第六章 誰が為に雉は啼く(四)
「ねえ、いつまで待っていればいいのかな?」
「さあな」
「ぼくたちだけ出してもらうっていうのは駄目かな?」
「無理だろう」
即答して、トウマは、中庭の方に目をやった。龍侍隊屯所の離れの一室から見えるのは、青空を反射する池と、その周囲でくつろぐ青年たちの姿だ。無論、単にくつろいでいるはずもない。こちらを監視しているに違いなかった。三人で雑談にでも興じているように見えなくはないのだが、目が笑っていない。
屯所に連れて来られたトウマたちに待っていたのは、龍侍隊の隊士たちによる取り調べである。最初、隊士たちに怯えるクロウを説得するのに時間がかかったものの、肝心の取り調べはというと、拍子抜けするくらいあっさりと終わった。取り調べよりは世間話に近い。聞かれたのも、名前と出自、都を訪れた目的くらいのものだ。霊印について聞かれたものの、問題にもならなかった。
クロウと話した隊士たちは、霊印による彼の変化に大層驚いたようだったが、それも、霊印の一典型として処理されたらしい。もちろん、街中で使うことは固く禁じられはしたものの、望むところだった。むしろ、狼化を禁止する口実ができたことは喜ぶべきなのかもしれない。
トウマが剣印の持ち主ということだけで龍侍隊に捕まってしまったのは、澪都を騒がす事件が原因だと説明を受けた。詳細までは教えてくれなかったものの、事の概要はわかった。数日ほど前から都の各所で辻斬り事件が発生しており、被害者の状況から、犯人が剣印の保持者であると断定されたのだという。つまり、ただの辻斬りではないということなのだろう。
剣印で具現された刀剣には、神秘の力が宿る。
しかし、トウマたちが事件当時都にいなかったのは明白なため、簡単な事情聴取で済んだのだ。最初からわかっているのなら屯所まで連れてくる必要もなかったはずなのだが、剣印保持者は調べなければならないという上からの命令には従わざるを得なかったということだろう。
そうして、トウマとクロウは取り調べから解放されたものの、屯所から離れられないのには理由があった。シエンである。どうやら、彼が過去に都で悪事を働いたという記録が発見されたらしく、霊山綾王と、その配下の白鹿十二神将には本格的な尋問が行われることになったのだ。結果、トウマたちは足止めを食らってしまった。
その当時のことは知らないであろう神将たちはすぐに解放されるかもしれないが、シエンはどうなるものかはわからない。そもそも、トウマたちにも疑いが及ぶ可能性だってある。もちろん、シエンとは出会ったばかりだし、昔の事件になど関与のしようもないのだが。
「うー……どうなるのかなあ」
離れの床に寝転がりながら、クロウが難しそうな顔をした。もっとも、彼がそんな表情をしてもさほど深刻そうに見えない。クロウの人柄によるものなのか、顔立ちによるものなのか。
トウマは、離れの濡れ縁で柱に背を預けるようにして座っていた。離れにはトウマとクロウのふたりしかいないものの、監視の目がないわけではない。が、中庭からの視線さえ気にしなければ気楽なものだ。頭上を仰ぐ。青空が眩しい。
「なるようにしかならないさ」
それは実感ではあったのだが。
「トウマ、どうしたの?」
「え?」
トウマがきょとんとしたのは、クロウが予想外の反応をしたからだ。少年は、寝転んだまま、顔だけをこちらに向けてきていた。金色の大きな眼が、不安そうに揺らめいている。
「なんか変だよ。さっきから。元気がないっていうか……」
「……そんなことはないよ」
「本当?」
「ああ」
うなずきはしたものの、心からそう思ったわけでもない。クロウの眼から逃れるように視線をさまよわせる。表情から本心を読み取られたくはなかった。右手で自分の顔に触れる。ミナにつけられた傷跡は、痛みさえ残さず消え去ってしまった。傷が癒えるたびに思い知るのだ。剣印を持つ人間の回復力は化け物じみている。
(化け物か)
その化け物たちの根城に囚われている状況を考えると、自嘲する気にもなれなかった。龍侍隊の二百名以上に及ぶ隊士の半数ほどが霊印保持者ということには驚嘆を覚えたが、さらにその半数が剣士だというのには衝撃さえ受けた。剣印は希少なものではなく、むしろありふれたものなのだと認識を改めざるを得なかった。そして、剣士たちが協力し合ってひとつの組織を作り上げていることにも、感嘆を覚える。
剣士は殺し合うのがさだめだと想っていた。
剣を抜き連ねれば、命を賭して、力を賭けて戦わなければならないものだと思い込んでいたのかもしれない。祖父や、恩人を手にかけてきたことで、その思い込みは、トウマの中で真実になりかけていた。
『確かに剣印は殺し合うための力かもしれませんが、それを使うのは人間ですよ。使い道を決めるのは、剣印の持ち主なんです。殺し合うのも、手を取り合うのも、その剣士の考え方次第です』
若い隊士に龍侍隊の理念を説かれる最中、冷水を浴びせられたような心境になったのも当然だった。
『我々は、都を護るために剣印の力を振るうのです。そのための龍侍隊なのですから』
護るために力を振るう。
剣士同士殺し合うことなく、力を合わせて目的を遂げようとする。
それは確かに素晴らしいことかもしれない。以前のトウマなら心から賛同していただろう。だが。
(護れなかった俺には……)
空の青さに目を細めながら、龍侍隊の絢爛たる理念の眩しさにこそ反応したのだと認める。まばゆいのだ。きらきらと輝くその意志は、血塗られたこの手では触れることさえかなわない。隊士たちの目を見ていると、より一層そう想うようになっていた。彼らは、剣士なのだ。化け物ではない。
自分とは違う。
隊士たちの様子を伺おうと彼が中庭に目をやると、変化が訪れていた。こちらを監視していた隊士たちが、飛び出してきた隊士に声をかけられたのだ。驚きの声を発した隊士たちは、トウマのことなど忘れたかのようにその場から走り去っていく。なにが起こったのかわからなかったが、少なくとも監視を続けるよりも重要なことなのだろう。
途端に人気のなくなった空間には静寂が生まれるかと思いきや、母屋の方向から隊士たちが騒ぐ声が聞こえてきたため、むしろ余計うるさくなった。
「なにかあったのかな?」
クロウが瞼をこすりながら、のそのそと体を起こす。退屈のあまり睡魔にでも襲われていたのかもしれない。大きく口を開いてあくびをする少年を横目に、静かに腰を上げる。
「行ってみよう」
幸い、監視の目はなくなっている。それに、母屋の騒ぎを覗きに行ったくらいで文句をいわれるようなこともあるまい。
龍侍隊屯所の広い敷地内には、ひとつの母屋といくつかの建物によって構成されている。トウマたちが案内された離れもそのひとつで、離れ以外にも道場と思しき建物などがあった。取り調べを受けたのは、母屋の奥にある大きな蔵のような建物で、シエンはまだそこにいるはずだった。
気にはなったが、考えたところでどうすることもできないのが現状だった。
母屋に向かうと、玄関先のひとだかりが目に入ってきた。来客でもあったのだろうが、それにしても玄関先に集まった隊士の数が尋常ではなかった。しかも、トウマたちが見ている間にも人数は増えていく。どうやら道場のほうからも集まってきており、このままでは屯所中の人間が集合しそうな勢いだった。
「なんだろね?」
「さあな」
さすがにひとだかりの中へ割って入っていくのは気が引けて、彼は、隊士たちの後ろ姿を見守るしかなかった。見るからに屈強な男たちが感に耐えないといった様子で歓声を上げたりしているのは、中々に面白いものではあったが。
ひとだかりはやがて母屋へと吸い込まれるように消えていき、遠めに見ていたトウマたちだけがその場に取り残される形となった。隊士たちも皆、母屋に入っていったらしい。
呆然と立ち尽くしていたトウマではあったが、シエンたちを見捨ててここから立ち去るという考えには至らなかった。龍侍隊を刺激する必要もなければ、都の勝手を知っているらしい彼を放置する理由もない。
「どうするの?」
「戻ろう」
「えー」
「あの中には入り込めないよ」
「でもさあ」
クロウはあの騒ぎが気になるのだろう。他人と面と向かって話し合ったりするのは苦手なくせに。そういうところは子供っぽいのかもしれない、などと思っていると、遠くからなにかが近づいてくるのがわかった。罵声を飛ばし合う集団。耳を済まさずとも聞こえてくる。近い。
「待てええええっ!」
「はっ! 冗談じゃねえ! なんで俺がてめえらなんぞにおとなしく捕まってあげられなきゃならねえんだよ!」
「龍侍隊から逃げ切れると思っているのか!」
「てめえらこそ、俺様を見くびるんじゃねえよ!」
どう聞いてもシエン以外のなにものでもない大声にトウマとクロウは目を見合わせた。そして同時に大声のする方向に顔を向ける。直後、視界に飛び込んできたシエンが中庭の土を蹴るように背後を振り返り、追っ手に向かってなにかを投げつけた。わっという悲鳴が上がったかと思うと、母屋の影から白煙が広がった。シエンがこちらに飛んでくる。
「大将、良いところにいた!」
「なにやってんだおまえ」
「いやあ、これには深い理由がありまして」
トウマは、通り過ぎる瞬間に声を投げたものの彼は涼しい顔だった。白煙の向こう側から男たちの咳き込む声が聞こえてくる。追っ手の足を止めることには成功したようだが、ここが龍侍隊屯所であることに変わりはない。「回り込め!」「絶対に逃すな!」隊士たちの怒声にシエンが顔色を変えた。
「って、んなこと言ってる場合じゃなかった。とっととずらかりますぜ!」
「おい、待て」
「こんなところで手間取ってはいられませんぜ! 大将には目的があるのでしょう?」
「それは……」
問われて、トウマは言葉を詰まらせた。確かに彼の言う通りだ。こんなところにとどまってなどいられない。ミズキを追わねばならない。そのために都までやってきたのだ。しかし――。
逡巡するトウマの手が強く引っ張られた。クロウだ。彼の金色の瞳が、強く輝いている。
「トウマ、行こうよ! 早くしないと追いかけてくるよ!」
確かに、それもその通りだ。このまま突っ立っていればただ捕まるだけだ。シエンが脱走したことで、さっきまでとは状況が変わっている。悪いほうへ。ならば、ここを立ち去るよりほかはない。幸い、隊士の多くは母屋の中だ。運が良ければ簡単に抜け出せるかもしれない。
「あいつらはいいのか?」
「彼ら皆は緑月の善良な村人ですぜ。俺のような悪党とはなんの関わりもない」
だから大丈夫だろうとでも言いたいのだろうが、そんなことで龍侍隊が納得するとは到底思えなかった。が、拘っている時間もない。ここはシエンを信じるのが妥当だろう。
トウマはシエンの目を見て頷くと、門に向かうために踵を返そうとした。
「行こう」
刹那、トウマは寒気を覚えた。まるで臓腑に刃物を突きつけられたような感覚。足が竦む。
「どこへ、行くのかね」
後方からの問いかけは、極めて落ち着いた声だった。聞き覚えはある。龍侍隊の隊長御蔵龍雪。直前に感じた殺気は、彼が発したものだろうか。いまや寒気は失せ、トウマの視界は彼の姿を捉えている。いや、視界に入ってきたのは龍雪だけではなかった。副長の不動遊馬が、隊長の隣に立っていた。
「抜け目がないのか、部下が間抜けなのか」
「前者であり後者だろうな。あんたたちの部下、もう一度鍛え直したほうがいいぜ。でないと、俺みたいな悪党を取り逃すことになる」
シエンが軽口こそ叩いたものの、とても楽観視できる状況ではなかった。前方にふたりの男がただ突っ立っているだけだ。殺気を発しているわけでも、戦闘態勢に入っているわけでもない。しかし、そう簡単に突破できないということは一目で理解できる。龍雪にも遊馬にも、一切の隙がなかった。そして、ふたりの目はこちらのことをよく見ている。シエンひとりに囚われているわけではない。
「逃さんよ」
龍雪が、シエンを一瞥する。褐色の瞳に気負いはない。それは隣に立つ遊馬も同様で、鈍色の瞳からは余裕が感じられた。
「おとなしく縛につけ。そうすれば今回の騒動には目をつぶってやる」
「そりゃまたお優しいことで。これはあれか? 御来席の方々に見苦しいところを見られまいとする健気な努力ってやつかね」
対するシエンの言動は軽い。挑発しているのだ。わずかでも隙を作り出し、強引にでも突破しようというのだろう。もっとも、龍侍隊のふたりは顔色ひとつ変えない。
「お主のような輩を都に放つことはできん。それだけだ」
「ま、だから逃げるんだけどな。こちとらあんたらに捕まってる場合じゃないのよ」
シエンと龍雪たちの間に緊張が生まれた。張り詰めた空気に息が詰まる。一触即発とはこのことだろう。トウマは、成り行きを見守るしかない自分に苛立ちを覚えながら、それでも気を引き締めた。状況の変化には即座に対応しなければならない。
シエンが懐に手を忍ばせると同時にふたりが反応を示す。トウマも剣印を意識した。と。
「ちょっと待ったああああああああ!」
頭上から降り注いできた大音声に、トウマは真後ろに飛び退いた。クロウもシエンも同様に後退したのを気配で認める。前方に影が落ちる。恐らく母屋の屋根の上から飛び降りてきたのだろう。
「なに面白そうなことおっぱじめようとしてんですか。俺も混ぜてくださいよね」
龍雪たちを一瞥してからこちらに視線を投げてきたのは、如月唯人だった。かなりの高度からの落下にもものともしないのは、彼が剣印保持者であることの証明なのだろう。彼は、ふたりとこちらのちょうど真ん中に立っている。隙だらけに見えるのだが、やはり、付け入ることもできそうにない。
「唯人、おまえにはミコト様を護れと命じたはずだ」
「御蔵さん、神子様には紫金上衣殿がついておられですよ。わざわざ俺のような下郎が付き添うこともありますまい」
「そういう問題でもないのだがな」
「まあ良いさ。いまは彼らを捕えることに専念しよう」
「あなたがそういうのなら文句もない」
「さっすが隊長、話がわかるぅ」
彼らは会話の最中、こちらから視線を逸らすこともなかった。わずかな動きさえ見逃さまいとしている。
緊迫感の中、後方にいくつもの声と気配が生まれた。シエンの足止めに立ち往生していた連中だろう。なにか口々にわめいていたようだが、前方の隊長たちを見て態度を改めるのがわかった。前方の三人よりもよほど旺盛な殺気は、練度の違いと見るべきかどうか。
油断はできない。
トウマは、背後への警戒も忘れぬよう気を引き締めると、如月唯人が半身に構えるのを見た。彼は楽しそうに微笑を浮かべている。眼も笑っていた。この状況を楽しんでいるのだ。
シエンが舌打ちしたとほぼ同時に動いた。懐から取り出したものを巨大化させ、唯人に叩きつける。が、唯人も心得たもので、剣印を発動させてみせる。胸元からあふれた光が彼の手に収斂し、刀が具現するのに要した時間は一秒に満たない。シエンの攻撃を受け止める余裕さえあった。金属音が鳴り響き、火花が散る。その瞬間にはトウマも動いている。無論、クロウもだ。
トウマは龍雪目掛けて飛び、クロウは遊馬を目標とした。後方を無視するのは上策かはともかく、前方を突破することだけに集中するしかない。
トウマが刀を具現させるのと時を同じくして、龍雪と遊馬が剣印を発動させた。大刀を手にした男に向かって飛ぶ。鋭い眼光は、こちらの意気を挫くようだ。だが、止まらない。得物をぶつけ合うシエンと唯人の横を通過し、切っ先で相手を捉えようとしたその時だった。
「やめなさい!」
声が聞こえたと思ったら颶風が吹いた。トウマは暴風に脚を掬われ、目標を見失った。視界が目まぐるしく流転する。吹き飛ばされたのだ。抵抗することもできないまま、龍侍隊の剣士ともども屯所の塀に叩きつけられる。背中からの衝撃にうめきながら頭上を仰ぐ。
屋根の上に誰かが立っているのがわかる。逆光の中、一対の翼を広げた怪鳥のように見えたが、翼の影は蒸発するように消えて失せた。恐らく霊印の作用によるものであり、巻き起こった暴風もその力だろう。
状況は一変してしまっていた。だれもかれも颶風に嬲られ、地面や塀に叩きつけられて、なにが起こったのかと顔を合わせるもの、屋根の上を睨むもの、落とした武器を拾うもので周囲は混乱していた。
「あなたがたは何を考えておられるのですか。突然の訪問とはいえ、ここには神子様がおられるのですよ。例えどのような事情があろうとも、剣を抜くなど以ての外」
頭上から降ってきた威圧感に満ちた声音は、凍てついた空気のように厳しい。瞬時に混乱が収まったのは、偏にその声によるものなのだろう。トウマは呆然としていたが。
龍雪が剣を収めながら立ち上がった。彼は、一瞬だけ眉間に皺を寄せたものの、即座に別の表情になった。苦虫を噛み潰したような顔で、屋根上の男を見遣っている。他のふたりも体を起こしている。
トウマは、彼らを警戒しながら静かに体勢を立て直した。クロウとシエンを気遣う余裕もない。状況は変わったとはいえ、安心はできない。さらに悪くなったという可能性もぬぐいきれないのだ。
とはいえ、彼らと屋根上の男との間に不穏な空気が流れ始めていることにも気づいてはいた。
「都の治安を維持するために必要な処置を取ったまで。邪魔をしないでいただきたいものですな」
「ここは我らにお任せあれ」
「そうですよ、上衣殿。これには深~いわけがあるんです」
反論は三者三様で、その声音もそれぞれに異なるものだった。苦笑混じりの龍雪に仏頂面の遊馬、唯人はどこかつまらなそうにしていたが。
「言ったはずです。例えどのような理由があろうと、神子様の御前での戦闘行為など言語道断だと」
にべもない男の言葉に肩を竦める唯人を視界の端に認めながら、トウマは、きらびやかな澪都の薄暗い内情を垣間見た気がした。