第五章 猿神楽(五)
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いくつもの矢が、クロウ目掛けて飛来したのは、彼が木の枝から飛び降りている最中だった。矢の数は、二本や三本などではなかった。敵の数からは考えられないほどの量の矢が、クロウに殺到してきたのだ。
(避けられない……!)
クロウは、引きつるような恐怖の中で、舌打ちした。自分の浅はかさに、である。彼が枝の上から飛び降りたのは、眼下にこちらの姿を探している様子の弓使いを発見したからだ。
それはあまりにもうかつだった。狙撃手の無力化を急いだことが仇になったのかもしれない。目の前に目標を認識したクロウは、前後も考えず飛び出してしまったのだ。そして、多数の矢による返礼を受けた。
クロウは、前方のみならず、全周囲から迫り来る数多の矢の殺気に慄きながら、思案していた。冷静に考えれば、避けられた事態だったのだ。さっきまで姿を隠していたはずの弓兵が、見晴らしのいい場所にのこのこと現れるはずがなかった。
そう、あれは囮だったのだ。
クロウが枝葉の間に隠れて飛び回っている間、神将たちは、ただ闇雲にこちらの姿を探していたわけではなかったのだ。囮を立て、残りの連中は、クロウが釣られてきた瞬間を狙い撃てるように構えていたのだろう。
(あれは……!)
クロウが瞬時に視線を巡らせると、囮以外の神将のひとりが、小さな弓のような武器を構えていた。本来の得物を腰に帯びて。
しかし、敵の全員が全員、矢を放ったのだとしても、いまにもクロウに突き刺さろうとする矢の量は多すぎるように思えた。神将の中に、数本の矢を同時に射たものがいるのかもしれないし、そのような霊印があるのかもしれない。
どちらにせよ、クロウは、窮地に陥っていた。
(どうする……!?)
その危機的状況が、クロウの思考を加速させたのか、どうか。
研ぎ澄まされたクロウの感覚は、多数の矢がゆっくりと迫ってくるように認識していた。木漏れ日が影の中で揺らぐ様も、無数の木の葉が舞い降りる様も、囮が弓を捨て、腰に帯びた短刀を抜く様も、すべてが緩慢に見えた。
だが、そんな感覚的なもので打開できるほど、状況は甘くない。十数の矢が殺到しているのは事実なのだ。そしてそれは、じきにクロウの小さな体に到達するだろう。もっとも、何本の矢が突き刺さるのかはわからない。落下中なのだ。矢の速度を計算に入れても、全部が全部、クロウの体に命中することはないかもしれない。
とはいえ、矢の当たり所が悪ければ、死ぬ事だってありえるのだ。それは、クロウにだって理解できた。つまるところ、死の群れが押し寄せてきている。
死。
死ねば、どうなる?
死んだものは?
その行き着く先は?
「クロウ。わたしのクロウ!」
「わああああああああああああああ!」
クロウは、絶叫していた。脳裏を過ぎった、母の成れの果てを振り切るように。
妖夷と成り果て、それでもクロウを育ててくれたはずの母は、しかし、最後の最後、妖夷としての本性を剥き出しにした。それは生きとし生けるものへの憎悪であり、嫉妬であり、怨嗟であった。
だが、だからといって、クロウに母を葬ることはできなかった。できるはずがないのだ。いくら殺意をもって襲い掛かってきたとはいえ、母なのだ。再会を夢見、捜し求めていた母なのだ。
クロウに殺せるはずなどなく、あのままトウマが助けに来てくれなければ、きっとクロウは殺されていたに違いない。死んでいたに違いない。
トウマは、命の恩人なのだ。
それだけではない。
トウマは、母の魂を解き放ってくれた。クロウへの愛に縛られ、地の獄より舞い戻った母の魂を。
「あああああああああああ!」
クロウの絶叫は、山中に反響するほどに強く、激しい。喉が悲鳴を上げるほどの大音声。いままで出したこともないほどの叫び声をあげながら、クロウは、体を丸めて、両腕で顔面を庇った。世界は、既に本来の速度を取り戻している。
クロウは、落ちていく。囮役の十二神将の手前へ。そればかりはどうすることもできない。勢いと重力に身を任せる。飛来する矢の数は、もはやどうでもいい。矢の数を正確に把握したところで、この状況では無意味だ。矢は、既に殺到している。
一条の矢がクロウの頭上を通過したのが、最初だった。ひとつがクロウの左肩に刺さると、続け様に二本、三本と、彼の腿や脇腹を掠めていった。無論、それだけで終わるような攻勢ではない。
掠りもせずに飛んでいったのはわずか数本に過ぎず、残る十本以上の矢が、クロウの華奢な肢体を掠めたり突き刺さったりした。刺さった矢は四本。左肩、右手の甲、左腿、右の脛、だ。
凄まじい痛みの波は、クロウの思考を粉々に打ち砕くほどに激しく、容赦なかった。なにも考えられなくなる。
だが、急所を射貫かれるという最悪の事態だけは免れたようだった。その事実だけを握り締めたクロウは、やっとの思いで着地するなり、壮絶な痛みに襲われた。
着地の衝撃が全身に走り、痛覚をさらに刺激したのだ。クロウは、態勢を整えることもままならず、地面に転倒してしまった。その転倒の衝撃が痛みを倍増させるものだから、どうしようもない。
視界が滲んでいるのは、勝手に溢れ出した涙のせいなのだろう。生理現象だ。クロウの意志ではどうしようもないし、そもそも彼は、泣きたくなっていた。どうして、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
理由なら、わかっている。
(トウマの馬鹿!)
胸中で毒づいたものの、それは本心ではない。トウマが悪いわけがないのだ。すべては自分のうかつな行動が招いた結果に過ぎない。だが、それでもクロウは、悪態をつかずにはいられなかった。想像を絶する痛みが、クロウの思考をかき乱していた。
不意に、白刃がきらめく。前方。わずか手前。おそらく囮役だった神将だろう。彼は、弓を捨て、短刀に持ち替えていたはずだ。その短刀の刃が、クロウの眼前にあった。
「!?」
「もらった!」
野太い男の声が聞こえたのと、クロウのぼやけた視界の遥か彼方――乱立する木々の狭間に血まみれのトウマが崩れ落ちたのは、どちらが先だったのか。
この際、クロウにはどちらでも構わなかった。ただ、咆哮する。
「トウマ!」
躊躇はいらない。逡巡などあるはずもない。痛みさえも、どうでもよくなった。瞬く間に肉体が動き出したのは、魂が燃え盛ったからだ。
眼前の神将が繰り出してきた短刀による突きを、真上に大きく跳躍することでかわす。クロウの肉体は、一瞬で、敵の遥か頭上に到達した。視野が広がる。全周囲に点在する敵対者たちが、再び殺意の塊をこちらに向けて撃ち放ったのを把握する。それほどまでに、クロウの感覚は冴え渡っていた。
殺到する矢の数は、さっきの倍以上はあるだろう。それだけの矢を簡単に用意することなどできるはずがない。これは、そういった力に違いない。断定する。が、クロウは、矢の群れを一瞥することもなかった。
クロウは、ただ、トウマにのみ視線を注いでいた。血にまみれたまま倒れた少年に、霊山綾王などと名乗るふざけた男が近づく。その手には、長柄の槍。
(トウマを傷つける奴は、許さない!)
クロウのそれは、もはや言葉にはなっていなかった。喉からは、雄叫びだけが迸っていたのだ。暴風の如き咆哮は、山の静寂を事も無げに粉砕し、大気を激しく震わせ、大地をも強く叩いた。
クロウの両手首、両足首に刻まれた霊印が、鮮烈な光を発した。
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鮮血は、トウマの肉体の至る所から噴き出していた。傷口から生じる痛みは、神経を掻き毟るように全身を駆け巡る。
雨の如く降り注いだ数多の刃物を、避け切れなかったのだ。トウマに殺到したのは短刀、短剣の類なのだろう。シエンがどこに隠し持っていたのかはわからないが、事実として、その数え切れない武器は投げ放たれ、トウマに飛来した。
そして、それらはトウマが回避行動に移るより早く、彼の体に到達した。しかし、その刀剣のひとつたりとも、トウマの肢体に突き刺さることはなかった。全身、さまざまな部位を傷つけはしたが、五体満足だった。
それは幸運だったのか、ただなぶられているだけなのか。
「くっ……」
トウマは、苦痛にうめきながら、刀を握る手が無事なことに安堵した。これならば、戦える。足がふらつくのは、痛みのせいだろう。いや、出血が原因かもしれない。
どちらにせよ、剣を振るうことができるのならば、勝機はある。戦えるのだから。みずからその意志を放棄しない限り、好機は転がってくるはずだ。
そう、信じている限り。
「霊山綾王が“剣の舞”、いかがだったかな?」
勝ち誇ったような、それでいてどうでもよさ気な男の声は、前方からだった。トウマは透かさず顔を上げ、刀を構えた。視界がぶれる。視点が定まらないのかもしれない。
「さすがにかわし切れなかったようだな」
シエンは、長柄の槍をぐるぐると回転させながら、こちらとの間合いを測っているようだった。いや、むしろ遊んでいるだけなのかもしれない。口の端に刻まれた笑みが、そのトウマの直感を裏付けているような気がした。
とはいえ、油断はできない。
トウマは、ふらつく体をなんとか固定すると、左手で額から流れる血を拭った。血が目に入るのは避けたほうがいいだろう。ただでさえ視界が安定しないのだ。これ以上、不利な状況を重ねる必要はない。
「さて、止めと行こうか?」
振り回していた槍の穂先をこちらに向けて、シエン。そのまなざしは本気とも冗談とも取れない、実に微妙なものだった。が、放つ殺気は本物に違いない。
「止め? なんの話だ……?」
トウマは、目を細めると、相手が動き出すより早く飛び出していた。まともに力の入らない体を強引にでも動かして、前方へ飛ぶ。
敵との間合いは、十歩程度だった。槍の射程を考慮する暇はない。なにより、シエンが反応するより速く、彼の元へ到達すればいいだけの話だ。刀を叩き込めばいい。
トウマは、一足飛びで、まだ動き出しもしていなかったシエンの間近にまで迫った。着地とともに剣を振るおうとする。が。
(えっ……!?)
トウマは、自分の身になにが起こったのか、まったく理解できなかった。視界が激しく揺れ、全身に電流が走ったような痛みが生じた。そこまではいい。問題はそれからだった。
体中から力が抜けていく感覚とともに、トウマは、その場に崩れ落ちた。肉体がまったくいうことを利かなかった。思い通りにならない体は、ただ、重力に引かれて落ち葉の海に沈んでいく。
「やっぱ、剣士殿の体は尋常じゃないねえ。ちょっとひやひやしてしまったじゃないか」
頭上から聞こえたシエンの声は、言葉の内容とは裏腹に余裕綽々といったものだった。当然かもしれない。彼には確信があったのだろう。
トウマが倒れるということが、わかっていたのだ。
シエンがなにをしたのかはわからなかったが、トウマは、地に伏した全身から痛みが消え失せていくのを認めた。同時に、すべての感覚が失われていることにも気づく。
「花怨毒っていうらしい。普通の人間なら、瞬く間に無力化するんだと」
シエンの言葉から、トウマは、自分がなにをされたのか理解した。先の雨の如き刀剣の乱舞が原因なのだろう。それぞれの刃に、その花怨毒とやらが塗られていたのだ。十中八九、間違いない。
あの刀剣群は、端からトウマに直撃させることが目的ではなかったのだ。わずかでも傷つけ、毒を与えることさえできればよかったのだろう。毒が全身に回れば、勝利が、自動的に転がり込んでくるのだから。
トウマは、地に伏しながらも、左目だけでシエンの姿を見ていた。かなりの長身も相俟って、地に転がっていては、その表情をはっきりと把握することもできなかったが。
彼が、長柄の槍を振り回しているのは、こちらが身動きも取れないからなのだろうか。もっとも、勝利への確信が、そういった余裕のある行動を取らせているわけでもないだろう。
シエンは、戦いの当初から、一貫して余裕のある態度だった。
「まあ、なんだ。剣士殿は、素直に俺の言うことを聞いてりゃよかったんだよ」
シエンが、情けをかけるように言ってきたのは、トウマにとってはちょっと意外だった。が、実際、その通りなのかもしれない。
つまらない意地を張らず、数少ない荷物をくれてやれば、こんな事態にはならずに済んだのだ。彼らと一戦を交えるという、くだらない状況を作り出したのは、トウマ自身ともいえるかもしれない。
歯噛みすることもできず、トウマは、シエンの気配が変化するのを感じていた。大雑把に発散されていた殺気が、緩やかに収斂していく。
終わらせるためだろう。
「安心しな。命までは取らない」
では、なんのために刃を振るおうとするのか。
トウマには、わからない。トウマが剣を抜いたのは、いつだって、なにかを殺すためだった。それは妖夷であり、剣士であった。
剣とは、殺戮のための力だ。なにも間違ってはいない。いないはずだ。
だが、それでも、一抹の寂しさを覚えずにはいられない。手は血塗られてしまった。もはや引き返せぬ修羅の道の途中、振り返れば、燦然と輝く森の村の日常があった。
殺さなくてもいい戦いも、あったかもしれない。
剣を握らずとも、分かり合えたかもしれない。
もしも、あのとき、剣を手に取らなければ――
(いや)
トウマは、胸中でみずからの惰弱を切り捨てた。もう決めたことだ。この道を行くと、告げたのだ。だからこそ、剣を手に取り、多くの命を斬り捨ててきた。
もはや甘えは許されない。
それは、逃げに過ぎないのだ。数多の命に、死という結果をもたらしてきたのだ。その死を喰らい、ここに至るのだ。
ここで、戯れに命を奪われるとしても、文句を言う筋合いなどどこにもない。戦いに負けた、どのような手段であろうと、負けは負けだ。敗者は、ただ、勝者の行動を固唾を呑んで見守ることしか許されない。
無論、トウマとて、諦めてなどいない。元より諦めの悪い性格なのだ。好機を、信じている。
そしてそれは、訪れた。
「少し灸を据えるだけさ」
シエンのどこか投げやりな言葉は、しかし、トウマの耳にはほとんど残らなかった。獰猛な獣の雄叫びが、森の中のあらゆる音を掻き消すほどの大音声となって響き渡ったからだ。
(クロウ!?)
トウマは、大気を震わせ、大地をも揺るがす咆哮の主がだれなのか、一瞬でわかった。だが、その絶叫に秘められた怒りの恐ろしさは、普段のクロウからはおよそかけ離れたものであり、トウマですら恐怖を抱きかねなかった。
それほどまでに狂暴な雄叫びは、当然、シエンの気を引いていた。
「な、なんだ!?」
彼には、なにがなんだかわからなかったに違いない。あの一見おとなしそうな少年が、獰猛な銀狼に変化することなど、だれが思いつくというのか。そして、その咆哮に怖れを感じないものなど、そうそういないだろう。
特に、此度に限って言えば、トウマですら慄くほどのものなのだ。
(クロウ……どうしたんだ?)
声にならない声を上げながら、トウマは、クロウのことが心配でたまらなくなっていた。彼の身は、いい。銀狼に変化すれば、ちょっとやそっとのことでは傷つきやしないだろう。
むしろ、圧倒的な力と速度で、瞬く間に山賊たちを壊滅させるに違いない。故に、そういった心配は要らないのだ。
トウマが不安を抱いたのは、クロウの咆哮から感じ取れる怒りの凄まじさに、だ。普段は明るく可愛らしい少年として振舞っている彼が、トウマの前で、これほどまでに激しい感情を発露したことはなかったのだ。
トウマが、クロウの母の成れの果てたる妖夷を斬り殺したときでさえ、ここまでの怒りではなかった。
クロウの身に、心に、なにが起きたというのか。
「ありゃあ、なんだ!?」
愕然と、シエン。トウマの視界に、槍が落ちてくる。驚愕のあまり手離してしまったのだろうが、危うくトウマの顔に当たるところだった。冷や汗を浮かべながらも、トウマに抗議している暇もなかった。
シエンの様子が尋常ではない。
それが、トウマには気がかりだった。クロウが変化した銀狼を目の当たりにしたとしても、反応が大袈裟すぎるような気がした。
確かに、驚くべきことだ。
巨大な白銀の狼が目の前に現れれば、驚くか、畏れるしかないだろう。しかし、それにしても、とトウマは思うのだ。不快な化け物に過ぎない妖夷に比べれば、可愛いものではないか。
「化け物――」
シエンの口から漏れたその言葉を聴いた瞬間、トウマは、我知らずその場に跳ね起きていた。毒に支配されたはずの肉体が、なぜか、意志の赴くままに躍動したのだ。全身に力が漲ったのは、魂が燃え盛ったからなのかもしれない。
その理由なら、すぐに思いついていた。怒りだ。
「化け物だと?」
トウマは、睨みつけるようにシエンの顔を見やった。語気が荒いのが、自分でもわかる。心の深奥から沸き上がってくる怒りを抑えつけるので精一杯だった。叫ぶ。
「クロウは化け物じゃあない!」
言い切ってから、トウマは、シエンの青ざめた表情を認識した。少し前までは余裕綽々といった笑みを浮かべていたはずの男の顔は、トウマが驚くくらい真っ青に染まっていた。
それは、恐怖、という。
「なあ、あんた、ありゃあ一体なんだ?」
シエンが、みずからの視線の先――トウマの後方を指差しながら訪ねてきた。蒼白の顔面には脂汗すら浮かびあがり、指もまた、微かに震えている。
(なんなんだ!)
トウマは、憤然と背後を振り返った。確かに、堂々たる美丈夫の如き銀狼が突如として現れたなら、だれしも驚くだろう。怖れを抱き、腰を抜かすものもいるかもしれない。それは、トウマといえど否定できない。
しかし、シエンは、どうやら歴戦の猛者なのだ。未熟とはいえ剣士を翻弄し、圧倒し、勝利の目前まで辿り着くほど戦い慣れているのだ。そんな男が、たかが狼如きで身を竦ませることはないだろう。
(大袈裟な!)
しかし、トウマのそんな考えは、それを視界に入れた瞬間、微塵に打ち砕かれた。
「なっ!?」
トウマは、愕然とした。
言うなればそれは、破壊の権化の如き白銀の巨獣だった。