第一章 剣の目覚め(三)
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扉を開け放ち、境内に飛び出そうとしながらも踏みとどまらざるを得なかったのは、ふたりの眼前に、ひとりの男が立っていたからだった。
白髪の男だった。緋色の眼が妖しく輝いている。黒衣に包まれた長身痩躯に、禍々しい漆黒の長剣を携えていた。一見して、剣士とわかる。ただの人間が、抜き身の剣を持ち歩いたりはしないはずだ。
「ん……?」
凍てついた深紅のまなざしが、ふたりを射貫く。
(緋い……眼!?)
トウマの脳裏にいくつもの映像が閃いた。燃え落ちる霊樹、妖夷の群れ、緋の眼――
トウマは、チハヤの手を取って本殿の奥に飛び退いた。着地とともに、態勢の崩れかけた少女の体を支えながら、対峙する男から目を離さない。
「その娘が神子として……君は誰だ? 見たところ、社の関係者ではあるまい。この村では神子が余人と戯れるのを由とするのか?」
腑に落ちないという表情で、男。しかし、鋭い眼光やその立ち姿に、微塵の隙も見出せない。
(どうする……?)
トウマは、男を睨み付けながら、逃げる算段を立てていた。そう、逃げなければならない。確信だった。トウマ自身の幻視はともかくとして、神子であるチハヤがソウマの危険を訴えてきたのだ。そのソウマが居るはずの境内からの異変を認めた直後だ。
本殿への訪問者が、ソウマになんらかの危害を加えた後なのだと考えるのは、当然の論理だった。
広い空間。入り口は開いているが、残る三方は閉ざされている。左右は壁。申し訳程度の窓もない。背後には霊樹の元へ通じる扉があるが、いつもは固く封印されているという。
(封印はわたしが解くわ)
チハヤが、トウマにだけ聞こえるように囁いてきた。こちらの考えなどお見通しなのかもしれない。それは霊樹の神子としての力なのか、それとも、以心伝心という奴なのか、あるいは偶然か。
(大丈夫、任せて)
そこから逃げるのはいいとして、問題は、眼前の男だ。こちらが簡単には動けないことを知っているのか、わずかな間合いを詰めようともしない。いや、その程度の距離など、埋める必要もないのだろう。トウマにして五歩程度の距離だ。間合いとも呼べない。
「聞いていないのか、聞こえないのか。どちらにせよ、賊に答える馬鹿もいない、か」
男は自嘲気味につぶやくと、一歩前に踏み出そうとしたようだった。しかし、それは叶わなかった。自身が背後を振り返り様に剣を横薙ぎに振るったからだが。
長剣の刀身が緑色に輝きながら美しい軌跡を描いた。轟音とともに、一面の壁が扉もろとも吹き飛ぶ。
『!?』
とても剣の一振りとは思えない出来事に、トウマは驚愕するしかなかった。剣士の力が人知を超えたものだというのは聞き知ってはいた。が、それを目の当たりにすると、唖然とするしかなかった。
そして、トウマは見た。本殿が揺れ、木片が散乱し、粉塵が舞う中を、血まみれの老人が突っ込んでくる様を。身の丈ほどもある大刀を片手で振り翳すその老人は、紛れもなくトウマの祖父そのひとだった。
「じっちゃん!」
トウマは叫んだが、ソウマの耳には届かなかったようだった。それこそ悪鬼のような形相の老人は、白髪の男に斬りかかっていた。大刀が、本殿の天井を破壊するのもお構いなしに、だ。
「まだ動けたか」
ソウマの斬撃を長剣で受け止めた男が、つぶやくように言った言葉を、トウマは聞き逃さなかった。見ると、男の口の端には、微かな笑みが刻まれていた。喜びなのか、嘲りなのかはわからなかったが。
「させん……させんぞ!」
口から血が流れるのを無視して、ソウマが、叫んでいた。息も絶え絶えの様子であり、だれが見ても、いまにも死にそうな姿だった。なぜそこまで戦えるのか、だれにもわからないのかもしれない。本人にすら。
ソウマの大剣と男の長剣がぶつかるたびに、激しい衝突音と閃光が散って、剣風が吹き荒れた。
トウマは、剣士同士の凄まじいまでの戦いを、ただ見守ることしかできなかった。人間離れした斬撃の応酬は、見るものの心を震え上がらせる。それは恐怖か、それとも歓喜か。トウマ自身理解しがたい感情の中で、一進一退の攻防を繰り広げるふたりの剣士を見つめていた。
チハヤが、トウマの手を強く握ってきた。彼女もまた、暴風の如きふたりの剣撃に息を飲んでいる様子だった。当然だろう。神子なのだ。剣士の戦いからもっとも遠い存在に違いないのだ。
逃げるならこの隙しかない。しかし、ソウマを放っては置けない。かといって、トウマではソウマの手助けはできない。足手まといになるだけだ。いや、殺されるといったほうが正しいだろう。
そのときだった。
「――!」
トウマは、ソウマと目があったのだ。禍々しいほどの憤怒に燃え盛る瞳が、トウマに「行け」と言っていた。力強いまなざしだった。それは、死を覚悟したものの眼ではなかった。
安堵が、トウマの胸の内に広がっていく。
(わかった!)
トウマは、強くうなずいた。そうとなれば、ソウマの期待に答えなければならない。なんとしても、この場を抜け出すのだ。相手の目的など皆目見当がつかないが、そんなことはどうだっていいのだ。
ソウマに重傷を負わせたものがいて、それが本殿に乗り込んできたのだ。危害を加えてくるのは目に見えている。ならば、逃げるしかない。
「チハヤ、扉を!」
「ええ!」
こちらの言葉にうなずいたチハヤが、奥の扉へと近づこうとした。が。
「それは駄目だ」
それは、男の凍てついた声が聞こえたのと同時だったのか、どうか。
瞬時に振り向いたトウマは、鼓膜に突き刺さるような爆音とともに、ソウマの体が吹き飛ばされたのを見た。紅蓮の炎に包まれた体が、本殿の壁を突き破って境内に投げ出されていった。
男が、こちらを一瞥した。
床を蹴った。
一瞬――。
「!」
「剣を持たぬものが、身をわきまえないから、こうなる」
トウマは、男の囁きを耳元で聞いた気がした。腹部を貫く熱い激痛が、全身を駆け抜けていく。想像を絶する痛みに絶叫したくなったものの、大声を出したところでどうなるものでもない。痛みが薄れることもなければ、現実が覆ることなどありえない。
「トウマ!?」
チハヤの悲鳴が響く。
トウマは、扉の封印を解こうとしたチハヤの背後――つまり、男の進路に仁王立ちして、迎え撃ったのだ。無論、武器などあるわけがない。そして、徒手空拳で立ち向かえるような相手ではないことも理解していた。
それでも、動き出した肉体を止める必要はなかった。
男には、トウマなど眼中にはなかったのだろう。腹に突きの一撃を加えると、それ以上の攻撃はしてこなかった。すぐに剣を腹から抜こうとしたのだ。しかし。
「離せ」
男が、微かな驚きとともに、言葉を吐き出してくる。
「嫌……だね!」
トウマは、意識を掻き乱すほどの痛みの中で、男の端正な顔を見上げた。彼の両手は、自分の脇腹を貫く剣をその鍔元から押さえ込んでいる。男が抜こうとしても、微動だにしないほど、強く。
それは、トウマ自身が生まれて以来発揮したこともないほどの力だった。まさに全身全霊だった。
「なぜだ? なぜそこまで邪魔をする?」
男の眼に、冷ややかな狂気が揺れている。そこには、怒りが在った。行動を邪魔されたことへの、なのだろう。瞳の奥で、業火のように燃え盛っていた。
トウマは、しかし、なんの恐怖も感じなかった。肉体が激痛と格闘している、そのおかげかもしれない。
「この剣でチハヤを殺すつもりなんだろ! だったら、離せるわけねえだろ!」
「なら、いいさ」
男が、不意に微笑してきた。その笑みは、整った顔と相俟って、とてつもなく美しい。
「えっ――?」
トウマは、自分の両手の中にあった硬質の感触が消滅したことに愕然とした。同時に、左脇腹を貫通する傷口から、どっと血が吹き出した。
「剣は印より生じ、印へと還る――単純な話だ」
あまりにも優しく囁く男に驚いて、トウマがそちらを見ると、男の掲げた左手に緋い光が収束していくのが見えた。長剣が具現する。
「そして、君は死ぬ」
男が、無造作に剣を振り下ろしてきた。
「造作もなく」
紅蓮の剣閃が、トウマの視界を両断する――。
「大丈夫。あなたは死なないわ」
彼女の声が聞こえるのと、トウマの眼前で男の剣がなにかに弾かれたのは、どちらが早かったのか。
「なるほど」
男が、なぜか笑った。心の底からおかしそうに。だが、声音は低い。
「?」
トウマが状況を理解するのに時間を要したとしても、仕方がなかったのかもしれない。男がトウマを殺すべく振り下ろした長剣は、床を突き破って現れた樹の根によって防がれたようだった。トウマの眼前で、男の剣と、頑丈そうな木の根がぶつかっていた。
「わたしは神子。霊樹の神子」
冷ややかな声だった。
「!?」
チハヤの声音の変化に驚いて、トウマは、痛みすらも忘れた。背後を見遣る。
淡い光の紋様に包まれた少女が、畏ろしいほどの神々しさを放っていた。その華奢な体の背後で、封印されていた扉が解き放たれているのが見える。そして、開放された扉の向こう側からは、霊樹の放つ異様な冷気が流れ込んできていた。
チハヤの双眸に緋い光が灯った。異形の輝き。人外の光。
「踊れ下郎!」
チハヤが、激しい言葉とともに、細い右腕をこちらに伸ばした。男に向けたものだろう。男の肉体は、いつの間にかトウマの頭上にあった。
神子の背後――扉の向こうから、無数の蔦が、悲鳴のようなものを発しながら、中空の男に殺到した。男は、翻って天井を蹴ると、軌道を変えて蔦の群れをやり過ごす。蔦が、男の軌道の変化についていけなかったのか、次々と天井に衝突していった。天井が、見事なまでに破壊されていく。
連続的な破壊音が響く中、チハヤが左手を振り上げた。すると、今度は床をぶち破って、図太い樹の根が現れた。それは、神子へと飛来する男の進路に立ち塞がった。
「無駄!」
男の剣が深紅の炎を吹き出しながら、仁王立ちに構える樹の根を斬り裂き、一瞬にして焼き尽くした。男が、消し炭となった樹の根を突き破って、神子へと突き進む。
「足掻くか!」
叫んだのはチハヤだった。左右の手を次々と、優雅に振るう。まるで舞を舞うかのようだ、とトウマは思った。そしてそれはあながち間違いではなかったのかもしれない。
剣士と神子が繰り広げるのは、死の舞踏。
部屋の両側の壁が、連続的に破壊され、粉塵の中から飛び出した数多の蔦が、神子の指が描く軌跡をなぞるように男に向かう。
(俺は……)
別次元の戦いを見せつけられて、トウマは、ただ己の無力さを思い知っていた。付け入る隙などない。そもそも、脇腹を刺されて重傷の身だ。意識を保っているのがやっとだった。
七色に輝く男の斬撃が、苛烈なまでの執拗さで殺到する蔦や根を、瞬く間に切り払い、焼き尽くし、凍結させ、吹き飛ばし、粉々に打ち砕く。ぼろぼろの床に着地した男の顔に、狂気の笑みが刻まれる。
「そうだ! それでこそ我が怨敵! 龍の眷属!」
「戯言を!」
チハヤが、広げていた両腕を胸の前で交差させる。まるで、だれかを抱き締めるように。
「だが、駄目だ」
天井、床、壁――本殿全域を破壊し尽くすほどの根や蔦の大群が、一気呵成に男へ攻めかかった。物凄まじい破壊の奔流が、トウマだけを避けて、男を包み込んでいく。
「あまりに脆い」
男の周囲に無数の剣閃が走った。虚空に刻まれた緋色の剣閃は、全周囲から強襲してきた樹の根や蔦を一網打尽に斬り裂き、燃え上がらせた。炎を纏う根と蔦がのたうち回って、崩壊寸前の本殿を炎上させていく。
轟然と炎が踊り狂う中で、気温は一気に上昇し、本殿の崩壊は加速する。チハヤは動きを止め、男の前方にはなんの障害もない。
そしてトウマは、成り行きを見ていることしかできない。
それは、絶望に似ていた。
「終りだ」
男が床を蹴った。剣が白く眩い輝きを放つ。
距離はわずか。
なにを思ったが、チハヤは目を閉じ、胸元で両手を絡ませた。祈りを捧げるように。
(トウマ)
トウマの頭の中に、チハヤの声が鮮明に響いた。彼の胸の内に、言い知れぬ感情の奔流が渦巻く。悲しみ、怒り、憎しみ、殺意。
(ようやくわかったの。今朝見た夢のことよ)
いくつものチハヤとの思い出が、トウマの脳裏を過っていく。
(遠ざかっていったのはトウマじゃなかったんだって、気づいたの)
儚い声音が、トウマの感情を激しく揺さぶる。しかし、なにもできない。
時を止めることなど、出来ない。
(わたしが、トウマから遠ざかっていたのよ)
トウマは、はっと彼女の顔を見た。美しい少女の顔は、いつも以上にか弱く見えた。その儚さが、彼女の姿をよりいっそう美しく飾り立てるのは、皮肉なのだろうか。
(つまり、あなたは生きる。死ぬのはわたし――)
長剣の、白光を放つ刀身が、容赦なくチハヤの胸を貫いたとき、トウマの頭の中に届いていた声も途切れた。少女の華奢な体が、支える力を失って、崩れ落ちる。光の紋様は既に失せていた。
「ああああああああああ!」
トウマは、絶叫した。