第二章 修羅の道理(三)
紅土の村は、霊樹の守護を失ったことで未曾有の惨禍に包まれていた。だれもが予期しなかった最悪の事態。永遠に続くと信じて疑わなかった安穏たる日々が崩れ去り、瞬く間に煉獄の業火に焼かれるなど、だれであれ想像できるはずもないのだ。
嘘のように晴れ渡った空の下、まるで悪夢を彩るように降り注ぐ火の雨。消えることなく燃え移っては炎上する紅蓮の猛火。跳梁跋扈する数多の妖夷は、悪鬼獄卒の類いか。
地獄。
救いなど、あるはずもない。
絶望の通りを南へ。南へ。
トウマは、一心不乱に駆け抜けていく。妖夷が立ち塞がれば斬り倒し、村人を襲っている妖夷も、剣を投げつけて打ち倒した。戦いの心得などあるはずもない自分が、どうしてここまで戦えるというのだろう。いや、そもそも瀕死の重傷だったはずだ。傷口は既に塞がっていた。しかし疑問は、心のざわめきとともに消える。
トウマが生まれ育った家は、村の南の果てにあった。小さな一軒家だ。それでも、祖父と父、母とトウマの四人で暮らすには十分な広さではあった。
家の裏に大きな木があり、トウマは、その木の根に腰かけて座るのが子供のころから日課だった。裏庭に差し込む日光を見るのが好きだったからだ。霊樹の膨大な枝葉が形作る緑の傘の下、この村には、日が差す場所などほとんどなかったのだ。
その大木が、赤々と燃えていた。
家は、見たところほとんど無事なようだった。裏の木の炎が燃え移ることが心配だったが、いまはそれどころではないだろう。
家の前で数羽の鶏火が、開かれたままの玄関の中の様子を伺うようにしていた。こちらに気づいているのかいないのか。もとより気にも留めていないのか。
トウマは、妖夷どもには目もくれず、家に近づきながら大声を上げた。
「母さん、無事か!」
ぎょっ、と鶏火が一斉にトウマを振り返り、トウマを認識するなり口を大きく開いた。いくつもの火の玉が放たれたが、どれもがトウマから大きく逸れた場所に着弾した。まるでなにかを畏れているかのように、攻撃の精度が低い。
その状況を見逃すトウマではなかった。地を蹴り、瞬く間に距離を詰めると、四体の鶏火を次々に斬り倒した。妖夷の怨嗟に満ちた悲鳴は、もはやトウマの耳に届かなかった。
「トウマ……!?」
トウマの母・モモが、玄関先に出てきたからだ。先ほどのトウマの叫び声を聞いたからだろうか。信じられないという面持ちだった。
「よく……ここまで無事で」
歳のわりにはシワの少ない顔が、苦心に歪む。胸の奥から、なんとか絞り出したような感じがした。
トウマは、母の苦悩に満ちた表情に自分の胸が痛むのを感じた。静かに歩み寄る。
「それに、どうしたの?」
モモが、いまさら気づいたように言った。細い手でトウマの頬を撫でる。血の跡が残り、煤で汚れた頬。
「あなたも、戦って来たのね。言わなくてもわかるわ」
今度は、優しいまなざしだった。ゆっくりと、トウマを抱きしめる。
「戦って、戦って、戦って来たのでしょう? その手の中の刀で、あなたの敵を倒して来たのでしょう」
母の腕の中で、トウマは、なぜか長い間安らぎというものを忘れていた気がした。心の痛みが、少しだけ癒されるのは気のせいなどではないはずだ。
「聲を聞いてしまったのね」
優しくも儚げな声音だった。トウマを抱く両手に力がこもる。
「うん。修羅に堕ちたよ」
トウマは、軽く笑ったつもりだったが、その声は震えていた。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
「あれ?」
とっくに覚悟を決めていたはずなのに。
望み通りの力を得て、喜ぶべきなのに。
なにひとつ護れなかったのだ。ただ失ってしまっただけだ。大切なひとを、大事な故郷を、あまりにも多くのものを。
そして、これからも失い続けるのだろう。
「それが修羅の道理というものだ」
不意に飛び込んできたのは、ソウマの声だった。 一瞬にして、周囲の空気が緊迫して、鮮烈な殺気が、トウマの全身に電流のように走った。
「……」
モモが、トウマの体を解放して、戸口のほうを振り返る。
「じっちゃん……?」
祖父が家の中からゆっくりと出てくるのが、トウマにも見えた。
「聞こえたよ。おまえの叫びが。魂の渇望が」
濁りひとつない双眸に宿るのは、強い意志だ。傷だらけのはずの身体を包帯が包み隠しているが、ところどころ赤黒く染まっている。あのとき――戦闘中とはまるで様子が違う。修羅そのものから、人間のそれへと変わっている。
いや、なにかがおかしい。
「おまえは力を望んだ。そうだな?」
どこか違和感がある。
「無力な己に絶望し、修羅へと転じた。そうだな?」
本殿で見たときとは、決定的に異なるもの。
「ならば、煉獄の修羅よ。我と道を同じくするものよ」
ソウマが、両手を差し出して、構える。獰猛な獣のような、あるいは鬼のような形相。右手の印から光が溢れ、一振りの大刀を具現する。分厚く巨大な包丁のような剣。破壊的な剣気が、突風のようにトウマを襲った。
「お義父様!?」
モモの悲鳴。
「じっちゃん! なにを――」
叫びながらトウマは、ようやく違和感の正体を突き止めた。
左手だ。
ソウマの左腕は、肘から先が失われていたはずだった。あの本殿でミズキと死闘を繰り広げた祖父は、片手だった。
「手に取りなさい」
ソウマが、厳然とした声音で、告げる。
「剣を」
――戦え!
なぜ、祖父と戦わなければならないのか。
なぜ、祖父の失われた左手が健在なのか。
そんな疑問は、魂のうちから燃え上がった闘争の炎によって焼き尽くされた。
トウマは、剣を顕現し、構えた。
「!」
同時に、対峙するソウマから発される剣気の凄まじさに驚愕した。さっきまで感じていた剣気など、そよ風と思われるほどに強烈で凶悪な波動。全神経が刺激され、トウマの意識が戦闘へと尖鋭化していく。
大気がびりびりと震えた。
トウマには、ソウマの体が巨大に見えた。威圧感のせいかもしれない。間合いを測っている暇もなければ、余裕もない。
トウマは、地を蹴った。
「どうして……!」
モモの叫び声は、トウマの耳に届いていた。しかし、肉体の躍動を止める手立てはなかった。
「戦わなければならないの……!?」
ソウマは微動だにしない。
「言ったはずだ……!」
間合いは既にほとんどない。トウマは、大上段に振りかぶった刀を渾身の力をこめて振り下ろした。
「これが修羅の道理……!」
ソウマの大刀が、地面を抉りながら旋回し、トウマの刀に襲い掛かる。激しい衝突音とともに重い衝撃がトウマの全身を激しく揺さぶった。身体は中空。トウマが体勢を整えることなど出来るはずもなく、ソウマの大刀の向かう先へ、豪快に吹き飛ばされた。
「他者より強く。より剛く」
背中を家の壁に叩きつけられ、トウマは、一瞬息が出来なくなった。それは一瞬。ほんの刹那。次の瞬間には、こちらに向き直るソウマの姿を捉えている。さっきとは立ち位置がほとんど逆転している。
「他者より速く。より疾く」
うわ言のようなつぶやきにもかかわらず、その言葉は、トウマの脳裏に重い輝きを放ちながら刻まれていく。
「他者より遠く。より遼く」
ソウマが、大刀を正眼に構えた。強烈な剣気がこちらに殺到してくるが、もはやトウマに恐怖はなかった。たとえどれだけ凄まじい気迫であろうと、そう何度も叩きつけられれば、否が応にも耐性が生まれるのかもしれない。
「他者より高く。より昂く」
トウマもまた、剣を構えた。一振りの刀。刀身に刻まれた意味のわからない文字が、わずかに輝いていた。それがなにを意味するのか、トウマにはわからない。
「苛烈なまでに貪欲に。峻烈なまでに純粋に」
間合いはわずか。剣先が触れ合いそうなほどの、互いの息遣いすら聞こえそうなほどの距離。
「力を求めよ。揺るぎなき力を」
不意に、震えるほどの歓喜が、トウマの胸の内に満ちていく。闘争への悦び。死闘への渇望。肉を裂き、骨を断ち、血を啜れ。
「そのためならば我が肉親を喰らうことも厭わず」
いま、ようやく、目の前に敵がいることに気づいたのだ。
「我らは修羅」
トウマの眼に映るそれは、もはや愛しい祖父などではなかった。
それは悪鬼。
それを打倒しなければ、トウマの未来はない。生きていくことは愚か、力を得ることも。ミズキへの復讐も果たせない。なにもかも失われてしまう。
「煉獄の修羅」
ソウマの気配が変化した。一歩踏み込むのと同時に繰り出された横薙ぎの斬撃が、トウマの剣を強く弾き、体勢の崩れたトウマの顔面を大きな掌が掴み上げた。瞬速の連撃。
(なんだ……!?)
凄まじい握力に頭蓋が悲鳴を上げる中、トウマは、違和感を覚えずにはいられなかった。
視界はソウマの左手に遮られている。その事実がおかしいのだ、ソウマの身体は、痩せ細った老人そのものだったはずであり、その掌も、トウマの顔面を覆い尽くすほど大きくはなかった。いやそもそも、左手は失われていたはずだ。
そして、トウマは鼻腔に入り込んできた臭いに慄然とした。
血の臭いより深く、闇よりも暗い臭い――死臭と呼ぶべきもの。
(どういうことだ!?)
トウマは、驚愕の中、自分の顔面を掴むソウマの左腕に刀を突き刺した。早く手の中から逃れなければならない。しかし、ソウマの力は弱まるどころか、益々強くなっていく。
頭が割れそうなほどの痛みが、トウマの思考を歪ませた。
一拍の静寂――
「おおおおおおおおおお!」
トウマの耳に咆哮が聞こえて、それが己の魂から発せられた生への執念だと知ったとき、彼の中でなにかが弾けた。
物凄い力で掴み上げられたまま、上体をひねって、刀を投げ放つ。剣は、トウマの顔面を塞ぐ掌の直線上――左腕の付け根へと吸い込まれるように突き刺さった。直接見たわけではない。感覚で把握した。
掌の圧力がわずかに緩む。
その間隙を見逃さず、トウマは、祖父の掌を両手で全力で引き離した。悲鳴が聞こえた。母の声だった。
「!?」
ソウマの掌から逃れて着地したトウマは、回復した視野に映るものを認めて、我が眼を疑った。
ソウマがいる。トウマのすぐ目の前に。剣を手放したのか、左腕の付け根に食い込む刀を右手で抜き取った。その瞬間、切り口から噴き出したのは、どす黒い血とそれ以上の暗さを放つ、妖気。人外の化け物の気配。
「なんだよそれっ!」
理解も出来ず、トウマは、悲鳴に近い声を上げた、ソウマが左手に大刀を具現し、右手に掴んだトウマの刀で斬り下ろそうとしてくる。トウマは、その斬撃を間一髪でかわし、次撃として繰り出された大刀による薙ぎ払いを、跳躍することで回避した。その間も、トウマの注意はソウマの傷口に集中する。ソウマの傷口から黒い糸状の物が大量に表れ、瞬く間に傷口を縫い合わせていく様を見ていた。
「人間じゃない!」
叫び、トウマは、ソウマの振り切った大刀の腹に足をつけた。改めてよく見ると、祖父の身体が一回りも二回りも大きくなっていた。筋骨隆々という言葉が様になるほどに。実際、物凄い膂力なのは、トウマが大刀に乗っても微動だにしないことからも伺える。トウマの背筋に怖気が走る。
「我らは修羅! 言ったはずだ!」
ソウマが、刀の上のトウマに向かって右手の刀を投擲する。透かさずトウマは右手を掲げた。飛来する刀が空中で回転して、トウマに柄を差し出すようにして、彼の掌に収まる。
「でも違う! それは違う!」
トウマは、慟哭するように叫んでいた。いくつもの考えが頭の中を席巻し、軽い恐慌状態にあった。しかし、結論はひとつだ。
いま目の前に居るものを肯定してはならない。認めてはならない。それがたとえ祖父であったとしても。その成れの果てであったとしても。
「なにが違う! 人の道を外れ、堕ちた我らに是非などあるものか!」
見開かれたソウマの双眸に生気などはなく、虚ろに濁っていた。生者の眼ではない。だが、その肉体が放つ迫力だけは本物だった。凶悪な剣気が暴風のように渦巻いて、トウマの身体を激しく揺さぶる。
「道理といったじゃないか!」
トウマは、翔んだ。頭上へ。赤く燃える空へ。
「そう、道理!」
ソウマが大刀を構える。トウマを迎え撃つために。
「修羅には修羅の道理があるんだろ!」
トウマが、落ちる。地面へ。地上で構える化け物へ。
「これが!」
化け物が笑った。
「その道理の逝きつく果てよ!」
大刀が投げつけられる。高速で旋回する大刀など、まともに受ければひとたまりもない。しかし、きっとそれは陽動。トウマはきわめて冷静な自分に驚きつつ、大刀の向こうから伸びてくる殺気に対応した。大刀の切っ先が、トウマの左腿の肉を持っていったが、それは仕方がない。本命は――
「妖夷!?」
トウマに殺到したのは、無数の黒い蛇のような物体だった。人面は見当たらなかったが、妖夷特有の人間の神経を逆撫でにする妖気と死臭を撒き散らしながら、トウマへ接近していた。視線でその元を辿ると、ソウマへと行き着く。
「なんだってんだ!」
黒い蛇の群れは、ソウマの肉体のさまざまな部位から出現していた。背中や腕、腹や太腿、果ては口や眼孔までもが、どす黒い化け物を噴出している。それはとっくに人間と形容するべき存在ではなかった。
化け物としか言い様のない、恐怖と狂気の権化。
トウマは、ただ絶望した。祖父の姿を残す化け物に。その化け物を倒さなければならない己の運命に。
修羅の道理に――。