第五章 猿神楽(四)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
常人では気づきようもないほどのごくわずかな空気の振動が、クロウには、己の身の危険を知らせるかのように感じられた。逡巡もなく下した判断は、瞬時に肉体を飛躍させる。
クロウの人間離れした脚力は、彼の小さな体躯を中空へ運んだ。枝葉が織り成す緑の天蓋の間隙。
刹那、なにかが大気をつんざくような音が聞こえた。矢が放たれたのだろうが、クロウの視界には映らない。
だが、クロウは長い滞空時間の間に、獣の面のものたちがトウマには目もくれず、こちらを包囲するように陣形を築き上げているのを確認した。
それぞれ思い思いの得物を振りかざし、あるいは静かに構え、クロウの反応を伺っているようだった。奇襲の如き初弾を回避したことに対する動揺は見られない。
戦い慣れているのか、どうか。
なんにせよ、クロウは、全身を震わせる恐怖と闘い続けなければならない自分の弱さに泣きたくなった。
多勢に無勢が問題ではない。いや、それも多少は関係するのだが、最大の原因ではなかった。
抜き身の刃物が放つ鋭利な殺気が、クロウには、臓腑に突き刺さるように感じられるのだ。
なぜだろう。本能が痛みを訴えてくる。
それは、人間や妖夷の放つ殺意とはまったく別種のものだからかもしれない。
無機的な殺気。
もっとも、意思なき物体に宿るものなどあるはずもなく、それはクロウの錯覚に過ぎないのかもしれなかったが、しかし、彼は間違いなく感じ取ったのだ。
剣の刀身から放たれる殺意を。槍の穂先から発される敵意を。鏃から生ずる戦意を。
それらは、四方八方から幾重もの波動となって押し寄せてくるのだ。逃れようもない。
クロウは、右手を頭上に伸ばすと、手近な木の枝に掴まった。それは一瞬。滞空時間を引き延ばす程度の判断。すぐさま手を離し、落ち葉に埋まった地面へと自由落下する。
彼が地上へと降り立つ寸前に、いくつかの矢が視界を掠めた。着地の瞬間を狙った精確な射撃に、クロウは肝を冷やす思いだった。
一瞬でも早く――つまり、あのまま落下していれば、間違いなくクロウの体には矢が刺さっていただろう。死体となって転がっていたかはともかく、相当な傷を負うことになったはずだ。
着地とともに、背に冷や汗を実感しながらクロウは、前方と左、そして背後から敵意の接近を認めた。右側には漠然とした空白がある。だが、クロウの直感がそちらへ逃げることを拒んだ。
誘導に違いない。
クロウは、着地時の低い体勢のまま、左腕を思いきり振り上げた。指先で地面を抉り、落ち葉を前方に巻き上げる。それにより、前方の敵の視界を一時的にでも塞いだはずだ。
クロウは、瞬時に背後へと向き直ると、二人の神将がこちらに飛びかかってきたところだった。右へ――敵意の空白領域へ、ではない――飛ぶ。
「はあっ!」
裂帛の気合いが後方から聞こえた。先の二人だろう。クロウの体は既に中空――槍を構えた神将の頭上に在った。
「!?」
クロウの超反応に相手は驚愕したのだろうが、その間抜けなはずの表情は伺うことも出来なかった。獣の面を被っている。
驚きのあまり対応の遅れた相手を飛び越えたクロウは、その背後へと容易く降り立った。刹那、
「っでぇいっ!」
敵がこちらに向き直りながら、反応の遅れを取り戻さんがばかりに繰り出してきたのは、高速の突き。
「!」
中段を穿つ初撃はしゃがんでかわし、続く足元狙いの一撃は前転でやり過ごすと、クロウは、再び頭上に躍り上がった。空を裂く殺気が、足元に突き刺さる。矢だ。
クロウは、そのまま中空で体を捻ると、足を投げつけるように振るった。間近に迫っていた槍使いの側頭部に、彼の右足の爪先が直撃する。
「がはっ」
男が苦痛にうめきながら転倒するのを見届ける暇もなく、クロウは、視界の端から接近してくる敵の数に辟易した。が、止まらない。
いや、止まれない。
相手に殺す気が有ろうが無かろうが、無駄に血を流すことは出来ない。
矢が突き立った地面に着地した彼は、前方へと疾駆した。瞬間的に最高速度に達する自分を捉えるものなどいないだろう。自負とともに、彼は、眼前の木に向かって跳躍した。
幹を蹴りつけ、その反動を利用してさらなる高みへと上昇する。クロウは、己の肉体が枝葉の狭間に到達した瞬間、宙返りしてみせた。流転する視界。青々とした枝葉の微かな隙間に、雲ひとつ見当たらない空が見えた。
一転して、地上。
クロウを包囲したままその間合いを縮めようとする神将たち。その数は、八人。一名は昏倒させたはずだ。では、残り三人は――
(弓……かな)
遠距離からの射程攻撃なら、包囲のためとは言え、敵の眼前に姿を曝すのは得策ではない。
当たり前の戦法に感心しながら、クロウは、左右に両拳を飛ばした。両側に伸びた枝を強打する。梢が激しく揺れた。数多の落ち葉で敵の目を引きつけるつもりだった。
戦闘の経験など数えるほどもないクロウには、本能が突き動かすままに立ち回るだけがすべてだった。
だが、爪牙は見せない。
霊印の力を解き放ち、銀毛の狼へと変化したならば、たちまち形勢は逆転するだろう。こちらを追い詰めようとしていた彼らは、突如現出した巨大な銀狼の姿に畏れ戦くだろう。
そうなれば、剣だろうが槍だろうが関係なくなる。遠くからどれだけ矢を射ようとも、届くことなどなくなる。
もはやクロウに敵はいなくなるはずだった。
しかし、彼には出来ないのだ。
ただの人間に銀狼の姿を曝すことなど、出来るはずがなかった。心の深層に刻まれた恐怖が、鈍い痛みが、彼を縛り付けていた。
数多の木の葉が舞い落ちるのを、クロウは、木の枝にぶら下がりながら見届けた。この程度の浅知恵がどれほどこうかがあるのかはわからなかったが、なにもやらないよりはいいような気がした。
「あっちだ――」
不意に、わずかながらも声が聞こえた。引っかかってくれたのだろうか。
彼はそのまま枝に這い上がると、身のこなしも軽く、つぎつぎと木の枝を飛び移っていった。木の枝という高所にいることによる恐怖などはまったくなかった。刀槍への恐怖は、痛いほどに感じているのだが。
森の闇と木漏れ日が生み出す幻想の中を走る、奇怪な面を被ったものたち。白刃を煌かせながら、さきほどまでクロウがいた地点を目指しているようだった。
クロウは、それら接近戦主体の連中よりも、弓使いを探すことに躍起になっていた。剣使いと格闘していたら矢で射抜かれた、なんて笑い話にもならない。まずは、狙撃手を無力化するのが先決だろう。
(トウマだってそうするよね)
胸中でひとり納得して、クロウは、枝葉の中を跳んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
垣間見たのは枝葉。無数に分かれた梢が幾重にも折り重なってできた天蓋。森の屋根。そのわずかばかりの間隙に、眼に痛いほどの陽光がきらめいた。
(なんだ?)
トウマは、激しく流転する視界の中で、小さな疑問を抱いた。中空。打ち上げられた体を思い通りに動かすことなどできるはずもない。重い打撃によって生じた痛みは、腹の真ん中辺りで響いていた。その痛苦を振り払う術すら思いつかないのは、偏にその事実に気を取られているからかもしれない。
(避けたはずだ)
トウマの脳裏に描き出されるのは、対峙する相手の動作の一部始終。霊山綾王などと名乗る男の、一挙手一投足――
――シエンの長い脚が、落ち葉を潰すほどの勢いで大地を蹴った。反動とともに地面を離れた肉体は、低空を滑るようにトウマへと殺到する。鋭い眼光は、射抜くようにこちらを見据えていた。さっきまでとはまるで異なる様相に、しかしトウマは戸惑いすら覚えない。
(あいつはそういう奴なんだ)
確信とともにつぶやきながら、トウマは、その思い込みがどこから来たのかはわからなかった。考えている暇もない。
シエンの長身が、眼前にあった。トウマは、透かさず背後へ飛んだ。が、相手はお構いなしに得物を突きつけてくる。シエンの息吹が聞こえた。男の身長ほどもある長大な武器は、物凄い速さでトウマに迫ってきた。
(速い!)
それでも、着地したトウマの体には届かなかった。寸での所。わずかばかりの空隙が、トウマの胴と敵の得物の間にあった。回避したのだ。
(紙一重――)
それは、トウマが、反撃に出ようとした瞬間だったのだ。腹部に重い衝撃が走った。強烈な打撃は、瞬時に激痛となって全身に伝達される。苦悶のうめきとともに、トウマの意識が揺れた。それほどの衝撃だった。だが、それだけでは中空に打ち上げられたりはしない。さらなる衝撃が、トウマを高く吹き飛ばしたのだ。
そして、トウマは、森の天蓋を見た――
「紙一重はいけないぜ、紙一重は」
悠然としたシエンの声は、頭上から降ってきた。ふと見ると、枝葉が織り成す屋根の間に、大きな影が出現していた。それは、重力に引き寄せられるままに落下してくるようだった。中空のトウマめがけて。
中空で自在に体勢を整えられるはずもないが、それでもトウマは、右手を思い切り前方に突き出した。手の甲には、見慣れた剣の印が輝いていた。
「俺の攻撃には、な」
抜くべきではない、という想いと、抜かなければ大打撃を喰らうことになるという確信が、一瞬のうちにトウマの脳裏を錯綜した。迷いは、たとえ一瞬とはいえ肉体の反応を鈍らせるものであり、それは敗北に直結するのだ。
トウマは、即座に力を解き放った。
「剣よ」
魂の奥底から呼び起こされた力は、爆発的な光の奔流となって体内を駆け抜け、手の甲の霊印より噴出する。膨大な光の流れは、瞬く間にトウマの右手の内に収斂し、一振りの刀を形成した。飾り気のない無骨な刀。刀身には、古めかしい文字が刻まれている。トウマの剣であり、爪牙。
「剣士かよ!?」
さっきまで余裕綽々といった風情だったシエンの声音が、大袈裟なほどに裏返ったのは当然と言えるだろう。
剣の力は強大だ。この世に存在するさまざまな霊印の中で、唯一、敵と戦うためだけに存在するからだという。
敵と戦い、敵を殺すことが剣の存在理由であり、すべてなのだ。
剣を抜く、ということは、相手を殺すという意思表示であり、同時に、相手に殺されるのも覚悟するということなのだ。無論、そういった覚悟は、剣に限った話ではない。
ひとが殺意を以って相手に臨むときは、それ以上の殺意による返答を覚悟しなければならないのだ。
ならば、シエンたちも覚悟しなければならないし、実際、覚悟しているはずだ。たかが少年ふたりに山賊行為を働くためだけに命を落とすと覚悟しているのなら、それはそれで立派なものかもしれない。
が、山賊は山賊。襲われたほうからしてみれば、覚悟していようが居まいが、迷惑には違いない。
「!」
トウマは、上空から落下してきた男の得物の先端を、刀の腹で受け止めた。しかし、全体重を乗せた打撃はさすがに重く強烈であり、右手だけでは防ぎようがなかった。力負けした刀で自分自身の胸元を傷つけそうになりながら、トウマは、シエン共々地面に激突した。
「くうっ……!」
地面に背中を強打した痛みは、予想外に猛烈であり、トウマは一瞬、呼吸すらできなくなった。しかし、いうなればそれだけなのだ。肉体的な痛みならば、トウマにとって大きな問題にはならない。
すぐさまその場に起き上がれたのは、シエンが飛び離れていたからだ。落下の寸前か、直後か。どちらにせよ、シエンが追撃する絶好の機会を逸した事実は変わらない。
「ちょっと、まずったかな」
どこかおどけている調子なのは、本当はどうでもいいとでも思っているからなのだろうか。
シエンは、トウマの左前方に立っていた。間合いは、トウマの歩幅で五歩程度。この程度、両者にとっては一足飛びで埋められる距離に違いない。
トウマは、刀を両手で握ると、静かに正眼の構えを取った。両手にかかる刀の重みが、トウマの意識を研ぎ澄ませていく。
「まさか、あんたが剣士だったとは、な」
やれやれ、と首を横に振りながら、シエン。男の調子の軽さが、トウマにはどうにも気にかかった。投げやりな態度でありながら、その実、心の深奥ではなにを考えているかわかったものではない。
トウマは、そっと気を引き締めた。尋ねる。
「だったらなんだ?」
「いや、こっちの話さ」
シエンが、憮然とした様子で、手にした得物を軽く振り回した。その動作にさしたる意味はないのだろう。攻撃態勢に移ろうとしている様子もなければ、トウマへの牽制でもない。
「剣士を相手にするのは嫌なんだよな~……なんたって頑丈だし、ちょっとやそっとじゃ倒れてくれないからな~」
まるで、何度となく剣士とやりあったことがあるような言い方だったが、トウマは、特に気にとめはしなかった。そんなことは知ったことではない。襲い掛かられたのは、こちらなのだ。自らの身を守るために、トウマは、戦わざるを得なくなったのだ。
剣を抜く、などという常軌を逸した手段を取らざるを得なかった。
なにごとも穏便に済むのなら、それが一番いいのだ。そう、トウマは信じていた。戦うことに喜びを見出す性分を認めながらも、平時は、一歩でも戦いから遠ざかりたいと願っているのだ。
矛盾しているといえば、それまでだが。
人間を相手に剣を振るうなど、正気の沙汰ではない。
狂気。
森は、狂気を孕んでいるという。妖夷どもが住み着いているからなのか、それとも、元より狂気に満ちていたから妖夷が住み着いたのか。どちらにせよ、森の中では、人間すらも正気を失うのだろうか。
(だが、俺は狂ってなどいない。いないはずだ……!)
縋るような想いで、彼は、柄を握る手に力を込めた。正気のまま、剣を抜いたはずだ。自己の判断なのだ。それを森に蔓延した狂気のせいにしてはならない。
それでは、ただ現実から目をそらしているだけだ。そんなものでは、前に進むことすらできない。
「ま、ぐだぐだ言ってても仕方がない」
と、シエンが、得物の先端をこちらに向けてきた。極めて緩やかな構えだった。いつ何時、どこから敵が攻めてきても即座に対応できるように、だろう。無駄な力みや緊張は、肉体の反応を鈍らせるものだ。
「行くぜ!」
言うが速いか、シエンがトウマに向かって突っ込んできた。刹那にして間合いがなくなったのは、トウマの目測通り。猛然たる突進態勢のまま繰り出してきた突きを、トウマは半身を右にずらすことでやり過ごした。シエンの長躯は、トウマの左横を通り過ぎようとして、止まった。長い脚の爪先を地面に突き刺して、猛進する肉体を強引に押し留めたらしい。
距離は極わずか。互いの息吹がかかるほどの至近。それはもはや間合いなどとは呼べないだろう。トウマは、瞬間的に動いていた。
「はあっ!」
気合とともに、トウマは、自身の左側に向かって得物を振り抜いた。得物は刀。片刃の剣だ。直撃すれば、軽傷では済まないだろう。とはいえ、加減などできるはずもない。そんな器用な戦い方ができるほどの腕前があるわけもない。
「うおっと」
軽い反応とともに、シエンの長身が素早く頭上に飛んだ。棒を地面に突き立て、その反動を利用して飛び上がることで、トウマの斬撃をかわそうとしたのだろう。実際、トウマの刀がシエンの肉体を捉えることはなかった。代わりに断ち切ったのは、シエンの得物。木製の棒は、意図もたやすく両断できた。
「げっ」
シエンがうめいたのは、彼が、地面に突き刺した棒に体重を預けて滞空していたからだろう。ふたつに分かたれた棒は、自然、地面に落下するしかない。そうなれば当然、シエンの肉体も落ちるしかないのだ。
トウマは、シエンが棒の片割れを手にしたまま落下してくるのを、ただ漫然と見ているつもりもなかった。振り抜いたままの刀を、透かさず男に向かって振り上げる。刹那、落下中の男の双眸が、笑ったような気がした。
「伸びろ」
そんな囁きがトウマの耳元に届いたのは、偶然か、必然か。
「!」
トウマは、シエンが手にした棒が、物凄い勢いで伸びていくのを目の当たりにした。驚きとともに、納得もする。シエンの初撃をかわしたにも関わらず直撃を受けたのは、トウマが紙一重で避けた直後に棒が伸びたからに違いない。
伸びゆく棒の先端が地面に突き刺さると、得物を掴んでいたシエンの長身は瞬く間にトウマの視界から消え去った。だからといって、トウマの剣が止まるわけもない。
一閃。
トウマの刀は、あざやかに棒を両断したものの、棒もろともにシエンの長躯が落下してくることはなかった。得物から飛び離れたのだろう。当然の判断だ。そして、殺気は頭上から――
「ひゃっほう!」
能天気な――とでも言いたくなるような叫び声とともに、トウマに向かって降り注いできたのは、大量の刃物だった。