第六章 誰が為に雉は啼く(三)
泉には神が宿る。
そんなおとぎ話のような事実を身を持って思い知ったのは、都に来てすぐのことだったと彼は記憶している。澪都。水の都とも呼ばれている。都の中心に湧く泉は、都の隅々まで命の水を行き渡らせているからだ。都中の水路に神の力が働いているのだとしても、なんら不思議ではない。
「あなたが落ちてきたのは何年前のことだったかしら?」
手押し車に腰掛けたミコトが、こちらを見上げながら懐かしそうな顔をした。その目は遠く過去を見つめているようで、彼はなんだか気恥ずかしさを覚える。子供のころの自分は、胸を張って誇れるようなものなどなにひとつなかった。
「二十年ほど前になります」
チヅルは、車椅子を押しながら、小さく答えた。だれかに聞かれてまずい話でもないが、おおっぴらにする話でもない。低い水温を思い出して苦笑する。あのとき、危うく溺れかけたのは身も凍る冷たさに驚いたからだったか。
車椅子は、体調の優れない神子のためにとチヅルが考案したものだ。木製の台車に椅子を固定しただけの簡素な代物である。安定を図るため、台車の車輪は四つある。不細工な外見は布を被せることで誤魔化していた。たったそれだけの代物だったが、ミコトはいたく気に入り、都を散策するときには必ず使用した。出来よりも、チヅルの手作りというのが良かったらしい。
澄み渡る青空の下、本殿前には神子の様子を覗きにきた書官たちが困ったような顔をこちらに向けている。澪都の政務を司る書官たちにしてみれば、澪都の中心たる神子と、政務の中心たる紫金上衣が供回りも連れずに至泉殿を出ることが気に食わないのだ。都の頂点に立つ人間にもしものことがあったら、というのは建前だが。
しかし、神子が決定したことには口答えできないのが書官の書官たる所以だろう。龍侍隊ならば何としてでも押し止めたか、強引にでも同行を申し出たはずだ。もっとも、供回りを連れていかないつもりもない。チヅルの部下が同行することになっており、至泉殿の外に先回りして待っているはずだった。
チヅルは、様々な色彩の上衣を纏った書官たちの顔色を見回して、軽くため息をつきたくなった。誰も彼も心配そうな表情をしているものの、胸の内に渦巻くのはチヅルへの妬心であり、権力への執着に違いなかった。無論、色つきの上衣を許されるほど有能な人材であり、都を運営する上では必要不可欠な存在である。そして、彼らを上手く使いこなすのがチヅルの役目だ。
「ミコト様と都参りをしてきます。後のことはよろしく頼みます」
彼は書官一同に向かって、深々と頭を下げた。渋々同意の声を上げてくる書官たちだったが、
「わがままなかりいって、ごめんなさいね」
「滅相もございませぬ!」
「ミコト様、どうか存分に楽しんできてください!」
「お体にだけはくれぐれもご注意を」
ミコトが声をかけるだけで、彼らは我先にと賛同を見送りの反応をして見せるのだから困ったものだ。その態度の豹変ぶりには慣れたものだったし、愛嬌の少ない書官たちにしてみれば、むしろ可愛げのようなものなのかもしれないとも思うようになっていた。
都も、ほかの村などと同様、神との対話を許された神子を中心に廻っている。チヅルたち書官は、神子の手足となって動いているに過ぎない。紫金上衣という地位も名誉も、神子あってのものであり、神子なくば塵に等しい。とは、あくまでチヅルの考えだ。ほかの書官や都の人々がまったく違う捉え方をしているのも知っている。
人々は、チヅルこそ都の支配者だと囁き合っているという。実に馬鹿馬鹿しい話だが。
「では、どこへ参りましょうか」
「そうねえ……」
ミコトは、目が合う書官に手を振っていたようだが、チヅルの問いには小首を傾げるようにした。至泉殿から出ること自体久方ぶりであり、都の何処から巡るのか、考えるだけでも楽しそうだった。
「龍侍隊の皆の顔が見たいわ」
「ということは……龍侍隊の屯所、ですね」
チヅルが慎重に言葉を選んでつぶやいたのには、それなりの理由があった。
政務を司る至泉殿と治安を司る龍侍隊は、昔から仲が悪かった。神子の側で権力を振るう書官と、日夜都中を走り回りながら剣を振るう武官では、澪都ひとつとっても見え方や考え方が違うのは仕方のないことだった。書官にとっての都とは概ね至泉殿の内側のことであり、澪都の民の視点に立って物事を考えられるものなどごくわずかに過ぎない。
一方、龍侍隊は、侵食現象を対処しやすくするために澪都の民との連携を怠らない。民の生命の危機に駆けつけ、身を挺して護る彼らにしてみれば、至泉殿に籠もってああでもないこうでもないと取るに足らぬ議論を続け、挙句龍侍隊の予算にまで口を出そうとする書官たちなど敵以外のなにものでもないのかもしれない。
無論、表面上は互いに協力的で敵意の片鱗さえ見せないし、神子の御前で言い争うようなことはなかったが。
そう言う意味では、不安はなかった。ミコトが顔を見せれば、龍侍隊も喜ぶだろう。神子がみずから出向くなど、そうそうあることではない。
非常に残念なことではあるが、彼らは無関係だろう。
如月唯人は、龍侍隊屯所の門前でしゃがみこみながら、少し前に連れてきた少年たちのことを考えていた。彼がいるのは、都にいくつもある龍侍隊屯所のうち、本営とも呼ばれる龍侍隊の本拠地である。
龍の飾りが威圧的とも言えなくもない門の前にしゃがんだ彼の視線の先では、色使いの派手な独楽が面白いくらい勢いよく回転していた。それを見て、子供たちが喜んでいる。本営の近所に住んでいる子供たちは、いつごろからか、唯人の遊び相手になってくれていた。
「さすがだね、おにいちゃん」
「すっげー。おいらこんなにうまく回せないよ」
「つぎあたしが回すー!」
戦いのたの字も知らないであろう子供たちのきらきらとした目を見つめながら、彼の脳裏に浮かぶのは、残念という一言だった。せっかく見つけた剣士の少年は、まず間違いなく無罪放免で監視も免除されることだろう。彼らは、都に来たばかりだったのだ。最初に事件が発覚したのは十日前。関わりようがない。
(残念だなあ)
胸元に刻まれた剣印が疼く。剣士を見ればその技量を試したくなるのが剣士の本能というものらしい。剣をぶつけ合い、火花を散らせるような戦いを望んでしまう。それを隊長にいうと、笑うでもなくいってきたものだ。
『剣印同士が呼び合っているんだろう。剣印の力を奪い、より強くなろうと』
唯人はそのとき感心して済ませたが、内心では首を横に振っていた。違う。もっと根源的な何かが、剣士との戦いを求めている。
だから彼は、肩を落として独楽を回したりしていたのだが。いつの間にか子供たちが集まり、口々に声を上げていたのには笑みをこぼすより他なかった。これだから子守り剣士などと呼ばれるのだろうが、そのこと自体は悪い気はしなかった。
「どうしたの? つまらなそうだね」
唯人の目を覗き込んできたのは、ひとりの男の子だった。確かミオという名で、澄み切った湖面のような瞳が印象的だった。その目に物憂げな男の顔が映りこんでいる。
「そうかな」
「そうだよ」
言い切られて、返答に詰まる。ほかの子供たちは独楽遊びに夢中で、ミオと唯人のやりとりを気にも止めていないようだ。
「でも、そんなおにいちゃんに良いお知らせ」
「ん?」
「すぐだよ」
「なにが……?」
「すぐに終わるんだ。退屈な時間も、つまらない毎日も」
ミオは、こちらを見つめたままにっこりと微笑んできた。
「おにいちゃんなら、たとえここが地獄になっても生き残れるよね」
ミオはさも当然のようにいってきたものの、彼は言葉の意味に唖然とした。彼は身を翻してこちらを一瞥してくる。
「か弱いぼくは死なないように隠れてないと」
そして、鬼ごっこでもするかのような軽さで走り去っていく。
独り取り残された気分になったのは、きっと、ミオの言動に気を取られすぎたからだろう。いや、考えざるを得ない。独楽の取り合いをし始めた子供たちに視線をやりながら、唯人は、目を細めた。立ち上がり、ミオが去っていった方向を見遣る。
ミオがああいった言動をしたのはこれが初めてではない。今までも何度か、予言じみたことを唯人に耳打ちしては、おかしそうに笑った。そして、その言葉通りのことが起きた。侵食現象の発生場所も何度か言い当てたことがある。そのたびに龍侍隊は彼に感謝したが、ミオは不思議そうな顔でこちらを見ていたものだ。
胸元に手を当てる。刻まれた剣印が熱を発している気がした。ミオの言葉が耳朶にこびりついている。
「地獄になる……?」
ほかの子供が言ったことならば気にも止めないのだが。
唯人は、子供たちに別れを告げると、屯所の中に戻っていった。
澪都の西門を目前に控え、彼は胸の前で腕を組んでいた。都の外周を囲う強固な壁は半ば森と一体化してはいるものの、打ち破ることは簡単ではあるまい。森が外壁を突破したという話は聞いたこともない。もっとも、都の常として門扉は開かれており、都への侵入は容易だろう。
一見。
門戸は開かれ、何者をも受け入れるかのようだ。実際、人間であれば何者でも入ることはできる。門を潜り、都の地を踏むことはできる。澪都は寛容で、来るものは拒まない。
(……そうでもあるまい)
彼は、左手で顎をさすると、右腕で後方を制した。いまにも都へと突貫しそうだった気配が、訝しむように動きを止める。
「どうした?」
「用心しよう」
背後からの問いには、言葉少なに返答する。木陰の中、妖夷の気配は少なくない。しかし、こちらの反撃を警戒してか、手を出してくる風には感じられなかった。もっとも、ここに到着するまでに数えきれないくらいの妖夷を斃してきている。本当にうんざりするほど。
「俺たちの目的は澪都への潜入だ」
「その通りだ」
だからどうした、とでも言いたげな相手の反応に彼は目を細めた。侵入ではない、ということを彼らは理解しているはずなのだが。
「だったらさっさと行こう」
神経質そうな男の声は、先ほどとは別の人物である。若さ故の未熟さが言動に現れてはいたが、頭の回転が悪いわけではない。ただ目的が目的なのだ。ふたりが焦るのもわからなくはなかったし、彼とて急ぎたいのは山々だった。
「龍侍隊に目をつけられるのは厄介だ。澪都の蛇は執拗だというぞ」
さすがにそこまで言えば把握も早い。澪都守護を司る剣士集団は、都を出入りするものを片っ端から監視しているはずであり、わずかでも不審な動きあらば組織の力を総動員してでも捕縛しようとするだろう。
彼らの目的は都に害をもたらすものでもないのだが、それをそう言い切れるのは彼ら自身のことだからだ。龍侍隊からすれば怪しく見えるかもしれないし、確保すべき対象として認識される可能性もなくはない。
「どうする?」
「それはだな」
彼は応用に背後を振り返った。こちらを見ていたふたりの青年のうち、背丈の低い方に一瞥をくれる。少年染みた容貌の男は、彼の目論見を即座に理解したようだった。
「あー……そういうことね。痛いの、我慢しろよな」
男が剣印を発動し、彼の手の内にひとふりの小太刀が具現した。