第五章 猿神楽(十五)
《抗ウカ》
「抗う?」
シエンは、水龍の言葉を反芻すると、眉間に皺を寄せて頭を振った。
「違うな」
少女の手首から流れ落ちていた血は止まり、依代は何事もなかったように舞いを再開する。地の底より立ち上り、天に向かって渦巻く水流は、先よりも苛烈に見えた。
「これは抵抗なんかじゃない。侵攻なんだよっ!」
シエンは、白武が矢を放つと同時に駆け出していた。当然、矢のほうが早い。風を切り、一瞬にして水龍へと到達し、激流に阻まれる。
逆巻く水の多重螺旋は、少女への攻撃を阻まんとする水龍の強大な思念そのものだ。間断なく殺到する数多の矢をものともせず、大地を抉り、天を衝く。
天へと昇る龍のように。
《神ヲ攻メ侵ストイウノカ。ナレバコソノ彼奴ノ手駒ヨ》
「彼奴ってのは何処のどいつだ? 俺は誰かの命で此処にいるわけじゃあない。俺は俺の意思で此処に立っている。霊山綾王獅猿として立っている」
水飛沫と土砂がシエンの前進を阻もうとするが、彼は軽々とそれを飛び越えた。敵は眼前。大刀を振りかぶる。
《……憐レナ。己ガ生マレタ意味サエ知ラヌトハ》
しかし、全力で振り下ろした一太刀は、幾重にも編み上げられた水の盾によって弾かれた。その瞬間にシエンに生じた隙を逃さない水龍ではない。瞬時に構成された水の刃が、シエンの腹を裂いた。
「てめえに同情される道理はねえんだよ!」
下腹部に激痛が生じるものの、無意識に飛び退こうとしたおかげで軽傷で済んだようだった。だが、水の刃はひとつではない。シエンは、次々と襲いかかってくるそれらを太刀ひとつで捌かなければならなかった。
「俺は俺だ! 生まれた意味も理由も要らねえ!」
《愚カナ。何者デアレ、何カヲ為スタメニ生マレル。汝等モ、此ノ娘モ。無意ナル生ナド無イト心得ヨ》
「説教なんざ聞く気はねえ!」
叫び、飛び退く。数多の刃との攻防は、シエンの体に無数の切り傷を作っていた。剣の腕に自身がないわけではないが、数が数だ。一振りの太刀では防ぎきれない。
《無論、汝等ニ言ウタトコロデ意味ハ無イ。汝等ハ死ヌノダカラナ。今、此処デ》
シエンは、水龍から今までにない力の増大を感じて、さらに後方に退いた。白武たちに目線で指示を送る。攻撃を止め、包囲を解き、後退せよ――。
水龍山全体が震撼した。轟音とともに、少女の周辺の地が割けた。八つの巨大な水柱が出現した。当然、ただの水の柱などではない。龍の頭部のような頂点には紅い眼光が灯り、今までのものとは質が違うことを窺わせた。土砂が舞い上がり、飛沫が踊る。
シエンは、自分の心臓が跳ねる音を聞いた。爆発的に膨れ上がる神威が、彼の全身を支配した。あの日の記憶が蘇る。記憶の逆流は、彼の意志では塞き止められない。
前方、本体を含む九体の龍が顕現していた。神聖にして冷厳なる力の君臨を肌で感じる。圧倒されるしかなかった。
傲岸にして荘厳な力の奔流が幾重もの螺旋を描いて、天地を蹂躙する。クロウの比ではない。ただただ地に平伏すより他はないと、本能が訴えてきている。
そして、平伏し、助命を懇願したところで意味がないことも理解していた。
つまるところ、それは絶望なのだろう。
シエンは、かつて為す術もなく、仲間を、最愛のひとを殺されたときのことを思い出し、身震いした。喪失と絶望の記憶。なにもできない無力な己を呪った。もう力は振るわないと決めた。力に意味がなかったから。なにも護れなかったから。
ではなぜ――。
(どうして、あいつらに戦い方を教えたんだ?)
どうして、力の使い方を教えたのか。
どうして、白鹿十二神将を名乗らせたのか。
流れ着いた先の村で出逢った心優しい青少年たち。彼らに力など不要だったはずだ。霊樹の加護の下、不安定な安寧を享受し、生きていくことが彼らにとって幸福な人生だったはずだ。村の娘と結ばれ、子を成し、家庭を築く。村の律を護ることが幸せに繋がるのだという妄言を信じることは、決して不幸などではない。むしろ、村人で要られなかったシエンのような存在こそ不幸なのかもしれない。
ならばなぜ、どうして彼らと徒党を組み、水龍山を見回っていたのか。霊山綾王などという影も形も存在し得ないものに成って見せたのか。
(俺はもう、誰も失いたくないんだ……!)
だから、あの心映えの美しい青少年たちに戦いの手解きをした。厳しい訓練を重ね、ついには人並み以上の戦士にまで育て上げた。
いつなにが起こっても、自分の力で切り抜けられるように。どのような事態にも対処できるように。
だが、その結果、彼らは蛮勇を得た。
「白鹿十二神将が翠弓! いざ参る!」
「同じく蒼矛!」
「同じく朱刃!」
「同じく灰刀!」
シエンの視線の意味を理解したはずの彼らが、次々と神将としての名を告げ、九頭の水龍へと挑みかかるのを彼には止められなかった。弓を捨て、刀や槍を振りかざした彼らには、勇猛と無謀の違いなどどうでもよかったのだ。彼らは死地を求めている。帰る場所を失った彼らにとってしてみれば、暴威を振るう神の存在ほど輝かしい死に場所はなかったのかもしれない。
得物を掲げ、突貫する数名の神将に対し、九頭の水龍はただ吼えた。大気が激しく震え、虚空に大量の水塊が出現する。彼らを迎え討つための行動だろう。水塊は眩い光を発しながら、神将たちへと突っ込んでいった。
「逃げろおおおおおっ!」
シエンは、喉が張り裂けるほどの叫び声を上げた。喉が破れ、血が出ても構わなかった。あらん限りの声は、裏返り、高く響く。しかし、彼の叫びは届かない。
地に触れ炸裂した水塊の上げる爆音は、シエンの渾身の叫び声など容易く掻き消してしまう。水塊の爆砕は、地面を大きく抉り、その余波だけで神将たちを吹き飛ばした。直撃はなかった。少なくとも、シエンの目には映っていなかった。だが、安心など出来るはずがない。
九頭の水龍が振るう猛威は、天変地異そのものに違いなかった。圧倒的な破壊の奔流。無数に螺旋を描き、水龍山の地形を容易く変えていく。連鎖的な爆砕による衝撃波がなにもかもを消し飛ばす。木々を薙ぎ払い、岩や土砂を巻き上げる。猛烈な暴風と水の嵐は、飛び込んだ神将やそれ以外の連中もすべて巻き込み、空中高く放り上げる。シエンとて例外ではない。
神の力とはこれほどのものなのか。
失意と絶望が、シエンの意識を締め付ける。終の音が聞こえる。破滅の足音が。死を告げる鐘の音が聞こえるかのようだった。
そんなときだった。
「おおおおおおおおおおおお!」
咆哮が聞こえた。木々を揺らし、枝葉をざわめかせる、強烈な雄叫び。山を震わせ、天まで突き抜けるかのような大音声。水龍の咆吼とは違う、人間の叫び声。
トウマが叫んでいる。あの傷だらけの少年が、力の限り声を張り上げている。彼が仮初めに大将と定めた剣士の少年が、全身全霊の力を込めて叫んでいる。
彼のあらんかぎりの大声は、シエンの耳朶に飛び込むと、瞬く間に頭の中を掻き乱し、魂をも抉るかのように錯綜した。
(ああ……)
シエンは、いまはっきりと理解した。自分が生まれた意味を悟った。この声を聞くために生まれ落ちたのだと思い知った。
彼とともに生き、そして死ぬためにここにあるのだ。
これまでの幾多の生と死がそうであったように――。
確信は魂に刻まれた印を赤々と燃え立たせる。額が熱い。いや、額だけではない。側頭部も、後頭部も、霊印の刻まれた部分が痛みを訴えてきている。熱せられた鉄を押し付けられているかのような激痛。肉が溶け、骨が焦げるような感覚。だが、不安はない。これまでの生涯で感じたことのない熱量は、歓喜故に違いなかったからだ。
力が湧く。トウマの雄叫びに魂が揺さぶられ、全身に気が充溢していく。恐怖が消えた。絶望も霧散した。
大丈夫。
もう、怖くはない。
水龍の猛攻が止まった。八体の水龍が鎌首をもたげるようにその動きを止め、鋭い口先を声のする方向へと向けた。爛々と輝く真紅の瞳が、叫び声の主へと注がれる。殺意の視線。研ぎ澄まされたまなざしは破壊的な神威そのものであり、普通の人間ならばその視線に曝されるだけで正気を失うだろう。
しかしそれは、水龍の意志ではない。青河の神の意思ではない。依代の少女から立ち上る水龍の視線を見ればすぐにわかった。
依代の少女の紅く輝く双眸から、涙がこぼれ落ちていた。そこに渦巻くのは憎しみ、哀しみ、怒り、戸惑い――複雑な感情のうねりが、水龍の思念をも上回ったのか。
ともかくも、彼女は、標的をトウマに定めたらしかった。シエンたちには目もくれず、トウマがいる方向へと腕を掲げた。指先に込められた殺意は、痛々しいまでに激しく、儚い。
その痛々しさも、儚さも、醜さも、愚かさも、シエンには手に取るようにわかった。自分と同じだ。苦しく、狂おしい。
愛するひとを失えば、誰だってそうなる。喪失の中で、怒りや哀しみ、数多の感情が錯綜し、やがて絶望という暗い闇の淵にたどり着く。そして復讐の炎が灯り、駆り立てるのだ。
だが、多くの場合、己の無力さの前に復讐を諦めざるを得ない。諦めれば、そこで終わりだ。狂おしい情念は胸の内で燻り続けるかもしれないが、そこまでだ。
しかし、彼女はどうだ。
神を降ろした彼女には、絶対的な力がある。復讐を果たすなら、いましかない。その圧倒的な神威ならば、霊印の剣士であっても容易く屠れよう。
シエンが彼女の立場にあったとすれば、神の意思をねじ曲げてでも復讐に走っただろう。どのような手段を使ってでも、復讐を遂げようとするだろう。それがただ一つの願いであり、望みなのだから。
それ以外には何も要らないのだから。
「トウマさん……!」
少女の声が、シエンの耳にも聞こえた気がした。儚く、狂おしい苦しみに満ちた声は、棘のようなものだ。その棘は、鉄の心臓さえ貫くほどの鋭さを持ってはいたが。
猛然と唸りを上げる八体の水龍が、彼女の想いを代弁するかのようだった。咆哮とともに、次々と突貫していく。
トウマに向かって。
「大将!」
シエンは我知らず声を上げながら後方を振り返った。不安はない。心配もない。それでも、見届けなければならない。
主の戦いを見守るのは、いつだって家来の役目だ。
遥か視線の先――トウマは、銀毛の狼の背にいた。神々しささえ帯びた銀狼の威容は、シエンをして呼吸を忘れさせた。美しい毛並みはきらきらと輝き、黄金の瞳は太陽のようだ。隆々たる巨躯は、トウマを乗せるには十分だった。
それは、トウマを背に乗せたまま、強靭でしなやかな肉体で大地を疾駆した。惨憺たる地獄のような地形をものともしない。障害物を飛び越え、迂回し、白銀の風となって少女へと迫る。
クロウは、激流の如く殺到する水龍の八つの首を軽々とかわし、飛び越え、身を屈めてやり過ごす。紙一重で回避したからだろう――水飛沫がトウマの頬を引き裂き、血が流れるのが見えた。
だが、クロウは止まらない。トウマが命じないのだから当然だ。でたらめに崩壊した地形を意図も容易く攻略していく。
突撃を見事にかわされた水龍の群れは、一斉に首を巡らせる。ふたりを追いかける格好になったが、銀狼の速度に追い付けそうもなかった。
少女とトウマ――両者の距離は、瞬く間に縮まった。クロウの巨体がシエンの眼前を横切り、少女の目の前で停止する。
トウマが、クロウの背中から飛び降りた。着地の衝撃に顔をしかめたものの、それも一瞬のことだ。彼の手には一振りの刀が握られている。刀身に文字が刻印された刀。彼の爪であり、牙。
「ミナ」
トウマの言葉に、依代の少女が身を震わせた。トウマたちを追っていた八頭の水龍がぴたりと動かなくなった。ミナの心境に呼応しているのだろう。
シエンは立ち上がり、周囲を一瞥した。絶対的な神威によって蹂躙された世界。彼の部下の姿は見当たらない。彼の視界の外にまで吹き飛ばされたのかもしれないし、あるいは……。
頭を振る。いまは余計な考えに囚われてならない。
「シグレさんを殺したのは俺だ。ほかの誰でもない。憎むなら俺だけを憎んでくれ。お願いだ」
トウマの懇願は一見すると道理であったが、すべてを奪われた側からすれば虫の良い話だと言わざるを得ない。理屈としてはトウマの言は正しい。シエンもそう想う。
だが、奪った側の人間が口にすることではない。心情を逆撫でにするだけだ。無論、トウマだってわかっているのだろう。しかし、言わねばならなかったのだ。
彼女は、他者を巻き込み過ぎた。無関係な人間を殺し過ぎた。村をひとつ滅ぼしたのだ。
どのような理由であれ、認められることではない。
「トウマさん……」
ミナが、力なくつぶやく。掲げていた右腕が、だらりと垂れ下がった。彼女の全身を覆う神降ろしの証たる紋様が、一際強く輝いた。
「わたし、どうしたら良いのかわからないの。シグレを失ったあのときから、なにも考えられないの」
ミナの独白を聞きながら、シエンは視線を走らせる。無惨な破壊跡の中に、彼が“刻印”した得物を見いだす。神将の誰かが手にしていたものだろう。
「なにもわからない」
さらに探していると、トウマたちの背後に迫っていた水龍の首のひとつが、音もなく弾けた。大量の水が滝のように降り注いだかと思うと、トウマたちの頭上を通り越し、ミナの右手の内に収斂していく。
「わかりたくない」
膨大な水が集まり、圧縮され、一振りの剣を形成していく。波形の刀身を持つ剣は、水龍の力を象徴しているのかもしれない。揺らめく波のような刃。
トウマが表情を歪めた理由は、シエンにはわからなかった。
ミナのそれは、水龍の望む行動ではなかったのだろう。神の聲が響いた。
《何ヲシテイル》
しかし、青河の神の聲に動揺は見られない。焦りもない。神にとって、依代の勝手な行動などどうでもいいということなのか。みずからの勝利を微塵も疑っていないからか。
いずれにせよ、剣を手にして涙を流す少女の頭上に君臨する水龍の姿は、何処か滑稽ですらあった。
「トウマさん」
ミナが、不馴れな手付きで剣を構えた。水で構築された剣は美しく透明に輝き、神秘的ですらあった。切れ味は折り紙つきだ。水飛沫ですら皮膚を切り裂くのだ。
トウマの剣で受け止められるものだろうか。剣は、剣士の命だ。修羅の。刀身を折られた時、剣士は死ぬ。
爪牙を失った修羅には、この天地に存在する価値もないのかもしれない。
「あなたを手にかければ、なにかわかるのでしょうか?」
少女が地面を蹴る。強く、激しく。小さな足が地を割った。裂け目から水が噴き出し、彼女の跳躍を加速させた。彼女の体は、いまや水龍の力と同化しているのだ。その膂力も脚力も、人間と同じなどと考えてはならない。
しかし、それは極めて直線的であり、尚且つ殺気が走りすぎていた。剣を手にしたトウマなら十分に対応できる。たとえ深い傷を負っていたとしても、彼は修羅だ。煉獄に繋がれた一匹の悪鬼。心配等無用だろう。
十歩程度あった両者の間合いが、一瞬にして零に等しくなった。
「ごめん」
告げるなり、トウマは半歩踏み込んだ。俄然間合いは近くなる。互いの息が触れ合うくらいの距離で、少女の眼があざやかに輝き、少年の瞳は鈍く煌めいた。
そして、修羅の爪と水龍の牙が交錯した。