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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第五章 猿神楽(十)

 東の彼方から到来した眩いばかりの陽光が、つい先ほどまで我が物顔で天を支配していた夜の闇を追い散らし、あっという間に空の形勢を逆転させた。闇は跡形もなく消え去り、燦然たる光の時間が始まる。

 夜が明けたのだ。

 空気は冷ややかなままだったが、朝の訪れが、山に急激な変化をもたらしていた。さっきまでの沈黙が嘘のように破られたのだ。ざわめきが、水龍山を覆っていた。

 突如の喧騒は、水龍山に棲む鳥獣が一斉に動き出したからに他ならない。しかし、その原因は、トウマにはまったくわからなかった。朝焼けが東の空を焦がしてからなのだ。動物たちの喚き声が山間に反響し、その大移動によって山が震え出したのは。

「なんなんだ? いったい……」

 トウマは、着替えを済ませたクロウから周囲に視線を移しながらも、戸惑いを隠せなかった。水龍山に足を踏み入れてからずっと、奇妙な静寂がこの山全体を支配していたのだ。それが、たやすく破られてしまった。

 大地を駆け回る小動物や獣たちの足音が、そこかしこから聞こえてくる。

 水龍山の木々を根城をしていた鳥たちが、奇声とともに羽ばたいていく。

 なにかが、起きている。

 いま、この瞬間、水龍山になにかしらの異変が起きている。

 トウマは、クロウの目を見た。少年の黄金の瞳には、困惑が浮かんでいた。

「ぼくにもわからない……けど、なんか、変だ……」

 クロウが身に付けたのは、シエンの持ち物らしい簡素な衣服だった。クロウが好んで着ていた女物の着物と違って動き易そうではある。当初、彼はその衣服に袖を通すのを嫌がっていたが、トウマの説得を拒み続けることはできなかったらしい。

 つぎにトウマは、シエンに目を向けた。長身の男は、きょろきょろと周囲を見回していた。クロウによる破壊の地。焚き火の炎はとっくに消している。

「どうも、悪い予感がしますな。水龍山を抜けるなら、早くしたほうがいい」

 彼の格好は、変わっていない。燃えるような真っ赤な装束。頭髪も真紅であり、全身赤ずくめだった。そして、獣の面も頭に乗せていた。気に入っているのか、それともなにか意味があるのか、トウマにはわからなかったが。

「それはわかっている」

 トウマは、口を真一文字に結んだ。一刻も早く山を抜け、ミズキを追いたいのだ。シエンたちとの戦闘で、思わぬ時間を費やしてしまった。この遅れを取り戻すには、相当の強行軍が必要に違いない。

 いや、もはや追いつけないかもしれない。ミズキはとっくに水龍山を後にし、どことも知れぬ目的地へと辿り着いているのかもしれない。

 トウマは、透かさず頭を振った。悪い考えばかりが脳裏を過ぎる。これでは、前に進めないだろう。自嘲とともに認める。以前からの悪い癖には違いない。思考が落ちていくのを止められないのだ。

 このままでは、ミズキに追いつけたとしても一刀の元に斬り殺されるのが落ちだ。

 再び頭を振って、トウマは、ふたりの視線に気づいた。

「どうしたの?」

「大丈夫ですかい?」

 不安そうにこちらを見上げる少年と、心配そうにこちらを見下ろす男を見比べて、トウマは、小さく苦笑した。本当になにをしているのだろう。なにを迷う必要がある。

 いまはなにも考える必要もないはずだ。

 前進。

 取るべき行動はそれだけだ。

「ほんとに大丈夫かね、大将」

「おまえよりはね!」

「なんでそう喧嘩腰なんだ?」

 心から不思議そうな顔をするシエンに、クロウが全身全霊の敵意を発する。

「嫌いだもん!」

「おうおう、お子様だねぇ」

 シエンの反応は、実に悠然としたものだった。クロウが取るような態度など、わかりきっているのだろう。そして、その程度の悪態では、心が波立つこともないのだ。その余裕然とした対応は、しかし、クロウの神経を逆撫でにするのだが。

「子供で悪いか!」

 犬歯をむき出しに叫ぶ少年の姿に、トウマは、あの巨獣のことを思い出していた。クロウの化身であろうあの力は、あまりにも強大でありすぎた。破壊の権化。そんな力が、クロウに扱えきれるのだろうか。

 未だシエンを敵対視し続ける少年には、到底、無理に思えてならなかった。無論、襲い掛かってきた山賊の頭とすぐさま打ち解けるなど、それこそ不可能に違いないだろう。

 ふと、トウマは、結局のところシエンの同行を許している自分に気づいて、少しばかり驚いた。彼が家来になることを申し出てきたのは、気を失う寸前のことである。目が覚めたときには平然とそこにいて、普通に接していた。

 冷静に考えれば、奇妙なことこの上なかった。

「悪かねえさ」

 とはいえ、クロウの怒気に怯みもせず、それどころか避けようともしないシエンの様子は、もはやそんなことなどどうでもいいことのように感じさせた。

「……ねえトウマ!」

 突如、クロウに大声で呼びかけられて、トウマは、仕方なくそちらを向いた。クロウは、このままでは埒が明かないとでも思ったのかもしれない。尋ねる。

「なんだ?」

「なんでこんな奴を家来にしたの!?」

 クロウの言い分はもっともではあったが。

「こんな奴って……ちょっと凹みます」

 シエンの戯言は、クロウのみならず、トウマも取り合わなかった。彼の言葉に耳を傾けている場合ではなかった。いまはクロウに集中するべきだろう。

「いや、シエンが家来になるって言ってきたから、な」

 言ってからトウマは、その言い方は適切ではなかったかもしれないと思い返したものの、それはどうやら遅すぎたようだった。喉を滑り出た声は形を成して言葉となり、虚空を彩るよりもむしろ他人の耳朶で踊る。

 クロウのまなざしが、険しい。

「トウマはそれでいいの!? こいつのせいで、ひどい目にあったんだよ!?」

 人差し指で指し示されたシエンは、一瞬だけびくっとなった。クロウの剣幕に驚いたのかもしれない。しかし、透かさず口を開くのは、さすがだと言わざるを得ない。

「いやいやいやいや、どっちかって言いますと、あなた様のおかげで、うちら壊滅状態だったんですがね……って、聞いちゃいませんか、そうですか」

 クロウだけならともかく、トウマにまで黙殺されていることが堪えたのかもしれない。シエンが静かに肩を落としたのを、トウマは視界の隅で捉えてはいた。とはいえ、特別な反応を示すこともない。

 辛そうに顔を歪めるクロウの無垢な瞳が、トウマの意識を捉えて離さなかった。酷い目にあったのはトウマよりも、クロウ自身に違いないのだ。無論、トウマもかなりの手傷を負わされた。しかし、クロウが心に負った傷の深さ――あるいは心の奥底より発露した痛みの重さに比べれば、遥かに軽いもののように思えた。

(……)

 そしてトウマは、クロウというまだ年端もいかない少年の心に深々と刻まれたであろうあの夜のことを思い出して、眩暈さえ覚えた。救いようのない黒火の村の真実と、彼の母に関する事柄のすべてが、クロウの心に暗い影を落としていることは想像に難くない。

 ここ数日、彼は、トウマの前では勤めて明るく振舞ってはいたものの、その心中はどうだろう。あれほどのことがあったのだ。たった一日やそこらで割り切れるようなものではないだろう。

 もっとも、と、トウマは、それらの考えを断ち切った。クロウが暴走した原因は、そこではない。トウマが弱かったからに他ならない。シエンの巧みな戦法に圧倒され、地に伏したからだ。血を流したからだ。

 それが、クロウの感情を爆発させてしまった――。

「ねえ、トウマ!」

 クロウの叫び声によって、トウマは、取り留めのない思索の世界から現実へと舞い戻ることができた。クロウが大声を上げなければ、あのまま黙考を続けていたかもしれない。

 トウマは、改めてクロウを見つめた。大きな眼が、こちらを仰いでいる。さながら太陽のような黄金の瞳は、いつだって、トウマの胸を打つのだ。その虹彩に見出すのは、美しくも鮮烈な光であり、トウマがどれだけ欲しても持ち得ない類の輝きだった。

「もう済んだことだよ」

 トウマは、極めて穏やかな声音で言葉を紡いだ。少年の瞳を見つめているだけで、心は落ち着いていく。山全体を襲った喧騒の中で、トウマの意識の内は実に静かになっていた。

「でも!」

 クロウが食い下がってくることも、わかっていた。

 トウマは、少年の頭に、いつものように掌を置いた。

「だれも死ななかった。それでいいじゃないか。そりゃあ驚きはしたけど」

 そう、クロウが大きな怪我もせず済んだのは、大きい。もし、十二神将等によってクロウが重傷を負わされていたならば、トウマのシエンへの態度ももっと違ったものになっていただろう。刀剣による報いも辞さなかったかもしれない。

「でも……ぼくは――」

「第一の家来でございましょう? クロウ殿は」

 節目がちに顔を背けようとしたクロウの言葉を遮ったのは、シエンのせりふだった。どこかおどけたような、それでいて実にさり気ない物言いで、場の空気を変えていく。

「!?」

「わたくしめは第二の家来として、大将の手となり足となり、身を粉にして働く所存! 何卒、このシエンの同行を許して頂きたく……!」

 シエンは、いまにも地に額をつけるほどの勢いで、クロウに向かって頭を下げたのだった。それは、真に迫った演技といえるのかもしれない。それが本心かどうかなど、この際どうでもいいことに違いなかった。トウマが思うに、十中八九、その場の思い付きによる出任せだろう。シエンの想いなど、トウマに理解できるはずもない。

 しかし、いまはそれでいい。

 問題は、シエンの本意ではなく、クロウの意志なのだ。

 もちろん、この旅路において最高の決定権を握るのは、トウマだ。それは間違いないはずである。トウマが、己の復讐心を満たすために始めた旅なのだ。その道中、ありとあらゆる事柄は、トウマ自身が決めていけばいいのだ。

 だが、いまやクロウという同行者がいる以上、すべてを己の一存で決めることはできないと、トウマは考えていた。いや、強引に決定しても構わないだろう。クロウだって、納得できなかったとしても、トウマの意向に従うだろう。旅に同行するのなら、従わざるを得ない。

(でも、それじゃあな)

 トウマ自身が納得できそうになかった。そしてそれは、トウマにとって重要な問題となりうる。

 ならば、クロウに納得してもらうのが一番だろう。

「……」

 ふと、トウマは、クロウが眉根を寄せていることに気づいた。

「どうしたんだ? そんな難しい顔をして」

「第一の家来……か」

 少年の口から漏れた言葉には、わずかな感慨とも興奮とも取れる響きがあった。

 トウマは、クロウの頭頂部から掌を離すと、軽いため息を浮かべた。

「気に入ったのか?」

「ち、違うよ! そんなこと、あるわけないでしょ! 第一、ぼくはトウマの家来じゃないし! 仲間でしょ! な・か・ま!」

 顔を真っ赤にしながら物凄い勢いで否定する少年の姿は酷く滑稽ではあったものの、クロウが持つ華々しいまでの愛嬌が、その様子に対する印象をがらりと変えてしまうのだった。

 これが自分ならこうはいかないのではないか、という確信を抱きながらも、トウマは、口元に笑みを浮かべながらクロウの慌てふためく様を楽しんでいた。

「それならばわたくしめがトウマ様の第一の家来として――」

 ぱっと顔を上げてきたシエンに対し、クロウの反応はまるで脊椎反射のように速い。

「第一の家来はぼくだよ!」

 そして、トウマは、ただひとりでつぶやくのだった。

「どっちだよ」


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