第五章 猿神楽(九)
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深い霧が、立ち込めていた。
トウマの視界は妨げられ、遠く見渡すことは愚か、周囲の状況を把握することもままない。それほどの濃霧だった。
なにも見えない。
「わたしがもっと早く神子になっていれば、よかったのでしょうか?」
哀しみに満ちた少女の問いは、こちらに向けられたようであったが、肝心の少女の姿はどこにも見当たらなかった。気配は感じるのだ。すぐ近くにいるはずだった。
霧は、極至近距離にいるはずの少女の姿すら、トウマの目に映ることを拒んでいるかのようだった。
「そうすれば、村の皆を護ることができたのでしょうか……」
沈みゆくだけの少女の声は、どうしようもなくトウマの胸を締め付けた。どこかで聞いた声音。とても印象に残っているはずなのに、思い出せない。鼓膜に刻まれ、記憶に焼き付いているはずなのに。
はっきりとしないのは、この視界を埋め尽くす濃霧の所為なのかもしれない。
といって、トウマにはなにもできなかった。霧を払うことはもちろん、少女に向かって声を発するなど、できるはずがなかった。
彼女にかける言葉など、あるはずがない。
「そうだな。確かにその通りだ」
その男の声は、ひどく冷ややかだった。嘆き悲しむ少女を慰めることもしない。極めて冷淡で、鋭い刃のような言葉。
「村の連中の言う通り、おまえがもっと早く青河の神子になっていれば、こんな事態にはならなかった」
トウマの耳元に響いたその声音もまた、よく知った人物のものだった。だが、思い出せない。脳裏に過ぎる男の顔は、輪郭がぼやけていた。名前さえも口にできない。
「やっぱり……」
少女の声には、絶望の影が差していた。男の反応に多少の期待を抱いていたのだろう。なにかしら慰めてくれると想っていたのかもしれない。その望みは、容易く打ち砕かれた。
「そりゃあそうだろう。いまのおまえの力があれば、妖夷の蹂躙なんて許さなかったはずだ。それだけで、どれほどの人間が死ななかったと想う? 村の被害は最小限に抑えられただろうな。もしかしたら、死者も神子ひとりで済んだかもしれない」
男の辛辣な言い様に、セツナは、怒りさえ覚えたものの、その感情を吐き出す方法も思いつかないことを知って途方に暮れた。
不意に、トウマは、ふたりのことを思い出している自分に気づいた。しかし、その名を思い描くことなどできなかった。自分自身が拒絶しているからなのかもしれない。その名は、みずからを傷つけるだけに過ぎない。
(夢……か?)
だとすれば、どうして、今頃になってこんな夢を見ているのだろう。
青河の神子とその守護剣士の夢。
トウマが絶望させた少女と、トウマが殺害した男。
(あるいは……)
守護剣士たる彼の剣印が、見せつけているのだろうか。
かつて在りし日のふたりを。
「ああ、やっぱりわたしは――」
少女の悲嘆は、つぎの瞬間、男の言葉によって断ち切られた。
「ま、そんなのはありえないんだけどな」
まさに一閃。
聞くもあざやかな太刀筋は、少女の気配にすら変化をもたらした。
「え?」
絶望から、希望へ。
それはほんのわずかな光明に過ぎない。しかし、どれほど微かで希薄なものであれ、そのときの彼女にとっては、心を覆う闇を払う鮮烈な閃光になったのかもしれない。
「はっ……おまえは、本当に駄目だなあ。順序を考えろよ。順番をさ」
彼が笑ったのは、トウマにもなんとなくわかった。深い霧の向こう側の光景など脳裏に描き出すことも困難だったが、なぜか、彼の笑みだけは想像できた。彼にとって少女の反応は、予想通りだったのだろう。そんな苦笑だった。
「順序……順番?」
「すべての物事には原因があるってのは、まあ、俺の持論じゃねえけど、ともかく。おまえが青河の神子になれたのは、なんでだ?」
「それは……」
少女が口篭ったのは、その事件を言葉にすることが恐ろしかったからかもしれない。あの鬼のような男の凶行は、霊樹を神と崇め奉る村に生まれ育ったものにとって、天地がひっくり返るほどの事件だった。村の禁忌を破るどころの問題ではない。
「青河の村の霊樹と神子が殺されたからだ。違うか?」
それは、村そのものを滅ぼすのと同義だった。
村人たちに安寧と平穏を約束した霊樹と、その霊樹と村人たちの仲立ちとして存在する神子。両者の死は、村から恒久的な平和を一瞬にして奪い去り、阿鼻叫喚の地獄絵図を現実のものとするのだ。
跳梁跋扈する化け物の群れが、逃げ惑う人々を容赦なく殺戮し、血と死を撒き散らす。天地には地獄の業火の如き炎が舞い踊り、絶望と恐怖と失意の洪水が、森の中の小さな楽園を飲み込んでいく。
そうなれば、村は、滅びを待つしかない。
「その通り……です」
「そうさ。ミズキが神子を殺害し、霊樹を滅ぼさなければ、おまえは青河の神子になり得なかった。どうあがいても、その順序は覆せねえ。そして、霊樹の死後、おまえが青河に神子として選ばれるまで、村が妖夷に蹂躙されるのを防ぐ手立てはなかった」
「でも、霊樹の死後、すぐにわたしが――」
少女の反論は、男の言葉が許さなかった。
「そんなこと、どうやったらできるんだ? 青河の意志なんていう途方もないものを、どうやって動かす? どうすれば、妖夷が殺到する前に神子になれたんだ? 無理だよ」
早口にまくし立てる男の声音には、さまざまな感情が入り混じっているようだった。怒り、哀しみ、嘆き、痛み……そこに彼女に対する悪意や、そういった感情は認められない。すべて、己へと向けた激情に違いない。
「……」
少女の沈黙は、周囲の霧を一層深く濃いものにしていったように思えた。それはトウマの勘違いかもしれないが、なんにせよ、ここは現実ではない。それだけは確かなのだ。現実でなければ、なにが起きても不思議ではない。
「それにな、全部終わっちまったことなんだよ。おまえと無関係のところで始まって、いつの間にか終わっていた出来事なんだ。抗う術なんてあるはずもない。おまえが罪の意識を抱く必要はまったくねえのさ。おまえは、霊樹を失ったこの村の新たな支えなんだ。胸を張って前を見ていればいい」
力強く告げた彼の声色に、もはや微塵の揺らぎも認められなかった。まっすぐに前を向いた言葉に込められた想いは、間違いなく、少女の心に届くだろう。
トウマもまた、深い痛みを感じていた。それは、男の秘めたる決意を感じ取ったからに他ならない。
その決意を踏み躙ったのはほかでもない、トウマ自身なのだ。
「シグレさん……」
感極まった少女の言葉が、トウマの意識をさらに激しく震わせた。叫びだしたい衝動に駆られるが、この夢の中では、それすらもかなわない。抗うことは許されない。ただ、最後まで聞き届けるしかないのだ。
「俺がついてるんだ、ミナ。恐れることなんて、なにもねえだろ?」
トウマは、声にならない絶叫を上げた。
そう、なかったのだ。きっと。
彼らには、恐れるものなどなかったはずなのだ。
青河の神子とその守護剣士。
彼らは青河の意志の赴くままに村を護り、また、青河の流域を廻ったのだろう。その道行きが妖夷蠢く森の中であろうと、恐怖も脅威も感じなかったのだ。彼女の神子としての力と、彼の剣士としての力、そしてふたりの結束が、あらゆる災禍を跳ね除けてきたのだ。
彼らが、紅土の村に訪れるまでは。
(そうだ……!)
トウマは、激しくも狂おしい痛みの中で、血反吐を吐くように確信した。
ふたりが、トウマさえ見捨てておけば、こんなことにはならなかったのだ。トウマと彼の意見が違うこともなければ、剣と剣を交える必要もなかった。彼が命を落とす結果になることもなかった。
「いまさら、逃げんなよ」
突然、風が吹いた。男の言葉は、強烈な突風となって、霧を吹き飛ばしていった。トウマの視界を埋め尽くしていた濃霧は、驚くほどのあっけなさで消え去ってしまった。
そして、気がつくと、眼前にはかつて見た光景が広がっていた。突き抜けるような青空の下、霊樹の亡骸を抱くように横たわる湖。湖面は陽光を浴びて眩い光を放ち、爽やかな風が音もなく吹き抜けていく。
青河の村の北部、トウマが彼と交戦した現場だった。
「俺がおまえを殺そうとした事実も、おまえが俺を返り討ちに殺した事実も、消えやしないんだ」
彼の声は、前方からだった。しかし、いくら探しても、男の姿は見つけられない。
「消す必要もない」
トウマは、散々目を凝らして探し回って、ようやく、それを発見した。一振りの剣。湖底に突き立てられた剣の刀身は、激しく波打っており、その持ち主の気性を表しているかのようだった。
彼は陽気であり、情け深く、そして苛烈だった。
「順序を考えろって。おまえが罪を負う必要があるのか? おまえはただ、降りかかる火の粉を払っただけさ」
心に強く訴えかけてくる言葉は、剣から聞こえてくるようだった。彼の肉体はとっくに失われ、残ったのは、剣だけだとでも言いたいのだろうか。しかし、剣士の死は剣の消滅も意味するはずなのだ。剣の霊印の転移にともなって。
もっとも、そんなことはトウマの中ですぐにどうでもよくなったが。
「だから、前を――」
彼の言葉が最後まで聞こえなかったのは、突如として、雷鳴のような轟音が降り注いできたからにほかならない。
《そこにいたのね……!》
慟哭とも絶叫ともつかないそれが、夢の湖を、彼の剣を、そしてトウマの意識を、青河の激流で飲み込んでいったのは、皮肉に思えてならなかった。
「――!?」
トウマが、目を開いてまず最初に見たのは、白み始めた夜空であり、それはじきに夜が明けることを示しているのと同時に、彼の睡眠時間がとてつもなく長かったことを告げていた。気を失う直前、日はまだまだ高かったはずなのだ。
つぎに、猛烈な焦燥感を認める。しかし、その焦りがどこから来るものなのかはまったくわからなかった。
(夢を見たんだ……)
それは間違いないような気がするのだが、どんな夢だったのかはまるで思い出せなかった。
なにかに襲われる夢でも見たのだろうか。それとも、なにかを失う夢かもしれない。焦りを覚える夢など、よほどの悪夢に違いなかった。
トウマは、全身の疲労が程好く取れていることを認めて、ゆっくりと上体を起こした。久しぶりの休息だったのかもしれない。決して安眠と呼べるような眠りではないにせよ、この睡眠によって回復した体力は、水龍山を抜け、北を目指すのに必要なものだろう。
夜明け前の山中は、冷ややかな空気と、無言の圧力にも似た沈黙に包まれていた。だれもが押し黙ることを強要されているような圧迫感がある。その原因はわからないが、いまのトウマにはむしろ好都合だった。
寝起きは静かにしていたいものだ。
「……」
トウマは、クロウの姿を探して視線をさまよわせた。暴走したクロウによる破壊の爪痕は、淡い闇の中でも痛々しいことに変わりはなかった。圧倒的な力によって蹂躙されたのだ。それはもはや、人間の所業ではないような気がしたが、しかし、どのような力を用いようと、クロウは人間に他ならない。それだけは、トウマの中で揺るぎようがなかった。
だれが起こしたのか、すぐ傍に焚き火があった。
それは、シグレ曰く寝相の悪いトウマにとって、天敵に等しい存在だった。とはいえ、身に付けた衣服が燃えていないところを見ると、寝ている間に焚き火に飛び込むような真似はしなかったらしい。トウマは安堵とともに、視線を煌々と燃える焚き火から、その向こう側に移した。
すぐさま、クロウとシエンを発見する。
「なにやってんだ? ふたりとも」
トウマは、半眼になった。そして、ふたりの珍妙な顔を見比べる。
「ひょうひゃ!」
「ひゃいひょう!」
ふたりの口から漏れたそれは、もはや言葉とは言いがたいものだった。クロウとシエンのふたりは、なぜか、互いの頬を強く引っ張り合っていたのだ。ありえないくらいに引き伸ばされた両者の頬は、トウマから緊張という緊張を奪い去り、さっきまでの焦燥感などどこかへと吹き飛んでしまっていた。
それは良いことなのか、悪いことなのか、トウマには見当もつかなかったが。
「なに言ってんのか全然わからん」
嘆息とともに、トウマは、軽く頭を抱えたのだった。