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桃魔剣風録  作者: 雷星
28/42

第五章 猿神楽(六)

 るをををををををををををを!


 巨獣の咆哮は、憤怒そのものであり、燃え盛る炎の如き怒りを音にすれば、そのような雄叫びとなるに違いないと思わせるものだった。ただ苛烈で、狂暴な絶叫。

 魂の叫びそのものなのかもしれない。

 とはいえ、彼がなぜ、そこまで怒り狂っているのかなど、本人ならざるトウマにわかるはずもなかった。

「クロウ……!」

 トウマは、改めて、それを見た。

 森の闇を強引に引き裂くようにして、それは、いた。

 白銀の巨獣。

 電流でも帯びたかのように輝く銀色の体毛に覆われた巨躯は、優にトウマの身長の五、六倍はあるのではなかろうか。

 わずかに狼の名残りを見出せる頭部だけで、トウマの身の丈に匹敵するのかもしれない。

 大きく突き出た顎には、岩ぐらいたやすく打ち砕くであろう強固な牙が、美しく並んでいるのが見えた。

 大きく見開かれた双眸に浮かぶ金色の瞳には、狂暴な怒りの炎が渦巻き、さながら、すべてを焼き尽くす烈日のようですらあった。

 隆々たる四肢のうち、後ろ足は、力強く大地を踏みしめていた。前足は、彼が薙ぎ倒したのであろう巨木の亡骸を踏み付けていた。

 その周囲に、白鹿十二神将と名乗ったものたちが、腰でも抜かしたかのように尻餅をついていた。

 さもありなん、とでも言うべきか。

 不意に、長く太い銀色の尾が、薙いだ。轟音とともに、彼の背後の樹木が幹の半ばほどで叩き折られ、隣の木に寄りかかるように倒れていった。

「なんてこった……」

 シエンが愕然とするのも仕方がないだろう。尾の一撃で、あれなのだ。当の巨獣は表情ひとつ変えていない。尾を軽く振っただけなのだろう。木を倒すつもりも、当てるつもりもなかったのかもしれない。力など、込めていないに違いなかった。

「ばっ、化け物めっ!」

 悲鳴のような叫び声をあげたのは、だれだったのか。少なくとも、トウマでも、傍らにいるシエンでもなかった。

 森に隠れたなにものか。

 十二神将のひとり。

 直後、どこからともなく現れた数十の矢が、瞬く間にクロウへと殺到した。トウマが、驚く暇すらもない。そして、驚く必要すらなかったのだと、即座に思い知らされる。

 巨獣が、吼えた。軽く、だ。それは、猛る怒りを、少しでも無駄にしないように、かも知れない。怒りをぶつける相手が違うのだ。きっと。

 刹那、巨獣の銀毛から紫電が迸り、迫り来る数多の矢のことごとくに絡みついた。眩いばかりの電光に囚われた矢は、クロウの体に到達することも叶わず、つぎつぎと粉砕されていった。打ち砕かれた矢が、無数の砕片となって散乱する。

「クロウ……!」

 トウマは、少年の名を叫ぶことしかできない自分に気づき、歯噛みした。動けないのだ。手を伸ばすことも、歩み寄ることもできない。

 燃えながら降り注ぐ数多の破片の中で、白銀の巨獣の威圧感はいや増すばかりであり、トウマですら怖れを抱くほどだった。巨獣の全身から放出される怒気は、先の紫電の如く鮮烈な奔流となって、森の中を駆け巡っている。

 その殺気に当てられたのかもしれない――

「うおおおおおお!」

 最初に雄叫びを上げたのは、白鹿十二神将のひとりだった。長柄の槍の切っ先を突きつけるように、クロウの頭上へと飛び降りてきたのだ。いつの間にか、木の上に移動していたに違いない。普通ならば、必殺の奇襲になり得たかもしれない。普通の相手ならば。

 この際、大声は関係ないだろう。彼が咆哮したのは、その肉体を木の枝から投じてからだった。落下速度からして、並大抵のものでは避けることなどできない。

 しかし。

「やめろ……!」

 悲痛な叫びを上げたのは、だれあろう霊山綾王シエンそのひとだった。

 トウマは、彼の叫び声の痛々しさに驚いたものの、その表情を覗き見ることはしなかった。視線は、クロウとその周囲に釘付けだったのだ。

 クロウの巨躯が翻り、飛び掛る男へと向き直った。跳ぶ。銀毛に覆われた巨体が、一瞬、消えたように見えた。それは錯覚に過ぎない。だが、トウマの目では捉えきれなかったのは、事実だろう。剣士の動体視力でも捕捉できないほどの速度は、彼の手首、足首に刻まれた霊印が、その身体能力を何倍にも引き上げているからに違いない。

「!?」

 クロウの巨躯は、刹那のうちに、落下中の男の背後――つまりは神将の頭上へと到達していた。どこをどう跳んだのかなど、トウマにはまったくわからなかったが、事実として、巨獣は神将の頭上に在った。巨体である。彼の肉体は、木々の枝葉の天蓋を軽々と突き破り、あざやかな蒼穹を垣間見せた。


 るをををををををををををを!


 正気のかけらすら見出せない咆哮とともに、クロウが、巨躯を回転させた。空中でできるような動作ではなかったが、いまの彼には、もはや関係ないのかもしれない。尾の一薙ぎが、紫電を帯びながら、反応さえままならない神将の体を吹き飛ばす。塵芥のように振り払われた神将の体は、なす術もなく木の幹に激突した。地面に落ちていく。

「よくも!」

 つぎは、別の神将たちだった。それぞれ異なる得物を持った三人。そのうちひとりが、地に落ちた神将の元へ向かい、残りふたりが、中空で陽光を反射して輝く白銀の巨獣に飛び掛った。ひとりは鎌を掲げ、ひとりは戟を構えていた。巨獣が、双眸を見開く。

「やめろ!」

 シエンの叫びは、慟哭に似ていたが、だからなんだというのだろう。元はといえば、彼らが闘争の鐘を鳴らしたのだ。

 勇敢というよりは無謀にもクロウへと立ち向かったふたりの神将は、やはりというべきか、巨獣の一撃によって弾き飛ばされた。ひとりは鼻先で軽くあしらわれ、戟を振りかぶった神将は、前足で蹴散らされたのだ。

 トウマは、神将たちを一蹴したクロウが優雅に降り立つ様に、武者震いに近い感覚を抱いた。それは力への憧憬なのかもしれず、強者への畏敬なのかもしれない。剣士の本能であり、闘争への欲求なのだろう。

「やめてくれ……!」

 シエンの悲鳴は、当然、トウマの心には響かなかった。彼らが手出しさえしてこなければ、こんな事態にはならなかったのだ。その結論に寸分の間違いもないはずだ。とはいえ、釈然としないものも残る。

(なんだ……?)

 トウマは、クロウを見つめながら、ただただ考えていた。違和感があった。それは、思い過ごしといっても差し支えないほどに微々たる物では在ったが。

 なにかがおかしい。不自然なのだ。

「お願いだ! もう、やめてくれ!」

 シエンの叫びも空しく、十二神将たちが、まるで狂気に駆り立てられたかのようにクロウへと飛び掛っては、笑い話にもならないほどあっけなく一蹴されていく。実に軽々と、蹴散らされていく。得物を振り翳し、気合の篭もった掛け声とともに殺到しては、意図もたやすく吹き飛ばされていく。あるものは木に衝突し、あるものは空に打ち上げられ、あるものは地に沈んだ。しかし。

(?)

 トウマは、クロウの強力無比な尾によって打ちのめされた神将が、息も絶え絶えという様子ではあるものの、静かに立ち上がろうとしているのを認めた。巨木を薙ぎ倒すほどの威力を秘めた尾の一撃である。人間などひとたまりもないはずだ。それなのに、件の神将は、槍を携え、いまにもクロウに向かって飛び掛ろうとしていた。

 生きている。そのこと自体が、おかしいのだ。

 怒り狂った巨獣が、手加減などできるものなのだろうか。

(本能……)

 クロウの本能が、神将への致命傷を避けているとしたら、どうだろう。

 トウマは、クロウの巨体が、まるで神将の接近を嫌うように飛び退いたのを見た。つぎの瞬間には、尾の一薙ぎが、迫り来る五人の神将を纏めて吹き飛ばしていたが。確かに、引いたのだ。

 そして、五人の神将は、またもや軽傷で済んだらしく、すぐさま態勢を整えていた。残る神将たちも次々と復活し、巨獣を包囲する陣形を構築していく。得物は、やはりさまざまだ。弓使いが三人、槍持ちが三人、直刀と曲刀を構えたものがふたりずつ、鎌、戟がそれぞれひとりずつだった、合計十二人。白鹿十二神将揃い踏み、といったところではあったが、なにぶん満身創痍の有様。とても壮観とは言い難い光景だった。

 そもそも、トウマが、彼らに特別な感慨を抱くことなどないのだが。

「もういい! もう、やめるんだ!」

(トウマ!)

「!」

 シエンの泣き声にも似た怒号とともに、トウマの脳裏に、聞き知った少年の慟哭が過ぎった。それは一瞬。錯覚と断定しかねないほどに小さく、か弱い、叫び。

 きっとそれは、クロウの魂の声に違いなかった。

 トウマは、クロウを見た。金色の双眸が、狂気に満ちた怒りに燃え盛っていた。そこにわずかばかりの正気も見出すことはできず、口から漏れる狂暴な息吹は、彼が闘争の化身そのものであるかのように錯覚させるほどだった。

 だが、なにかが違う。

 漠然とした確信を胸に抱きながら、トウマは、クロウに向かって歩き出した。もっとよく近づかなくては、見えるはずのものも見えない気がした。

 直後。

「行くぞ!」

 シエンの制止など届かなかったのだろう――神将のひとりが、矢を放った。十二神将の雄叫びが、山中に響き渡った。一斉に、クロウへ向かって飛んだ。無数の得物が、虚空に閃いた。

(トウマ!)

 クロウの絶叫がトウマの脳裏に響くたびに、十二神将がひとり、またひとりと倒れていく。

(トウマ!)

 木陰からの接近を試みた曲刀使いが、巨獣へと殺到する数多の矢もろともに、尾の一閃で吹き飛ばされた。

(トウマ!)

 直刀を携えたふたりは、見事に同調した動作でクロウの足元まで忍び寄り、その切っ先を突きつけようとしたが、銀毛から迸った電光を浴びて沈黙した。

(トウマ!)

 槍使いと曲刀持ちが、クロウの真正面から飛び掛ったが、これも、前足の一撃に沈んだ。

(トウマ!)

 鎌使いと戟の使い手が、その瞬間にクロウの背後から襲い掛かった。が、やはり、尾の一薙ぎに打ちのめされた。

(トウマ……!)

 先に放たれてた数多の矢が、ことごとく、クロウの全身から放出される紫電に焼かれ、燃え尽きた。

 それでも弓使いたちは、クロウへの攻撃を止めなかった。間断なく放たれる矢は、やはりというべきか、巨獣に到達することも敵わず四散するだけだった。やがて、射るべき矢が尽きたのか、神将たちは弓を捨てた。

(トウマ……)

 それぞれ得物を短刀に持ち替えた神将たちは、ほぼ同時にクロウへと飛んだ。勇猛というよりは無謀そのものだった。クロウの双眸がきらめき、巨獣の全身から紫電が迸った。それは一時の嵐の如く吹き荒れ、連鎖的な轟音とともに、周囲一帯に壊滅的打撃を与えた。

 なにもかもが、破壊されたのだ。

「嘘だろ……?」

 それはシエンの言葉だったか。

 確かに、驚愕するしかないだろう。実際、トウマは、驚きのあまり言葉を失っていた。水龍山を覆う森の一部は見事なまでに崩壊し、頭上からは目に痛いばかりにあざやかな青さが降り注いできていた。太陽もまた、眩しい。雲の群れは、天上を渡る風に押し流されていた。

 前方に視線を移せば、クロウがもたらした破壊の嵐による被害が、すぐにでも把握できた。数多の木々は薙ぎ倒されるか紫電に焼かれ、草花は地面もろとも吹き飛ばされ、十二神将は地に倒れ伏し、もはや起き上がることもかなわない様子だった。当然だろう。

 彼らが生きているということのほうが異常と言えた。それはつまり、クロウに、彼らを殺すことなどできないということに他ならない。

 トウマは、辛うじて紫電の嵐に巻き込まれなかった事実に安堵しながらも、それはやはり偶然ではないと確信した。必然なのだ。あの少年にそんなことができるはずがなかった。

「クロウ……」

 つぶやきながら、生々しい破壊の爪痕の上を、行く。

(トウマ――)

 白銀の巨獣は、足元に倒れた神将を睨み据えていた。双眸には、行き場のない怒りが渦を巻いて燃え上がり、狂気の炎となって、敵対者を凝視していた。そこには、寸分の迷いもないように見える。怒り狂えば、我を忘れれば、迷いなど無くなるのは当然の帰結だ。

 それは、トウマだって同じだろう。憤怒の業火が魂を焼き尽くしたとき、みずからを見失いながらも、目的だけは果たそうとするはずだ。トウマならば、あの男を殺そうとするだろう。そこに迷いが生じることはない。

 だが。

(トウマトウマトウマトウマトウマトウマトウマ!)

 トウマには、右の前足を振り上げた銀毛の巨獣が、心の底から怯え、ただ闇雲に泣きじゃくる子供のように思えてならなかった。そして、それは即座に確信になった。なにも考える必要など無かったのだ。

 クロウは、子供なのだ。

(トウマぁ……!)

 クロウが、前足を振り下ろした。鉄さえもたやすく切り裂きそうなほどに、強靭で鋭利な爪を。

「もう、いいんだ」

 トウマが静かに告げたとき、その肉体は、でたらめに破壊された地面を蹴り、無残な木々の亡骸を飛び越え、有体に言えば一瞬にして巨獣の眼前に辿り着いていた。物凄まじい衝撃と激突音が、トウマの全身を襲った。

「もういいんだよ、クロウ」

 トウマは、幼子に言い聞かせるように、告げた。頭上に掲げた刀の腹で、巨獣の巨大な爪を受け止めたまま、だ。重い一撃だった。相手は、トウマの身の丈数倍を越す巨体なのだ。その筋力や体重たるや、目測では計れない。受け止めるだけで精一杯だった。押し返せるはずもない。

 トウマと、クロウの視線が交錯する。

(!)

 憤怒に支配された巨獣の獰猛な息吹は、しかし、トウマの耳朶には、子供の嗚咽としか響かなくなっていた。胸の奥に、痛みが広がっていく。

 トウマは、視界が滲んでいくという体たらくに唖然としながらも、それを止める手立ても無く、ただ、クロウの瞳を見つめていた。黄金の烈日の如き双眸は、怒りに震えているようでいて、その実、恐怖に震えているのではないのか。

「おまえが、俺のために傷つく必要なんて、これっぽっちもないんだよ」

 不意に、トウマの体にかかる重圧が、緩んだ。

「でも、ぼくはトウマを護らなきゃ――」

 前足を引っ込めた巨獣の口からこぼれてきたのは、あの少年の声音。いつものような活発さは無く、泣きながら紡がれたような声色だった。

「約束したもの。ぼくがトウマを護るって」

 少年の声には、強い決意が秘められていた。が、その決意が、彼自身を苦しめているのなら、すぐにでも解放してやるべきではないのか。トウマは、わずかに目を細めたが、即座に微笑を浮かべた。

「ああ、そうだな」

 刀に帰還を命じる。刀は、無数の光の粒子へと分解し、右手の甲に刻まれた剣印の中に吸い込まれるようにして消え去った。

「うん、もう大丈夫」

「ほんとうに?」

 トウマは、小首を傾げたクロウの巨躯に透かさず歩み寄ると、その馬鹿でかい四肢を仰いだ。そして、呆然とする。しなやかな筋肉と白銀の体毛に覆われた肢体は、見るものにある種の興奮を与え、恍惚とさせる力でもあるのかもしれない。

 トウマは、頭を振った。鈍りかけた思考を取り戻すと、ただ優しく、クロウの大きな前足を撫でた。応える。

「ああ。本当さ」

「トウマぁ!」

 クロウの叫び声とともに、巨獣の全身が眩い光に包まれた――。


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