第六章 誰が為に雉は啼く(二)
「都というのは、昔、ここら一帯を支配していた王国の名残りみたいなものだそうですよ。栄華を誇った王国は、この地を覆う森の出現とともに崩壊したという話ですが」
山を降り始めて何度目かになるシエンの説明を聞きながら、トウマは、木々の間を飛び跳ねるように前を進むクロウを見ていた。彼の身のこなしの軽さは、身に付けようと思って身に付けられるものではない。生来のものなのか、手足に刻まれた霊印によるものなのか。おそらくは後者であろう。
一行は、水龍山を北へと抜け、澪なる都に向かって進んでいた。立ち並ぶ木々が、膨大な森の闇が、彼らの進路を妨害するでもなく立ち尽くしている。時に妖夷どもが群れをなして襲いかかってきたが、トウマたちの敵にもならなかった。トウマ一人ならば苦戦することも多々あっただろうが、クロウとシエンという強大な戦力は、彼の道連れとして十二分以上の働きを示していた。いや、実力を考えれば、トウマのほうが一段も二段も劣る。足手まといになるほどの力量差があるわけではないにせよ、彼としては考えなければならないことが増えた。
(違う)
トウマは、胸中でかぶりを振った。もっと前から考えなければならなかったことだ。実力の不足。経験の不足。場数の不足。それらすべてを充足させていかなければ、ミズキに復讐を果たすどころか一矢報いることすらできない。
個人的な復讐にクロウたちを巻き込むことなど考えられないのだ。
強くならなければならない。
「都は人が多い。なにかしら有益な情報が得られるかと」
道連れは、クロウとシエンだけではない。シエンの部下である白鹿十二神将が同行していた。六人だけ、だ。他は、ミナとの戦いで死ぬか、そのときの負傷が原因で帰らぬ人となってしまった。巻き込んでしまったのだ。すべての原因はトウマにある。
ずきり、と胸が痛んだ。
部下の亡骸を埋葬するとき、シエンは、涙を見せなかった。身を切るように辛かったに違いないが、彼は表情ひとつ変えなかった。ただ、部下の死に顔に別れを告げていた。
トウマは、そのときのことを考えるたびに思うのだ。ミナの死体を葬るとき、自分はなにを考えていたのだろう。運命に振り回された哀れな少女。青河の神子であり、シグレとともにトウマの命を救ってくれた恩人。
(運命?)
トウマは、自嘲した。運命などという言葉で片付けてはならない。それではあまりにも無責任だ。それは己が為にしてきたことを彼岸の彼方へと追いやる言葉だ。彼女を手にかけたのは自分だ。己の意志だ。
忘れてはならない。忘れるわけにはいかないのだ。復讐のためだけに斬り殺してきたのだ。それらを忘れるということは、自分というものを見失うのと同じなのだ。そしていずれは鬼と成り果てる。
鬼になってはならない。
例え剣印の力に頼らざるを得ないとしても、人間であり続けなければならない。でなければ、意味がない。復讐を果たせたとしても、無意味なのだ。
この手で。
みずからの意志で果たさなければならない。
「トウマどうしたの?」
「……どうって」
「目が怖いよ」
こちらの顔を覗き込むように背伸びをしたクロウが、不思議そうに小首をかしげるのが妙におかしかった。黄金色の瞳が影のなかでもあざやかに見える。沈み込んでいた気分が少しだけ浮揚する。トウマの背後でシエンが笑った。
「大将の目つきが悪いのはいつものことだろ」
「トウマはいつも優しいよ!」
「いや、まあ、それは否定しないさ。ただ、目つきは怖い」
「なんだと!」
「だからなんでおまえらはすぐに喧嘩腰になるんだ」
トウマは、嘆息気味に肩を竦めた。山を降り始めてからずっとこの調子だ。百歩も歩かぬうちに口論を始める。休憩の間はふたりが離れているからか静かなのだが、歩くのを再開するとすぐに喧嘩に発展してしまうのだ。クロウが一方的にシエンを毛嫌いしているように見えるし、シエンがクロウをからかうのが悪いようにも思える。一方で、じゃれ合っているように見えなくもない。ただ、クロウは犬歯をむき出しにして飛びかかることもあるので、彼としてはじゃれているつもりもないのだろうが。
もっとも、ふたりが口喧嘩しながらも、移動速度が落ちるということはほとんどなかった。
森を進み、小川のせせらぎに引き寄せられるように闇を抜ける。莫大な数の木々の狭間を縫う一本の小川は、水龍山から南へ流れ落ちる青河とは違う。神威もなく、守護もない。妖夷が出現するのは当然だったし、警戒を怠るのは自殺行為に違いない。しかし、頭上が開け、わずかでも空が覗くだけで随分と印象が変わるものだ。
森の闇に光明が差したような錯覚。そう、それはどう足掻いたところで錯覚に過ぎない。森は厳然として存在し、狂気を孕んだ闇もあるがままに横たわっている。漂うのは死の臭い。絶望と怨嗟に満ちた亡者たちの思念、視線。どれだけ振り解こうとも絡みついてくるそれらは、こちらが隙を見せる瞬間を窺い、じっと待っているのだ。少しでも気を緩めれば、どこからともなく湧いて出た妖夷が群れをなして襲いかかってくるのが、この森に覆われた大地の恐ろしいところだった。
が、トウマは一人ではない。心強い仲間がいる。クロウにシエン、それにシエン配下の青年たちもいる。一人ではない。その事実が、どれほど彼の心を支えているのか。ひとりでは、水龍山を越えることさえままならなかったのではないか。
そうこう考えているうちに、トウマたちは澪都の門前へと辿り着いた。小川を辿り、橋のかかっている辺りで左に折れる。そちらには獣道よりは横幅のある通り道があり、その道の先にそれは聳えていた。
澪都の門である。それは、華やかさや壮麗さとはまったくかけ離れたものだった。装飾の類いは最小限に抑えられ、塗料などもほとんど使われていない。木材と石材を組み合わせて作られた門であり、分厚い門柱は巨木を加工したもののようだ。門扉は切り出した石の板のように見えた。動かすだけで相当な労力がいるだろう。
トウマが初めてそれを見たときに思い浮かんだのは霊樹の社であり、拝殿や本殿の質素な作りだった。紅土の社は、霊樹に宿る神がそう望んだからだが。澪都の門は、どのような意図なのかはわからない。単純に、門をきらびやかに飾るという発想自体がないのかもしれない。
都は、森の中の切り開かれた土地に作られているという。トウマの中の常識にはない形体だ。霊樹の守護もなく、どのようにして平穏を維持しているのだろう。森の木々は、どれだけ伐採し排除しようとも、すぐさま生え、瞬く間に増殖するというのが常識だったし、事実その通りだった。人の手によって森に道を作ることさえできなかった。
霊樹の庇護下でなければ森の侵食から免れることなどできないという常識は、青河の村で覆されてはいる。が、それでも、頭の中に染み付いた観念というものは、そうそう切り替えられないものらしい。
澪都上空に広がる膨大な青は、そこに空を覆い隠す木々が存在しないことを示していた。頭上を遮るものがなくなれば、それだけで闇は晴れ、まばゆいばかりの陽光と青空が降り注ぐのだ。これまでも何度か目にしてきたが、まるで別世界のような光景だった。
陰鬱な森さえなければ、この世はこんなにも美しいものなのだろうか。
「都は、今でも森の侵食現象に苛まれていますがね」
トウマの疑問に対して、シエンは皮肉げに告げてきた。
「それでも普通に生活できているのは、泉の神と神子のおかげですな。人間という奴ぁ、利用できるものはなんでも利用するんですよ」
拝み倒してでもね、と続けた彼のなんとも言い様のない表情は、そう簡単には忘れられないだろう。人間への失意とも好奇とも取れる微妙な顔つきだった。
門は、大きい。その門の左右に聳え立つ大きな壁は、澪都と森の境界そのものなのだろう。どことなく、霊樹の社の柵に似ていた。分厚い壁は、都の四方を囲っているらしい。
霊樹の巨大な傘の下に築かれた村との大きな違いは、都の周りを囲う壁にあるのかもしれない。霊樹の結界は見えざる壁となって妖夷の侵入を阻む。外壁で囲う必要はなかった。
よく見ると、壁のあちらこちらに木の太い枝や幹そのものがめり込み、都の中へと侵入しようとしたまま一体化しているかのようだった。
「行こうよ、早く」
「ああ、そうだな」
クロウに急かされるようにして、トウマは、門へ向かった。身の丈の三倍はあるだろう大きな門は、両開きの扉の片方だけ申し訳程度に開かれている。有事の際、即座に閉門できるようにという配慮だろうか。
道中聞いた話では、都への出入りは基本的に自由であるらしい。が、都の外へ出るものの、都の外からやってくるものも極めて少ないという。それもまた当然の話だ。呪われた森を自由に行き来できるものなどそう多くはない。剣士や霊印の能力者、あるいは武装した集団くらいのものだ。
軽やかな足取りで先頭を進むクロウに続いて門を潜り抜け、都の土を踏む。
まず感じたのは、安堵。澪都を満たす守護の力が、森の中にいたときの不安や恐怖を吹き飛ばす。まるで母の腕に抱かれているかのような安心感と、涼風のように吹き抜けていく清浄な空気が、トウマの意識を染め上げていく。
この感覚は、青河の村以来だった。地獄の底から生還したかのような錯覚さえ抱く。森の闇は、それほどまでに人間の心を苛むのだ。
トウマは、目の前できょとんとしているクロウに声をかけた。
「どうした?」
「なんか変なの」
「ん?」
「優しくて暖かくて、でも、なんだか哀しいんだ」
クロウは、困ったように瞬きをした。偽りの霊樹の下で育った彼には、神の守護を感じるのは初めてだったのかもしれない。神の結界の中は、人間にとって心地よい空間には違いないのだが、初めてならば違和感を覚えてもおかしくはない。
「そうか……」
トウマは、彼の頭に手を置いたものの、言うべき言葉も見当たらずに視線をさまよわせた。
そして愕然とする。前方に広がる都の景色は、トウマの想像を遥かに越えたものであり、視界を埋め尽くす数多の色彩がむしろ彼の頭の中を真っ白にした。話には聞いていた。道中、シエンやその配下の連中から、何度となく聞いていたのだ。脳内に想像図を描き出せるくらいには何度も。
だが、実物は彼の想像図を子供の落書き以下に陥れ、トウマの常識や当たり前を覆して圧倒した。
このようなものが、この呪われた森の大地に存在しうるのかと彼は驚き、同時に己の無知に馬鹿馬鹿しさを感じないでもなかった。村を出て以来、驚いてばかりいる。いや、それは村を出たことのない人間にとっては当たり前のことなのだろうが。
紅土の村を一とすると、澪都の規模は十以上はあるのではないか。都の全容もわからないのにそれほどのものだと想像したのは、前方に広がる景色に気圧されたからかもしれない。
幅の広い道がまっすぐに伸びており、その地面は平らに整えられていた。道の両側には幾つもの人家が整然と立ち並んでいる。乱立ではない。等間隔に立ち並ぶ家屋の群れは、ただそれだけで都と村の違いを見せつけるかのようだった。
道は一本ではなく、所々で左右に分かれているのが見て取れた。往来を行き交う人の数は紅土の村の比ではない。比べようとすることさえ無意味だ。賑わいがある。喧騒がある。なにを取り扱う店なのか建物の前で客寄せをしている男の声や、行き交う人々の話し声、駆け回る子供たちの声が、都の繁栄と平和を象徴するかのようだった。
一目見て、都とはどういうものなのかわかった気がした。
村の祭りの日のようだ。霊樹の社で神事が執り行われる日は、祭りだった。霊樹を奉り、祭りに興じる。その日ばかりは、村中の人々が社に集まり、夜遅くまで騒ぎに騒いだ。子供たちも、男も女も、老人たちも。あらゆるしがらみを忘れて走り回ることだって許された。
すべては遠い過去の想い出に過ぎないが。
トウマは、わけもなくかぶりを振ると、シエンを振り返った。彼の周りには六名の青年がいる。白鹿十二神将などと名乗ったシエン配下の青年たちは、いまや獣の面を外し、素顔を晒していた。それは都に入る上で当然の処置だといえる。シエンとて同じだ。ただ、彼は頭部の霊印が見られるのを嫌ってか、派手な柄の布を被っていた。
「本当に自由に出入りできるんだな」
「そうはいっても監視の目は光ってますぜ、大将」
「そうなのか?」
トウマは、きょろきょろと辺りを見回したが、周囲にはそういった人影は見当たらない。道行く人々こそ稀に視線を投げてくるものの、それらからは悪意めいたものは感じられなかった。監視の目に悪意がこもっているとも限らないが。
「そう簡単に見つかったんじゃ――」
「ほら、そこ」
シエンの言葉を遮ってまでクロウがある建物を指し示した時だった。
不意に震動があった。地鳴りが聞こえ、大地が激しく揺さぶられた。なにかが地中から激しく突き上げてくるような衝撃。トウマは転倒しなかったが、クロウがこけた。彼は即座に跳ね起きると、砂埃など気にもせずに、警戒した
直後、前方の地面がぼこっと盛り上がったかと思うと、なにかが、土を吹き飛ばしながら飛び出してきた。噴水のような勢いで現れたのは、木だった。それも一本や二本ではない。地面を破って現れた木々は、急激な速度で巨大化していく。無数に枝を伸ばし、葉を広げる。
道の真ん中に小さな森が形成されていくのを目の当たりにして、トウマは唖然とした。粉塵が舞い、大気が澱んだ。
なにが起こったのか、即座には理解できなかった。いや、目の前の出来事は認識している。結界に守られているはずの都の中に突如として木立が出現したのだ。小さな森のようなそれには影が生まれ、そのどんよりとした闇に複数の光点が瞬く。死臭がした。空気が穢されていく。
そこかしこから悲鳴が上がった。都の人々が一目散に逃げ去っていくのが見えた。平穏が破壊された。一瞬にして。
木立の闇が震える。逃げる背に向かって、またしてもなにかが、物凄い速度で伸びていく。まるで矢のように飛んでいった物体が長い舌だとわかったのは、トウマがそれを見たことがあるからだろう。妖夷・斬舌。
「侵食現象ですよ」
伸びいく舌を叩き落としたのは、シエンの長棍だった。
「不完全な守護に抱かれた都が苛まれ続けている病みたいなもんです。結界の薄くなった部分を突き破って現れた木々は、そこから森を広げようとする」
「そんなことが?」
「見ている暇はないですぜ、大将」
シエンの忠告に反応したわけではない――トウマは、反射的に右に飛びながら、視界の端を掠める長細い物体の速度にぎょっとした。背筋に冷たいものが過ぎる。高速で飛来したのは、やはり斬舌の舌だ。涎をたらしながら伸びる赤黒い物体はそれだけで嫌悪感を抱かせたが、それだけのものでもない。人体を切り裂き、骨を断つ凶悪な武器だ。広い間合いに恐ろしい速度を併せ持つ、厄介な相手だった。
「どういうわけか、妖夷も一緒に連れてくるんですよ」
「ついてきただけなんじゃないの?」
「案外それが正解かもな」
シエンが、どこかあきれたようにクロウの言葉を認めた。クロウは思ったことを口走っただけなのだろうが。
地を這うような雄叫びとともに小さな森が震え、複数の影が飛び出してきた。額に人間の顔面を貼り付けたような大型の犬。間違いなく斬舌だ。狂ったような殺意と死臭を撒き散らしながら、都の地に躍り出る。たとえ結界の中でも、木立の周囲ならば行動できるということか。それとも、結界の中に入ってしまえばどうとでもなるのだろうか。答えなどわかるはずもない。
トウマは地を蹴ると、剣印を発動させた。右手の甲から莫大な光が発散し、瞬時に一本の刀へと収斂していく。手に馴染んだ重みが、彼の感覚を変えた。五感が拡張され、視野が広がる。
「どうすればいい」
「現象の元を絶てばいいんです」
シエンの助言を背中で聞きつつ、飛びかかってきた斬舌の一体を斬り伏せる。血と悲鳴を散らせるそれを横目に次の標的を探す。妖夷どもは、一先ずこちらを敵と認識したらしい。数体の化け物は、都の人々に襲いかかるのではなく、こちらに向かってきている。
「木を倒すの?」
「根こそぎ倒せるなら倒してみやがれってんだ」
「やってやるっ」
売り言葉に買い言葉なのだろうが。
トウマがぞっとしたのは、左前方のクロウが手首の印を輝かせたからだ。彼の力は、確かに強力だ。木々の数本くらい引っこ抜くなど容易だろう。しかし、その異形の力は、人間に理解してもらえるかどうか。都を追放されだけならまだいい。トウマはクロウの心の傷を想った。叫ぶ。
「クロウ!」
びくっとこちらを振り返った少年に、犬型の妖夷が凶器の舌を伸ばす。クロウは、こちらを見つめたまま、わずかに上体を反らしただけでそれをかわした。大気をつんざく矢のような一撃を、だ。
「印は使わなくてもいい」
「でも」
「これでも使いな」
「わっ、と」
シエンが投げて寄越したものをクロウが受け止めたときには、伸縮自在の長棍が二体の斬舌を叩き伏せている。クロウの手に渡ったのは一振りの短刀。朱塗りの鞘が鮮やかだ。
「使ったことないよ!」
「無理に戦わなくたっていいんだ」
トウマは、宥めるように言いながら、抗議の声を上げるクロウの横を通過した。右から迫ってきた斬舌の舌を半身をわずかにそらしてかわし、上方から打ち下ろすように降ってきた舌は刀を叩きつけて切り飛ばす。恨みがましい叫び声は無視し、前進を続ける。大気を引き裂く無数の音。そして悲鳴。シエンの部下たちが矢を放ち、それらのことごとくが標的に突き刺さったのだ。仕留めたのは二体。頭部と心臓の辺りを見事に射抜いている。素晴らしい精度といえる。
「嫌だ、ぼくも手伝う!」
クロウが短刀を鞘から抜くのを気配だけで知る。彼の身体能力はトウマの遥か上を行く。心配するまでもない。
トウマは、それよりも己の心配をしなければならないことを冷ややかに認めた。眼前に迫った妖夷は、シエンの長棍の一撃によって頭蓋を粉砕されたが、敵は多い。だからこそ彼は前進を止めない。妖夷になぞ構っている場合ではない。
元を断たなければならない。
(どうやって……?)
疑問とともに脳裏を過ぎったのは、過去の光景。記憶の断片。真贋に関わらず霊樹を殺してきた男の姿。ミズキ。
トウマは、鋭く息を吐くと、前方へ跳躍した。目の前で大口を開いた犬の化け物を飛び越える。右太ももに焼けるような痛みが生じた。舌をかわし損ねたのだろう。が、痛みを堪える以外に方法はない。着地し、木立へ。闇の中に突っ込み、おもむろに刀を構える。殺意は無数にあった。だが、そのどれもが実態を伴わないものであり、故にトウマは、それらを相手に立ち回らなくてもよかった。木立の外からは断末魔が聞こえてくる。クロウたちはうまくやっている。
ならば、とトウマは、木立の中心に聳え、もっとも巨大化した木の幹に刀を突き刺した。どくん、という心音のようなものが切っ先から刀身を流れ、トウマの体にまで伝わってきた。痛みを感じる。なにかが逆流してくるかのような感覚。だか、トウマは歯を食いしばって剣を押し込んだ。脳裏には霊樹に化けた妖夷を焼き殺すミズキの姿が浮かんでいる。彼と同じことをして、同じ結果が得られるわけもないが。
木が震えた。まるで絶叫でもあげているかのように闇が震え、澱んだ大気がさらに歪んだ。地面が脈動している。いや、地に張った根が動いているのか。生物が痛みに身を捩るように、根を震わせている――。
「トウマっ!」
「大将っ!」
ふたりの悲鳴のような叫び声はほとんど同時だった。そして、ふたりの声が耳に飛び込んできたのとほぼ同時に、熱気が彼の頬を撫でた。トウマは咄嗟に剣を引き抜くと、その場から飛び離れた。後方へ。熱風が全身に絡みついて、体中の水分を絞り出すかのように汗を吐き出させる。それでも止まれない。さらに後方へ。木立の外へ。視界を覆っていた闇が炎に焼かれ、赤く染まっていくのを見ることができたのは、トウマが幸いにも木立から抜け出すことに成功したからだ。髪が幾分焦げ臭いが、問題はない。
「なんなんだ……?」
トウマは、どっと押し寄せてきた疲労感に倒れそうになった。冷や汗も収まらない。少しでも脱出が遅れれば、炎に焼かれていたに違いないのだ。状況がわからず、視線を巡らせる。前方では木立が燃えており、悲鳴のようなものが時折聞こえた。クロウが駆け寄ってくるのが見えたが、シエンは動いていない。それどころか得物を放棄していた。彼の部下たちも、それに習っている。
「トウマ! だいじょうぶ?」
「ああ、俺はなんともない。それよりなにがあったんだ」
トウマは、心配そうに瞳を曇らせる少年に無事を告げながら、状況を理解する。木立と、トウマたちをぐるりと取り囲む集団の存在にようやく気づいたのだ。全員緋色の装束を身に纏い、武器を構えている。剣、太刀、槍、矛――刃物の武器は、剣印の発動によるものである可能性があった。
「それが、突然あの人たちが現れて――」
「都に来て早々侵蝕現象に立ち向かう剣士なんて、初めて見ましたよ」
クロウの言葉を遮ったつもりものないのだろうが、集団の中のひとりが急に声をかけてきた。極めて軽い口調で、世間話でもするかのように。
「勇猛果敢ですねえ。都育ちの上品な方々にも少しは見習っていただきたいものですよ」
こちらを値踏みするかのような視線は、一瞬にして朗らかな微笑の中に掻き消えた。錯覚だったのではないかと考えさせるほど巧妙に。若い男だ。トウマよりも上背だがどこか痩せぎすに見えるのは、無駄な肉がついていないからかもしれない。彼だけ得物ではなく、黒い石を手にしていた。黒火の火吹き石。
「あんたは?」
「ああ、これは失礼しました。俺は如月唯人。龍侍隊のしがない一隊員ですよ」
表情も物腰も温和なもので、極力こちらを刺激しないように配慮しているように感じられたが、それは勝手な思い違いかもしれない。彼は、自然に振舞っているように思える。演技には見えないのだ。
「大将、彼らには逆らわないほうがいい。ここは澪都。森とは勝手が違う」
「ああ」
トウマは、シエンの忠告に素直に従った。剣を印へと納める。
「まるで俺たちがあなたがたをどうこうするとでもいいたげですね」
「なにもする気がないのに武器を向ける馬鹿もいない」
「それもそうか」
シエンの皮肉に対して、感心したように手を打つと、彼は、表情を変えた。といっても、笑みは崩さない。瞳だけが鋭くなっていた。
「現在、都ではある騒動が起きていましてね。剣印を持つ者は一人残らずとっ捕まえて、あることないこと吐き出させろとのご命令をば頂戴しているのですよ」
「あることないことって」
クロウがトウマの背後に身を隠した。なにを恐れたのかはわからない。トウマには理解できないなにかを感じ取ったのかもしれないし、単に初対面の人間が怖かっただけかもしれない。
「なあに、ほんの冗談ですよ。なにもなければ無罪放免。晴れて都を歩き回れるわけです。監視もつかない。素晴らしいことだとは思いますが」
「わかった。あんたたちに従う」
「物分りのいい人たちでよかった」
言葉とは裏腹に残念そうな口調が気にはなったが。
トウマは、燃え盛る木立を見遣った。家屋に燃え移りそうな勢いで炎を上げる木々は、もはや悲鳴を発することさえなかった。