。生きているのが不思議なほどに。
「ただ、おまえが羨ましい。妬ましいとすら想うのだ」
トウマの前方に、ソウマが大刀を正眼に構えていた。間合いは十歩分ほど。ふたりの周囲を、ソウマの背中から伸びる無数の黒い蛇が取り囲んでいた。まるで外界と隔絶するように。ふたりの決闘を邪魔されぬように。
あるいは、その結末がモモの目に触れないように。
「おまえの頭上には未来が輝いている。俺が疾うに失ってしまった可能性が……!」
トウマは、口の中に入り込んでいた砂を唾と一緒に吐き捨てた。血も混じっていたが当然だろう。ソウマを見据え、剣を構える。刀身の文字の輝きが、闇を照らす灯火のように見えた。荒かったトウマの呼吸が、次第に落ち着いていく。
「だから、俺は妖夷となった。おまえを殺すために」
ソウマが、地面を蹴って、飛び出す。土煙が上がった。ソウマが大刀を大上段に掲げる。
「!」
トウマは、左へ軽く跳ぶ。直線的な振り下ろしの斬撃は――
「我が孫よ!」
軌道を変化させ、いびつな曲線を描いてトウマに殺到する。トウマは、回避を諦め、刀の腹で斬撃を受け止めた。火花が散り、衝突音が響く。衝撃が、トウマの身体をよろめかせた。だが、前とは違う。そのまま身体を持っていかれたりはしない。
「おまえの命を啜り、新たな道を逝くために、だ!」
大刀を受け止めた態勢のまま、トウマは、ソウマの顔を見た。間近で見たその顔に刻まれた年輪に思いを馳せる暇もない。虚ろな眼が、トウマを捉えて離さない。
「ふざけるな!」
トウマは、吼えて、刀に込める力を増大させた。大刀をわずかばかり押し返す。と、ソウマがみずから剣を引いた。そこで終わらない。すぐさま斬撃を繰り出してくる。そのまま数度、ふたりの剣がぶつかり合った。
「俺は死なない!」
剣が衝突するたびに、トウマの刀の文字がその輝きを強めていった。なにを意味するのかわからなかったが、トウマは、身体が軽くなっていくのを認めていた。感覚が鋭利になり、ソウマの剣撃が緩慢に見えた。
「あんたの糧にはならない!」
トウマの刀が、ソウマの大刀を弾き返した。
「良くぞ言った!」
ソウマが吼えた。弾かれた大刀を頭上で持ち直し、裂帛の気合とともに振り下ろす。
それをただ見ているトウマではない。全身全霊を込めて、刀を振り上げる。
決着は一瞬――。
「見事……!」
ソウマが、腹部の切り口から血を噴き出しながら、つぶやくように言った。
トウマの斬撃が、落ちてきた大刀をものの見事に両断し、続けざまに繰り出した刺突がソウマの腹を貫いたのだ。
「じっちゃん!」
力を失ってくずおれるソウマの体を反射的に支えて、トウマは、己の全身から大量の汗が噴き出していることにも気づいていた。間一髪の勝利。だけではない。またひとつ、大切なものを失おうとしている。
「トウマ……? トウマ、居るのか?」
トウマの腕の中で、ソウマが身をよじった。口から血を吐きながら、紡ぎだされる言葉は、あまりにも小さい。
「どこだ? どこにいる?」
ソウマが、首を回そうとするものの、うまく動かないようだった。双眸には、もはや何も映ってはいないのだろう。
「暗くてよく見えないんだ。近くにきて、その顔をよく見せておくれ」
懇願するように、ソウマ。
「ここだよ。ここにいるよ」
トウマは、祖父の右手をしっかりと握った。ソウマの手は冷え切っていて、人肌の温もりなど微塵もなかった。
「なんだ、こんなに近くにいたのか」
ソウマが、安堵したように言った、力ない顔にも変化があったような気がした。それは気のせいかもしれない。そのように片付けられるほど些細な変化。
「俺はなぜここにいるんだろうな。俺は死んだはずだ。あのとき、本殿で殺されたはずだ。なぜなんだろうな。なぜ、死んでいない……?」
取りとめもない疑問を浮かべるようにうわ言を並べ立てる祖父に、トウマは、かける言葉も見当たらなかった。ただただ、悲しい。喪失感だけが胸の内に広がっていく。
そして。
「ああ……そうだ、トウマ。チハヤは、優し――」
ソウマが、逝った。
虚脱感の中、トウマは、自分の胸の奥の奥になにかが入り込んでいくのを認めた。
「この娘は?」
だれの声だろう。若々しい男の声。懐かしくて切ない声。
「村の外の川辺に倒れていたのさ」
ソウマの声だ。まだまだ瑞々しく、声に張りがあった。
「大丈夫なんですか? そんな何者とも知れないものを村に入れたりして」
「霊樹の結界の中に入って来られたんだ。妖夷じゃない」
「だからといって――」
「おまえはむかしから堅苦しくていかん。新しい家族が増えたんだ。しかも女子だぞ? 少しは喜んだらどうだ」
からかうようでいて、悲しんでいるような、そんな声音。
「な、なにを言ってるんですか! 父上」
言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうな音色。満更でもないのだろう。
「あ、あの……お邪魔でしたら、わたし――」
儚げな声だった。まだ若い女の声。どこかで聞いたことがある。いや、飽きるほど聞いたはずだ。
「出て行く、と? どうするタツマ?」
タツマ?
「そこでどうしてぼくに聞くんですか!」
そうだ。それは父の名だった。懐かしいのはそのせいなのか。
「俺はかまわないっていってるだろう。あとはおまえの判断次第さ」
では、女性は?
「あの……じゃあ、わたしは」
今にも出て行きそうな口ぶりではあるものの、どこかに未練があった。
「い、いえ、構いませんよ、ぼくは!」
父が、叫ぶように言った。
「え?」
「よかったな、モモ。今日からここはおまえの家さ」
モモ。
「はっ、はい! よろしくお願いします!」
やはり、母だった。
「モモが来て、既に五年になるのか」
時が流れたらしいが、祖父の声音に特別な変化はなかった。
「早いものですね」
父は、穏やかそのものだ。
「ふん。おまえが言うことか!」
「そんな、怒らないでくださいよ」
「だれが怒るものか! 嬉しいじゃないか!」
心の底から嬉しそうに、ソウマ。こちらの心まで嬉しくなってしまう。
「まさか、俺が生きているうちに、孫の顔が拝めることになるとはな!」
つまり。
「名前は、もう決めているんです」
「ほう?」
「桃の一字に、我が一族に伝わる魔の一字を加えて、桃魔」
トウマ。
自分を定義する名前。
光が、トウマの胸の奥の奥――魂に焼き付いていく。
剣の印章が脳裏を過ぎる。
それは、ソウマが発現した剣の印だろう。持ち主の完全な死とともにトウマの魂へと転移していく。
さっき垣間見た記憶は、剣印の転移に伴うものだったのかも知れない。
トウマは、ソウマの亡骸を地面にそっと横たえ、自らの胸に手を当てた。温もりを感じる。祖父の力の片鱗を感じる。
敵と戦い、敵に打ち勝ち、敵の力を貪り食らう――それが、
「修羅の道理」
トウマは、空を仰いだ。そこに救いなどあるはずもなかったが、なぜか空を見上げずにはいられなかった。
いつか妖夷を蹴散らしたとき、彼の中でなにかが目覚めた。
そして肉親を手にかけたとき、彼の中でなにかが変わった。
運命は変転する。
青き河の流れのように。
激しく、儚く。
第三章 青き河の畔で
それは青河の嗚咽か、慟哭か。