第五章 猿神楽(八)
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夜の帳が下りて、どれほどの時が経ったのだろう。
時間を計測する手段を持たないシエンには、わかるはずもなかった。そして、別段、知る必要もない。ふと脳裏を過ぎった疑問に過ぎない。
すべての疑問に解を求めるほど、彼の好奇心は旺盛ではなかった。むしろ、なにものにも疑問を抱かず、関心を持たず、あまつさえ触れることさえもなくおれるのならば、どれほど気楽に生きていけるのだろう。
しかし、残念ながら、ひとは、頭で考えて行動する以上、さまざまなことに関心を持たざるを得ず、しかるに、疑問も湧き出さざるを得ない。ましてや、なにものにも触れずに生きていくことなど、だれにも不可能に違いない。
呼吸だけで生きていけるというのなら、あるいは。
(そりゃあ人間じゃないなあ)
シエンは、軽く頭を振った。そして頭上を仰いだ彼の視界に映りこんだのは、満天の星空だった。漆黒の布に無数の宝石をぶちまけたかのような夜空は、まるで、彼の現状を祝福しているかのようですらある。
(嬉しいねえ……)
彼は、密やかに嘆息すると、眼前に視線を戻した。夜の闇を淡く焦がすわずかばかりの火が、視界を下方から染めていく。
焚き火だ。
ぱちぱちと音を立てながら燃えているのは、彼が集めに集めた木の葉の数々であり、手当たりしだいに拾った木の枝だった。労せず火を起こせたのは、火吹き石のおかげに他ならなかったが。
彼ひとりなら、焚き火など必要はなかった。この程度の寒さには慣れていたし、夜目も利くほうなのだ。夜には、月光と星明りさえあればどうとでもなる。いや、微かな光さえも必要としないのかもしれない。
体を休めておくだけならば、夜の闇に同化しているほうがむしろ気楽なのではないかと、シエンは考えていた。安寧に満ちた霊樹の元では、警戒など端から必要ない。そして、妖夷の蠢く森の中でも、彼にとっては同じことだった。
意識を森の空気に同調させるだけで、彼の存在は、妖夷に認識されなくなった。異形の化け物どもが獲物を求めて徘徊する横を擦り抜けるのは、それなりに面白いものである。無論、少しでも気を抜けば、その瞬間に森との同調は途絶え、妖夷たちと戦わざるを得なくなるのだが。
(弱いから、さ)
別に構わないのだ。妖夷の群れなど恐れるに値しない、というのが彼の半生に於ける結論であり、その答えが覆されることはそうそうないように思われた。確信めいた想いがある。心に刻まれた真の恐怖の前では、妖夷など、物の数ではなかった。
嘆息する。
(俺も、弱いなあ)
己の無力さを痛感しながら、シエンは、視線を焚き火の向こうへやった。闇の中、赤々と燃える焚き火の炎は、彼の視界を焼き尽くす紅蓮の炎とはなり得ない。そのあざやかな炎の向こう側に、人影がある。それもふたつも、だ。
ふたりの少年。
ひとりは、十代半ばから後半の少年。刀を顕現したところから見るに、剣の霊印を宿しているのだろう。剣の腕は、シエンから見て、まずまずといったところだろう。しかし、彼くらいの腕前の剣士なら、都にごろごろといるのだ。特筆すべきものではない。
もうひとりは、十代前半の、寝顔にまだあどけなさを残す少年。こちらは、人外の化け物に化身する霊印を宿していた。白銀の巨獣。その絶大な力は、十二神将を一蹴し、山の一角を破壊するほどのものであり、シエンから戦意を喪失させる類のものだった。
(そうだ)
シエンは、安らかに寝息すら立てている少年の幼い寝顔を見据えたまま、強く歯噛みした。口惜しい、ということではない。無力で惰弱な己を認識するたびに、失意と絶望だけが顔を覗かせるのだ。
暗澹たる想いの中で、シエンは、みずからの手を見下ろした。掌を広げるが、そんなことでなにかが変わるということはない。
「また、護れなかった……」
自身への失望を口にすることほど慣れたことはないという事実に、シエンは、さらなる落胆を覚えるのだ。負の螺旋は留まることを知らず、ただただ、シエンの心を折り、懊悩させていく。
脳裏に描き出されるのは、先の戦闘である。
少年剣士トウマとの戦いは、至極あっさりしたものだといえた。シエンがその本領を発揮するまでもなく、勝負あったからだ。シエンの〝剣の舞〟が決まり、トウマは身動きひとつ取れない状況に陥ったのだ。
それで、すべては終わりだと思われた。剣士はシエンが封じた。もうひとりの少年は、白鹿十二神将が捕らえてくれるだろう。
しかし、シエンの思惑は、あっけなく崩れ去った。
もうひとりの少年――クロウが、暴走したことによって。
その暴威は、シエンのある記憶を喚起させた。呼び起こされた恐怖は、シエンの心を締め付け、手足の自由すら奪っていった。呼吸すらままならないほどの状態は、シエンの心をより一層を強く縛りつけ、硬直させるのだ。
もはや、どうすることもできない。
シエンには、声を上げることしかできなかった。それでは、成り行きを見守っているのと大差ないだろう。その事実をどれだけ強く認識しても、心と体は思い通りにならない。
記憶に刻まれた恐怖は、シエンが思った以上に根深く、そして執拗だった。
失意と絶望の中で、彼は、みずからの眷属と名乗らせていたものたちが、圧倒的な暴力によって蹴散らされるのを見ているだけだった。それだけしか、許されない。手も足も言うことを聞かなければ、自身の心さえ、掌握できていなかった。
巨獣の暴圧は、十二人の若者のみならず、水龍山の地形さえ激変させるほどであり、それはやはり、シエンの忌まわしき記憶の中で強烈な光を放つかの存在の力に似ていた。その力の類似性が、シエンに戦う気力を失わせたのかもしれない。
ともかく、シエンは、若者たちの無事を願った。無様にも泣き叫び、縋れるものにならなんにだって縋ろうとした。
もう、すべてを失うのは嫌だ。
だが。
「なにもできやしなかった……」
理不尽なまでの猛威を振るう巨獣の前で、立ち尽くすことしかできなかった。
打ちのめされては立ち上がり、何度となく巨獣に立ち向かっていった彼らとは比べるまでもない。
ただ、己への失望だけが、シエンの心を満たした。俯き、焚き火の炎を見つめる。真っ赤に燃える炎は、決して力強くはないものの、夜の闇の中では十分すぎるほどの輝きだった。しかし、そんな光が、シエンの心を照らし出してくれるはずもない。
嘆息とともに頭上を仰げば、数え切れないほどの星々と、たったひとつの月が、冷ややかな光を降り注がせてきていた。
風もまた、冷たい。身を切るほど、とは言わないが、それでも薄着の彼には少しばかり堪えた。上着さえ着ていたならば、そんなこともなかったのだろうが。彼が羽織っていた上着はいま、クロウの上に被せてあるのだ。トウマの上着だけでは寒いだろう。
水龍山の森の中。クロウが、その獰猛な本能のままに破壊し尽くした一角に、彼らはいた。気を失うように眠りに落ちた少年ふたりと、シエン。
白鹿十二神将と名乗らせた彼らは、既にいない。水龍山のどこかで休んでいるか、とっくに山を降りているのかもしれない。
別離の時は来る。それは最初からわかっていたことだ。承知していたことだ。
(それがたまたま、今日だったってだけの話さ)
彼らだってわかってくれるはずだ。いますぐには理解できなくても、いつかは必ず。
「これでよかったんだ……よなあ」
だれとはなしにつぶやいて、シエンは、頭を振った。別れ際に彼らが見せた表情が、脳裏に浮かんでは消えた。端から納得していた別れだったとしても、そう簡単に割り切れるものでもないらしい。
十二人の若者たち。
水龍山麓の村で出逢った彼らとシエンの付き合いは、既に三年の歳月を経ていた。別離を告げるとき、シエンの脳裏にさまざまな場面が過ぎったのは、当然だった。
『どうしてなんですか!?』
決別を告げた直後、若者のひとりがシエンに食って掛かってきたのは、当たり前の成り行きに過ぎない。それくらいの反応は予想していたし、だからといって、結論を覆すつもりもなかった。既に決めたことだった。
あまりにも身勝手な結論だということは重々承知していたが。
『どうして、どうしてそんなことになるんです!?』
『俺たちを見捨てる気ですか……?』
『シエンさんがいなくなったら、ぼくたち、どうしたら……』
口々に言い募る若者たちに対して、シエンは、痛みを堪えていた。涙を流すことはできない。これは必然の別れなのだ。決まっていたことなのだ。戯れに十二神将などと名乗らせ、みずからも霊山綾王と名乗った三年前のあの日から。
たとえ、いま別れずとも、いつかは必ず決別の時は来る。
早いか遅いかの違いしかない。
『いつまでも甘えてんじゃねえ!』
シエンが柄にもなく怒号を張り上げたのは、自身のわずかな迷いや少しばかりの逡巡を断ち切るためでもあった。
『てめえら! この三年、俺様になにを教わってきたんだ? え? てめえらの目は節穴か? 耳の穴は塞いでたのかよ? なにも感じてこなかったのか!』
叫びながら、シエンは、心に鈍い痛みを覚えていた。救いを求めるようにこちらを見つめる彼らの視線が、シエンの魂に突き刺さるかのようだった。そして、口をついて出た言葉の数々は、すべて己自身を切りつける刃だった。
鋭く、深く、心を切り裂いていく。
『てめえらを鍛え上げたのは、だれだ? この霊山綾王シエン様だ! 違うか?』
三年。
長いようで短く、短いようで長いその歳月は、彼らをただの若者から、妖夷の群れとも対等以上に戦える戦士へと変えた。そう変えたのは他ならないシエンであり、それもまた、一種の戯れだった。もっとも、シエンは、その戯れさえも全力で興じていた。
だからこそ、麓の村で役立たずのように扱われていた彼らが、たったの三年で、一端の戦士と言えるまでに成長できたのだろう。無論、まだまだ戦の玄人などと言い張れるようなものではない。練度も経験もまだまだである。
シエンは、十二神将を見回した。面を外した十二人の若者たちの顔は、どれもこれも悄気返っており、覇気は愚か、生気すらも感じられなかった。それほどの衝撃だったのだろう。彼らの縋りつくようなまなざしに、シエンは、嘆息したくなった。
彼らのシエンへの依存がどれほどのものだったのか、いまさらながら把握したのだ。だが、いまさらなのだ。振り切らなければならない。
『だからよぉ、そんな情けない顔すんなって。おまえらの実力は俺が保障するって言ってんだぜ。泣く子も黙る霊山綾王様がな』
シエンは、わざとらしく笑った。決別のときを、それこそ暗くする必要はないのだ。明るく笑い飛ばしてしまえばいい。そうすれば、きっと少しは楽になれるはずだ。自分も、相手も。
別離の辛さは、シエンも痛いほど知っている。
『――わかりました』
ひとりの若者が、静かに言ってきたのは、だれもが口を噤んだまま反応すら示さないこの状況を変えるためだろう。こちらの意志の強さを理解した、というのもあるかもしれない。ともかく、彼の一言で、場の空気に変化が訪れたのは紛れもない事実だった。
その喜白という名の青年は、十二神将の中でも一番の年嵩であり、シエンよりも年上だった。それだけに精神的に成熟しているのか、常に落ち着いているように見受けられた。彼の冷静沈着振りは、シエンも一目置くところであり、加えて視野の広さと面倒見の良さは、集団の長に相応しいだろう。
『ですがその前に、ひとつだけ聞かせてください』
そのときの喜白の瞳は、シエンさえもぞくっとするほどに冷ややかであり、こちらの心のわずかな動揺すらも見逃さまいとしているかのようだった。
『なんだ?』
シエンもまた、喜白の瞳から眼を逸らさない。凍てつくようなまなざしに対し、目を細めることさえしない。ただ、じっと受け止める。喜白の思いの丈を受け入れることが、別離の儀式となる――そんな気がした。
『あの少年に、なにを見たのですか?』
彼の言葉は、さながら抜き身の刃のようであった。下手な嘘をついたり、はぐらかしたり、ごまかしたりした瞬間、ばっさりと切り捨てられるだろう。もちろん、最初から言い訳めいた言葉を返すつもりもなかったが。
『俺にはないものを見たんだよ。ただ、それだけさ』
(俺にはないもの……か)
胸中で己の言葉を反芻し、シエンは、寝息さえ立てていない少年剣士の寝顔を見遣った。焚き火の炎に照らされた横顔には、あの瞬間、シエンが彼に見たものの片鱗すら見当たらなかった。ありふれた少年の寝顔に過ぎない。
(俺には無理だぜ)
暴威を振るう化け物染みた巨獣に近づき、説得を試みるなど、とても真似のできることではない。それはシエンの実感ではあるが、多くの人間にとっても困難な行動に違いない。
暴走するクロウに向かうトウマの後姿は、シエンの網膜に焼き付いて離れなかった。
「トウマぁ……どこぉ……?」
不意に、クロウの甘えたような声が聞こえて、シエンは、視線をそちらに向けた。トウマとシエン、ふたりの上着をかけられた半裸の少年は、トウマのすぐ隣で身じろぎしていた。
「起きたか」
シエンはつぶやきながらも、特に警戒はしなかった。彼が、地形を変えるほどの破壊を撒き散らした化け物と同一人物だとは、とても信じられなかった。人間が持つには、あまりにも強大な力に思えるのだ。
そこまでの力を人間に与える霊印とは、いったいなんなのだろう。シエンの思索は、尽きることを知らない。
「ん……」
クロウが、上体を起こし、寝惚け眼で周囲を見回した。夜の暗闇と焚き火の照明の狭間。状況を把握するのには時間がかかるだろう。シエンは、黙って少年の様子を見ていた。小動物のように忙しなく視線を廻らせる少年の姿は、面白い。
そして、こちらに気づく。
「あ!?」
クロウの顔が驚愕に染まった瞬間、シエンは噴き出しかけた。
「なんだよ? ひと様をそんな顔で見るもんじゃないぜ?」
「おまえは!」
「……まあ、そうなるわな」
シエンは、当然の成り行きに肩を竦めることもできなかった。クロウが敵愾心を剥き出しにするのは道理であり、いまにも飛び掛らんがばかりに立ち上がったのも理解できた。とはいえ、全裸である。緊張感も台無しだった。
彼に被せていたふたりの上着は、クロウが立ち上がったときに滑り落ちていた。
「おまえのせいでトウマが!」
「まあまあ、落ち着きたまえよ」
「落ち着いてなんていられるもんか!」
怒気を隠さずに叫んできたクロウに、シエンは、今度こそ嘆息した。しかし、それもまた、クロウにとっては当たり前の反応に過ぎない。だれであれ、大切なひとを傷つけた相手を前にして、冷静でいられるものではない。特にそれが年端もいかない子供ならなおさらだ。
「いやいや、落ち着けよ。御大将を起こしたくはないだろ?」
きわめてぶっきらぼうに告げて、シエンは、クロウの意識をトウマへと促した。
「……あ」
すぐ隣に眠る少年の姿を認めた瞬間、クロウの全身から放たれていた殺気が消え失せた。一気におとなしくなった少年が、その場に座り込んだのを見て、シエンは、軽く微笑した。
「そう、それでいい。利口な子だ」
「ぐぬぬぬ……」
クロウが、怒りを堪えるようにうなってくる。こちらへの敵意だけはなくすことはできないのだろう。シエンも、そんな簡単に打ち解けられるなどと考えてはいない。そもそも、仲良くするつもりもない。
シエンが認めたのは、トウマである。
クロウの力は恐ろしいが、それだけだ。乗り越えるべき脅威と同質の力とはいえ、シエンが興味を抱くような類のものでもなかった。告げる。
「そういきり立たんでくれよ。なんせ、これからは俺も大将の家来なんだからな」
「!?」
クロウの反応は予想通りこの上なかった。面白い表情だった。
シエンは、立ち上がると、足音を極力立てないようにして、クロウに歩み寄った。トウマを物音などで起こしてしまうのは気が引けた。
「仲良くやろうぜ?」
シエンは、クロウの手前まで行くと、にこやかに笑って右手を差し出した。
「できるか!」
クロウが犬歯を剥き出しにしてきたのもまた、シエンが思い描いた通りの展開ではあったが。