第五章 猿神楽(十六)
「俺はまだ死ねないんだ」
トウマが発した強い決意の言葉を、シエンは、閃く剣光の中で聞いた。それは彼女への懺悔でもあったのかもしれない。
そして崩れ落ちたのは、ミナ――。
トウマが彼女の華奢な体を抱き止めたとき、依代が依代でなくなるのをシエンは見逃さなかった。ミナの体から光の紋様が消え、眼が紅い光を失う。七体の水龍の首が崩壊し、瀑布となって降り注いだ。莫大な水飛沫によって白く染まる視界の向こう側で、少女の体から青河の神たる水龍が離れていく。
ミナが、死んだのだろう。
依代が死ねば、神はその肉の塊から抜け出すのだという。死体を操れないわけではあるまい。神としての威厳や誇りが、死者の肉体を弄ぶことを許さないのかもしれない。
それは遥か昔から語り継がれてきた伝承であり、伝説なのだ。が、シエンの経験から考えれば、一つの事実でもあった。応龍に宿った神は、あの男の肉体が死んだことでシエンの目の前に現れた。そのとき一度でも斃せたのは、依代なき神の力ならば対抗し得たからだ。
そう。いまこの刹那にすべきことはただ一つ。
「逃がすかよ」
シエンは、すべての力を振り絞った。霊印の力を解き放つ。十二神将の武器のみならず、神威に撃たれ力を失っていた刀剣をも再度掌握する。神の力が弱まったからなのか、それとも、シエンの力が高まったからなのか。どちらにしても、刀剣群は彼の命ずるままに地より飛翔し、この場より去ろうとする水龍へと殺到する。数多の殺気に気づいたのだろう――水龍がこちらを一瞥した。龍の双眸が鮮烈な光を発した瞬間、水の防壁が展開する。先頭を飛翔していた短刀の切っ先が水の壁に突き刺さる。水龍が目を細めた。威力に驚いたわけではあるまい。その短刀を皮切りに無数の刀剣が次々と突き刺さっていく。やがて、水壁が圧壊した。刀剣群に耐え切れなくなったのだ。そして刀剣群は、降り注ぐ瀑布の如き水の中を突っ切り、水龍本体へと殺到する。
《我ヲ殺シテ何トスル? 猿ヨ》
無数の刀剣を全身に受けながらも、青河の神は、その威厳に満ちた態度を崩さなかった。神の誇りがそうさせるのか、傲岸であり続けるからこそ神なのか。未だ畏怖さえ覚えるほどの相手を見遣りながら、シエンは小さく息を吐いた。もはや水の龍は原型を留めぬほどに損壊されており、その器が崩れ去るのも時間の問題だった。
神は、今度こそ滅び去るのだろうか。
「どうもしねえ。これはただの復讐だ。シオンを殺したあんたへの」
意味もなく殺戮された緑月の村人たちの無念を晴らす、という理由もあるにはあったが、しかし、シエンが命を賭してでも神殺しを果たそうとしたのは、彼の姉にして最愛の人であるシオンを殺されたことへの復讐なのだ。
二度目――。
そう、二度目だ。一度目は失敗に終わっていたのだ。だから、今度こそ完全に滅ぼさなければならなかった。そのためにすべてを擲った。
すべてを。
《ソノ無邪気ナ感情サエ、彼奴ノ手ノ内ニ過ギヌノダ……!》
水龍が咆吼した。それはきっと断末魔の叫びに違いなかった。神が滅ぼうとしている。彼の手によって、この地上から消え去ろうとしている。水龍の体中に刺さった短剣の切っ先から、剣の刀身から、槍の穂先から流れ落ちるシエンの霊威が、青河の神の神威も威信も粉々に打ち砕いていく。きっと、これで終わる。終わらなければ、神殺しに費やしたすべてが泡の如く弾けて消える。
シエンには、もはや力など残ってはいない。立っているだけでやっとだった。すべての力を先ほどの攻撃で使い果たしていた。
《終ワル……我ガ滅ビルトイウノカ》
青河の神が、こちらを見据えながら聲を発した。途切れ途切れに聞こえる聲は、神の滅びの時が近づいていることを示しているのだろう。
《ソレモ、ヨカロウ》
しかし、水龍の聲に諦観しているような気配はない。空気が変わった。なにかが起きる予兆なのかもしれない。
シエンは、妖刀の柄を強く握ったものの、構えることすらできなかった。大刀の重みに両腕が耐えられないくらいに疲弊していたのだ。あの一瞬にすべての力を使い果たす等、自分らしくない。苦笑する。切羽詰っていたわけでもないというのに。
しかし、そうしなければならなかった。全力でなければ、神を相手にすることなどできはしまい。結果、神は滅ぶのだ。いまから何が起ころうと、たいしたことはあるまい。
この身がどうなろうと、もはやどうでもいいことだ。
復讐は成し遂げた。
シエンは、己の心の裡が虚ろになっていることに気づいた。苛烈に渦巻き、魂を焼き焦がした昏い熱情は、いまや影も形もなくなっていた。怒りも憎しみも、ゆっくりと薄れていくのがわかる。
シオンの仇を討ち、復讐を果たしたからなのだろう。
空虚になっていく。
《ダガ、彼奴ノ思惑ハ砕ク》
水龍がその長い首をわずかに震わせた。次の瞬間、激しい空気振動とともに水龍の首がシエンに向かって飛んできた。頭部だけが飛来してきたわけではなく、首を伸ばしてきたのだ。体は崩壊し始めている。だが、首だけは物凄まじい勢いでシエンへと襲いかかってきていた。大きく開かれた顎には鋭利な水の牙が並び、雫が滴った。獲物を前に涎を垂らす獣のように。
シエンは鼻を鳴らした。獲物を前に舌なめずりとは、神のやることではない。無論、水龍にそんなつもりもあるまい。ただ雫がこぼれただけだ。
シエンは、その滴り落ちる雫に映り込む自分の顔を見て笑うしかなかった。呆けている。復讐を成し遂げ、その上精も根も尽き果てているのだ。
(死ぬな……)
冷ややかに認める。冷徹に、冷静に。このまま水龍に噛み付かれれば、なにもできずに殺されるだろう。神は神だ。依代がなくとも、それくらいのことはできよう。
シエンは、避けようともしなかった。迫り来る水龍の頭部を見据えたまま、動かない。動けないというのもあったが、実際は、死ぬのも悪くないと考えてしまっていた。
復讐を果たした。シオンの魂が報われることなどないだろうが、少なくとも、シエンの感情は救われた。魂に空白が訪れたのだとしても、恨みは晴らした。
生きる目的を失った。
(すまねえ……大将。俺は此処までだ――)
だが、水龍の頭部がシエンに到達しようとしたその瞬間、銀色の風が吹いた。まばゆい突風はシエンの視界を白銀に染め、次の瞬間、長く伸びた水龍の首を銀狼の顎が咬みちぎっていた。
クロウ。
(あいつ……)
ちぎられた水龍の頭部が、シエンの眼前に飛んでくる。彼は、銀狼を見た。黄金の瞳が、苛烈な太陽のようにこちらを見据えていた。主の命以外で勝手に死ぬなど許さない、とでも言いたげな――いや、実際そう言っているのであろうまなざし。クロウ自身ではなく、彼の魂が。
(わかったよ)
シエンは、苦笑せざるを得なかった。犬っころに発破をかけられるなど、らしくない。
「どうやら俺も死ねないらしい」
シエンは、目の前に浮かぶ水龍の頭部に言い訳のように告げると、無造作に大刀を振り上げた。体は重い。だが、死ぬわけにはいかないと考えたとき、彼の肉体に力が湧いた。妖刀一閃。水龍の頭部を真っ二つに切り裂く。大した手応えがあるはずもない。断面から飛び散る水の雫は、血よりも余程美しくはあったが。
聲もなく崩壊していく水龍の頭部を認めながら、シエンは、振り上げていた大刀を足元の地面に突き立てた。
今度こそ、青河の神が滅びていく。神威の霧散とともに、水龍の肉体を構築していた膨大な水が瀑布のように降り注ぐ。水龍の体に突き刺さっていた数多の刀剣もまた、地面に降った。
神威が消える。消えてなくなっていく。
それはつまり、水龍山及び青河流域の守護が失われるということだ。水龍山にも広大な青河にも、妖夷が跳梁跋扈するようになるのも時間の問題だろう。
「……わかっていたことだな」
シエンは、嘆息とともにここ数年のことを想った。水龍山に妖夷が出没していたのは、青河の神が己の存在を秘匿するために力を弱めていたからかもしれない。そんな考えに至り、シエンは、嘆息を浮かべた。
「いまさらさ。なあ?」
シエンは、クロウに同意を求めたのだが、彼の周囲に銀狼の姿は既になかった。
トウマの元に向かったのだろう。
彼はいつだって、主に忠実だ。
シエンは、水龍を作り上げていた多量の水がいまやただの水溜まりに成り果てているのを一瞥すると、重い足を引き摺るようにして主の元へと向かった。
復讐は果たされ、自分も生きている。
ならば、残る生を主に捧げるだけだ。
それが始まりの約束なのだから。
「ごめん」
違うな――踏み込みながら、彼は胸中で頭を振る。謝ることではない。いまさら謝ったところでどうなるものでもない。取り返せないのだ。シグレの命も、彼女の想いを踏みにじったことも。なにもかも。
では、なんと口にすれば良かったのだろう。
答えの見つからないまま、トウマは、ミナとの間合いを詰めていた。青河の神子たる少女の瞳は紅く輝き、ただこちらを見詰めている。鋭利な殺意は、彼女の怒りや哀しみの形なのだろう。手に握られた水の刃がそうであるように。
少女はトウマを殺そうとしている。トウマを殺すことで、シグレの無念を晴らすつもりなのか。いや、そうではあるまい。復讐ではあっても、シグレの無念などは関係ないだろう。
彼女には、あのときのシグレの気持ちなどわからないのだから。
トウマにはわかる。いまなら、はっきりと理解できる。
シグレは、ミナを護りたいという一心で行動していた。それは疑いようがない。あらゆる脅威からミナを護りたいという小さな願いが、彼の行動原理のすべてだった。だから、共にあることを拒絶したトウマを殺そうとしたのだ。
トウマを殺せば、彼の魂に焼き付けられた剣の霊印を手に入れることができる。
トウマが、ソウマやレンジロウから奪ってきたように。
それは掟なのだ。
剣印のみに架せられた修羅のさだめ。
勝者はすべてを得、敗者はすべてを失う。
だから、トウマは抗わざるを得なかった。すべてを失うことなどできなかった。せめて、復讐を果たすまでは――。
呼吸が触れ合うほどの至近距離へと至る。少女の息吹きは小さく、トウマの呼吸は、鋭い。持てる力の限りを、この一瞬に注ぐ。
ミナの振り下ろした刃はあざやかな軌跡を描いたものの、トウマの顔面を浅く切り裂いたに過ぎなかった。少女はあまりに戦闘に不慣れで、故にその太刀筋がトウマの命を捉えることはなかったのだろう。
一方、トウマが突き出した刀は、ミナの胸を貫いた。熱を帯びた痛みの中で、肉を突き破る感触を認める。わずかばかりの経験の差か、覚悟の差か。そのどちらでもあって、どちらでもない。そんな気がした。きっと、違う。
「……!」
ミナが、なにかを言ったのかもしれない。言おうとしたのかもしれない。しかし、彼女の口から溢れたのは真っ赤な血であり、少女の小さな命だった。血は、トウマの体に掛かる。それほどの距離。避けきれないし、避けようとも思わない。それでいい。
「俺はまだ、死ぬわけにはいかないんだ」
だれとはなしに告げて、トウマは、少女の華奢な体から刀を引き抜いた。血と脂にまみれた刀身は、いつにも増して修羅の爪牙というに相応しい。そのまま手を離す。虚空に投げ捨てられた刀は、抗うこともなく地に落ちて音を立てた。
顔が熱い。血がどくどくと流れているのがわかる。だが、死なない。致命傷ではないのだ。この程度の傷で死ぬはずもない。
静かに崩れ落ちようとする少女の肢体を抱き止める。
なぜ――。
自分でも理解のできない行動だった。
彼女はもはや絶命し、肉体を包んでいた光も、瞳の紅い輝きも、消え始めているのに。どうして、抱き止めたのか。
理屈ではないのかもしれない。理由などないのかもしれない。考える必要さえ、ないのだろう。
(死ぬわけにはいかない……か)
自分で吐いた言葉を、胸中で反芻する。その言葉は、懺悔などではない。決して、そんなつもりで発したわけではない。生きなくてはならないのだ。なんとしてでも生きて、征かねばならない。
復讐のために。
チハヤを殺したあの男を殺すために。
トウマは、少女の亡骸を地面に横たえながら、彼女のことを想った。
ミナ。滅びゆく紅土の村に現れた青河の神子。シグレとともに、トウマを救ってくれた命の恩人。結局、どういう理由で紅土を訪れたのか、聞き出せないままだったが。
どうして、こんなことになったのだろう。
トウマは己の復讐を果たすためにシグレを殺し、ミナはシグレの復讐を成し遂げるためにトウマの前に現れた。そして彼女はトウマに殺され、いまは地に横たわっている。
憎しみの連鎖は途切れた。彼女の村は彼女の力によって青河に飲み込まれたのだ。彼女の復讐を買って出てくるものなどいまい。すべてが終わった。終わってしまった。
トウマが、終わらせた。
視界が揺らめく。鉄の味がした。顔の傷口から溢れる血が、口に入ってきたのだろう。苦い血の味が、口の中に広がった。
目的のためなら命の恩人さえ殺す自分と、霊樹を殺すためにチハヤを殺したミズキにどれほどの違いがあるというのだろう。
暗澹たる想いを振りきれぬまま、彼は、後ろを振り返った。銀狼の姿をしたままのクロウが、何処か不安そうにこちらを見ていた。苦笑する。彼に心配させてばかりだ。心配させまいと決意したはずなのに。
ふと見やると、遠く、体を引き摺るような足取りでこちらに近づいてくる男の姿が見えた。シエン。面を外した彼の姿は、なぜか懐かしい。
トウマは、天を仰いだ。
日は高く、空はどこまでも蒼い。
晴れ渡る空は、まるで此処が地獄であることを忘れさせるようだった。
水龍山を越えて北へと進む。
辿り着くは、澪なる都。
命の泉を守護とする古の都にて、数多の宿命が交錯する。
そして、四つの魂は共鳴した。
破滅の淵で。
第六章 誰か為に雉は啼く
誰より高く雉は翔る