第二章 修羅の道理(二)
禁忌。
村には掟がある。
霊樹の神子と村人は、直接会ってはならない。社務所のものですら、口を利くことも眼を合わせることも許されなかった。
それはすべて、神子の霊性を高めるため。
霊樹の守護をより強固なものにするため。
村の安寧のため。
「まさか……トウマ……」
チエが、愕然とトウマを見上げた。その両目からは涙がとめどなく溢れており、とても信じられないという表情を浮かべていた。信じたくはない、だが、状況がそれを許さない、とでも言いたげな顔だった。
驚きは、拝殿に集まっている村人の中にも広がっていた。口々に何かを叫びながら、トウマを見ていた。怨嗟と怒号が飛び交い、悲嘆と絶望が交錯していた。
「違う!」
数多の視線の真ん中で、トウマは、猛然とかぶりを振った。肉体を束縛していたはずの痛みは消え失せていた。湧き上がる怒りに比べれば、多少の痛みなど、たいしたことではないのだ。なによりも許せないものがある。譲れないものがある。ただひとつ、大切な――。
「俺はチハヤを手にかけたりなんてしない!」
トウマの叫び声に呼応するかのように、床に刺さった刀が光へと転じて消滅し、次の瞬間に右手の甲から爆発的な光が発生した。その膨大な光は、トウマの右手の中で一振りの刀へと収斂していく。それは本当にごくわずかな時間の出来事であり、群集に驚く暇さえ与えなかった。
トウマの眼前の老人は、驚くことすらなかったが。目を細め、ただ嘲笑うかのように告げてくる。
「おまえのような掟破りの言葉など信じられるものか! いま、この村で神子を殺害し、あまつさえ霊樹を殺し、群れ集った妖夷の相手をできるものなど、現実に剣を持つおまえと、おまえの祖父であるソウマくらいではないか!」
それは、その通りだった。確かに神子を殺すことすらも、ただの村人では難しいだろう。そもそも、本殿への侵入者をソウマが見逃すはずはない。そして、それが出来たとして、神子と霊樹の死後、襲来するであろう妖夷の大群を相手に立ち回れるものなど、この村にはいないはずだ。
だが、違う。事実は違う。
突然の襲撃者によって、チハヤは殺され、霊樹も滅ぼされたのだ。
その事実を知っているのはトウマ本人と、襲撃者ミズキ。そして、本殿の外に投げ出されたまま消息のわからないソウマだけだ。しかし、それでは無罪の証明にならないかもしれない。
いや、そもそもトウマは、自分に非がないといいたいわけではなかった。無力で見ていることしか出来なかった自分には、十分すぎるほどの罪がある、けれど、最愛の人を殺したなどと思われることなど、心外も甚だしい。チハヤを傷つけるなど、想像するだに怖ろしいことだ。自分のすべてを否定することに他ならないのだ。
「違う……そうじゃないんだ!」
「なにをどう取り繕ったところで、おまえの中の修羅が答えを知っているはずだ。そうだろう?」
村長が、トウマを見据えて冷笑する。背筋が凍るような笑み。トウマには、人間のものとは思えない狂気が潜んでいるように見えた。
「もはや問答は無用、ということだ」
村で生まれ、村で育ったものにとって、それは、死の宣告のように聞こえた。
村長の言葉だ。霊樹の声を伝える神子の言葉の次に重く、強い意味を持つ言葉。村の中で生きていくには遵守しなければならない。でなければ、ゆっくりと疎外され、やがてはこの村を出て行かなければならなくなる。
トウマは、自分の足場が崩れ落ちていくのを感じた。足元から、自分のいままでが失われていくような感覚。もう、二度と取り戻せない。
「トウマを捕らえよ」
決定的な言葉だった。
拝殿の村人たちから、歓声とも悲鳴ともつかぬ大音声が轟き、我先にと本殿に上がり込んでくる。罵声と怒号、殺気と悪意が、嵐のように入り乱れて、本殿の空気を一変させる。
トウマは、失意の中で、剣に帰還を命じた。刀が光の粒子となって、右手の印の中へ戻っていく。
相手は、ただの人だ。しかも生まれ育った村の人々。見知った顔ばかりだ。剣を向けるべきではない。
――戦え!
「黙れ!」
トウマは、叫ぶように言って、チハヤの亡骸を振り返った。小さな少女の体にすがり付く母親もまた、怒りに震えているようだった。
「返して……チハヤを返して!」
慟哭は、背中で聞いた。もはや立ち止まってはいられない。群衆の包囲が刻一刻と狭まっているのだ。
トウマは、彼らと争うつもりなど毛頭なかった。村人と傷つけあっても、なにも生まれない。怨み辛みが残るだけだ。
本殿の奥へ――霊樹の元へ走る。
突然、悲鳴が上がった。包囲陣を築こうとする群衆の中からだ。見遣ると、大量の血が、煙のように蔓延していた。その中に、狂ったような悪意がある。
妖夷だろう。
「……!」
トウマに迷いはなかった。踵を返して群衆の中に飛び込む。妖夷の咆哮が聞こえた。血の臭いに、妖気が混じっている。ざわざわとした不快な気配が蠢いていた。
トウマが村人の群れに飛び込むと、だれもが血相を変えて、その場を逃れようともがいていた。だが、それぞれが体を押し退けあって、ほとんど前に進めずにいるのだ。それが、被害を拡大させている事実に、誰も気づいていないのだ。冷静さなど、とうに失ってしまっているのだから仕方がないのかもしれない。
「トウマ! おまえがなんで――」
耳元で響いたのは、若い男の声だった。が、それはつぎの瞬間、悲鳴に変わった。
声のほうを見ると、幼馴染みの男の顔が断ち割られていた。苦悶の表情を浮かべて、絶命する。
「ジュウスケ!」
トウマは、くずおれる彼の体を支えると、敵を探して視線を巡らせた。人々の感情が渦巻いていて、妖夷の気配だけを捉えるという離れ業など、いまのトウマにはできるはずもなかった。
不意に殺気を感じて、トウマは、右手に剣を具現すると同時に、手の中で剣先を返し、背後を剣で突いた。肉を貫く感触。
「トウマ……!」
少女の悲鳴だった
「!?」
見ると、トウマと歳の変わらない少女が、腹部に突き刺さった剣を見下ろしていた。信じられない様子だった。それは、トウマの心境でもあったが。
気が狂いそうになる。
「どう……して……!?」
少女が、口をぱくぱくさせながら、トウマに詰め寄ろうとした。しかし、深々と突き刺さるトウマの剣が、それを許さない。
「なんでおまえがそこにいるんだよっ!」
トウマは、半ば絶叫していた。彼は、殺気に反応しただけだった。それが妖夷のものか人間のものか、混乱した空間ではわからなかったのだ。
だからといって割り切れるほど、トウマは強くはなかった。ただ傷つき、後悔を深めていく。
「村長が……!」
「捕まえろって言ったからかよ?」
村長は、確かにそう言ったはずだ。だが、それだけで目の前の少女が飛びかかってくることはないはずだ。
本殿にいた妖夷を全滅させたと目されるものに――煉獄の修羅に、なんの対抗手段も持たずに掴みかかるなど、みずから死にに行くようなものだ。
それは、彼女にだってわかっていたはずだ。
「狂っている……」
なにもかも、狂っている。
この場にいる群衆も、それを指揮する村長も、跳梁する妖夷たちも、そしてトウマ自身も。
だれもが狂気の渦に飲まれ、いくら足掻いても、どれだけもがいても、逃れることも、立ち止まることもままならない。
これを絶望というのだろうか。
「!」
トウマの目の前を黒い影が過った。一瞬の出来事だった。両目を見開いた少女の首が、華奢な胴体から切り離され、床に転がった。鮮血が、トウマに降りかかる。
「トウマおまえっ!」
男の叫び声は、右の方から聞こえた。中年の男だった。鬼のような形相で向かってくる。
トウマは、思い出した。彼は少女の父親だ。少女はナエといい、幼い頃からチハヤを姉のように慕っていた。三人でよく遊んだものだ。 チハヤが神子に選ばれてからは、疎遠になっていたが。
その少女の父親は、トウマに近づこうとしたものの、何処からか伸びてきた鞭のようなものに絡め捕られ、つぎの瞬間に飛来した鳥の翼に首を切り落とされた。
刃翼という妖夷の名前を、トウマは、思い出すようにして知った。剣の力を得るとともに、妖夷の名が次々と浮かんできたのだ。
トウマは、剣を首の無い少女の亡骸から抜くと、深い痛みの中で、ゆっくりと呼吸した。ジュウスケの体を横たえた。
(煉獄の修羅……か)
確かに、本殿は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。崩壊した本殿。燃え続ける炎。跳梁する妖夷。血の雨と死の息吹。恐慌状態のひと、ひと、ひと――。
その地獄の中心で剣を構えるトウマは、修羅以外の何者でもないのかもしれない。
元より、望んで得た力だ。なにがどうなってこの身に宿ったかはわからないが、現実に印が刻まれ、剣が紡がれた。数多の妖夷を切り殺し、ナエの死の元凶となった。
狂いそうな意識の中で辛くも冷静さを保ちながら、トウマは、前に向かって跳んだ。前方から飛来する殺意の塊――刃翼の黒々とした頭に向かって刀を投げつけ、直撃を確認せぬまま進路を変更する。右へ。
妖夷の断末魔の叫びが聞こえた。と、同時にトウマは右手に剣を具現させ、鞭のようなものを閃かせて殺戮を続ける妖夷へと疾走した。伸縮自在にして切れ味鋭い舌を持つ犬型の妖夷・斬舌。その緑色の双眸が、禍々しい光を放つ。
妖夷の舌が、床擦れ擦れを薙ぎ払うように走り、トウマの足を狙う。トウマは、勢いよく刀を床に叩きつけると、その反動を利用して宙返りした。妖夷の舌が、方向転換もままならず、みずから刀に切断される。憎しみに満ちた悲鳴が響く。
「黙れよ!」
着地とともに駆け出して、ふたたび剣を具現したトウマは、怒り狂って飛び掛ってきた斬舌の体を真っ二つに断ち切り、そのどす黒い血を浴びながら前進した。本殿から拝殿へ行くのではなく、迂回して境内へ出る。拝殿もまた、村人たちが狂乱していたからだ。
彼らを助けている余裕はない。そもそも、彼らは村長の命により、トウマを敵とみなしている。助けに行けば、逆に取り殺されるかもしれない。村人にではなく、村人に捕捉されたところを、妖夷によって。
ならばどこへ行くべきか。
生死不明のソウマを探すのはどうだろう。ソウマが放り出されたのは本殿の外、拝殿の近くだ。うろついているうちに村人に捕まるかもしれない。ソウマの安否は確認したかったが、いまのこの状況ではできそうになかった。
では、どこへ?
「母さんは……」
無事だろうか。
霊樹の守護を失ったのは、村のどこも同じことだ。しかもトウマの家は村の南端、森のすぐ近くにある。妖夷の群れに襲われれば、ひとたまりもない。
トウマは、居ても立ってもいられず、駆け出していた。