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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第五章 猿神楽(十四)

 名乗り上げると同時に飛び出したシエンは、無数の水塊が飛来してくるのを認めた。が、止まらない。それどころか彼の体は加速した。地や木を蹴り、反動で速度を得る。

 視界を埋め尽くす水塊の群れを避けようともせず、猛進する。水龍との距離を詰めなければ、一方的になぶられるだけなのだ。多少の手傷は覚悟の上だった。

 だが、なにもしないわけではない。

 彼は、頭に被せていた面を掴むと、無造作に引きちぎった。もはや隠す意味はない。むしろさらけ出さなければならない。霊印の力を引き出すために。告げる。

「踊れ!」

 シエンの声に呼応するように、彼の露になった額に刻まれていた紋様が強い光を発した。額から後頭部へと至る環状の霊印は、光を帯びたことで、さながら黄金の冠のように見えた。

 魂の奥底から、力が呼び起こされる。奔流となって体内を駆け巡り。意識を塗り替えていく。

 彼は、双眸を見開いた。眼前を埋める水塊が、次々と弾け飛んでいく。飛散した水のつぶてが、シエンの右頬を掠めた。痛みとともに熱が生まれる。出血だろう。

 今もなお水塊を破壊しているのは、水龍の力によってばらばらに砕かれた長棍の破片だった。シエンの霊印の力が、使い道さえなくなったはずのそれらに息を吹き込み、彼の進路上を飛び回って水塊の群れを蹂躙した。

 シエンは、それらの飛翔を無意識に操りながら、殺傷力を秘めた水飛沫の中を突っ切っていく。全身に生じる痛みを黙殺して、一歩でも前へ進む。

 水龍とその依代まであと二十歩――。

《無駄》

 水龍のこえは、身体中を苛む痛みよりも彼の神経を掻き乱した。歯噛みする。脳裏に沸き上がろうとする記憶を封じ込め、ただ目の前の敵に専念する。

《汝等ガ幾ラ足掻コウトモ、我ガ力ノ前デハ無力。無為。無明》

 刹那、目の前の地面が盛り上がった。土砂を撥ね飛ばしながら立ち上ったのは、やはり水の柱だった。頂点が龍の顎へと変化し、シエンへと殺到してくる。彼は苦笑を漏らした。馬鹿の一つ覚えにもほどがある。

「舞え」

 長棍の破片を前方に集中させる。一瞬にして無数の破片が組み合わさり、鉄の壁が構築された。彼は急停止すると、水柱が防壁に激突した瞬間、再度跳躍した。鉄の障壁を飛び越え、水龍へとさらに近づく。依代の少女の顔が歪む。虚ろな瞳に覗くのは、水龍の意思か。

 不意に地が割け、大量の水が壁となって彼の進路を妨害した。だが、シエンは、止まらない。長棍の破片を旋回させ、前方の空中に固定し足場を作る。水壁のさらに上へと伸びるそれは、さながら天へと至る陛のようだった。

 飛び乗り、疾駆する。水壁が震えた。壁面に波紋が広がるとともに水の礫が大量に発射される。水礫は、次々とシエンの足場に突き刺さり、飛沫を上げて粉砕していくが、彼の身体は既に水壁の上空へと到達していた。

 青河の流れを纏う少女の姿が、ひどく儚いものに見えた。彼女はいったいなにを見ているのだろう。ふと、そんなことが気になった。

(そんな場合じゃねえっ)

 背後から迫り来る破壊音に背中を押されるようにして、彼は、足場から水龍の依代に向かって飛び降りた。もはや障害物はなにもない。彼は、命じた。残る長棍の破片をすべて、少女に叩き込む。

 全周囲、様々な方向から飛来した破片が、水に抱かれた少女の華奢な肢体に突き刺さっていく。情けもなければ容赦もない。無慈悲なまでに注がれた数多の破片は、殺意の刃そのもの。肉を裂き、骨を砕く。だが。

「これは……!」

 シエンは、水飛沫を上げながら霧散していく少女の姿を認めて、己の失策を悟った。着地と同時に全方位を警戒する。前方、少女の肢体は霧に消えた。残るのは数多の破片のみ。目標を失った破片が地に突き刺さっていくのを見届ける。

《水面ニ映ル月ヲ捉エテ何トスル? 猿ヨ》

 声は、頭の中に響いた。これでは居場所を察知することなどできるはずがなかった。

 殺気は足下から――。

「っ!」

 咄嗟に飛び退こうとしたシエンだったが、地が割け、水圧が彼の肉体を捉える方がわずかに早かった。衝撃が全身を貫くように走り、打ち上げられる。視界が激しく揺れる。眼前を下から上へと通過した水流が紅く染まっていたのは、シエンの血を吸ったからに違いなかった。

 歯噛みして激痛をやり過ごそうとするものの、苛烈な水の奔流から逃れる術はなかった。本能に身を任せるからだ。舌打ちする。

 とはいえ、己の迂闊さを呪うことはない。逆境は、シエンの頭脳の回転速度を加速させるに一役買った。進んで窮地に陥ろうとは思わないものの、死地に活路を見出すのは彼の得意とするところではあった。目が回るほどに視線を巡らせ、視界に映る事物からあらゆる情報を取り込んでいく。

 前方、少女の幻影がいた場所は大きな水溜まりになっており、まばゆいばかりの青空が映りこんでいた。周囲には長棍の破片が散乱している。水龍の力に触れすぎたせいか、それらは、シエンが念じたところでびくともしなくなっていた。

 自身は足下から噴き出した水圧によって中空に運ばれており、抜け出すには相当苦労しそうだった。強烈な水圧は、体の自由を奪うには十分すぎた。

 トウマとクロウは後方にいるはずだ。かなりの距離。当てにはできない。いや、当てにしてはならないのだ。トウマには既に助けられていて、そのせいで彼は傷を負ってしまった。これ以上頼ることはできない。そしてクロウにはトウマを守ってもらわねばならない。クロウさえ無事ならば、いざというときはここより離脱できるはずだ。

 彼らの手を煩わせるわけにはいかない。

 それに――これが重要なのだが――青河の神を殺すのは、自分でなくてはならない。

(俺がやる。この手で……)

 復讐。

 単純なだけに勁烈な想いが、彼を突き動かしていた。

 最愛の人を護れなかった過去の己と決別するためにも、今度こそ、完全にそれを滅ぼさなければならない。

 水龍。青河の神を名乗るそれは、広大な青河流域のすべてを支配しうる力を持っている。青河と呼ばれる大河の流れを変えることさえ容易なのだという。青河流域にいる以上、生殺与奪を握られていると言っても過言ではない。相手は神なのだ。それくらい当然だと考えていい。

 もっとも、シエンはその力の片鱗を見ただけに過ぎなかった。かつて、応龍によって呼び覚まされた水龍は、その力の全てを発揮することはなかった。

 神子という寄代がなければ、神は力を行使できない。

 神は、ただそれだけでは強大な思念が形を成したものに過ぎないのだ。

 不意に、シエンの体を打ち上げていた水流が止まった。同時に呼吸ができなくなる。吹き出してした水が一瞬にして凝固し、まるで水の柱に取り込まれたかのような状態になった。手も足も微動だにせず、抜け出す方法さえ思い浮かばない。それでも、目は閉ざさなかった。痛みを感じながらも、遥か地上にそれの姿を発見すれば、瞼を下ろしてなどいられない。

《コレデ彼奴ノ企ミモ露ト消エル》

 依代の少女が、上空に固定されたらしいシエンを見上げてきていた。紅く輝く双眸は、神を降ろしていることの証。華奢な体に水の衣を纏い、すべてを圧倒する凶悪なまでの霊気を帯びている。表情は虚ろ。そこに少女の意思など介在してはいないのかもしれない。彼女の体は、操り人形そのものだ。

 少女を操るのは水龍。

 シエンは、ただそれを見ていた。少女の体を取り巻く龍の如き神の姿を。睨み付けるでもなく、見つめていた。怒りはある。哀しみも蠢いている。しかし、激情が意識を支配することはない。怒れば怒るほど、感情が昂れば昂ぶるほど、彼の意識は研ぎ澄まされた。冷ややかに透き通っていった。

 試しに念じてみる。額に刻まれた霊印の力を行使し、周辺に散乱しているはずの刀剣や長棍の破片に呼びかける。が、なんの反応もない。目の前まで移動させようとしたものの、視界に入ってもこないということは、霊印の力が届いていないということだ。水龍の力によって遮られているのだろう。

 舌打ちもできない。

 水龍は、こちらを嘲笑うでもなく、少女の右腕を掲げた。白く細い指先に、大気に含まれる水分が収斂していく。水龍が散々暴れ回った後だ。水分なら有り余っているに違いない。

(あれが来たら、死ぬな)

 急速に収束し、鋭利な槍を構築していくそれを見遣りながら、シエンは冷静に結論づけた。こちらは身動き取れないのだ。水龍は今度こそ外さないだろうし、トウマはもはやシエンを庇えまい。

 距離が遠い。

(遠いな……)

 トウマもクロウも、そして、彼らも。

(馬鹿野郎……)

 シエンは、大声で叫びたかった。沸き上がる感情そのままに怒声を張り上げたかった。水に囚われていなければ、叫んでいたに違いなかった。怒りと、多少の喜びを込めて。

《猿ヨ。還ルガヨイ》

 水龍の聲と、なにかが風を切って飛来する音は、どちらが速かったのか。同時だったのかもしれない。少なくとも、水龍の聲のほうが速かったということはないだろう。水龍は、水の槍をシエンに向かって放つことができなかったのだから。

 遥か遠方から飛来した矢が、少女の掲げた手首に突き刺さったのだ。細い手首から血が溢れ、白い肌が朱に染まった。少女の体が震えた。それは少女の痛覚が機能しているということにほかならない。水龍が寄代の肉体を完全に掌握していないことの証左でもあるのかもしれない、

 そして、水の槍が一瞬にして崩壊した。水を槍の形に保っていた力が失われたのだろう。水が滝のように降り注いだ。水龍が、痛みに身を捩る少女の意識を掌握するために動いたからかもしれない。

 寄代の少女が、動きを止めた。血は流れ落ちるものの、表情や動作から痛痒を感じているようには見えなくなった。

《……度シ難イ》

 水龍が、右手に刺さった矢を引き抜くと、むしろ憐れむような聲を発した。神としての誇りがそうさせるのかもしれない。

 この程度で慌てふためいては神などとは言えまい。

 数多の矢が、大気を切り裂きながら水龍に殺到した。依代の少女が舞うように両手を翳す。何処からともなく現れた水流が、幾重にもうねりながら、矢のことごとくを打ち落としていく。水滴が踊り、飛沫が舞い、鏃を砕き、矢柄を壊す。

 こちらへの注意が逸れた。水柱の拘束力が弱まる。シエンは、腰袋から手頃そうな物を取り出すと、瞬時に元の大きさに戻した。目の前に現れたのは、武骨な大刀。それもただの刀ではない。曰く付きの妖刀だった。

(おあつらええ向けだな)

 シエンは、霊印の力を駆使して大刀を旋回させた。水龍の力によって凝固していた水柱を切り刻み、決壊させる。体が自由を得ると同時に地に吸い寄せられたが、空中に固定した大刀を足場にすることで落下からも逃れる。

 跳躍。

 耳朶に響くは、懐かしき唱和。

「我等、白鹿はくろく十二神将!」

 シエンにとっていまや過去のものとなり、二度と聞くまいと思っていたお約束の口上。山野に響き、いつにも増して強く聞こえる。

霊山綾王れいざんりようおうが神楽に応え、此処に推参!」

 子供の遊びによく付き合う――シエンは、水龍を包囲する獣面の男たちの姿を認識するとともに苦笑するしかなかった。

 名前負けにもほどがある。

《児戯ヨナ……》

 水龍が呆れ果てたようにつぶやいた言葉を、シエンは、極めて冷静に認めていた。十二神将などと名乗ったところで彼らは普通の人間だ。剣印は愚か霊印さえ持たないただの人間に過ぎない。化け物ではないのだ。妖夷よういに対抗できる程度の力では、神になど敵うはずがなかった。

 が、彼らはそんなことなどお構いなしに水龍への攻撃を続けている。次々と射ち込まれる矢は、水の壁に阻まれては地に落ちていくのだが、それでも攻勢を緩めない。矢を番えては放ち、放っては番え――その常人離れした技量は、日夜シエンの元で繰り返した訓練の成果には違いなかったが。

 水龍には届いてもいない。

 それが人間と神の絶対的な力の差であろう。

 常人では、神に触れることさえ敵わない。

 着地と同時に妖刀を右手に握りながら、シエンは、依代の少女が舞う様子を見据えていた。少女の舞踏に合わせて飛沫を上げながらうねる水流は、陽光を反射してあざやかに輝いている。その光景だけを切り取って見れば、神秘的かつ幻想的であった。

 が、その神秘の舞が、間断なく飛来する数多の矢を容易く打ち落としていくのだ。渦巻く水流が矢を絡めとり。打ち払う。水飛沫もまた、矢を弾き、破壊する。

 防御面では無敵といえるのではないか――シエンは、目を細めた。付け入る隙が見当たらない。強引に抉じ開けたとしても、先と同じ方法で逃げられるだろう。これが寄代を得た神の力なのか。

(せめて……)

 妖刀の柄を握る手に力を込めながら、思考を巡らせる。せめて、水龍と依代を分かつことさえできれば、神を殺す方法は無限にある。

「御無事ですか?」

「なんとかな」

 背後からの声に即答すると、彼はそちらを振り返った。角を持つ獣の面を被った痩身の男が、弓を構えている。若い声だ。神に矢を射るという異常事態に興奮を覚えている、そんな響きがあった。

 白鹿十二神将が一人、白武はくぶ

 シエンは、彼のそんな若さが嫌いではなかった。むしろ好ましいとさえ想っている。若さは力だ。まばゆい光を放ちながら前進する大いなる力。それは、シエンがとっくに失っているものなのだ。だからこそ、愛おしい。自分にも彼のように振舞っていた頃があったのだと思い出せるから、疎ましく感じなかった、

 だが、シエンは辛辣に言葉を投げた。

「なんで戻ってきた? 俺は山を降りろといったぞ」

「霊山綾王が神楽を舞うならば、我等白鹿十二神将が馳せ参じねばなりますまい」

 十二神将を気取り続ける彼の言動に、シエンは、軽く肩を竦めて見せた。確かに霊山綾王など名乗り、神に挑戦したのはシエンだったが、当て付けのように振る舞われてはこちらとしても遣る瀬がない。

「つまり、ずっとついてきてたってことだろ?」

「そうともいいます」

 悪びれもしない。

 シエンは、大口を開けて笑いたかったが、笑みは口の端だけに止めた。彼らと別れたのは、彼らに自分の人生を歩んで欲しいからだ。神楽に付き合わせるためではない。

「命を惜しめよ」

「なにを仰られますか。我等に惜しむ命など、もはやありませんよ。惜しむならば名を惜しみましょうぞ」

 白武たちの故郷は、水龍山の麓にある緑月えんげつの村だった。その村は水龍の力によって滅ぼされ、村人も一人残らず殺し尽くされた。生き残ったのはわずか十二人。シエンとともに水龍山を巡回していた連中だけだった。彼らの心中は察するにあまりある。絶望しただろう。この世の全てを恨んだかもしれない。我が身の生存さえも呪ったかもしれない。

 かつてのシエンのように。

「ここで死んだところで、名なんて残らねえよ。ましてや相手は神だぜ。残るのは汚名だけさ」

 それは、例え神殺しを果たしたとしても同じことだ。だれにも祝福されぬ勝利であり、栄光からは程遠いものだ。呪われこそすれ、讃えられることなどありえない。

 この呪われた森でなんの守護もなく生きていけるほど、ひとは、強くない。

 霊樹、青河、霊山、命の泉――そのようなものに頼らなければならないほどにか弱く、儚い生き物たち。

 いっそ滅びてしまえばいい、と想わないこともない。

 脆弱なことを自らの由とし、なんの努力もしないものたちを彼はひどく憎んだ。力無きことを良いことに力有るものに寄りかかり、強者は弱者を庇護しなければならないという勝手な理屈を臆面もなくいってのける連中を嫌というほど見てきた。そういった連中を邪険にできない強者も強者だと思ったが、しかし、村という小さな社会で生きていくには、それら傲慢な弱者の言い分を受け入れなくてはならないのも事実だった。納得できなくても、飲み下すしかない。

 そんな社会に嫌気がさして村を出て行ったところで、何も変わらなかった。ただ猿山の大将を演じていただけだ。愉快なものでもなかった。そこに青春などあるはずもなく、結果、彼はすべてを失った。

「そんなもの、何処で死のうと同じことです。どのような死に様であろうと大した違いはない。讃えられようと、呪われようと、変わりますまい。ならば、あなたの側がいい。白鹿十二神将として戦い、霊山綾王の下で死ぬならば、それこそ本望というもの」

「なら、一緒に死ぬか」

 シエンは、視線を水龍へと戻しながら告げた。白武の言葉は本音なのだろう。嬉しく思う半面、苦しくもあった。すべてを失った男たちが求めるのは死に場所なのだ。それ以外なにも望んでいない。希望はなく、未来もない。昏い絶望だけを抱いている。

 だからこそ、彼らを死なせるわけにはいかない。


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