第五章 猿神楽(十二)
「ミナ……!?」
トウマは、愕然と、青河の神子の名を叫んだ。頭の中で、あの少女の声が余韻となって残っている。それが、トウマの意識を掻き乱していく。冷静でいられるはずがなかった。
あの少女だ。ミナ。青河の神子。トウマにとっては命の恩人のひとりであり、恩を仇で返すなどというだけでは済まされないことをしてしまった相手だった。
彼女が最も信頼する人物を手にかけてしまったのだ。もちろん、トウマには剣を振るうだけの理由はあった。剣を抜かなければ、殺されていたのだ。
戦わなければ。
彼を斬り殺さなければ。
しかし、だからといって、許されるものではない。彼女にとっては許しがたい出来事だったはずだ。故に彼女は絶望し、青河は咆哮した――。
不意に。
「探したのよ。本当に」
ミナがトウマの眼前に現れたのは、冗談のように突然だった。神子装束を身に纏ったひとりの少女。森の天蓋が作り出す暗闇の中で、彼女の華奢な身体は、淡くも清らかな光を放っていた。よく見ると、彼女の全身に光の紋様が浮かび上がっていることがわかる。その紋様の発する輝きが、森の闇を圧倒しているのだ。
まるであのときのようだと、トウマの脳裏を過ぎったのは、やはりチハヤの姿だった。霊樹の力を行使する神子の体には、複雑で精緻な光の紋様が描き出されていた――。
「なんなの?」
クロウが困惑するのも無理はなかった。どこからともなく出現した少女の姿に、トウマさえも、戸惑いを禁じえなかった。神子の力を行使するミナの瞳は、赤々と燃えるように輝いている。
しかし、彼女からは敵意も殺意も感じられないのだ。それが余計に、トウマの頭に混乱を招いていた。なんのために青河の力を使っているのだろう。
「あれが……そうか。そういうことか」
ひとり納得したようなシエンの態度も気になるものの、トウマには彼に問いただすよりも優先すべきことがあった。こちらを見て、嬉しそうに微笑する少女に、言い知れぬ違和感を覚えるのだ。
問う。
「本当に、本当にミナなのか?」
「なにを言ってるの?」
きょとんとしたミナの様子には、なんら不自然なところはなかった。もっとも、続く彼女の言動には、トウマも混乱するしかなかったのだが。
「もしかして、わたしのこと忘れたの? シグレ」
「?」
トウマは、最初、彼女がなにを言っているのか理解できなかった。いや、頭ではわかっていたものの、即座に反応できなかったというべきかも知れない。
ミナのいうシグレとは、無論、青河の剣士であり、彼女の守護剣士だった男のことに違いない。トウマの命を救い、奪おうとした男。その戦いにおいて、彼が隙を見せなければトウマは間違いなく殺されていただろう。シグレの糧となっていたのだ。
だが、トウマが勝った。シグレが、突然現れたミナに注意を逸らしてしまったがために。トウマが、その隙を見逃さなかったために。
シグレは、死んだ。トウマが手にかけて殺した。その力は、トウマが生きていくための、戦い行くための糧となった。
「でも、いいの。シグレが見つかったから。それだけでいいの」
ミナが静かに歩み寄ってくるのを、トウマは、茫然と見つめていた。言うべき言葉も思いつかない。トウマは、混乱していた。突如現れた青河の神子に対し、どうすればいいのかわからなかった。
ミナは、どうしたというのだろう。彼女はシグレの死を理解したはずだ。トウマが、彼を斬り殺す瞬間、その場に彼女もいたのだ。見ていたはずなのだ。だからこそ、彼女は絶望し――。
(シグレさんの死を受け入れられなかったのか?)
トウマは、ミナの足取りを見遣りながら、胸中でつぶやいた。それ以外に考えられなかった。シグレを失ったという衝撃が、彼女にとってあまりにも大き過ぎたのかもしれない。その結果、彼女はシグレを探してさ迷い歩くようになったのだろう。神子の力を使って。
「大将、気をつけろ!」
叫ぶような警告とともに、シエンの長躯がトウマの視界を遮った。赤一色の男の背中が眼前を覆ったのは、一瞬。
「奴がやったんだ!」
どこからともなく長柄の矛を取り出したシエンが、その切っ先をミナへと突きつけるように構えた。彼の全身から迸るのは、ミナへの明確な敵意であり、強烈な殺気に他ならなかった。
トウマは、驚きのあまり彼の名を叫ぶしかなかった。
「シエン!?」
「いきなりどうしたのさ!?」
驚愕したのは、クロウも同じだった。それも当たり前といえば当たり前の話だろう。トウマたちがシエンという人物を知らなさ過ぎたのだ。もちろん、彼のことを知るには圧倒的に時間が足りなかったのも事実である。
なんにしても、愉快で賑やかだった男の凶暴な変化は、いままでそれなりに平穏な静寂に包まれていた森の中に、強烈なまでの緊迫感をもたらしていた。
「どうしたもこうしたもねえよ! こいつが、奴が、あの村を――麓の村の人間を皆殺しにしやがったんだ……!」
シエンの叫び声は、慟哭にも似ていた。深い悲しみと激しい怒りが、その叫びに同居していた。彼にとってあの村は、大事な場所だったに違いない。
トウマの脳裏に過ぎったのは、水龍山の麓の村の異様な光景だった。人っ子ひとりいない、沈黙に支配された村。凶悪なまでの暴力によって破壊された村には、生々しい血の痕がいくつもあった。圧倒的な破壊の力。
それはトウマに、ある力を想起させた。
青河の村を飲み込み、すべてを押し流し、打ち砕いた碧い奔流。
「青河の力――この山に眠る水神の力……応龍が呼び覚まし、俺が倒したはずの力!」
シエンの言葉が、トウマの考えていたことを肯定していた。しかし、それが事実かどうかは、まだ、わからない。ミナが、そこまでのことをするとは――。
(いや……)
トウマは、頭を振って、己の甘い考えを切り捨てた。彼女ならやりかねない。トウマのみならず、青河の村を滅ぼし尽くした彼女なら、なにをしたって不思議ではない。特に、すべてに絶望してしまったのなら、その力を抑える意識すら働かないのではないか?
「なにを驚いているの? シグレ」
ミナの声音は、ひどく不安定だった。なにかがおかしかった。いや、そもそもすべてが狂っているのだ。声音ぐらいおかしくても、取り立てて騒ぐようなこともないだろう。
そのときになってようやく、トウマは、彼女が足を止めていないことに気づいた。シエンの牽制など、まったく意に介していないのだろう。進路を塞がれたとも思っていないのかもしれない。
「シグレ以外、だれも要らないじゃない。わたしに必要なのはシグレだけ。シグレさえ傍にいてくれたら、それだけで――」
彼女の言葉もまた、さっきトウマが導き出した結論を肯定するものだった。しかし。
「それだけで」
唐突に、ミナが歩みを止めた。乱立する木々の狭間、彼女の姿だけが不自然だった。淡く光を放つ少女の姿は、それだけで神々しいとさえいえるのだが。
「それだけでよかったのに!」
ミナの双眸から、光が零れた。
「どうして? どうして……どうして!」
涙を流す少女の足元の地面を貫いて、一条の光が噴き出した。それは瞬く間に膨張して柱のように聳え立つと、その根元から次々と大小無数の光条を立ち上らせていく。圧倒的な速度で増殖する光輝は、森の闇など、端から無かったかのように一掃していった。
「ちっ!」
「シエン!」
トウマは、光の奔流に飲まれかけて飛び退いた男を一瞥すると、すぐさま後退した。地中より大地を掘削するように増大する光は、木々を根こそぎ打ち倒し、幹を貫き、枝を切り落とし、葉を散らせた。
森が、崩壊していく。
それは確かに、暴走したクロウがもたらした破壊によく似ていたが、しかし、規模も威力も比較にならなかった。青河の力なのだ。人間ひとりの身に宿る力と比べるなど、おこがましいにもほどがあるだろう。
恐ろしい力だった。森を事も無げに破壊し、地形を容易く変化させ、空間を瞬く間に塗り替えていくほどの力。
神子の力。
やはり、人間が対峙すべき力ではない。
トウマの脳裏に、霊樹の社の本殿が描き出された。そこで繰り広げられた神子と剣士の死闘が、鮮明に思い起こされる。
チハヤは、霊樹の神子だった。青河に比べれば、小さな力かもしれない。しかし、それにしても人間の持ちうる力では、抗しようのない力であるはずなのだ。実際、彼女の行使した力は、強力無比だったのだ。
(結果は……)
ミズキが、それ以上に強かった――それだけの話だ。
「なんでみんなわたしのことを虐めるの?」
ミナの声に、トウマは、脳裏の映像を掻き消した。だが、ミズキがチハヤを手にかけた瞬間が、網膜に焼き付いて離れようとしない。それはしかし、トウマの意識を研ぎ澄ませていくのに一役買った。戸惑いは消え失せ、目の前の現実への対処に意識のすべてが集中する。
そしてここに至ってようやく、トウマは視界を埋め尽くす光の正体を把握した。
それは、膨大な水だった。水龍山を流れる青河の水が、ミナの想いに呼応したのかもしれない。地中を通り、彼女の足元から現れた大量の水は、いまや無数の水柱となってミナの周囲に乱立していた。
まるで水柱の森のようだった。極めて幻想的な光景に違いない。森の天蓋が失われ、降り注ぐ陽光は、数多の水柱に乱反射しており、この情景をさらに神秘的なものにしていた。
「わたしはただ、シグレと一緒に居たかっただけなのに。それだけでよかったのに」
彼女の切実な願いは、もはや叶わない。永久に果たされない。シグレは死んだ。トウマが殺した。
トウマは、冷静にその事実を認めた。シグレを殺し、彼の力を糧としたことで、いまこうしてここにいられるのだ。クロウやシエンと出逢えたのも、生きていたからこそである。
と。
「だからってよぉ、殺戮が許される道理はねえんだぜ!」
シエンが、吼えるように叫んで、ミナへと飛んだ。