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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第一章 剣の目覚め(四)

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 闇が、どこまでも続いている。

 見渡す限りの漆黒の中で、身動きひとつ取れないのは、なぜだろう。

 そもそも、ここはどこなのか。

 不意に、慟哭が聞こえた。

 深い悲しみによって地の底の暗闇に囚われた、魂の叫び。

 だれかを呼んでいるのか、ただその名残りを惜しんでいるのか。

 ――チハヤ!

 その言葉の響きはよく知っているはずなのに、どうやっても思い出せない。なにかとても大切なことを忘れてしまった、そんな気がする。

 ――チハヤ……!

 慟哭は続いている。

 もう泣かなくてもいいのに。

 そうは思ったものの、彼は泣かずにはいられないのだろう、とも想う。

 泣いたところで、なにかが変わるわけではない。

 時間は巻き戻らないし、失われたものもまた、永遠に失われたままだ。

 そう、失われたのだ。

 ようやく思い出して、彼女は、眼を開いた。闇が失せていく。

 見慣れた本殿の中は、圧倒的な暴力の応酬によってでたらめなまでに打ち砕かれ、押し潰され、突き破られ、切り刻まれ、焼き尽くされていた。

 屋根も壁も柱もすべてが倒壊し、かつての面影などは微塵も残っていない。ただの瓦礫の山だ。

 仰ぐと、遥か頭上を覆い尽くしていた膨大な数の霊樹の枝葉もまた、赤々と燃え上がっていた。燃え尽きた枝葉が、次々と降り注ぎ、まるで火の雨のようだ。

 なにもかも終わってしまったのだ。

 霊樹の死。

 それは、この村の終わりを意味していた。いずれ、霊樹の結界の消滅を知った妖夷が、我先にと押し寄せてくるだろう。破滅の群れが。

「俺は――俺は!」

 嘆く声に目を向けると、息も絶え絶えの少年が、みずからの傷も顧みずに少女の亡骸を抱えていた。

「護りたかったのに!」

 近づくと、少女の顔は、安らかに眠っているように見えた。むしろ、重傷の少年のほうが、いまにも死にそうに見える。

「おまえを――!」

 彼女は、少年の前に回り込むと、優しく微笑んだ。胸の内から愛しさと慈しみだけが溢れてくる。

 もちろん、少年にはこちらの姿など見えていないだろう。けれど、彼女には、どうしても伝えたいことがあった。

 少年は、もはや絶句して、ただ抱き抱えた少女の亡骸を見つめるしかない様子だった。

(トウマ……)

 そっと話しかけて、声など出ないことに気づく。

 彼女は、憔悴しきった少年の頬を愛しく撫でた。感触もない。もはやなにも感じることはない。失われたのだから。

 彼女は、みずからの額を少年の額に押し当てた。

(ありがとう)

 届かないであろう言葉を浮かべながら、彼女は、迫り来る時を感じた。

(そして、さようなら)

 唐突に、背後から伸びてきた黒い手が、彼女の両目を覆う。なにもかも暗闇に覆われ、いままで聞こえていたすべての音が、完全に途絶える。

「あなたの役目は終わり」

 慈愛に満ちた女の声だけが、聞こえた。

「さあ、還りましょう」



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 額に温もりを感じて、はっと、トウマは顔をあげた。目の前にはなにもないし、だれもいない。ただ、燃え盛る炎と降り続く炎が、地獄の光景を描き出しているだけだ。

「なんだ……?」

 炎の熱とは違う、人肌の温もり。とてもよく知っているはずの体温。

 トウマが、茫然と前方に視線をさ迷わせていると、男が、霊樹の根元からこちらに向かって来るのが見えた。剣も持たず、淡々とした足取りだった。

「おまえ――!」

 トウマは、叫び、立ち上がろうとして、踏みとどまった。腕の中で眠る少女のことを思い出したのだ。彼女の亡骸は、そっとしておきたい。

「少年、君は弱い」

 トウマの目の前に立ち止まって、男。冷たいまなざしは、鋭利な刃物に似ている。

「だから、誰も護れない。なにも護れない。失っていくだけ。そして、死ぬ」

 男の言葉が、研ぎ澄まされた刃となって、トウマの心の奥底に突き刺さる。

「造作もなく――」

 男が、再び歩き出す。硬い靴音がトウマの脳裏で反響した。

 いくつもの映像が、頭の中に散乱して渦を巻く中で、トウマは、そっとチハヤの亡骸を床に横たえた。



 眼の裏で、光が揺れる。

 祖父に背負われて見上げた霊樹。天まで続いていると信じて疑わなかった――

「待て……」

 社の境内を走る少女。こちらを振り返り、あざやかに笑った――

「待てよ……」

 神子継ぎの日の朝。もう逢えないと泣きじゃくる少女をただ抱き締めた――

「待てって言ってんだろ!」

 吼えるように叫び、トウマは、背を向けて進む男に飛びかかった。もはや痛みや体力など関係ない。激情が、肉体を突き動かしていた。

「駄目だ」

 男が、ひどく冷酷に告げた。殴りかかったトウマの拳を、左手で受け止めて。

「剣印も持たぬものを殺したところで、俺にはなんの益もない」

 たやすく投げ飛ばされて、トウマの視界が回転する。燃え落ちる霊樹の枝葉の間隙に、青空が見えた。

「もっとも、障害は排除するがな」

(いまの俺は障害ですらない、と?)

 床に背中から落ちた衝撃にうめきながら、トウマは、相手との間に絶望的な力の差があることをいまさらながら思い知った。

「俺はミズキ。青河のミズキだ」

 不意に男が口にした言葉を、トウマは、咄嗟には理解できなかった。

「生きていれば、どこかで遭うこともあるだろう。狭い世界だ」



 ミズキ。

 それが男の名前だということを悟ったのは、男の気配が消え失せてからだった。

「畜生……!」

 床に仰向けに転がったまま、トウマは、両目から溢れるものを止められずにいた。

 なにもできなかった。復讐は愚か、一矢報いることすら。

 無力だ。

 あまりにも――。

 霊樹が燃えていく。

 村が死んでいく。

 足音がきこえた気がした。破滅の足音が。

「おおおおおおおおお!」

 咆哮して、トウマは、身体を無理矢理起こした。脇腹を中心に、全身に激痛が走る。が、肉体の痛みになど構ってはいられなかった。

 周囲を見遣る。

 破壊し尽くされた社の本殿には、ミズキの姿などどこにもない。本殿を焼いた炎の勢いはかなり衰えてきたが、もはやどうしようもない。壁も柱も天井も失い、ただの高張りの床に過ぎない。

「ん……?」

 ふと、小さな影が視界の隅を横切ったのを、トウマは見逃さなかった。

 影は、トウマの足元を走って、チハヤの亡骸に近づこうとしているようだった。

 それは鼠に似ていた。全身毛むくじゃらの小動物。だが、なにかが違う。違和感はどこにあるのか。

「妖夷?」

 森の闇に潜む化物。人間に敵対し、人間の死体を喰らうという。その特徴として知られるのは、どのような形態であれ、人面を持っているということだ。人面を持っている、というのは、必ずしも人の顔をしているということではない。体のどこかに人間の顔が張り付いている、といったほうが正しい。

 突然、それは足を止めた。トウマの気配を察したかのように。

「ギ……?」

 不快な雑音のような発しながらこちらを振り返ったその顔は、醜悪な老人の顔そのものだった。

 妖夷――。

「ギギッ!」

 それは、トウマの死の到来を待ちわびているような、そんな嘲笑だった。鼠ぐらいの大きさの妖夷だ。瀕死のトウマを殺すだけの力も無いのかもしれない。

 耳鳴りがした。吐き気と、頭痛が続く。

「なんだ……?」

 得体の知れないざわめきが、トウマの意識を圧迫していく。よろめいた拍子に周囲に眼を向けると、数えきれないほどの異形の影が、崩壊した本殿を取り囲んでいた。揺らめく陽炎の向こう、無数の眼が緑色に輝いている。獲物を見つけたとでも言いたげに。

 ひとの神経を逆撫でにする不協和音を上げながら、ゆっくりと包囲を狭めてくる化け物たちの目的は、トウマではなかった。

 その数多の緑眼が見据えるのは、霊樹の神子の亡骸。

「俺がいるぞ! ここにっ!」

 トウマは、自分の視界を横切っていく小さい妖夷たちに怒声を張り上げたものの、それらの耳には届いていないようだった。いや、聞こえていたとしても、無視しているのだろう。死に行くものなど放っておけばいい。いま目の前に転がっている獲物のほうが遥かに大事だ。

「やめろっ!」

 激痛がトウマの頭の中に響く。

 妖夷の群れは進行を止めない。鼠のような化け物や人面の蛇、背にひとの顔面を持つ蜥蜴、少女の顔の鶏――妖夷の姿はさまざまであり、どれもが奇怪でおぞましく、人間の心に恐怖を植えつけるのだ。

「近づくな……近づかないでくれ……」

 全身を蹂躙する苦痛の中で、トウマの言葉は、懇願に変わっていく。しかし、妖夷の群れはそんなトウマを嘲るように、チハヤの周囲に集まっていく。

「やめ――」

 鼠型の妖夷が、チハヤの亡骸に飛び掛る。


(俺は、チハヤの亡骸すら護れないのか?)


 こえが、聞こえた。

《手に取りなさい、剣を》

 女とも男ともつかない冷厳な聲。

心音が高鳴り、血が全身を逆流する。痛みや吐き気が消えて、体中が沸騰するような感覚がすべてを支配する。

《突きつけなさい、刃を》

 意識が鮮明になっていく。より鋭く、より激しく。

《勝ち取りなさい、命を》

 魂の奥底から、なにかが浮き上がってくるのが感覚的にわかる。力の奔流。闘争への渇望。尖鋭的な破壊の意志。肉体の表層へ――。

《其は戦禍の烙印》

 トウマの右手の甲に、光で編まれた精緻な紋様が刻まれる。

《其は修羅の極印》

 印から光が溢れ、右手の内に、一振りの刀が形作られた。刀身に文字が刻印された刀。

《戦いなさい》

 湧き上がるのは歓喜。目の前の戦いへの悦び。

《闘いなさい》

 トウマの剣気に気づいたのか、妖夷たちの動きが止まる。

《倒しなさい》

 言われるまでもない。

 トウマは、口の端に笑みを浮かべた。まずチハヤに飛び掛ろうとした鼠型に狙いを定め、跳んだ。体が軽い。こちらに対する妖夷の反応が緩慢に思えた。

《殺しなさい》

 トウマの刀が、逃げようとして飛んだ鼠型の妖夷を真っ二つに断ち切る。死骸は床に飛び散った。

 初めての殺戮だった。高揚する意識が、トウマの闘争本能を刺激する。

《屠りなさい》

 突然の剣士の出現に、小型妖夷の群れがどよめき立つ。そして、一斉にチハヤの包囲を解いて、今度はトウマに目標を変えた。剣士とはいえ満身創痍。この数ならば圧倒できるとでも思ったのか。

《滅ぼしなさい》

 トウマは、咆哮した。


 望み通りに力を得た。

 想い通りに剣を振るった。

 だが、それはあまりにも遅すぎた。

 絶望的な喪失感の中で、トウマは望まざる戦いを強いられる。

 

 第二章 修羅の道理


 煉獄の扉が開く。

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