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桃魔剣風録  作者: 雷星
39/42

第六章 誰が為に雉は啼く(一)

 夢を見ている。

 忘却の彼方に沈んだはずの記憶を、夢に見ている。

 記憶から消え去ったはずの景色が意識を覆う。

 いや、消すことなどできないのだ。

 それこそが、己が己であるための――。




 森は、深い。

 広大な大地のほとんどを覆い尽くした樹木の群れは、天の光を遮り、地を膨大な闇で満たしていた。漆黒の闇は禍々しい狂気を抱き、いつからか死臭をも帯びるようになった。生を貪り、死で満ちた世界をさらなる死で覆い尽くしていく。

 森の何処にいても、森の何処を歩こうとも、死の臭いが鼻を付く。救いようのない絶望の影が、音もなく横たわっている。

 平穏は森の中にはなく、霊樹れいじゅの大いなる守護の元でなければ、まともに生きていくことさえままならなかった。一度森に足を踏み入れて、無事でいられる保証などないのだ。多くの場合、物言わぬ亡骸と成り果てる。

 妖夷よういという存在がある。人の顔を持つ人ならざる異形の化け物。森の闇に潜み、常に生者の気配を探っているという。見つかればただではすまない。寄って集って殺し尽くされ、貪り食われるのだ。

 であるにも関わらず、彼は、森の中を歩いている。鬱蒼と生い茂る木々の狭間に刻まれた獣道を、父の手を強く握り締めながら進んでいく。

 彼は、父が何処に向かっているのか知らなかった。知る必要もないと思っていた。「村の外へ行こう」という父の言葉になんら疑問も抱かなかったのは、それが父にとってのいつもの気晴らしに過ぎないと思っていたからだ。

 大の大人とはいえただの人間が、気晴らしに森の中を散策できるはずがない。無力な人間など、森に蠢く妖夷の餌になるだけだからだ。

 彼の父親は、ただの人間ではない。

 父のうなじには、剣印とも呼ばれる霊妙神秘な紋様が刻まれていた。それは妖夷に対抗しうる強大な力の証である。同時に、修羅の極印とも戦禍の烙印とも言われているようだったが。

 彼は、父が剣印の力を振るう姿を見るのが嫌いではなかった。

 人外の化け物を相手に終始圧倒する父の姿は、まさに鬼神のようであり、普段の穏和で優しげな風貌とはまったく異なる表情にはただ畏怖を覚えた。恐怖とは違う感情。信仰に似ていたのかもしれない。

 だから、彼は父を疑わない。心の底から信じていた。父の言い付けは守ったし、忙しい父に代わって妹たちの面倒を見ることに苦痛を感じなかったのも、偉大な父の背中を見てきたからだろう。

 やがて、獣道から逸れた。木々を掻き分けるように進む。いつもとは違う父の様子に、彼は、むしろ好奇心を隠せなかった。

 何処に連れていってくれるのだろう。

 この先になにがあるのだろう。

 きっと、驚くようなものが待っているに違いない。

 彼の期待は膨らむ一方だった。木々の枝葉につけられた擦り傷や切り傷なんて気にもならなかった。父を恐れ、視線を投げ掛けてくるだけの妖夷など恐るるに足らず、彼の足取りは非常に軽かった。

 そんな折り。

「すまんな……」

 父が突如として言ってきた言葉を、彼は理解できなかった。なぜ謝るのだろう。道にでも迷ったのだろうか。いや、道に迷ったくらいで謝るものだろうか。

「うん?」

「村の霊樹の力は微弱で、年々衰えているらしい。実りも十分に得られない。このままでは皆が餓えて死ぬことになる」

 父は、静かに、しかし厳然と告げてきた。父がなぜ、突然そんな話をしてきたのか彼には見当もつかない。先程謝ってきたこととの関連性も見出だせなかった。父は、村の内情について話すような人ではなかった。自分の仕事に関わることだからだろう。

「わたしは守護剣士ではないが、それでも、村の将来を護る義務がある」

 その言葉の意味は理解できる。霊樹の神子に仕える守護剣士ではなくとも、父が強力無比な剣士であることに違いはない。力を持っている以上、果たさなければならない責務がある――父が何度も口にしてきたことだ。

 それは、彼が父を深く尊敬する理由のひとつだった。父は、村のためならば身を砕き、骨を粉にすることも厭うまい。

 村の将来のためならば。

「許せ、などとは言うまい」

 父が、こちらを振り返る。その直前、男の項に刻まれた霊印が光を発したのを、彼の眼は逃さなかった。光は一瞬にして膨張し、森の闇を一時照らし出す。爆発的な光の拡散が森の闇にもたらしたのは、恐慌。化け物どもの叫び声がこだまする。

「わたしを憎め。わたしを恨め。わたしを呪え」

 それこそ呪詛のように言葉を吐き出す父の手の内へと、膨れ上がったすべての光が収斂していく。具現するのは一振りの剣。幅広の刀身を持つ剣は、数多の妖夷を事も無く蹴散らすほどの力を秘めている。

「父上……?」

 彼が、父の剣の切っ先が自分に向けられていることに気付いたのは、呆然とつぶやいた後のことだった。剣の現出という見慣れた光景は、その瞬間、彼の末期を告げる景色となったのだ。

 彼は叫ぼうとしたものの、大きく開いた口からはか細い空気が漏れただけだった。叫びにもならない。意識が凍りついている。

「さらばだ、チヅル」

 父の惜別の言葉に切っ先が揺らめく。が、彼はその行く末を見届けなかった。後方へ。ただがむしゃらに駆け出していた。剣は空を裂いたのか。いや、彼の背に熱が生まれた。斬られた。しかし、彼はその痛みに耐えた。泣き叫びたい衝動に駆られながらも、尊敬する父に殺されようとしている事実が、感情の暴発を押さえ込んでいた。

 ひたすらに逃げる。どこをどう走っているのかさえわからぬまま、木々の間を抜け、草花を飛び越え、森の闇を脱兎の如く駆けていく。

 無駄だということはわかっていた。父は、彼を殺すつもりだ。一度決めたことは必ず遣り遂げるのが、彼の父が偉大である所以なのだから。

 殺される。

 絶望だけが、彼の意識を埋め尽くしていた。逃げなければならない。逃げなければ、物言わぬ亡骸に成り果てる。

 父の手にかかって。

(嫌だ……! 死にたくない!)

 胸中で叫ぶ。全身全霊で悲鳴を上げる。声にすれば、追ってきているであろう父に居場所を悟られるどころか、妖夷を刺激してしまいかねない。妖夷は、父の剣気に当てられて鳴りを潜めているようだが、それでさえ、ちょっとしたことで暴発しうる程度のものだ。

 絶望的な状況にありながら、多少なりとも冷静さを保っていられたのは僥倖だったのかもしれない。

 やがて、森の闇の向こうに光が見えた。まばゆいばかりの太陽の輝き。そこで森が途切れているのだろう。

 どういう理由で途切れているのかなど、彼は考えなかった。森から脱出することは、妖夷の脅威からは逃れられるということにほかならない。

 彼は、力を振り絞って走った。背後で化け物が断末魔の叫びを上げた。父が斬り殺したのだろう。一瞬ぞくっとしたが、彼は、その感情を無理やりにでも意識の外へ追いやり、前進を続行した。

 森が終わる。

 狂気を孕んだ闇を抜け、生命力に満ちた光の下へ。

 勢いよく森の外へと飛び出した彼が目の当たりにしたのは、目に痛いばかりに眩しい青空と純白の太陽。空は、遥か眼下へと落ちていく。崖下へ。

 彼は悲鳴を上げたかった。森の闇を割いた日の光がもたらしたのは救いなどではなく、逃げ場のない絶望だった。

 前方は切り立った崖であり、後方からは剣を携えた父が迫ってきている。前へ進むことも、後戻りすることもできない。逃れようがない。どちらにしろ、彼に待っているのは死だ。絶対的な結末だけが、嘲笑うこともなく立ち尽くしている。

(だったら……!)

 彼は、崖の下を見遣った。遥か眼下、剥き出しの地面が横たわっていた。森の中にぽっかりと開いた空白のような場所だった。なにもない。彼を受け止めてくれそうになるものなど、なにひとつとして見当たらない。足が震えた。しかし、彼は飛び降りようと思った。

 そうすれば、少なくとも父の手にかかることはない。

 少なくとも、父親に殺されることはないのだ。

 例えこの身が砕け、死ぬことになっても、父に命を絶たれるよりはずっとましだ。そう想った。確信は彼の背を押した。足の震えが止まった。行ける。

 彼は、崖下へと身を投じた。

「――様」

 落ちるとき、彼の意識を埋め尽くしたのは生まれてからこれまでの記憶。

 わずかばかりの想い出が、光のように駆け抜けていく。まばゆくも儚い閃光のように。

紫金上衣しこんのじょうい様」

 呼び声が聞こえて、光が消えた。水泡が弾けるように。

「……すまない。寝てしまっていたようだ」

 意識の浮上とともに口をついて出た言葉はそのようなものだっただろう。無意識の内に謝っている。悪いとは言わないだろうが、良い癖ともいえまい。自身の立場を自覚すれば尚更だ。

 目の前にあるのは机だった。龍侍隊ろうしたいからの報告書に目を通している間に寝てしまっていたらしい。気を失うように。だがそれも仕方の無いことだ。彼に休みなどあるはずもない。次から次へと飛び込んでくる報告書に目を通し、裁量する。場合によっては突き返すこともあったが、それが休息に繋がるわけもなかった。やるべきことがただ膨れ上がっていくだけだ。

「疲れがたまっているのではないのですか? 誰よりも早く起きて、眠りにつくのは誰よりも遅いのですから」

「気の緩みだよ。良いことではない」

 彼は、目を細めた。頭の中を渦巻く眠気のおかげで、意識はまだはっきりとしていない。ぼやけた視界に重用する部下の姿がある。若い男だ。彼自身、上衣を纏うものの中では若いのだが、その彼よりもさらに若い。が、能力はある。だから彼は部下として拾い上げ、手元に置いている。優れた人材を育成するのもまた、彼が己に課した使命であった。

「なにかあったのか?」

「はい。ミコト様がお目覚めになられました」

 彼の部下は、報告ということもあって表情を殊更に強ばらせていたが、心の中から漏れる嬉しさを隠しきれてはいなかった。目元が緩んでいる。報告を耳にした彼とて同じことだ。

「それは……良かった」

 安堵の息を吐くのは、どれくらいぶりだろう。立場上、常に険しい顔をしている彼も、このときばかりは頬を緩めるしかなかった。

 眠れる神子の目覚めほどの吉報はない。

「紫金上衣様を呼ばれておいでですが、いかがなさいますか?」

「行こう」

 逡巡などあるはずもなかった。呼ばれなくとも向かっただろう。仕事が立て込んでいたとしても、最優先にすべきは神子の守護であり、それ以外は些事に過ぎない。この都の運営という大事すら、瑣末なものになってしまう。それほどまでに神子という存在は大きかった。彼の中では、だが。

 書院を出、部下の案内に従って神子の寝所に向かう。この、社を増改築した建物の中心へ。かつては本殿と呼ばれていた場所である。いまでは神子の寝所として使われており、本殿として機能することはほとんどなくなっていた。

 神子が神との交信を行うための聖なる空間も、いまやその意味を失いつつあったのだ。

 老いが、神子の肉体を蝕んでいる。

 ミコトは早五十年も、この都の守護をしている。神子として、神と人の仲立ちをし、広大な結界で都市を包み込んでいる。

 霊樹よりも弱く脆い神である。その力を引き出すのは、神子の心身に相当な負担を強いるのだという。

 ミコトは、本殿で眠りながら、それでも神の力を引き出し続けている。己が命を差し出して、数多くの命を森の脅威から護り続けている。

 やがて、彼らは本殿の前に到着した。本殿とはいえ、もはや元型もわからぬほどに変わり果ててしまったが、それでも神との交信には差支えはないという。他に人の姿が見えないところを見ると、どうやら呼ばれたのは彼だけだったようだ。

「来たのね」

 ミコトの声がした。

「なにをしているの? 早く顔を見せて」

 声に弾みがあったのは、彼女が彼の到着を心待ちにしていたからだろう。本殿の引き戸を開き、中へと足を踏み入れる。決して広くはない空間の真ん中に、神子はいた。既に寝具は片付けられており、御座を敷いて座っていた。初老の女性である。神子だけが切ることを許される白い装束を、痩せ細った体に着込んでいた。肌は蒼白で、手首の血管が浮き上がって見えた。

 優しい微笑を湛えていたのは、彼を迎えるためだろう。自負などではなくそう認識する。神子であるミコトは、この都のすべての民を等しく愛しているし、その情の深さたるや並ぶものがないほどだ。しかし、そんな神子でも彼だけにしか見せない表情がある。彼と二人きりのときだけ、彼女は神子ではなく、ひとりの人間に戻った。

 だからこそ、彼もまた、彼女に心を許し、魂をも委ねたのかもしれない。

「疲れているみたいね……しっかり身も心も休めなきゃ駄目よ?」

 ミコトの瞳は、その病弱な身体や年齢からは考えられないほど澄んでいた。透き通った青。見ているだけで心が洗われるような、胸が痛むような、あざやかで烈しい光。彼は、彼女の目を見ていられなかった。視線を交えていられなかったのだ。己の心を見透かされるようで。

 穢れ無き魂でありたかった。ミコトの清浄な魂と向き合っていられるくらいには気高く、美しい心のままでありたかったのだ。

 しかし、現実の彼は、神子から視線を逸らすことしかできなかった。落胆が胸の内に渦巻く。

「チヅル」

 ミコトの優しい声が耳朶に染み入り、鼓膜を突き抜けて心の奥底へと流れ落ちていく。その過程を全身に記憶させるように、彼は目を閉じた。そして思い出すのだ。夢の終わり、部下の声によって叩き起される直前に聞いたこえを。

『飛びなさい』

 聲が聞こえて、彼の運命は変わった。

 背に生えた翼と、首に刻まれた印が、彼の人生を極めて苛烈なものにした。

 いや、あのまま死ぬよりは良かったのだろう。

 その先には膨大な闇が横たわり、彼の身も心も穢し尽くしたが、光が見えた。掬い上げてくれた。細く小さな手が、彼の魂を拾い上げてくれた。日の光の差す元へ。

「そうだわ。ひとつ、わがままを言ってもいいかしら」

 そういって、どこか恥ずかしそうに目を伏せるミコトの姿は、まるで年端のいかぬ少女のようだった。その年齢を感じさせない無垢な態度が、自分の中の父性を駆り立てるのだとしても何ら不思議ではない。無論、おこがましいことだとは思うのだが。

「はい?」

「外へ、散歩にでも行きたいのだけれど……」

 ミコトが伏し目がちに、囁くように言ってきた。その程度のことすらわがままになってしまうのが、神子の立場というものなのだ。ただ神に命を捧げ、都の守護を維持し続けることだけが、神子の使命なのだ。自由などあるはずもない。

 しかし、彼女の提案は、決して悪いものではなかった。澪都を巡り、人々と触れ合えば、神子の気も紛れよう。それは彼女の魂が光り輝き続けるために必要なことなのだ。本殿に籠もって神との交信を続けるだけでは、魂の輝きも失われていくだろう。

 いや、神子本来の役目はそれだ。それだけなのだ。それ以外のことは余事であり、なにもさせる必要はない。

 だが、彼女は、ミコトという存在は、彼のすべてだった。だからこそ、彼はすべてを賭してでも、彼女の願いを叶えようと想うのだ。

「さっそく準備をいたしましょう」

 チヅルは、もじもじとしているミコトに向かって、最大級の笑みを返した。


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