第二章 修羅の道理(一)
炎が燃えている。
ゆらゆらと燃えている。
小さな村の大いなる守護を瞬く間に焼き尽くした炎は、いまだに衰えを知らなかった。淡々と、村全域に燃え広がっていく。やがては森へと至り、この木々に覆われた大地を煉獄へと変えていくのだろうか。いや、それだけはありえないことのように思えてならなかった。
なぜかはわからないが、この狂気に満ちた暗黒の森は、永遠に消え去らないような気がした。それはある種の確信なのかもしれない。この森に覆われた大地に生れ落ちたもの特有の。
燃え尽き、死に絶えた霊樹は黙して語らない。元より、神子でもないものに木の声など聞けるはずもなかった。聞こえたとしても、苦痛に満ちた悲鳴か絶望的な怨嗟に過ぎないかもしれないが。
太陽は中天に輝き、真昼の空を照らしているが、肝心の青空は紅蓮と燃える炎によって半ば赤く染まっている。まるでこの世の終焉にも似た光景だった。
本殿。かつてそう呼ばれた場所は、瓦礫と炎と妖夷の死体で埋め尽くされていた。
「遅えよ」
トウマは、血まみれの姿で、剣を携えたまま、チハヤの亡骸の傍で呆然と立ち尽くしていた。
その眼には、失意だけが映っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――戦え!
鼠型妖夷――鉄鼠の鋼の体毛に覆われた体を切り裂き、その真っ赤な返り血を浴びながら、トウマは、心の奥底からなにかが開放されていくのを認めた。脳裏に描かれるのは戦場の風景。周囲の妖夷の動きが、手に取るようにわかった。
妖夷の発する殺気が、トウマにその行動先を教えてくれるのだ。それも、トウマの意識が尖鋭化し、気配のわずかな変化すら見逃さないからだろう。
トウマの肉体が躍動する。
――戦え!
トウマの刺突が、人面の蛇――恐蛇の顔面を貫く。耳障りな悲鳴は、次の瞬間には消えていた。その首を胴体から切り離したからだ。血しぶきを上げながらのたうつ蛇の体を一瞥し、トウマは、次の獲物に飛び掛った。
――戦え!
迎え撃つ妖夷は、少女の顔を持つ鶏――鶏火。小さな口を最大に広げると、炎の塊を吐き出した。トウマは避けもしない。その火の玉ごと、鶏火を両断した。分断された炎が、トウマの体を軽く焼いたが、気にする暇もなかった。
――戦え!
トウマを包囲する数多の妖夷が、一斉に癇に障る奇声を上げた。妖夷の殺気が増大し、トウマの視界が歪んだ。トウマに、殺到する。
トウマは、ただ笑った。冷ややかに。酷薄に。
満身の力を込めて、名もなき刀を振るう。
一閃。
たったの一振りから発生した剣圧が、トウマの前方の妖夷をほとんど吹き飛ばし、後方の妖夷の群れもまた、次の斬撃とともに生じた剣風に打ちのめされた。
――戦え!
生き残りの妖夷が、金切り声を上げながら、トウマに飛びかかった。あるいは回り込んで、崩れた包囲を再度形成しようとした。
トウマは、床を蹴るように飛ぶと、襲いかかってきた妖夷の集団を横薙ぎの斬撃で斬り飛ばし、さらに包囲陣の先頭にいた鶏火に向かって剣を投げつけた。刀は、吸い込まれるように妖夷の口腔へと飛び込む。化物が絶叫とともに血飛沫を上げ、踊るようにのた打ち回って陣列を崩す。
トウマは、その血みどろの妖夷を踏み越え、崩壊した陣形の中で狂ったように笑った。右手に光が収斂し、ふたたび刀が具現する。飾り気のない無骨な刀。刀身に刻まれた文字が、あざやかな輝きを発していた。
――戦え!
妖夷の群れの波状攻撃に対し、トウマは、喜悦を浮かべて立ち向かった。飛びかかってくる鉄鼠どもをを切り払い、足に絡みつく蛇の尾を斬り落とし、飛来する小鳥に似た妖夷には刀を突き刺して投げ捨て、遠距離から火球を飛ばしてくる鶏火の隊列へ強襲して血祭りに上げる。
妖夷を一体殺すたび、どす黒い返り血を浴びるたび、トウマの感覚は研ぎ澄まされ、トウマの剣技は冴え渡った。
――戦え!
「さて、どれだけ戦えばいい?」
不意に男の声に問いかけられて、トウマは、我に返った。
「その戦いの果てになにがある?」
頭上には、澄み渡った空がある。周囲は、真っ白に輝く砂地が広がり、膨大な量の水が遥か遠方まで満たしている。打ち寄せる波の音が、心地いい。
「これは……?」
トウマは、首をかしげた。おとぎ話に聞く、海というものだろうか。
吹き抜ける風が、懐かしい匂いを運ぶ。
(懐かしい……?)
トウマは、疑問に思った。海など、見たこともないのだ。そこに懐かしさを感じることはないはずだった。
「ここは、誰にとっても懐かしいはずだ」
声のした方向に目を向けると、きらきらと輝く海面にひとりの男が突っ立ていた。眼に痛いばかりの真紅の衣を纏った男。顔は、逆光になって見えなかった。
トウマは、警戒しながら、男との間合いを計った。なにがなんだかわからないが、気を抜いてはいけない。直感がそう警告している。
「だれだ?」
「俺はおまえをよく知っているよ」
男は、笑うように言った。
「答えになっていない!」
「答えは自分で探すものだ。そのための頭だろう?」
右手で己の頭をつついて、男。一拍間をおいて、続ける。
「さて、おまえはなぜ修羅へと堕ちた?」
影になった顔の中でその双眸がきらめいたように、トウマには見えた。
「なんのために力を求めた? なにを為そうとする? なにを望み、なにを願い、なにを祈る?」
その問いの答えはひとつだけ。
『弱い自分が許せなかったから』
トウマと男の言葉が同時に紡がれた。驚愕するトウマに、男が笑う。
「ほら。俺はおまえをよく知っている」
突風が、砂を舞い上げる。
「俺はいつだっておまえを見ている」
トウマの視界にある全てから、色彩が消失していく。
「煉獄の修羅に身をやつしたおまえが、戦い、争い、狂い、壊れ、落ちていく様を見守っている――」
心底楽しんでいるような、しかしどこかで哀れんでいるような声音。
そして、波音が途絶えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
トウマは、茫然と己の両手を見下ろした。妖夷の血にまみれた少年の掌。傷だらけの手。
ただ、強くなりたい。
力が欲しい。
強ければ、力があれば、あの時、チハヤを護れたはずなのに。なにものにも変えがたい、最愛のひとを救えたはずなのに。
失われたものは、もう二度と帰っては来ない。
突然、視界が潤んだことにトウマは驚いたが、溢れだした涙を止める術はなかった。袖で拭うほどの気力もない。ただ、涙だけが零れた。が、泣いたところでなにかが変わるわけでもない。現実が夢となって覚めるわけでもなければ、死んだ人間が生き返るわけでもない。そして、己の無力さが許されることなど、断じてないのだ。
無論、トウマとてそんなことはわかっている。わかりすぎるくらいに理解しているはずなのに、涙は、彼の瞳から流れ続けていた。
「おおっ……」
嗄れた老人の驚愕が、トウマを現実に引き戻した。炎上する本殿の崩壊した床の上。横たえたチハヤの亡骸が、赤々と照らし出されている。
「霊樹が……なんということだ……」
絶望的な声音だった。守護の永遠の喪失。もはやこの村に安寧は訪れない、その事実を理解した響き。
どよめきが広がっていく。
トウマが背後を振り返ると、たくさんの村人が、拝殿跡から霊樹を仰ぎ見ていた。
見知った顔が多い。
紅土は、小さな村だ。子供のころから村中を走り回っていれば、自然と知り合いが増えた。なにより、村人は、ひととひとの繋がりを大切にする。でなければ、こんな小さな村では生きていけないかもしれない。
その村人たちの中で、ひとりだけ本殿に上がり込んだ老人は、この紅土の村の長なのだ。その鈍く光る眼が、この惨状を見回し、やがてチハヤへと至る。
「なんと……!?」
「チハヤっ!?」
女性の悲鳴は、群衆の中から上がった。ただ悲嘆に暮れる村人たちを押し退けて、本殿に飛び込むように入ってきた。黒髪の美しい、中年の女性だった。チハヤの母親。チエ。
「どうして……? どうしてチハヤが……?」
チハヤの亡骸を抱き締めて、彼女。目の前の現実に納得などできるはずもないのだろう。そもそも、なにがあったのかもわからないのだ。
神子は、絶対的な安全圏にいるはずだと、だれもが想う。
霊樹の大いなる加護の中心にもっとも近いのが、神子なのだから。
「トウマ……!」
村長の怒気を含んだ言いように、トウマは、びくっと震えた。昔から、村長は苦手だった。子供のころから、会うたびに必ず怒られていたような気がする。実際はそんなことはないのだろうし、村長が怒る原因はいつだってトウマにあったのだが。その事実を認識していても、トウマの心は必要以上に過敏な反応を示していた、
そして、その反応は必ずしも間違いではなかったのかもしれない。
「また、おまえか……!」
村長が発したのは、静かな憤怒だった。青白い炎の如き怒り。表情が険しさを増していく中で、老人の全身が震え、憎悪の炎が燃え上がっていく。
「またおまえなのか……!」
痛いほどの凝視を受けながら、トウマは、自分の体が震えていることに気づいた。村長のまなざしが、唇の動きが、吐き出される言の葉のひとつひとつが、トウマの心に深く刻まれた傷痕を掘り起こしていく。
痛み。
ただただ重い痛みと、どうしようもない恐怖が、彼の肉体を縛り付けた。動くことなどできるはずもなかった。
「ち、違う――」
「どうして……どうしてこの子がこんな目に遭わなければならないの?」
ようやく紡いだはずのトウマの精一杯の反論は、チハヤの母の叫び声にかき消された。心の奥底から飛び出した悲痛な言葉は、刃物よりも鋭く、トウマの心に直撃したのだ。叫ぼうとした言葉は瞬く間に霧散し、つぎに紡ぐべき言葉も、浮かべるべき表情すらもわからなくなってしまった。
「なにが違う……! ではこの妖夷の屍はなんだ? だれがやったというのだ?」
村長が、喉の奥底から絞り出すような声で、問いかけてきた。老人の怒りは既に頂点に達し、そのむしろ青ざめた憤怒の形相は、悪鬼のそれに見えた。いや、悪鬼とでも言うべきはトウマのほうだろう。だれかが、トウマの脳裏で囁いたような気がした。トウマには、その囁きを否定するだけの根拠も気力もなかった。
不意に、張り詰めた空気が、トウマに警告する。村長の瞳に、どこか濁ったような輝きが灯っていた。
「その足元の剣はだれのものだ! おまえのものじゃないのか!」
はっと、トウマが足元に視線を落とすと、彼の刀が床に突き立っていた。飾り気ひとつない、無骨な刀。刀身に刻まれた文字は、持ち主のトウマにすら理解できない代物だった。
「これは――」
そう、トウマの刀だ。魂の力の顕現とでも言うべきもの。生命の太刀にして、修羅の爪牙。トウマが心の底から欲し、渇望した力の形。
村長が、叫ぶ。
「またも禁忌を破って神子と逢い、その剣でなにをした!」